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近代革命の社会力学(連載第287回)

2021-08-31 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(2)文化大革命の開始時と経緯
 本連載では文革の前半期を主に取り上げると述べたが、文革は体制内の権力闘争という色彩も濃厚であったことから、革命事象としての文革に関しては曖昧な点があり、その正確な開始及び終了の時点についても、不確定さが残る。
 特に開始時に関して、1960年代後半に開始されたということは明確であるが、その正確な開始時は曖昧である。後に毛沢東自身があるインタビューで答えたところによれば、修正主義実権派の排除を決意したのは1965年12月であったとしている。
 しかし、これは毛の内心的な開始時点であり、「文化大革命」という語が中共内で公式に登場したのは、1966年8月の「中国共産党中央委員会のプロレタリア文化大革命についての決定」と題する党中央委員会の決議においてであった。
 しかし、文革のより明確な性格が示されたのは、1969年の第9回党大会における当時毛の最側近だった林彪の政治報告においてである。そこでは、文化大革命が実権派から権力を奪い返すための新たな階級闘争であることが宣言されており、言わば実権派に対する宣戦布告と言えるものであった。
 こうした経緯に鑑みると、文化大革命の公式の開始時は文化大革命党決定が出された1966年8月とみなすことが最も明確かもしれないが、もう少し遡ると、1965年秋に、ある新作京劇をめぐる論争が過熱し、政治問題に発展したことがあった。
 この京劇は歴史家・政治家でもあった呉晗が1961年に発表した『海瑞罷官』という時代劇作品であるが、その解釈をめぐり論争が生じた。1965年11月に、後に文革の四大中心人物(いわゆる四人組)となる姚文元が、同作品が題材とした冤罪救済や民衆への土地返還が反革命分子の救済や人民公社制の否認を暗示すると論難する論文を発表し、論争に火をつけた。
 毛が実権派排除を決意したとする時期は65年12月とされるので、毛自身が姚論文に触発された可能性は充分にある。その結果、1966年5月には党中央委員会通知の形で、呉作品を擁護した者への批判攻撃と新しい文化革命組織の結成を指示し、ひいては党組織の実権派を資本階級にある者として攻撃するよう指示する趣旨の通達が発せられた。
 このように文学論争を端緒とする文化闘争の開始時が1966年にあり、しかも文化革命の語が公式に登場、同年8月には如上の党による「文化大革命」決定へと急進していく経緯に鑑みると、文革の端緒は1966年に見定めるのが妥当であろう。
 ちなみに、文革の終了時についても、1977年8月の第11回党大会における終結宣言を公式終了時とするのが明確ではあるが、中共の党史書では「四人組」が検挙された76年10月とされるなど、曖昧な点が残る。こうした終結経緯についても、後に再言する。

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近代革命の社会力学(連載第286回)

2021-08-30 | 〆近代革命の社会力学

四十 中国文化大革命

(1)概観
 中国では、1949年の中国共産党(中共)による大陸革命が成功した後、1950年末からの社会主義的な「大躍進」政策がとりわけ農業分野で失敗に終わり、最高指導者・毛沢東の威信も揺らぐ状況に入ったことは、先に見たとおりである(拙稿)。
 そうした中、1960年代前半期には社会主義化の進展スピードを緩める改革的な中堅のグループが台頭し、党の実権を掌握した。これは市場経済化に振れる最初の改革的な動向であったが、毛没後の1970年代末以降における大規模な市場経済化改革に比すれば、微修正にすぎないものであった。
 しかし、毛とその側近グループにとって、このような動向は革命の後退を結果する危険な企てと映った。そこで、1960年代半ば、毛らは修正主義の土壌となる資本主義・ブルジョワ文化の残滓を除去するべく、文化面にも及ぶ全般的なプロレタリア革命(文革)を体制内的に発動するキャンペーンを開始した。
 国際的な力学という面では、スターリン没後のソ連でスターリン批判を土台に発足したフルシチョフ新指導部に対し、スターリン信奉者であった毛沢東はこれを修正主義として非難し、ソ連との同盟関係を離脱していったことも、文革の外部的な動因を成したと考えられる。
 この文革キャンペーンは依然として大衆の間では求心力を保つ毛の個人崇拝を推し進めつつ、上記の微修正派グループ・実権派を資本主義に走る反革命的走資派と断罪して失権に追い込む粛清運動として、毛が没する1976年まで10年近くにわたり展開された。
 そうした粛清運動という点で、文革はソ連のスターリンが1930年代に展開した大粛清に相当するような弾圧政策の色彩が強いことはたしかである。その意味では、文革は「革命」の語を冠してはいても、それは中共内部の権力闘争にすぎなかったとも言え、当連載でこれを「革命」として扱うべきかどうかについては、迷うところであった。
 しかしながら、一過性の事象であり、その実態は反党分子とみなされた者への見せしめの大量処刑であったスターリンの大粛清とは異なり、10年単位で一時代を形成した文革は、少なくともその初期においては、大衆動員の手法が用いられた点に大きな相違があった。
 特に「造反有理」のスローガンにより、青年層の反乱を毛自身が促したため、青年による大々的な自発的参加の動きが見られ、そのことがメディア時代の到来とともに世界に伝えられ、フランスや日本をはじめとする西側諸国の反体制青年運動のうねりにも少なからぬ影響を及ぼした。
 革命の力学という本連載の観点から見ると、文革は毛沢東とその周辺グループという上からの力動と、それまで政治的にはマージナルであった青年層という下からの力動とが交差しながら、二次的な体制内革命として発現し、10年余りにわたり中国社会に激動を及ぼした複雑な革命的事象と言える。
 そうした文革の特異な性格に鑑みると、変則的ではあるが、この事象も本連載で取り上げる革命事象に含めて論じる意義があるものとみなし、独立して取り上げる次第である。ただし、取り上げるのは、長期に及んだ文革の中でも主として前半期である。

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比較:影の警察国家(連載第46回)

2021-08-29 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐5:関税・間接税総局

 フランスの警察制度は圧倒的に国家警察及び国家治安軍の両組織に集権化されているため、両組織に属しない警察機関は少ないが、経済・財務省に属する関税・間接税総局(Direction générale des douanes et droits indirects:DGDDI)は、約1万7千人の要員を擁する比較的規模の大きな機関である。
 この組織は元来、国家警察の一部局として国境警備を担う国境警察中央指令部から分離する形で、1995年に創設された比較的新しい法執行機関であり、その任務は諸国の税関に相当すると考えてよい。
 国家警察から分離された限りでは純粋の警察組織ではなくなったが、しかし、国家警察から分離された沿革上、なお警察機関としての性格は強く、国境や空港で活動する経済警察機関としての役割を持つ。
 そのため、航空機や巡視船をも擁するうえ、法執行に当たる職員は武装し、広範な権限を与えられているが、警察官と完全に同等ではなく、原則として被疑者の身柄拘束はできない。また、警察官とは異なるものの、職員は類似の階級と制服を持つ。
 一方、DGDDIには数多くの専門部局が設けられており、経済諜報機能を果たす国家情報・税関調査局の他、関税法違反等事案の捜査に当たる国家司法税関局など、国家警察並みの複雑な組織構成を持つ。

1‐6:国家森林局

 国家森林局(Office national des forêts)は、生態遷移省及び農業食糧・漁業省が共管する機関であり、その主任務は名称どおり森林管理にあるが、森林管理に関連して各種環境法の執行を行う環境警察としての機能を持っている。
 1964年に創設されたが、1980年代から人員の削減が続き、士気の低下やストレスから職員の自殺が相次ぐなど、組織の構造的な問題が指摘されている。

1‐7:行刑局看守要員団

 行刑局看守要員団(Corps du personnel de surveillance de l'administration pénitentiaire)は、2006年に創設された司法省系統の法執行隊である。言わば、刑務官の軍団である。従って、その任務は刑務所の看守そのものであるが、こうした形で要員団に集団化されたのもフランス的な集権制の特徴と言える。 
 このように集団化されることによって、刑務官が刑務所内及びその周辺での警備と法執行を担うある種の特別警察官のような立場に純化され、要員団自体が一つの刑務警察機関として機能するようになっている。これは、刑務所の目的の重心が矯正より保安に遷移する警察国家化の一つの表れである。

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近代革命の社会力学(連載第285回)

2021-08-27 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(7)イラクにおける革命の横領
 イラクでは、1968年のバアス党革命が成功し、アーメド・ハッサン・アル‐バクルを頂点とするバアス党支配体制が確立されたのであるが、革命直後から体制の性格に変化が現れた。アル‐バクルの縁故主義によって彼の側近として台頭していた従弟のサダム・フセインが革命翌年の69年に革命指令評議会副議長に任命され、政権ナンバー2にのし上がったことがその契機である。
 フセインは職業軍人ではなかったが、1950年代に入党して以降、職業的テロリストとなり、59年には当時のカーシム首相暗殺未遂事件、64年にはアリフ大統領暗殺計画に加わるなど、数々の陰謀計画に関与していた。
 このような武闘派経歴が従兄のアル‐バクル大統領から重宝され、党内の保安組織を任されたフセインは早くから党内異分子の排除に努め、68年革命後も治安・諜報機関を担当し、アル‐バクル政権の早期安定に寄与した。
 加えて、フセインはイデオロギー面でも、革命前から始まっていたシリアの本家バアス党との離反を促進させ、イラク人を偉大なメソポタミア文明の継承者と位置づけるイラク・ナショナリズムを唱道し、バアス党本来の汎アラブ主義を大幅に修正した。
 一方では、シリアを追われたバアス党創設者のミシェル・アフラクを庇護したが、アフラクを表向き丁重に遇しながら、党運営には関与させず、敬遠する方策を取り続けたのであった。
 フセインは革命直後からアル‐バクルが大統領を辞任した1979年まで副大統領の地位にあったが、この間の約10年は、フセインが治安・諜報機関を権力基盤としつつ、実権をなし崩しにアル‐バクルからもぎ取っていく過程でもあった。
 その際、フセインは治安・諜報機関に自身と同郷ティクリートの出身者や親族を起用して人脈を固めていき、スパイを活用してバアス党内や軍内の動向監視も徹底させたため、革命後のバアス党支配体制は、アサドが権力を確立するまで激動のあったシリアと比べても安定したものとなったことはたしかである。
 とはいえ、イラクはその国境線が英仏によって便宜的に引かれた関係上、南部に多いイスラーム教シーア派が過半数を占め、人口の4割程度の正統派スンナ派が劣勢という周辺諸国の多くとは逆転した社会編成を持っており、イラクのバアス党も当初はシーア派が中心の党であった。
 しかし、その構造はスンナ派に属するアル‐バクルの党掌握以降逆転し、フセインを含めてスンナ派優位となったことで、シリアと同様に、イラクのバアス党体制も少数支配体制となった。
 シーア派の多くは68年革命までに党内から排除され、反体制派に回ることとなり、70年代には何度か暴動を起こすが、いずれも政府により鎮圧された。シーア派が懐柔されるようになるのは、フセインが大統領に就任した後、シーア派国家との戦争となったイラン・イラク戦争に際してである。
 ともあれ、フセインは約10年に及ぶ副大統領在任中に、事実上の最高実力者としての地位を固めていくが、最後の総仕上げは、1979年、アル‐バクルが権力奪回のためか、長く対立していたシリアとの統合憲章を推進したことに対し、フセインが介入し、党内の親シリア派を冷酷に粛清したことである。
 これを機にアル‐バクル大統領は健康問題を表向きの理由とする辞任に追い込まれ、副大統領のフセインが満を持して自ら大統領に就任したのである。これ以降、フセインは個人崇拝に基づく独裁体制を確立するが、その過程でバアス党はフセイン独裁を支える私物のような存在と化していった。
 同時代のシリアでは革命の「矯正」の名の下にアサドによる独裁体制が確立されていったが、イラクでは長い年月をかけたフセインによる革命の横領が生じたと言えるであろう。結果として、シリアとイラクのバアス党革命は結党時の汎アラブ主義の理想からは完全に遠ざかり、互いに反目し合う相似的な長期独裁体制を産み出すこととなった。

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近代革命の社会力学(連載第284回)

2021-08-26 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(6)シリアにおける革命の「矯正」
 1966年にバアス党創設者ミシェル・アフラクを追放するクーデターを主導したのは、サラーフ・ジャディードとハーフィズ・アル‐アサドの二人の軍人党員であった。この両人に共通する属性は職業軍人というほかに、シリアにおける少数宗派アラウィ派に属していたことである。
 実のところ、シリアのバアス党革命はバアス党という単一の政党主導で実行されたように見えながら、その裏では、シリアにおける複雑に入り組んだ宗教宗派の力学が働いていた。元来、シリアは中世以来、イスラーム教正統のスンナ派が優勢ながら、アラウィ派をはじめ、多岐に分かれたイスラーム少数派やキリスト教派も分布する複雑な社会であった。
 その点、フランスは委任統治領時代、それ以前のオスマン帝国時代に支配的だったスンナ派の影響力を削ぎ、植民統治を円滑にするべく、少数宗派を優遇する逆転政策を敷き、かれらに一定の自治を認めた。アラウィ派も、地中海沿岸地方にアラウィ国が安堵された。
 しかし、独立後は再びスンナ派優位が復活したため、少数宗派は反発し、その反発がバアス党や共産党などの革命政党への入党を促進していた。中でも、アラウィ派は、バアス党運動の創始者でもあったザキー・アル‐アルスーズィー自身アラウィ派であったこともあり、バアス党員となることが多かった。
 ジャディードとアサドもそうしたアラウィ派バアス党員として、軍内で台頭していた。66年クーデターがこの両人により主導され、成功したことで、シリアのバアス党体制はとみにアラウィ色を強めた。アフラク追放後、それまで党から排除されていたアル‐アルスーズィーが復権し、党のイデオローグに据えられたのも、そうしたアラウィ派支配の象徴であった。
 こうして、シリアにおけるバアス党革命はアラウィ革命へと転回し、以後のシリア体制はバアス党支配体制であると同時に、今日でも人口の1割程度にすぎないアラウィ派によるバアス党の枠組みを通じた少数支配という特異な性格を持つことになり、基本的にこれが今日まで連綿と継続している。
 アラウィ派支配の起点となった1966年クーデター以後の展開は、新体制の実力者となったジャディードとアサドの両人の人的関係を軸にしたものとなる。
 その点、当初は、アサドより年長で、バアス党シリア地域支部を掌握するジャディードが事実上の最高実力者として、階級闘争を促進する教条的な社会主義政策を主導した。
 一方、軍内では少数勢力の空軍に籍を置きつつ、30代ながら国防相となり軍を掌握したアサドは、かねてジャディードの教条性を懸念していたところ、1970年にヨルダンにおいてパレスチナ解放機構(PLO)の武装蜂起により内戦となった際、ジャディードがPLO支援を打ち出したことで、両人の亀裂が明瞭になった。
 アサドは1970年、クーデターを起こしてジャディードを拘束し、全権を掌握した。以後、ジャディードは1993年に病死するまで終身間獄中に置かれる一方、アサドは2000年に急死するまで権力を維持した。
 クーデター後、アサドは革命の「矯正」と銘打って、ジャディード支配の急進性を緩和する穏健化を図った。特にバアス党の世俗主義と社会主義を穏健的に修正し、スンナ派宗教界の懐柔に加え、経済自由化を通じてスンナ派ブルジョワ階級利益の拡大を保証したことは、アラウィ派による少数支配を強化するうえで巧妙な「矯正」であった。
 しかし、こうしたアサドの「穏健」とは主として政策面での穏健であり、クーデターの翌年に大統領に就任したアサドは次第に個人崇拝を強め、秘密警察網による監視と苛烈な人権抑圧を基調とする強権統治により終身間の独裁体制を固めたばかりか、同じく軍人だった実弟も政権有力者に加え(後に決裂)、最終的には子息バシャール(現大統領)への政権世襲まで実現した。
 結局、「矯正」後のシリア・バアス党政権は、アラウィ派支配というのみならず、アサド家の一族支配にさえ変質し、バアス党はそうした二重の意味での少数支配の政治的道具と化していくことになる。このような革命の変質は、隣国のイラクでも、別の形で同時代的に生じていた。

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近代革命の社会力学(連載第283回)

2021-08-24 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(5)イラクの1968年7月17日革命
 以前に見たように、イラクのバアス党(バアス党イラク地域支部)は、1963年2月のクーデターによりカーセム体制を打倒し、一度は権力掌握に成功したものの、その後、一年足らずでナセリストのクーデターにより失墜したのであった。
 このように、イラクのバアス党は本家シリアよりひと月早く権力掌握に成功したが、革命として持続化することができず、いったん挫折したのは、党内の派閥対立に加え、この時点ではナセリストの勢力がなお強かったことによる。
 この挫折の後、すでにバアス党の軍人党員として台頭していたアーメド・ハッサン・アル‐バクルを中心に党の立て直しが行われ、彼自身がバアス党イラク地域支部書記長に選出され、軍人党員の獲得のみならず、中産階級の文民層への浸透も進められた。
 その点、63年3月8日革命に成功して以降、政権を失うことはなかったものの、党内の権力闘争が激化したシリアのバアス党とは異なり、イラクのバアス党はいったん政権を失い、下野したことがかえって党組織強化のチャンスとなったと考えられる。
 アル‐バクルらは軍人党員を中心に、5年近い年月をかけてより効果的な革命の準備を進めていき、ついに1968年7月17日に決起した。
 その方法はシリアの場合と同じく、軍内の党員ネットワークを通じたクーデターの方法によるものであった。その詳細な経緯はいまだ不明であるが、当時のナセリスト派アリフ政権は軍を掌握し切れておらず、一日にして政権は崩壊した。
 こうして、イラクでも軍人主導によるバアス党革命が成功したわけであるが、その後の展開はシリアに比べてスムーズであり、アル‐バクルを議長とする革命指令評議会が設置され、彼が大統領・首相を兼職するという権力集中体制が取られた。
 外交上はソ連や中国など社会主義圏との同盟関係を鮮明にしたが、イラク共産党との関係は微妙であり、当初は政権強力を拒否した共産党を弾圧した。しかし、1972年にソ連との間で15年間の善隣協力条約を締結したのを機に和解し、連立政権の形で共産党からの入閣を認めた。 
 革命後における経済面における成果としては、1972年に国の最大基幹産業であったイラク石油会社の完全国有化に踏み切ったことがある。イラクでは、カーシム政権当時に西欧系資本に支配されたイラク石油会社(IPC)の収益の95パーセントをイラクが収取するという介入的改革がなされた後、アリフ政権時代にはイラクの石油産業を独占するイラク国営石油会社(INOC)が創設されていた。
 これを受け、68年革命後、アル‐バクル政権は、INOCにIPCを吸収させる形で、単一の国営石油会社に仕上げ、ソ連からの技術的及び財政的援助により完全国営化を達成したのである。これは、中途産油地域では最も成功した石油産業の完全国有化のモデル例となり、以後、バアス党支配体制における最大の経済基盤となった。
 革命後、シリアの本家バアス党との関係は大きく変化した。シリアで66年のクーデターにより党創設者アフラクが追放されると、アフラクを支持していたバアス党イラク地域支部はシリアから離反し、アフラクの亡命を受け入れたのである。これ以後、同じバアス党体制ながら、シリアとイラクは敵対関係に陥り、バアス党の汎アラブ主義の理念は大きく後退することとなった。
 こうしてアフラクを庇護する一方で、バアス党イラク支部創設者のフアード・アル‐リカービはナセリスト派であったため、61年にバアス党を除名され、アリフ政権で閣僚を務めるなどしたため、68年革命後に逮捕され、獄中で不審死を遂げている。

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近代革命の社会力学(連載第282回)

2021-08-23 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(4)シリアの1963年3月8日革命
 シリアではエジプトとのアラブ連合共和国が1961年のクーデターによって解消された後、再び政治混乱に陥った。以前から政治化を来していた軍部内でも、中堅・若手の将校らがナセリスト派やバアシスト派など多数の党派に分裂し、権力闘争が激化していた。
 再び単立共和国に戻ったシリアは、戦前からの古い民族主義政党である民族ブロックのナーズィム・アル‐クドゥシーが大統領として率いたが、彼は反エジプト派のヨルダンやサウジアラビアなど保守的な周辺君主制諸国や英米との関係構築に動き、経済的にもアラブ連合時代にエジプト主導で断行された産業国有化を覆すなど、ナセル色を排し、保守回帰的な政策を推進していた。
 そうした中、1962年になると、バアス党内では、前回見たように、軍人党員主導の軍事委員会が再建された党を掌握し、クーデターの手法による革命を真剣に計画し始めていたところ、隣国イラクで1963年2月にバアス党将校主導によるクーデターがいったんは成功したことに触発され、シリアでも同年3月の決起が決定された。
 こうした軍人党員主導での急進的な動きに対して、党創設者のミシェル・アフラクも同意を与えており、計画は着々と進んでいたが、当初3月7日決行とされていたところ、不穏な動きを察知した政府当局が摘発に動いたため、翌日に延期され、8日決起となった。
 クーデターは事前にネットワーク化され、慎重に計画されていたこともあり、一日で成功を収めた。特にアル‐クドゥシー大統領がナセリスト派将校のパージを進めており、ナセリスト派将校の不満が高まっていたことを利用し、ナセリスト派将校を計画に加えたことが成功要因となったと見られる。
 革命後、バアス党員とナセリストを中心とした革命指令国家評議会が設置された。バアス党共同創設者であるサラーフッディーン・アル‐ビータールが首相に任命され、アフラクも評議会に加わったが、軍人党員の主導性は変わらなかった。
 このようにバアシストがナセリストを抱き込む形で形成された便宜的な連立型の最初期革命政権の構造は、間もなく崩れる。
 4月に、ナセリスト主導でイラクも加えたエジプトとの連邦形成の合意が締結されたが、バアス党はこうした連邦構想には反対であり、合意の破棄とナセリストのパージに出た。これに反発するナセリストは7月、クーデターで巻き返しに出たが失敗、鎮圧され、バアス党の支配が確立された。
 こうしてバアス党革命が確定するが、党の構造はなお不安定であった。実際のところ、党は汎アラブ主義の理念を反映し、超域的な民族指導部と各国単位の地域支部の二段構制となっており、民族指導部はアフラクら文民が、シリア地域支部は軍人が優位であった。
 そうした中、1963年10月の党大会ではビータール首相が失墜し辞職、さらに従来は党内異分子であったマルクス主義派が台頭し、ソ連型社会主義路線を支持するなどの路線混乱もあった。この後、民族指導部と地域支部の権力闘争が続き、65年3月の地域支部大会で地域支部の優位が確定し、シリアでは地域支部が党の中核組織となった。
 これに対し、アフラクら文民派も主導権の奪回を試みるが、1966年2月、若手軍人党員らがクーデターで党の実権を掌握、アフラク、アル‐ビータールは海外亡命を余儀なくされた。こうして党共同創設者が二人して追放されて以後、党は完全に軍人に乗っ取られ、シリアのバアス党体制は軍事政権の性格を強めていく。

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貨幣経済史黒書(連載第39回)

2021-08-22 | 〆貨幣経済史黒書

File38:欧州債務危機とキプロス・ショック他

 貨幣経済下では、国家も国民を構成する個人や法人企業と同様、一個の経済人格として貨幣取引をしなければ活動できないが、借財もその一つである。その結果、国家もまさに個人と同様に借金を負い、それが返済不能になるという危機的事態に直面することがある。これが債務危機である。
 ただ、債務危機と言うと、従来は先進国に対する膨大な累積債務を抱えた途上国が返済不能に陥るという、まさに多額の負債を抱え、返済不能に陥った個人と同様の事態が想起され、実際、そうした事例は南米諸国などでしばしば発生している。
 ところが、2010年代に発生した欧州債務危機は、一般には先進国とみなされてきた欧州諸国で連鎖的に債務危機が発生し、世界に余波が及んだため、衝撃を与えた。欧州でこのような危機が生じたのは、実のところ国債(ソヴリン債)が原因であった。その意味では、先進国的債務危機とも言える。
 発端となったのは、ギリシャにおいて国家会計の粉飾決算というまさに企業不正のような事案が2009年の政権交代に伴い発覚したことにあった。これにより、ギリシャ国債の格付けが切り下げられたことで、その価値が暴落した。当時、ギリシャ国債は海外金融機関が大半を保有していたため、その暴落は世界の株価やユーロの為替の下落に直結した。
 このギリシャ国債危機はギリシャ一国で終わらず、当時それぞれの要因から財政赤字を抱えていたポルトガル(P)、アイルランド(I)、イタリア(I)、スペイン(S)にも波及し―ギリシャ(G)を加えた五か国の頭文字を取り、侮蔑的な意味合いでPIIGS諸国と呼ばれた―、さらにギリシャと強い結びつきを持つ同じくギリシャ系の島国キプロス(南キプロス)にも波及し、欧州全域の金融危機に発展したのである。
 中でも特異な経緯を辿ったのは、キプロスである。観光以外に収入源のないこの地中海の小国は金融立国としての発展を目指した結果、当時の同国の銀行資産はGDPの約8倍、預金残高は同じく約4倍にも達しており、金融機関が肥大化していた。
 そこへ経済的な結びつきの強いギリシャからの金融危機の余波が直撃したため、キプロスの銀行に多額の不良債権が発生し、経営危機に陥ることとなった。支援を求めたキプロスに対し、ユーロ圏側は2013年、キプロスの全預金に最大9.9%の課税を導入する条件での支援を決めた。
 これは実質上、キプロスの銀行預金者に一律10パーセント近い預金削減を強いるに等しい内容のため、パニックに陥った預金者が銀行に殺到、ATMの準備金がショートする羽目になった。この大混乱を解決するため、最終的に、大手二行の整理に加え、10万ユーロ超の大口預金者に絞って破綻処理費用を負担させる修正案で合意し、事態を収拾したのであった。
 このように、キプロスでは、金融危機に際して銀行預金の一方的削減など金融機関の利用者や受益者に負担を強制するベイル‐イン(bail-in)と呼ばれるショック療法的な新手法が初めて適用されたことで、キプロス・ショックと呼ばれるようになった。
 ところで、国債と言えば、日本も膨大な国債の債務を負っている国として名高いが、日本国債は伝統的に日本国内での保有率が高く、海外金融機関の保有率は10パーセントに満たない。しかし、償還期限が一年内の割引国債である国庫短期証券を加えると10パーセント超となっており、予断を許さない。
 日本国債はある種の鎖国状態を保つことで破綻を先送りできる仕組みではあるが、国債で財政を補う借金経営を永遠に続けていれば、いずれは返済不能に陥ることは個人と同じである。
 その点、現今のパンデミックに対応する経済対策により赤字国債の発行が増え、財政赤字が拡大していることを懸念し、大手格付け会社が昨年、日本国債の将来見通しを引き下げる動きを見せた。エコノミストらは格付けそのものは引き下げられていないとして楽観しているようであるが、果たしてどうか。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第22回)

2021-08-20 | 南アフリカ憲法照覧

全州評議会の会期

【第63条】

1 全州評議会は、会期及び休会の時期及び期間を定めることができる。

2 大統領は、特別の任務を行なうため、いつでも全州評議会を召集することができる。

3 全州評議会は、公益、治安及び便宜を理由としてのみ、かつ評議会の規則及び命令で定められている限り、国会の所在地以外の場所で開くことが許される。

議長及び副議長

【第64条】

1 全州評議会は、その代議員の中から1名の議長及び2名の副議長を選挙しなければならない。

2 議長及び副議長の1人は、その代議員としての任期がより早く満了しない限り、5年の任期で常任代議員の中から選挙される。

3 他の副議長は、1年任期で選挙され、すべての州が輪番で代表されるように、別の州選出の代議員によって継承されなければならない。

4 首席裁判官は議長の選挙を主宰し、または他の裁判官にそれを指示しなければならない。議長は副議長の選挙を主宰する。

[第4項は2001年法律第34号第5条により改正]

5 附則第3条A部に掲げられた手続きは、議長及び副議長の選挙に適用される。

6 全州評議会は、議長及び副議長を解任することができる。

7 その規則及び命令の定めるところにより、全州評議会はその代議員の中から議長及び副議長を補佐する他の役員を選挙することができる。

議決

【第65条】

1 この憲法が別に定めている場合を除き‐

a. 各州は一票を有し、それは議員団長により州を代表して投票される。

b. 全州評議会に上程されたすべての議案は、少なくとも五つの州がその議案に賛成票を投じたときに、合意される。

2 第76条第1項または第2項によって設けられた手続き[訳出者注:州に影響を及ぼす法案に関する特別手続]に従って制定される国会の法律は、州議会が自らを代表して投票する権限を代議員団に付与するための統一的な手続きを規定しなければならない。

国の高位行政官の参加

【第66条】

1 閣僚及び副大臣は、全州評議会に出席し、発言することができる。ただし、投票することはできない。

2 全州評議会は、閣僚、副大臣または国もしくは州の行政府の官僚に対し、評議会の会議または委員会に出席するよう求めることができる。

自治体代表者の参加

【第67条】

第163条に規定される自治体組織によって自治体の種々の部門を代表すべく選任された10人以内の非常任の代表者は、必要なときは、全州評議会の議事に参加することができる。ただし、投票することはできない。

 第63条から第67条までは、国民議会とともに二院制議会を構成する全州評議会の会期や議長以下の役員の選挙、議決方法や閣僚等の出席権等の細目が簡潔に定められている。国民議会に関する第51条乃至第54条に対応する部分である。
 内容的には、国民議会の場合と重なる点もあるが、全州評議会は各州の代表院であることから、その議決は州のために州代議員団ごとに行なう点が、国民議会と大きく異なる。また大統領は出席しない一方で、自治体代表者の参加が認められる点も異なる。

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南アフリカ憲法照覧[補訂版](連載第21回)

2021-08-19 | 南アフリカ憲法照覧

 全州評議会

全州評議会の構成

第60

1 全州評議会は、各州ごとに10人の代議員から成る単一の代議員団で構成される。

2 10人の代議員は、以下のとおりである。

(a)次の者から成る4人の特別代議員

 (ⅰ) 州首相または州首相に支障があるときは一般的か、もしくは全州評議会における何らかの特定任務のいずれかのために州首相によって指名された州議会の任意の代議員

 (ⅱ) その他3人の特別代議員

(b)第61条第2項の規定によって任命される6人の常任代議員

3 州首相または州首相に支障があるときは州首相に指名された代議員が、代議員団長となる。

 本条から第72条までは、国民議会とともに二院制の対を成す全州評議会の構成や権限等に関する細目が規定されている。本条に示されるように、全州評議会は各州の代議員団で構成される州の代表機関としての性格を持つ。連邦国家ならではの構成である。
 全州評議会代議員は基本的に州議会による複選制であるが、特別代議員と常任代議員の二種類があり、任命方法も異なり、複雑である。

代議員の配分

第61条

1 州議会に議席を有する政党は、附則第3条B部に示された方式に従い、州の代議員団に代議員を出す権利を有する。

2 
(a)州議会は、その選挙結果が公布された後30日以内に‐

 (ⅰ) 国の法律に従い、各政党の代議員のうち常任議員となる者の数及び特別代議員となる者の数を決定しなければならず、かつ

 (ⅱ) 政党の指名に従い、常任代議員を任命しなければならない。

(b)削除

[b号は2008年第14次憲法修正法第1条により削除]

[第2項は2002年第9次憲法修正法第1条及び2008年第14次憲法修正法第1条により改正]

3 第2項a号で想定される国の法律は、少数政党が民主主義にかなった仕方で常任及び特別代議員双方を出すことを保障しなければならない。

4 州議会は、州首相及び全州評議会に特別代議員を出す権利を有する政党の党首の合意をもって、州議会議員の中から、必要な時に応じて特別代議員を任命しなければならない。

 本条は、全州評議会議席の配分に関して、州議会における議席数に応じた配分の方式を定める。少数政党への配慮条項がここにも見られるのは、南ア憲法の特徴である。

常任代議員

第62条

1 常任代議員の候補者は、州議会議員の被選挙権者でなければならない。

2 州議会議員が常任代議員に任命されたときは、州議会議員ではなくなる。

3 常任代議員は、次の時に満了する任期をもって任命される。

(a)次期選挙後、州評議会の最初の会期の直前

(b)削除

[b号は2008年第14次憲法修正法第2条により削除]

[第3項は2002年第9次憲法修正法第2条及び2008年第14次憲法修正法第2条により改正]

4 以下の各場合に、常任代議員は議席を失う。

(a)常任代議員への任命以外の何らかの理由で州議会議員の被選挙権を失った場合。

(b)閣僚となった場合。

(c)州議会の信任を失い、当該議員を公認した政党から召還された場合。

(d)当該議員を公認した政党の党員でなくなり、その政党から召還された場合。または

(e)州議会の規則及び命令が常任代議員の議席喪失を規定する状況で、許可なく全州評議会を欠席した場合。

5 常任代議員の欠員は、国の法律の定めるところにより補充されなければならない。

6 常任代議員は、全州評議会でその職務を開始する前に、附則第2条に従い、共和国への忠誠及び憲法への服従を宣誓し、または誓約しなければならない。

 本条は全州評議会の中核的なメンバーとなる常任代議員の資格や議席喪失について、細目を定めている。政党ベースであるため、所属政党による召還が議席喪失に直結する。また当然とはいえ、法令が認めない無断欠席は議席喪失事由となる。ただし、国民議会議員とは異なり、全州評議会代議員の場合は州の法令の定めによる。

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ターリバーンの本質認識

2021-08-18 | 時評

アフガニスタンからの米軍を主体とする多国籍軍の撤退が進む中、想定以上に早い親米欧政権の崩壊と反政府武装勢力ターリバーンの全土制圧・復権が成った。

なぜこれほど早く?という問いも向けられているが、答えは簡単で、前政権は張子の虎だったからである。つまり、アメリカ自身も想定していたはずである以上に、米軍が存在しなければ、たちまち崩壊してしまうような傀儡政権だったということになる。

肝心な政府軍も政権のために血を流すつもりがなく、各地に展開していたはずの政府軍部隊が戦わずして投降したのであるから、不戦敗・不戦勝のようなものである。ターリバーンにとってみれば、まさに戦わずして勝つ孫子の兵法を地で行ったことになる。

よって、今回のターリバーンの全土制圧は、そそくさと国外に脱出した旧政権のガーニ大統領とターリバーンの間で水面下の何らかの密約があったかどうかにかかわらず、非公式ながらも平和的な政権移譲に等しいものであった。

それだけに、復刻ターリバーン政権を承認するかどうかでは、各国が難しい判断を迫られることになる。ターリバーンは表向き穏健色を打ち出しているが、これが本物かどうかの見極めが難しい。

筆者は第一次政権当時の実質に鑑みて、ターリバーン体制を現代型ファシズムの一形態として論じたことがあった(拙稿)。このような体制とどう向き合うかは、あたかもかつてのナチス・ドイツとの向き合い方に似た状況を作り出す。イギリスは当初、宥和の立場を取り、反ファシズムのはずのソ連もドイツと不可侵条約を結んだが、後に高い代償を支払うことになった。

もっとも、現ターリバーンは20年前の旧ターリバーンとはメンバー構成がある程度入れ替わっており、内部には穏健派が実際に存在する可能性もあるが、こうしたイデオロギー集団の力学の常として必ず強硬派がおり、今後、両派の間で権力闘争や内戦が生じる可能性もあるだろう。

いずれにせよ、アメリカをはじめとする米欧の旧駐留諸国は、ターリバーンの制圧を時期の遅速はあれ予測して撤退した以上、ターリバーン政権を承認しないのは自己矛盾となりかねないが、承認すれば前政権を見捨てたことを自認することになるというジレンマに直面する。

一方、中国やロシアは承認の方向に動く可能性があるが、一見ターリバーンとイデオロギー的に相容れない両国が前向きなのは、地政学的な要所にあるアフガニスタンを押さえておくという戦略のみならず、これも筆者が以前指摘したように、現在の中・露の体制が形は違えど現代型ファシズムの要件に該当し得る点で(拙稿1拙稿2)、ターリバーンとも接点を見出し得るからだとも考えられるところである。

各国ともパンデミックへの対処に追われる中、時代が再び20年前に巻き戻されたような新局面であるが、とりあえずは、中世からタイムマシンに乗ってやってきたかのような集団が現代的な政府を運営できるのか、それともかれらの「理想」どおりに中世のイスラーム国家への復古を目指すのか、お手並み拝見ということになるだろう。

いずれにせよ、以前の稿でも明言したように、ターリバーン政権の帰趨は、これを受容・服従するか、抵抗・打倒するか、アフガニスタン国民の自己決定次第である。

 

[追記]
26日、多国籍軍機による避難民移送作戦が続くカブールの空港で、米軍兵士10人以上を含む多数が死亡する自爆テロが発生した。これには1980年、隣国イランでの米大使館占拠事件で人質救出作戦に失敗し、米軍に死者を出した当時のカーター政権の既視感がある。この一件はカーターの再選に影響し、共和党レーガンの圧勝を導いた。大統領選間近だったカーターとの違いは大きいが、バイデンの失敗は、2024年大統領選で共和党トランプの復権を導く可能性もある。事後処理が注目される。

[追記2]
バイデン政権は、上掲自爆テロへの報復として、8月29日にドローン攻撃を実施したが、誤爆により子ども7人を含む民間人10人を殺害したことが判明した。鼬の最後っ屁というが、あまりに非道な屁である。

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近代革命の社会力学(連載第281回)

2021-08-17 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(3)バアス党の軍内党派化
 前回見たとおり、バアス党革命は党発祥地のシリアと隣国イラクでのみ成功を収めたのであるが、その秘訣となったのは、いずれもバアス党が軍部内に深く浸透し、バアス党員の上級将校が計画的なクーデターの手法で政権に就くことを可能にしたからである。
 これは、当時のアラブ諸国では、軍部が最も近代的なセクターであり、おしなべてエリートの中堅・若手将校が民族主義に覚醒していたため、アラブの復興というバアス党の簡明なメッセージに感化され、入党する将校が少なくなかったことが背景となっていた。
 とはいえ、シリアとイラクでは軍内への浸透の経緯にも相違点が見られる。初めに発祥地シリアについてみると、ここでは1950年代にまず議会政党としてのバアス党の台頭が先行したことは、前回見たとおりである。
 この時期はエジプトのナーセルによる汎アラブ主義の理念が風靡していた時期であり、同様の理念を持つバアス党としても、ナーセルが提起した国家連合構想を支持し、58年のエジプト・シリアによるアラブ連合共和国の成立につながった。
 ところが、新生連合共和国はすべてにおいてエジプト主導となり、連合を支持したバアス党も権力中枢から外されるなど冷遇された。こうした非対称な「連合」に反発したシリアは、1961年、軍事クーデターにより連合を離脱、単立のシリアを回復した。
 このアラブ連合共和国の時期はバアス党にとっては大きな逼塞の試練となり、アフラクはいったんは解党を決断していた。しかし、これに反発した軍人党員らが軍事委員会を設立した。この党軍事委員会は事実上党から独立した軍内党派のような役割を果たし、やがては1963年におけるバアス党革命の主体として登場していくのである。
 一方、イラクの場合、バアス党は1950年代初頭に文民活動家のフアード・アル‐リカービによって設立されたバアス党イラク地域支部(以下、党イラク支部という)がその出発点であるが、その後の軍への浸透は1956年に入党したアーメド・ハッサン・アル‐バクルを軸として展開される。
 アル‐バクルは1958年の共和革命にも参加し、有力な中堅将校として台頭するが、革命政権のカーシム首相と対立し、59年には軍から追放された。その後、地下に潜伏しつつ、アル‐バクルは党イラク支部の軍事局議長として軍人の入党勧誘に努めた。
 こうしたアル‐バクルによる軍への浸透努力の結果、党イラク支部は1963年の2月のクーデターに成功し、アル‐バクルは復権、首相に任命されるが、この時期の党イラク支部は強硬派と穏健派に分裂し、政治支配力もなお不十分であったため、同年11月のナセリストによる再クーデターにより再び失権する。
 この後、アル‐バクルは再び下野するが、間もなく党イラク支部書記長に選出され、党内の主導権を掌握することに成功した。これによって党の軍内浸透はさらに強固なものとなり、やがて1968年のバアス党革命の成功につながっていく。
 もっとも、アル‐バクルは縁故主義を好み、従弟に当たるテロリスト出自のサダム・フセインを懐刀として重用したことで、謀略に長けたフセインが事実上のナンバー2として台頭し、次第に党を私物化していくことになるが、この件は後に取り上げる。

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近代革命の社会力学(連載第280回)

2021-08-16 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(2)シリア独立とバアス党の台頭
 シリアは、周辺諸国と同様、16世紀以降、オスマン帝国の版図に編入されたが、同帝国が第一次世界大戦に敗れたことでオスマン領を脱し、いったんはハーシム家のファイサル1世を迎えて王国として独立するも、ファイサルがイラク国王に「転出」した後、国際連盟により、フランス委任統治領とされた。
 こうして1920年以降は、実質上フランス植民地となったシリアであるが、独立交渉は1934年から開始され、36年には独立条約の締結に至る。しかし、フランスは批准せず、第二次大戦によりフランスがナチスドイツに占領されると独立問題は暗礁に乗り上げ、最終的に戦後の1946年になってようやく独立を果たした。
 バアス党が結党されたのは、独立の翌年1947年のことである。実際のところ、バアス党の前身となる運動体は独立以前から二系統あった。一つは哲学者のザキー・アル‐アルスーズィーが創始した流派、もう一つがミシェル・アフラクらの流派であるが、「バアス」という概念を創始したのはアル‐アルスーズィーのほうであった。
 それにもかかわらず、結党に際しては、アル‐アルスーズィーは排除され、彼の支持者も含めて、バアス主義者がアフラクらの流派に合流したという経緯がある。このような経緯を辿ったのは、アル‐アルスーズィーは思想家としての性格が強く、党の組織化のような政務は不得手であったためのようである。
 それでも、アル‐アルスーズィーはアフラクらを概念の盗用者として非難し、二つのバアス流派の対立は結党後もしこりとして残った。最終的にはアフラクらがシリアのバアス党から追放され、アル‐アルスーズィーが復権する逆転を見ることになるが、この件は後に改めて取り上げる。
 さて、シリアはイラクと異なり、当初から共和国としての出発であり、独立後間もなく経済成長も見せたが、政治的には混乱続きであった。まず独立直後、少数派でフランス統治時代には固有の領邦を与えられていたイスラーム教少数派アラウィー派が自治を求めて蜂起した(同派は52年にも再蜂起)。
 これが鎮圧されても、49年には独立後早くも最初の軍事クーデターが発生し、クワトリ初代大統領が政権を追われた。この49年クーデターは早期に収拾され、独立運動の古参指導者であるハーシム・アル‐アタッシーが大統領となるが、長続きせず、51年には再び軍事クーデターに見舞われ、今度はアディブ・シシャクリ大佐が政権に就く。
 傀儡大統領を擁立した軍事政権を経て、1953年の形式的な選挙で大統領に就いたシシャクリは既成政党を禁止する一方で、社会主義に傾斜した比較的進歩的な官製政党を結成して独裁統治した。
 外交的には親英米の立場を採り、西側との良好な関係を保つとともに、汎アラブ主義・反イスラエルの立場を採った。一方、隣国のハーシム家イラク王国に対しては敵対的で、イラクとの連合を志向したアタッシーらとは鋭く対立した。
 だが、シシャクリ政権も長続きはせず、1954年にはもう一つの宗教少数派ドゥルーズ派の反乱に続き、シシャクリ政権下で抑圧されていた共産党やバアス党など左派系政党が関与するクーデターが起き、混乱が広がる中、シシャクリは辞任・亡命に追い込まれた。
 このシシャクリ独裁政権を倒した54年クーデターは民主化革命に近い性格を持ち、バアス党が最初に政治的に台頭する契機となった。この後実施された議会選挙で、バアス党は第二党の座を獲得したからである。こうして、「本家」シリアのバアス党は、まず議会政党として台頭したのであった。

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比較:影の警察国家(連載第45回)

2021-08-15 | 〆比較:影の警察国家

Ⅲ フランス―中央集権型警察国家

1‐3:国内保安本部

 フランスの政治警察に相当する機関としては、前身機関が1907年の創設に遡る一般情報中央指令部と1940年代の対独レジスタンス時代に設立された国土監視指令部の二系統の国家警察部局が戦後も併存する形で存続していたが、効率性の観点から、2008年の制度改革によって、国内情報中央指令部として統合された。
 しかし、この統合機関は2012年にミディ‐ピレネー地域圏で発生したイスラーム過激主義者による連続銃撃殺傷事件における事前の情報監視の不手際を批判され、オランド社会党政権による2014年のさらなる制度改革により、国家警察から分離された内務省直属の公安機関として、新たに国内保安本部(Direction generale de la Securite interieure:DGSI)が創設された。
 その基本的な任務は前身機関のそれを継承して防諜や対テロ対策を中心とするが、近年はサイバー犯罪対策にも任務が拡大されている。国家警察から分離されたことにより、イギリスのMI5のような諜報機関としての性格が強まり、フランス政府が潜在的な治安上の脅威とみなす広範な集団や個人への秘密裏の監視活動が強化されていると見られ、影の警察国家化を象徴する機関となっている。

1‐4:国外保安本部

 DGSIと対を成す機関として、国外治安本部Direction generale de la securite exterieure:DGSE)がある。こちらは軍務省に属する国防機関の一つという位置づけであるが、文民要員の比率が高く、実質上は軍民混合機関である。
 DGSEの任務は安全保障上の脅威に関する分析や海外での諜報作戦であるが、外国での対仏破壊活動の抑止の観点から、対テロ対策にも及び、機能的な意味での政治警察機関としての役割を併せ持つと言える
 これも、その前身機関は1940年代の対独レジスタンス時代に設立されており、レジスタンス運動の統一的な諜報組織として活動した。その後、改称を経て、1982年に当時のミッテラン社会党政権によって現名称に再改称され、定着した。
 如上DGSIと合わせ、いずれも社会党政権下で整備された姉妹機関であり、これにより、イギリスにおけるMI5とMI6のような対内及び対外のツイン諜報機関に整理されたことになる。フランス政治では自由に重きを置く中道左派と目される社会党が影の警察国家化ではしばしば重要な役割を果たしていることは興味深い。
 例えば、ミッテラン社会党政権時代の1985年、フランスによるムルロア環礁核実験に抗議するためニュージーランドのオークランドに寄港した環境保護団体グリーンピースの帆船レインボー・ウォリア号爆破事件(一名死亡)では、ニュージーランド当局によってDGSEの工作員二名が拘束され、有罪判決を受けている。
 本件で、DGSEは核実験に反対するグリーンピースを対仏破壊活動団体とみなし、その活動を阻止する目的で、通常の監視を越えた爆破工作という攻撃的なテロ手法に出たものと見られ、DGSEの組織ぐるみでの破壊工作が疑われた。
 しかし、フランス政府は当時の首相が破壊工作への政府関与をやむを得ず認めた後も、ニュージーランド政府に圧力をかけて有罪判決を受けた工作員の帰国を強行し、外交摩擦に発展するなど、ミッテラン政権下での汚点の一つとなった。

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近代革命の社会力学(連載第279回)

2021-08-13 | 〆近代革命の社会力学

三十九ノ二 シリア/イラクのバアス党革命

(1)概観
 1950年代末から60年代にかけてのアラブ連続社会主義革命の中で、60年代のシリアとイラクで見られたアラブ社会主義復興党(バアス党)による革命は、連続革命の一環ではありながらも、その主流から離れた独自の力学と展開を見せた。そのため、以前に予告していたように、この両国におけるバアス党革命については、派生章を別途立てて取り上げることにする。
 バアス党革命において革命主体となったバアス党は、シリアの哲学者・社会思想家であるミシェル・アフラクがその理論的支柱となって、盟友であるサラーフッディーン・アル‐ビータールとともに、1940年代に旗揚げしたアラブ民族主義政党である。
 アフラクはフランス植民地支配下のシリア中産階級に生まれた知識人であり、当時のフランス植民地知識人の常道として、フランス留学を経験したが、その間に共産主義に感化され、帰国後は共産党活動家となる。しかし、フランス共産党が植民地主義を容認していることに失望し、共産党を離れ、独自の思想運動を開始した。
 その結果編み出されたのが、アラブ復興運動であった。これはイスラーム復興運動と紛らわしいが、それとは明確に区別されており、イスラームを含むアラブ文明の復興という大きな構図から、西欧の植民地支配を脱し、統一的なアラブ国家を建設するという壮大な目標を描く民族主義運動であった。
 この運動ではイスラームはアラブ文明の要素として否定されないが、近代化かつ社会主義を志向する点で、イスラーム的伝統への回帰を訴えるイスラーム復興主義とは対立関係に立つことになる。一方で、共産党の公式路線であるマルクス‐レーニン主義も否定され、共産党とも緊張関係に立つ。
 こうした理念・路線に基づき、まずはシリアで1947年に結党されたのが、バアス党であった。ただ、アラブ統一国家構想を持つため、シリア一国の政党運動に終始せず、1950年代以降、隣国のイラクとレバノン、さらにヨルダンやイエメンなどにも党地域支部という形で、国境を越えて拡大されていったことが大きな特徴である。
 その点、エジプトでは50年代に先行する形で、ナーセルが指導する革命が成功し、ナーセル流のアラブ民族主義が展開されたため、バアス党は浸透の余地を十分持たず、これ以降、ナセリズムの名で呼ばれるナーセル流民族主義とバアス党流の民族主義(バアシズム)が汎アラブ民族主義における二大潮流となる。
 両派の間に径庭はないが、ナセリズムは創始者ナーセルが職業軍人出自であったこともあり、思想的には練られておらず、漠然としたスローガンに近く、政党化も十分にはなされなかったのに対し、バアシズムは思想家が創始者であるため、よりイデオロギー性が強く、バアス党も共産党類似の集権的な党組織を持つに至った。
 とはいえ、政治的なインパクトという点では、バアシズムは限局的であり、バアス党による直接的な革命が成功を収めたのは、シリアとイラクにとどまった。これはバアス党が当初より知識人中心の政党であり、大衆政党としては成功しなかったにもかかわらず、シリアとイラクでは党が軍部内に強く浸透したことから、軍事クーデターの形でバアス党系将校が革命に成功したという経緯がある。
 このように、バアス党は文民知識人によって創設されながら、シリアとイラクで軍内党派の形態で台頭していき、最終的に創設者アフラクもアル‐ビータールも、軍人主導のバアス党政権によって排除され、アフラクはイラクへ亡命・客死、アル‐ビータールもフランス亡命中に暗殺という数奇な最期を遂げた。
 シリアとイラクのバアス党政権は、1970年代以降、シリアではハーフィズ・アサド、イラクではサダム・フセインという互いに反目し合う独裁者による個人崇拝政治に変節したうえ、イラク政権は2003年のイラク戦争に敗れ崩壊、一方のシリア政権は異例の親子世襲体制の下、2010年代の連続民主化革命の潮流に吞まれ、現在進行中の凄惨な内戦に直面しているところである。

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