ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代革命の社会力学(連載第120回)

2020-06-29 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(7)十月革命:社会主義革命
 革命のプロセスでは、その進行を一定地点で収束させようとする勢力と、さらに進展させようとするいわゆる急進派の対立が起きやすいが、多くの場合、急進派は少数であり、収束派の前に敗退する。その要因として、人間は本質的に現状維持的な生物であり、急激な社会変化を望まないという性向がある。
 ところが、1917年ロシア革命では、当初はマイナーな存在だった急進派が多数派ボリシェヴィキを名乗り、実際にある時点から台頭して、一気呵成に革命を進展させてしまった点で、異例である。これが1917年10月(グレゴリオ暦11月)のいわゆる十月革命である。
 帝政を廃する共和革命に当たる二月革命から一年もしないうちに次なる社会主義革命―レーニンのいう労農民主革命―に進展した要因として、二月革命以来の連立臨時政府の無策に対する民衆の幻滅に加え、ボリシェヴィキ党という新しい政党集団の結束とレーニンが「戦闘術」と呼んだ武略の巧みさがあった。
 ボリシェヴィキはレーニンの少数精鋭論に沿った革命家集団として結束が固く、選出された党指導部への絶対服従―いわゆる民主集中制―という鉄の規律で組織されたある種の軍事集団であった。
 ただし、ボリシェヴィキ単独で革命を遂行できるほどの勢力ではなかったから、かれらはペトログラード・ソヴィエト内に軍事革命委員会という機関を設置して、臨時政府の与党となっていた社会革命党からも有志を引き抜いてメンバーに加えた。
 他方、兵員としては、新たに独自の赤衛隊を結成し、武力革命の実行部隊とした。このような陣容を整備したうえで、10月24日から25日にかけて革命軍事委員会・赤衛隊は次々と首都の重要拠点や公共機関をほぼ無血のうちに制圧、臨時政府を瓦解させたのであった。
 こうして十月革命は、電光石火のごとく成功を収めた。このような過程は、革命というよりも軍事クーデターに近いものであり、事実、二月革命の結果成立した臨時政府を転覆した十月革命は「革命」ではなく、ボリシェヴィキのクーデターであったとする見方が、革命敗者となった臨時政府支持者の間で広がった。
 たしかに十月革命は、前述したようにレーニンの言う「戦闘術」に従ってボリシェヴィキ党が綿密に計画・実行した軍事蜂起ではあったが、それだけにとどまったのではない。失敗に終わった1917年7月のデモ以来、臨時政府が統治能力を喪失し、無秩序が拡大していく中で、底流においては社会革命のうねりが起きていたのである。
 中でも大規模なものは農民革命である。臨時政府が公約していた土地改革が一向に進まない中、農民らは集団で地主貴族の居館を襲撃・焼打ちし―時に地主を殺害し―、地主らが所有する土地や家畜・農具を村落ごとに分配していった。こうした動きが8月から10月にかけてロシア全土に広がりを見せていた。
 レーニン政権が十月革命直後のソヴィエト大会に提案し圧倒的多数で採択された「土地に関する布告」はボリシェヴィキ本来の政策である土地の国有化をいったん棚上げし、さしあたり農民社会主義の社会革命党の農業綱領に沿って、地主的土地所有の廃止と地主所有地の農民による共同管理を謳っているが、これはすでに進展してきていた農民革命の進行を追認したものにほかならなかった。
 一方、都市労働者の側でも、臨時政府の経済無策により、不況、物不足、物価高騰がおさまらない中、二月革命直後から結成され始めていた労働者自主管理組織としての「工場委員会」が急進化し、労働者自身が工場を占拠して採用・解雇を監督し、在庫や必要物資の管理にも当たる「労働者統制」の動きが広がっていた。
 労働者統制は、レーニンが「四月テーゼ」の中でも「労働者代表ソヴィエトによる統制」という形で提起していたところであったが、改めて11月に公布された「生産と分配に対する労働者統制令」の中で確認されている。
 また、農民・労働者から徴兵されていた兵士らは二月革命直後からソヴィエト内で重要な役割を果たしてきており、とりわけペトログラード・ソヴィエトが3月1日付けで発した「命令第一号」は軍隊内における兵士の自治組織である「兵士委員会」の創設を謳ったものであった。
 この組織は帝政ロシア軍の内部からの解体を招いたが、それはとりもなおさず「兵士の革命」であった。そのおかげで、十月革命蜂起に際して、ボリシェヴィキは自派に忠実な武装部隊を編成し、かつ大きな抵抗もなしに首都を制圧することもできたのである。
 このように、十月革命は決してレーニンとボリシェヴィキ党の力だけで成し遂げられたものではなく、民衆の自発的な革命運動の流れに乗って初めて成功したのであり、何の社会的条件もなしにボリシェヴィキ党が限られた勢力でクーデターを断行したという見方は、レーニンとボリシェヴィキ党の力量を過大評価するものである。
 しかしその一方で、相互交錯しつつ別個独立的に行われていた民衆の革命的行動だけで十月革命が成功したという自然発生的な説明が妥当しないことも事実であり、民衆革命の沸騰点でレーニンとボリシェヴィキ党の計画的な軍事蜂起が革命を収束させ、新たに一定の秩序を作り出したのである。

コメント

人種概念の「廃棄」か、「終焉」か

2020-06-28 | 時評

アメリカでの人種暴動・抗議デモを契機とする反人種差別抗議行動が世界に広がる中、ドイツで、差別を禁じる憲法条文中にある「人種」という表現を削除するか、他の文言に置き換えるべきだとの議論が与野党で広がっているという。人種という概念自体が差別を助長するとの問題意識が背景にあるとも指摘される(時事通信記事:リンク切れ)

提唱者の標語を借りれば、「人種はない。あるのは人間だけだ」ということになる。

たしかに、現生人類は生物としては一つの種であり、これを主として肌の色を基準に「人種」に分けるという発想は非科学的である。特に、遺伝学が大きく進展した現在では、遺伝系譜を無視した肌色分類はナンセンスである。

特に「白人」という概念ほどばかげたものはない。なぜなら、文字通りに肌色が白い「白人」など存在しないからである。もし、文字どおりに肌が白なら、それは先天疾患のいわゆるアルビノであろう。*アルビノは、「人種」に関わりなく、しばしばいじめや差別、迫害を受けてきた。

とはいえ、人類をY染色体ハプログループやミトコンドリアDNAハプログループの型に基づく遺伝系譜によって分類することは可能であり、遺伝系譜上の「人種」という概念は、必ずしも非科学的ではないかもしれない。

従って、憲法から「人種」の用語を削除しても、それだけで人種差別という事象が廃絶されるわけではない。むしろ、別の用語による言い換えや禁止語による差別が依然して横行するという可能性は排除できない。

問題は人種という用語自体よりも、人種分類という習慣を終わらせることである。その結果、白人、黒人、有色人種・・・・といった人種分類用語は慣用されなくなり、死語となるだろう。

その点で、反人種差別の抗議運動が「Black Lives Matter」を標語化していることには―黒人差別こそ人種差別の中核という歴史的かつ現在的な理由があるにせよ―、複雑な感想を持たざるを得ない。

むしろ「Each Life Matters」であるべきではないか。ちなみに、All Lives ではなく、Each Lifeと単数個別形にするのは、人々をallでひとくくりにするのでなく、一人一人として把握するためである。このような視座から、表題の問いに答えるなら、人種概念の「廃棄」ではなく、「終焉」である。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第36回)

2020-06-27 | 〆世界共同体憲章試案

第23章 独立宗教自治圏域

【第146条】

1.世界共同体は、協約に基づき、特定の宗教組織または宗教的権威者が独立的に自治を行う圏域を認証することができる。

2.前項の認証は、各圏域が、その宗教上の教義に反しない限り、この憲章を尊重することを条件とする。

3.第1項の協約は、世界共同体総会で承認された後に、発効する。

[注釈]
 世界共同体による統治は最終的に地球の全域に及ぶが、一定の条件の下、例外として、宗教上の理由から世界共同体の外にあって独立して自治を行う圏域の存在が認められる。こうした独立宗教自治圏域は、都市の場合と一定の地域の場合とがある(そのモデル例として、拙稿参照)。

【第147条】

前条の協約が発効した後、世界共同体は、独立宗教自治圏域に特別駐在代表を置く。

[注釈]
 独立宗教自治圏域は、独立域とはいえ、世共との間に一定の外交関係を樹立するため、一種の大使として、特別駐在代表を派遣する。

【第148条】

1.独立宗教自治圏域は、世界共同体総会に一人のオブザーバーを派遣することができる。

2.前項のオブザーバーは、総会の審議に参加し、意見を述べることができる

[注釈]
 独立宗教自治圏域は世共の構成主体ではないが、総会にオブザーバーを派遣し、審議に参加する権利を認められる。

【第149条】

独立宗教自治圏域は、この憲章を除き、世界共同体が締結した各種の条約に参加することができる。

[注釈]
独立宗教自治圏域は世共憲章が適用されない独立域ではあるが、憲章以外の各種条約の任意な締約主体となることはできるという趣旨である。

【第150条】

独立宗教自治圏域は、近隣の世界共同体構成主体との間で、共通経済協定を締結することができる。

[注釈]
 独立宗教自治圏域は通常、小都市または狭小な地域であり、自給的な経済活動を営むことは困難であるため、近隣の世共構成主体との間に共通経済協定を締結し、共通の経済計画の適用を受けることができる。

【第151条】

1.独立宗教自治圏域は、協約に基づき、その地位を放棄することができる。この場合には、第146条第2項の規定を準用する。

2.前項の協約に基づき、独立自治圏域の地位を放棄した圏域は、近隣の世界共同体構成主体に編入されるか、世界共同体直轄自治圏となるかを任意に選択することができる。

[注釈]
 独立宗教自治圏域の放棄に関する規定である。放棄後の地位については、近隣構成主体への編入または直轄自治圏化のいずれかを選択する。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第35回)

2020-06-26 | 〆世界共同体憲章試案

第22章 信託代行統治

〈信託代行統治の要件及び期間〉

【第142条】

1.世界共同体は、戦乱、災害その他の重大な事変のために自治が不可能となった世界共同体構成主体の信託に基づき、五年を超えない期間で、その構成主体に代わり、直接に統治することができる。

2.前条の信託は、その構成主体の民衆会議の決議による。
 
3.信託代行統治の期間は、信託代行統治域圏の現地代表機関の要請及び世界共同体総会の決議に基づき、二年間に限り、これを延長することができる。

[注釈]
 世界共同体構成主体は、直轄自治圏を含め、各々の民衆会議を通じた自治権を有するが、自治が不可能となる一定の場合に、自治を停止し、世界共同体が代行統治することができる。これが、信託代行統治制度である。現行国際連合の信託統治制度とは異なり、最長でも七年間に限定された暫定統治制度である。

〈信託代行統治機構〉

【第143条】

1.信託代行統治は、総会が設置する信託代行統治機構を通じてこれを行う。

2.前項の機構は、世界共同体事務局長が選任する三人の執政で構成される施政評議会がこれを統括しつつ、世界共同体事務局を通じて、民衆会議と同等の権限を行使する。

[注釈]
 信託代行統治は直接統治であるが、現地に設置される信託代行統治機構が民衆会議を代行する形で、実施する。

〈現地代表機関〉

【第144条】

1.信託統治域圏の民衆会議は、信託代行統治が継続する間、現地代表機関として存続する。ただし、民衆会議の存続が困難な場合は、民衆会議に代わる代表機関を設置することができる。

2.信託代行統治域圏の民衆会議または前項但し書きの代表機関は、信託代行統治が継続する間、信託代行統治機構との連絡調整機関として活動する。

[注釈]
 信託代行統治域圏の民衆会議は完全に停止するのではなく、信託統治が継続する間、現地代表機関及び連絡調整機関として活動する。

〈信託統治終了後の平和監視〉

【第145条】

1.世界共同体事務局長は、信託代行統治が終了した後、現地の情勢に関して、平和理事会に速やかに報告しなければならない。

2.平和理事会は、信託統治が終了した後、必要と認めるときは、旧信託代行統治域圏に平和監視団を派遣することができる。

[注釈]
 特記なし。

コメント

近代革命の社会力学(連載第119回)

2020-06-24 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(6)反革命とボリシェヴィキの台頭
 成功した革命に対しては、復古勢力による反作用としての反革命が惹起されるのが通例であるが、1917年ロシア革命の過程では反革命の発動はやや出遅れた。
 一般に、反革命は旧体制に忠実な軍を基盤に実行されるが、旧帝政ロシア軍は兵士の多くが革命主体のソヴィエトに参画しており、反革命に動員される態勢にはなかった。しかし、七月蜂起の失敗により、情勢に変化が生じた。臨時政府から軍の最高総司令官に任じられていたラーヴル・コルニーロフが反旗を翻し、反革命クーデターの動きを示したのである。
 コルニーロフは元来、帝政ロシアに忠実なシベリア・コサックの生まれで、日露戦争で軍功を上げるなど、優れた職業軍人であったが、二月革命後はおそらく保身のため、消極的に臨時政府を支持し、七月蜂起の事態収拾のため、軍トップに抜擢されていた。
 しかし、七月蜂起後の混乱状況と大戦での苦境を見て、コルニーロフは彼なりの「救国」のため、反革命決起を決断したようである。その際、革命機関として臨時政府の基盤となりつつあったソヴィエトの打倒に照準を定めた。こうしたコルニーロフの動きは保守派の支持を受け、反革命はにわかに現実のものとなった。
 コルニーロフは8月、ペトログラードに進軍してソヴィエトの解体を目指したが、ソヴィエト側も民兵団を組織して、クーデターに対抗した。一方、反革命クーデター軍の兵士は元来低く、ソヴィエト側の説得で寝返る者が相次ぎ、最終的に反革命クーデターは完全な失敗に終わった。
 こうして、急進派の七月蜂起も保守派の反革命もともに失敗に終わったことで、臨時政府はその基盤を強めるかに見えたが、そうはならなかった。反革命の失敗後、「多数派」を意味する名称にもかかわらず、ソヴィエトでは少数派の立場にあったボリシェヴィキが台風の目となって台頭してきたからである。
 ボリシェヴィキは去る四月、亡命先のスイスから急遽帰国したレーニンの「四月テーゼ」に基づき、臨時政府への不支持とソヴィエトへの全権力移譲を求める方針を採択していた。このテーゼの主要部分は七月蜂起の要求事項にも反映されていた。
 もっとも、ボリシェヴィキは七月蜂起の企画者ではなかったものの、蜂起失敗後は臨時政府からも弾圧にあい、逼塞していたが、コルニーロフ反革命に際しては、ソヴィエト側で反革命阻止のために尽力して、名を上げていた。こうした流れで、反革命失敗後、ペトログラードとモスクワの二大都市のソヴィエトではボリシェヴィキを主力とする執行部の選出に成功したのである。
 この時点で、レーニンとボリシェヴィキは臨時政府の打倒と革命の次なる段階、すなわちレーニンの主唱する武装した労働者・農民階級によるプロレタリア民主革命へ進むことを決意し、武装蜂起決行日時まで定めていたのである。
 他方、ソヴィエト側が立憲民主党(カデット)の排除を要求する中、ケレンスキーは9月に内閣改造に踏み切ったが、政権安定の鍵であるカデットを排除することはできず、この第三次連立政府は第二次と代わり映えのしないものであった。
 かくして、一時は止揚されていた臨時政府とソヴィエトの亀裂が再び深まり、ボリシェヴィキ‐ソヴィエト主導の次なる革命の動きが現実のものとなろうとしていた。

コメント

近代革命の社会力学(連載第118回)

2020-06-23 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(5)二月革命:共和革命
 立憲民主党のパーヴェル・ミリュコーフの国会演説により、最初に触発されたのは、労働者階級であった。かれらは大戦中から一種の労働者自治組織である戦時工業委員会を通じて凝集性を示し始めていたが、1917年1月、かれらが企画した民主的な臨時政府の樹立を求めるデモは、政府側の弾圧により不発に終わった。
 しかし、2月23日、女性労働者たちが国際婦人デー(グレゴリオ暦3月8日)に合わせてストライキとデモに入った。女性たちは、折からの食糧難に直面し、敏感になっていた。こうした女性の反乱は帝政にとっても死角であり、これを契機に労働者のゼネストが全国規模で広がっていった。
 こうして、暮らしに敏感な女性たちの「パンをよこせ」という決起が革命の道を開いたのは、18世紀フランス革命の力学と同様であった。異なるのは、フランス革命の口火を切った女性たちが主婦だったのに対し、ロシア革命では労働者であったことである。そのため、ロシア革命では労働者階級が初めから前面に躍り出ることになった。
 しかも、1917年のロシア労働者階級はゼネストに終始せず、1905年立憲革命当時に不十分ながら出現した新たな民衆的会議体ソヴィエトの樹立へと動いた。さしあたりは、当時の首都ペトログラードのソヴィエトが嚆矢となったが、その際に、指導性を発揮したのは、メンシェヴィキ党であった。
 メンシェヴィキの特徴は強力な指導者がなく、集団指導的であることだったが、この時はグルジア(ジョージア)出身で、メンシェヴィキの実質的なスポークスマン役であったニコライ・チヘイゼがペトログラード・ソヴィエトの執行委員長に就任した。
 一方、帝政側もこうした未然革命的な動きに対抗して、国会に臨時委員会を置き、立憲民主党のゲオルギー・リヴォフ公爵を首班とする臨時政府を設置した。
 臨時政府は権威を失墜したニコライ2世に退位を求め、ニコライは実弟ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公への譲位を決定するが、彼は固辞した。リヴォフの臨時政府もミハイル大公の帝位継承に否定的であったため、結果的にロマノフ朝はあっけなく崩壊したのである。
 リヴォフの第一次臨時政府は基本的に王党派の政権であったにもかかわらず、帝政が崩壊したのは、大戦と革命という二つの国難に直面する中、もはや王党派もロマノフ朝の存続は断念せざるを得ないとの判断に傾いたからであろう。
 これ以降も、ロシアでは今日まで王政復古は起きていないことから、1917年2月(グレゴリオ暦3月)の革命は、ほぼ恒久的な効果を持つロシアにおける共和革命となった。しかし、共和政体の行方はまだ不透明であり、各派連合的な臨時政府の性格も未確定であった。
 他方、1917年革命におけるソヴィエトは1905年立憲革命当時よりも組織化され、特に労働者と兵士が連合し、強力な基盤を築いたことから、18世紀フランス革命当時の国民公会のような革命議会の様相を呈し、臨時政府との関係でも、二重権力状態となっていた。
 臨時政府にとっての喫緊課題は、戦争政策であった。臨時政府には革命前の進歩ブロックが要求していた戦勝のための政府という趣旨もあったため、戦争継続を目指していた。これに対し、多くの兵士も参加していたペトログラード・ソヴィエトは戦争継続に反対し、臨時政府と対立した。
 両者融和のため、5月に臨時政府が改造され、ソヴィエトからも数人が入閣する挙国一致連立政府となった。この新たな連立政府のもと、ドイツに対して大攻勢をしかけるも、かえって激しい反攻にあい、失敗した。
 この失策に反発した兵士や労働者らは7月に武装蜂起し、前月に第一回全ロシア・ソヴィエト大会で選出されたソヴィエト中央執行委員会の権力掌握を求めた。
 しかし、この時点で社会革命党とメンシェヴィキ党が過半数を握っていたソヴィエトはデモ隊の権力掌握要求に否定的であり、この七月蜂起は数日で臨時政府によって鎮圧され、新たな革命には進展しなかった。しかし、リヴォフ首相は引責辞職、陸海軍相のケレンスキーが新たな首相に就任した。
 この第二次連立政府は、ケレンスキーの属する社会革命党とメンシェヴィキ党が主導するものとなった。結果として、それ以前の立憲民主党その他穏健な自由主義派が主導していた臨時政府の性格が変わり、言わば「ソヴィエト内閣」となったことにより、従来の二重権力状態も止揚され、二月革命の大きな転換点となった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第117回)

2020-06-22 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(4)大戦から革命へ
 20世紀初頭のロシアでは、新たな革命運動のうねりが起き始めていたとはいえ、1905年立憲革命を乗り切った帝政ロシアの体制は安泰に見えた。その安定状況を一挙に変えた事象が、第一次世界大戦であった。そして、この大戦こそが革命への重要なステップとなる。
 歴史的省察に「もし」は禁物と言われるが、もし第一次世界大戦がなければ、ロシア革命は少なくとも成功してはいなかっただろうと言うことは許されるであろう。それほどに、大戦という大状況はロシア革命を準備する決定因であった。
 もっとも、大規模な革命には、その引き金となるような何らかの事象が先行するところ、戦争は通常、愛国的な感情を高め、国民を為政者の下に団結させる契機となるので、支配体制を転覆する革命に直結する事象ではない。しかし、敗戦した場合は別である。
 とりわけ、近代において、戦争が国力を総動員する総力戦となるにつれて、戦争の発動は国民生活に重大な影響を及ぼし、社会経済全般を消耗させるようになった。そのような状況が敗戦の屈辱とともに支配層に対する怨嗟の念を高め、革命の動因となることがしばしば見られる。
 その最初の顕著な事例は、普仏戦争を契機とした1870年のフランスにおける共和革命及び翌年のコミューン革命であった。ロシアでは、日露戦争を契機とした1905年の立憲革命も、その例に数えることができる。いずれも、著しい損害を伴う国の敗戦が契機となった。
 第一次世界大戦は、普仏、日露のような単純な国家間の戦争を越え、列強が同盟を組んで世界規模で戦争を繰り広げるという20世紀的な世界戦争の初例でもあり、後続の第二次世界大戦前としては、まさに総力戦の頂点を極めた大戦であるだけに、敗戦した場合の社会全般的な危機の大きさは想像を絶したであろう。
 その点、大戦頃のロシアの状況を見ると、大戦前には遅れた農業国ロシアでも工業化が進み、労働者が増大するにつれ、労働運動も活性化していた。中でも、シベリアのレナ金鉱労働者が劣悪な労働条件の改善を求めて決起した1912年のストライキは、政府側が軍を投入して武力鎮圧を図ったことで、多くの犠牲者を出す惨事となった。
 これを契機に抗議行動が全国的に拡大し、ゼネストの状況に至ったが、その対決ムードをいったんかき消したのも、世界大戦である。敵陣営の盟主ドイツに対する反感を伴う愛国的ムードの高まりにより、労働運動は背後に退いていったからである。
 ところが、戦況は次第に膠着状態に陥り、1915年に入ると、ガリツィア・ポーランド戦線で大敗するなど、ロシア側の損害は拡大した。最終的には勝者の陣営に立つロシアであるが、実態は敗戦に近いものであり、国民の厭戦気分はやがて帝政ロシア政府に対する怨嗟に変化していった。
 このような状況をとらえ、最初に政府に対する攻勢を強めたのは、立憲民主党(カデット)を中心とするブルジョワ民主勢力である。カデットは、他党とともに国会の絶対過半数を押さえる進歩ブロックを結成し、戦勝のための責任内閣の形成を要求した。
 この時、カデットの創立者で、実質的な党首格のパーヴェル・ミリュコーフ―自身の息子も大戦で戦死―が国会で行った政府弾劾演説は、「愚行か、裏切りか」という有名な文句とともに戦場の兵士にまで届くほど人口に膾炙し、革命的なムードを盛り立てる役割を果たした。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第34回)

2020-06-20 | 〆世界共同体憲章試案

第21章 宇宙探査

〈基本理念〉

【第139条】

1.天体を含む宇宙空間の探査及び利用は、全人類の利益のため、世界共同体を通じて行われる全人類的な活動である。

2.前項の規定は、世界共同体構成主体または民間探査組織が、いかなる種類の差別もなく、平等の基礎に立ち、かつこの憲章及びその他の関連条約に従って、天体を含む宇宙空間を自由に探査する権利を妨げるものではない。

3.天体を含む宇宙空間は、何人にも属さない。それゆえに、主権または所有権の主張、使用もしくは占拠またはその他のいかなる手段によっても、何人の独占的取得の対象ともならない。

4.天体を含む宇宙空間は、もっぱら平和的目的のために、すべての世界共同体構成主体によって利用されるものとする。天体上においては、軍事基地、軍事施設及び防備施設の設置、あらゆる型の兵器の実験並びに軍事演習の実施は、禁止する。天体の平和的探査のために必要なすべての装備または施設を使用することは、禁止しない。

5.天体を含む宇宙空間の探査及び利用に関する細目は、この憲章に基づき、条約によってのみこれを定める。

[注釈]
 宇宙探査に関する五つの基本理念である。すなわち、全人類利益の原則、平等の原則、独占取得禁止の原則、平和利用の原則、法定主義である。その土台は国連時代の1967年に締結された宇宙条約の内容にあるが、世共の理念に合わせて修正されている。

〈世界共同体宇宙機関〉

【第140条】

1.世界共同体は、宇宙探査を統括するため、世界共同体宇宙機関を設置する。

2.前項の機関は、総会の共同管理機関とする。

[注釈]
 世界共同体を通じた宇宙探査を統括するのは、世界共同体宇宙機関である。

【第141条】

1.前条の機関は、次の任務を有する。

① 世界宇宙探査計画を策定し、世界共同体構成主体または民間探査組織と連携しつつ、これを実行すること。 
② 世界共同体宇宙ステーションを運営すること。
③ 世界共同体構成主体または民間探査組織による宇宙探査を技術的に支援すること。
④ 天体を含む宇宙空間に関して、独自に研究すること。

2.機関は、前項の各任務を遂行するのに必要な場合、世界共同体航空宇宙警備隊の支援を求めることができる。

[注釈]
 世界共同体宇宙機関は、宇宙探査の独占機関ではなく、構成領域圏やその他の民間宇宙探査組織と連携し、人類の宇宙探査を束ねる役割を果たす。
 第2項は世共宇宙機関の任務及び任務遂行に当たっての航空宇宙警備隊の支援要請に関する規定である。宇宙探査は平和的な活動であるが、危険性を伴うため、世共共同武力の一つである航空宇宙警備隊の支援を受けることは否定されない。

コメント

世界共同体憲章試案(連載第33回)

2020-06-19 | 〆世界共同体憲章試案

第20章 地球環境観測

【第136条】

1.世界共同体は、地球環境を恒常的に観測するため、南極大陸及び北極圏を含む主要な地点に、世界共同体総会の補助機関として、地球環境観測センターを設置する。

2.前項のセンターは、毎年一回、観測結果を総会に報告しなければならない。ただし、地球環境上緊急の事象が生じたときは、直ちに報告しなければならない。

3.センターは、世界環境計画の連携機関として、必要に応じていつでも情報またはデータを提供しなければならない。

4.センターは、世界共同体の主要機関及びその他の諸機関から要請があれば、いつでも必要な情報またはデータを提供しなければならない。

[注釈]
 世界共同体の設立趣旨でもある地球環境の生態学的な持続可能性を保証するために、恒常的かつ定点的な地球環境観測を行うための機関が設立される。その性格は、総会補助機関にして、世共の環境政策の実務機関である世界環境計画の連携機関である。

【第137条】

センターは、観測結果の分析及び結論に関して、世界共同体諸機関またはその他のいかなる部外者からも、干渉されない。

[注釈]
 地球環境観測センターは、世共総会の補助機関ではあるが、分析及び結論という学術的な側面に関しては、独立性を有し、外部からの干渉を受けないことが保障される。

【第138条】

センターは、世界の学術研究機関と連携しつつ、その観測結果について情報を交換し、または意見を照会することができる。

[注釈]
 地球環境観測センターは独立性を有するが、独善に陥らないよう、外部の学術研究機関と連携しつつ、情報交換や意見照会をすることが認められる。

コメント

近代革命の社会力学(連載第116回)

2020-06-17 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(3)共産主義運動の転移
 1917年ロシア革命において共産党が前面に現れた所以に関しては、ロシア固有の事情とともに、欧州における共産主義運動が、それまでの中心であったフランスからロシアへと転移した経緯について見ておく必要がある。
 フランスにおける共産主義運動の歴史は古く、18世紀フランス革命に遡る。特に、革命家フランソワ・ノエル・バブーフがその先駆と想定される。貧農出自の土地台帳管理人だったバブーフは、フランス革命に身を投じる中で、自身の専門分野でもあった土地問題に関心を寄せ、土地の万民共有論を基礎とし、物品の平等な共同管理・配給を軸とする共産主義社会の建設を夢見た。
 バブーフは当初、ロベスピエールの熱心な支持者だったが、恐怖政治に対して次第に批判的となり、ロベスピエールを倒したテルミドールのクーデターではクーデター側に立つも、総裁政府の保守性にも反対し、独自の秘密結社パンテオン・クラブを結成した。
 パンテオン・クラブは総裁政府との対峙状況の中、1796年、新たな革命により権力を握り、階級独裁による新体制を樹立することを計画するも、密告により発覚、摘発され、バブーフもギロチン台に送られた。一般に「バブーフの陰謀」として知られるこの革命計画は、思想的にも実践としても稚拙ではあったが、近代の共産主義者に強いインパクトを与えた。
 フランス革命がナポレオンにより乗っ取られ、保守的に収斂した後、バブーフを継承したのは、彼の信奉者であったルイ・オーギュスト・ブランキであった。ブランキはバブーフから革命実践面の理論を継承し、少数精鋭の革命家集団による武装革命、人民による階級独裁といった革命実践論を完成させた。
 その具体化として、1839年、ブランキは秘密結社「四季協会」を結成した。その文学的な名称とは裏腹に、同組織は軍事的に組織化された革命集団であり、その後の近代的な武装革命運動における範例ともなった。
 1805年生まれのブランキは、七月革命以来、19世紀フランスで続発した諸革命のすべてに最急進派として参画したが、彼の先鋭な革命思想は当然にも当局から危険視されたため、たびたび検挙・投獄が繰り返され、75年の生涯のうち通算で30年以上を獄中で過ごすこととなった。そのため、ブランキは革命派の間で影響力を持ちつつも、共産主義革命に成功することはなかった。
 こうしたブランキを賞賛しつつ、新世代の共産主義者として自己確立したのが、彼より一回り下のマルクスとエンゲルスであった。かれらはドイツから出たが、保守的なドイツに彼らの居場所はなく、ブリュッセルに亡命してきていた。
 彼らは、第二次欧州連続革命前夜の1847年に秘密結社「共産主義者同盟」を結成し、翌年に勃発する連続革命の渦中、同盟の綱領文書として公刊したのが著名な『共産党宣言』であった。
 ただ、かれらの同盟は知識人中心の思想団体の性格が強かったうえ、当時まだほぼ無名のマルクスとエンゲルスが中心となった「同盟」の影響力は限られており、目下進行中の革命にほとんど影響を与えることなく、1850年に独仏当局の摘発を受け、52年には解散に追い込まれてしまう(以上の経緯について、詳しくは拙稿参照)。
 その後も新たな亡命地ロンドンを中心に展開されたマルクス‐エンゲルスの活動は、保守的なイギリスではもちろんのこと、フランスでも十分に浸透することがなかったところ、19世紀末になり、ロシアに現れたウラジーミル・レーニンらの新たな革命運動において、本格的に継承された。
 簡単に言えば、レーニンは理論上はマルクスから、実践上はブランキからも触発され、独自の革命理論・実践の体系を作り上げたのであった。これにより、共産主義運動がマルクス‐エンゲルスを媒介して、フランスからロシアへ転移したと言える。

コメント

近代革命の社会力学(連載第115回)

2020-06-16 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(2)革命勢力地図
 1917年ロシア革命が、これまでに見てきたそれ以前の諸革命と異なる特徴は、イデオロギー的に相当明瞭に色分けされた革命的諸政党が合従連衡しながら進行していったことである。その点で、初めにそれら主要な革命的諸政党の勢力地図を描くことが有益である。
 1905年立憲革命後のロシアでは、国会の開設に伴い、近代的な政党の設立が相次いでいたが。中でも当初最有力だったのは、立憲民主党(カデット)である。
 同党はリベラルな歴史家としても知られたパーヴェル・ミリュコーフを中心に設立された自由主義政党であり、基本的には立憲君主制を軸とするリベラルなブルジョワ民主主義の確立を目指す政党であった。
 カデットは、1906年のロシア初の国会選挙で第一党となるも、その後は政府側の抑圧で一時後退した。しかし、第一次世界大戦中、進歩ブロックを結成し、再び国会の中心勢力となり、その後の革命初動においても重要な役割を果たすことになる。
 カデットの対極には、ナロードニキ派の流れを汲む社会革命党(エスエル)があった。この党はいちおう農民階級を代表する党という位置づけであったが、正式名称を社会主義者・革命家党といったように、革命前ロシアにおける急進的な社会主義運動を包括する党であった。
 そのため、イデオロギー的にはやや曖昧な点があったが、ナロードニキ運動を継承してテロ戦術も辞さない強硬派でもあった。ただ、立憲革命後は、テロ戦術を修正して、国会参加を志向する議会政党として歩み始めていた。二月革命後に臨時政府の二代目首相として台頭するアレクサンドル・ケレンスキーも同党から出ている。
 こうした曖昧な包括政党としての性格から、1906年には党内穏健派が離党して、新たにトルードヴィキ(労働グループ)を称する政党を結党した。この党は穏健な農民社会主義政党として、1907年の国会選挙では第一党に躍進したが、同年の再選挙では大敗、以後はマイナー政党に転落し、革命で有力な役割を果たすことはなかった。
 一方、労働者階級政党として台頭していたのは社会民主労働者党である。同党は、マルクス主義を標榜する党であったが、その内部は結党時から分裂含みであった。分裂の争点は、革命の進行過程及び担い手に関わるものであった。
 すなわち、当時のロシアにあって最初に来るべき革命はブルジョワ民主革命であり、それから然る後にプロレタリア革命へ進むという二段階革命論を唱えるメンシェヴィキ派と、労働者及び農民が連合して、一挙にプロレタリア民主革命へ向かおうとするボリシェヴィキ派が対立した。
 革命の担い手という点でも、メンシェヴィキ派がブルジョワ民主主義者との連携を含む広汎な人士の参加を目指したのに対し、ボリシェヴィキ派は少数精鋭の職業的革命家集団の指導性を重視するという重要な相違があった。最終的に、ボリシェヴィキ派が勝利し、実際に同派指導者レーニンを中心とする少数精鋭による支配体制を樹立するに至る。
 両派の分裂は1912年のプラハにおける党協議会の場で決定的となり、以後は事実上別の政党として活動していくことになる。ボリシェヴィキ党は十月革命後に共産党と改称するが、革命前の時点ではまだ公式に共産主義を標榜することはなかった。

コメント

近代革命の社会力学(連載第114回)

2020-06-15 | 〆近代革命の社会力学

十七 1917年ロシア革命

(1)概観
 20世紀初頭の欧州では、1910年のポルトガル共和革命を除き、大きな革命の波は生じていなかった。これは、19世紀末以来、欧州の主要国では、程度の差はあれ、立憲君主政体が定着する中、資本主義的近代化を基盤に帝国主義的な海外膨張に忙しく、国内的な変革は保留されていたことによるものである。
 そうした中、ロシアを含めた欧州列強の帝国主義的な競争が欧州の地政学的な枠組みを超えた空前規模の世界大戦に進展する。この第一次世界大戦は、世界歴史の構造そのものを変革する契機となった事象であるが、同時に、ロシア、ドイツ、オーストリアという欧州列強参戦国にも連続的な革命の波を作り出した。
 その先駆けとなったのが、1917年のロシア革命である。ロシアでは、すでに1905年の立憲革命により、遅ればせながら立憲帝政への移行が試みられたが、保守的なロマノフ王朝により骨抜きにされ、第一次世界大戦の時点ではほぼ挫折していた。
 そのような挫折状況の中、ロシアではマルクス理論で武装した社会主義勢力が、分裂を内包しながらも、新たな革命の担い手として台頭してきており、従来からの農民革命勢力や立憲革命の産物でもあるブルジョワ民主勢力と競合し合いながら、革命へ向けたマグマを形成していた。
 1917年の大規模な革命は、帝政ロシアが第一次大戦で戦勝国の陣営に立ちながらも、損害と消耗が大きく、敗戦に近い社会経済状況に直面する状況下、そうした革命的なマグマが一挙に噴出したものと言える。非常に大きな噴火であっただけに、1917年革命は、1905年革命とは比べものにならないほどの進展を見せた。
 特筆すべきは、1917年ロシア革命は世界歴史上初めての社会主義革命という性格を持ったことである。それまでの諸革命は、最も進歩的なものでも、ブルジョワ民主革命の線で停止し、それ以上の進展は抑圧されたのに対し、ロシア革命はブルジョワ民主革命の線をあっさり越えて、プロレタリア社会主義革命にまで進展したことで、革命の歴史的な流れを大きく変えた。
 そのうえ、革命後の新体制の担い手として、共産党が登場したことも大きな特徴である。共産主義を標榜する革命運動は18世紀フランス革命当時のバブーフや、19世紀の第二次欧州連続革命当時のマルクス‐エンゲルスなどが興していたものの、いずれも現実の革命には結実しなかったところ、1917年ロシア革命において初めて成功した。
 そして最終的に、ロシアを核に、アジアにまでまたがるソヴィエト社会主義共和国連邦なる新国家が形成され、超大国となったことで、世界歴史の構造にも大きな変化を起こす結果となった。さらに、ソ連共産党は当初、国際的な連携と革命の輸出も意識的に行ったことから、世界各国に共産党組織が拡散的に結成され、それぞれの本国で新たな革命勢力として台頭していく契機を作り出した。
 一方で、ロシア革命はその過程及びその後の内戦で多大の人的犠牲を出したことでも際立っており、最終的に共産党の一党支配体制という特異な国家体制に凝固していった点で、自由・人権の体系的な抑圧が批判の対象となるなど、今日まで多くの論争を招く革命事象となった。
 その功罪はどうあれ、1917年ロシア革命は、18世紀末のアメリカ独立革命及びフランス革命に次いで、世界の構造そのものを大きく変える意義を持ったことは間違いないところである。中でも、18世紀フランス革命とはその社会力学に類似点もあるため、必要に応じて対比しながら見ていくことにしたい。

コメント

貨幣経済史黒書(連載第37回)

2020-06-14 | 〆貨幣経済史黒書

File36: 豊田商事事件―金地金投資の陥穽

 現物としての金(地金)は、古から人類が珍重してきた希少金属であり、その歴史は貨幣より古い。かつては、貨幣価値自体、中央銀行が発行する金地金との交換を保証された兌換紙幣を通じて金に裏付けされる金本位制が通貨制度の基本だったこともあるが、ニクソンショックを契機に金本位制が廃されて以降、貨幣と金の関係性は分離された。
 それでも、金は株式市況と連動せず、株価下落局面でも強いとされることや、万一貨幣資産を失っても、金の現物自体に高い価値があることなどから、リスク分散資産として今なお人々を惹きつけてやまない。そうした性質から、金はある意味、貨幣以上に物神崇拝的な対象となりやすい資産である。
 しかし、まさにそこに陥穽が潜んでいる。そのことを痛感させられる事例が、1985年に日本で発覚した豊田商事事件であった。時は日本が80年代バブル経済の狂奔期に突入する直前である。
 大きな背景事情として、高度成長期を通じて国民の所得が増大し、特に退職高齢者に余剰資産が生じる中、変動リスクの高い証券投資よりも、金地金投資への関心が高まり、1980年代初頭頃より、金の輸入量が増大していた。そうした中、横行する私設の金先物市場を規制するべく、商品先物取引全般を政府公認市場に限局する法改正がなされた。
 そのような法令上の規制強化を逆手に取る形で現れたのが、件の豊田商事である。この企業のスキームは、いたって単純であった。すなわち、顧客とはまず手順どおりに金地金の売買契約を結んだうえ、現物は顧客に引き渡さず会社が預かり、「純金ファミリー契約証券」なる証券を代金と引き替えに渡すというものである。
 このような契約が正常に履行される限り、顧客は盗難危険のある金地金を自宅等に保管する必要がなくなるというメリットもある。ところが、豊田商事は現物の金など全く保有しておらず、ただ購入代金を徴収して無価値な紙片にすぎない「証券」を渡していただけであった。
 このようなスキームは明らかに組織的な詐欺であるが、不思議なことに、この単純さがかえって信頼感を生み、最終的に破綻するまでのわずか数年間で、全国の数万人から総額2000億円近くを詐取することに成功していた。しかし、破産管財人チームの厳格な回収作業にもかかわらず、回収できた資金は一部で、大半は消失していた。
 そうした巨額の不明金に加え、豊田商事の創業者・永野一男が報道陣の詰めかける中、被害者の元上司を名乗る人物らによって自宅で刺殺されるという異常な幕引きとなったことでも、当時耳目を集めた事件である。被害人員・被害額の大きさにもかかわらず、誰も詐欺罪で立件されなかったことから、政界や裏社会等に黒幕が伏在するとの疑惑もくすぶり続けた事件でもある。
 そうした裏事情の探索はともかくとして、この事件は金の現物投資に潜む陥穽を象徴している。金を頂点として、和牛、ゴルフ会員権その他様々な現物投資を偽装するいわゆる「現物まがい商法」は、豊田商事事件以降、バブル経済が崩壊した後も跡を絶たない。
 複雑な金融商品と異なり、現物投資の単純さと一見した手堅さが詐欺被害を生むのであるが、金をはじめ、高価な現物はそもそも入手し難いゆえに高価であるという経済法則からすれば、高価な現物資産は所有者自身が盗難リスクを負担して自ら保管するか、信頼できる機関に寄託することで、安全性が保たれるものである。その点では、貨幣資産と変わらないと言える。

コメント

共産法の体系[新訂版]・総目次

2020-06-13 | 〆共産法の体系[新訂版]

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より全記事をご覧いただけます。


新訂版まえがき&序言
 ページ1

第1章 共産主義と法

(1)共産される法 ページ2
(2)法の生産方法 ページ3
(3)法の活用① ページ
(4)法の活用② ページ5
(5)交換法から配分法へ ページ6
(6)重層的法体系
 ページ7

第2章 民衆会議憲章

(1)国憲から民憲へ ページ8
(2)憲章の統一的構造 ページ9
(3)民衆会議憲章の内容① ページ10
(4)民衆会議憲章の内容② ページ11
(5)民衆会議憲章の内容③ ページ12
(6)憲章の解釈と適用 ページ12a

第3章 環境法の体系

(1)環境法の位置づけ ページ13
(2)世界地球環境法の根本理念 
ページ14
(3)世界地球環境法の基本原則 ページ15
(4)統一環境法典 ページ16
(5)環境法の執行 ページ17

第4章 経済法の体系

(1)共産主義的経済法の意義 ページ18
(2)経済計画法① ページ19
(3)経済計画法② ページ20
(4)企業組織法 ページ21
(5)労働関係法 ページ22
(6)土地管理法 ページ23

第5章 市民法の体系

(1)共産主義的市民法の内容 ページ24
(2)市民権法①
 ページ25
(3)市民権法②
 ページ26
(4)財産権法①
 ページ27
(5)財産権法② ページ28

第6章 犯則法の体系

(1)刑法から犯則法へ ページ29
(2)犯則行為の成立 ページ30
(3)犯則行為の種類 ページ31
(4)矯正処遇の諸制度①
 ページ32
(5)矯正処遇の諸制度② ページ33
(6)少年処遇の諸制度③ ページ34

第7章 争訟法の体系

(1)共産主義的争訟法 ページ35
(2)市民司法 ページ36
(3)経済司法 ページ37
(4)犯則司法① ページ38
(5)犯則司法② ページ39
(6)護民司法 ページ40
(7)弾劾司法 ページ41
(8)法令司法 ページ42

第8章 法曹法の概要

(1)法務士と公証人 ページ43
(2)法曹の独立性 ページ42
(3)司法人工知能 ページ43
(4)公的法務職域 ページ44
(5)私的法務職域 ページ45

コメント

共産法の体系(連載最終回)

2020-06-12 | 〆共産法の体系[新訂版]

第8章 法曹法

(5)私的法務職域
 
共産主義的法曹の在野における活動分野である私的法務職域には大別して、独立開業法務士と企業体等私的団体における法務部署の勤務法務士とがある。
 前者の独立開業法務士は私的法務職域の最も典型的な形態ではあるが、資本主義社会における独立開業法曹とは内実が相当に異なる。
 貨幣経済が存在しない共産主義社会においては、法律業務によって貨幣収入を得るという行為自体が成立しないため、法律業務も無償サービスとなる。従って、法律事務所は公益奉仕的な性格の強いものとなり、ビジネスとしてのロー・ファーム(法務企業)は存在しない。
 
 そのうえ、基本的に裁判所制度も存在しないから、弾劾司法の分野を除いては訴訟代理業務もほとんどないことになる。その代わり、いくつかの司法手続きにおいて、弁務人または補佐人としての法的地位を専業的に独占する。

○弁務人:各種の審問・弁論手続きにおいて、当事者を代理し、有益な弁明・弁論を行なう。
○付添人:犯則法関連の聴取・取調べや矯正保護委員会の審査等に同席助力し、当事者の権利を擁護する。

 なお、共産主義的法曹は、その独立性原則から、特定の個人や団体に対して専属的に常時有利な法的助言を行なうことで依頼者への従属関係を生む法律顧問業務も禁じられるため、法律顧問という地位は認められない。
 他方、勤務法務士は企業体等の私的団体の法務部署に所属して当該団体の法律事務を取り扱う専門職員であるが、同時に法曹としての独立性も保持する。従って、職員としての一般的な職務忠実義務は負うものの、法的判断に関しては外部はもちろん、団体の経営陣その他内部の他部署からも干渉されない。

コメント