第4章 「逆走」の加速化:1993‐98
〔二〕自社連立と「55年体制」の終焉
細川内閣が8か月余りで瓦解した後、事実上小沢一郎が率いる新生党党首・羽田孜が後任首相に就く。しかし、首相指名直後、小沢らによる与党第一党・社会党の発言力を削ぐことを狙った統一会派作りの画策が表面化し、これに反発した社会党が連立を離脱したため、少数内閣として発足した羽田内閣はわずか2か月余りで瓦解した。
その後の展開はあっと驚くものであった。94年6月、野党・自民党と連立を離脱したばかりの社会党が連立政権を成立させたのである。こうして、70歳の社会党委員長・村山富市を首班とし、細川内閣にも参画していた新党さきがけも加わった異形の連立政権の発足をもって、自社対抗を軸とした「55年体制」は正式に終焉したのである。
ただ、頭は与党第二党・社会党、胴体は第一党・自民党というこのスフィンクスのような怪物の正体は、どう見ても復活した自民党政権であった。それはまた一種の翼賛体制でもあって、社会党は従来の党是をすべてかなぐり捨て、自衛隊合憲・日米安保堅持へ動き、わずか数年前には導入そのものに反対した消費税の税率引き上げ―村山内閣時には未実現―にも賛意を示した。
村山内閣は表向き「人にやさしい政治」をキャッチフレーズとしたが、その実態は自民党が主導する「逆走」の流れに乗り、間もなく自党の命脈を絶つこととなる選挙制度改革法の施行を見届けるというものであった。
こうしたことが可能となったのも、村山首相は元来、保守に傾斜した社会党右派に属し、党国会対策委員会の経験も長く、長年の与党・自民党とも内通しており、政権与党復帰のためには自党の理念も政策も投げ捨てることにためらいはなかったからである。
一方で、戦前の帝国主義的植民地支配と戦争加害事実を認め、反省と謝罪を表明した95年8月15日の村山首相談話は、歴史認識の問題に関して、与党第一党の自民党が首相を出す第二党・社会党に一定の配慮を示したことによる妥協の産物であって、村山内閣のほとんど唯一「社会党らしさ」を滲ませた事績であった。
けれども、法的な戦争責任については解決済みであることを強調するこの控えめな談話でさえ、帝国主義支配を愛国的な自衛とアジア解放の努力の賜物であったとする歴史認識を伴う「逆走」の流れの中では異物的なものであって、保守反動勢力の強い反発を招いた。
その結果、90年代後半以降、村山談話の意義を否定するような政治的言説が活発化し、人口にも膾炙するようになり、歴史認識の面でも「逆走」の加速化はかえって促進されたのである。
それはさておき、こうした異形の自社連立政権の効果は、自社両党にとって対照的であった。自民党はこれによって、ごく短期間での政権復帰を果たし、以後時々の状況に応じて連立相手を変えながら向こう15年にわたって政権党の座を維持し続けるのに対し、社会党は初めて小選挙区制の下で行われた96年の解散・総選挙でわずか15議席にとどまる壊滅的惨敗を喫し、事実上命脈が尽きたのである。
結局、社会党は右派を中心とするグループが新党さきがけの鳩山由紀夫と管直人を中心に結成された民主党へ合流する一方、左派は新社会党なる分派を結成して離脱し、元委員長・土井たか子を中心とする護憲・市民運動派が96年1月に党名変更された社会民主党に残留し、事実上解党したのであった。
皮肉にも、村山自社連立政権最大の“功績”は、首相自身が属した社会党をすみやかに解体し、「逆走」の加速化を軌道に乗せたことにあったと言えるだろう。