ザ・コミュニスト

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犯則と処遇(連載第9回)

2018-11-30 | 犯則と処遇

7 矯正センターと矯正スタッフ

 矯正処遇の実施機関となるのが「矯正センター」であるが、「刑務所」とは異なり、もはや鉄格子も塀も備えず、建物外観はともかく、内部構造上は治療施設に類似したような施設となる。
 とはいえ、「矯正処遇」は自由を拘束する処遇であるから、「矯正センター」入所者は許可なく外出することは禁じられ、無断外出者に対しては追跡と拘束が行われるが、無断外出自体を改めて逃走の犯則に問うことはなく、単にペナルティーとして必要的な処遇更新事由(処遇期間の延長)とされるにすぎない。
 同様に、センター内での各種規律違反に対しても、それが新たな暴行、傷害その他の犯則に当たるような場合は別として、原則として譴責以上の処分は科せられず、ただ違反の内容に応じて処遇更新事由とされるにすぎない。

 センター内での生活は個室で営まれ、入所者同士の接触に伴ういわゆる悪風感染や暴力行為を防止する一方、外部者との面会については、例えば加入していた反社会組織メンバーとの面会のように、矯正の妨げとなることが明らかな場合を除いては原則自由とする。また、読書や外部との通信も自由で、インターネットの利用も一定の有害サイトフィルター付きで認められる。

 なお、矯正センターは純粋に処遇の実施のみを担い、同センターの申請に基づいて上述の更新を決定したり、また「終身監置」を司法機関に請求したりするのは、矯正に関する知見を有する有識者や法律家で構成する「矯正審査会」である。 
 「矯正センター」とは別個独立に設けられる同審査会は、上記の任務のほかに、矯正処遇対象者からの各種苦情申立ての審査と是正勧告も行うオンブズマン機能も備えた中立的な機関である。

 「矯正処遇」の現場となる「矯正センター」で入所者の矯正に当たるのは「矯正員」である。矯正員はいわゆる「看守」ではなく、純粋に矯正実務の専門家、矯正科学の実践家である。前章でも見たとおり、「矯正処遇」は現行自由刑とは比較にならないほど科学的な観点から効果的な矯正を目指す制度であるから、矯正員は矯正科学に関する十分な素養を持つことが要求されるのである。

 一方、矯正センターには一定の所内秩序の維持が必要であるが、そうした所内秩序の維持=警備と矯正の機能は完全に分離され、センター内の警備業務に当たるのは矯正員とは別枠で採用される「警務員」である。

 ところで、矯正処遇では矯正員を中心に、チームで矯正が行われるが、このような処遇チームに参画するスタッフとして、臨床心理士や医師の資格を有する「処遇専門員」が常勤する。
 これら処遇専門員は、特に治療的処遇が行われる第三種矯正処遇において、処遇チーム内の専門的な討議を通じて、処遇対象者の矯正に従事する。その他、処遇専門員は必要に応じて、第一種及び第二種矯正処遇においても、処遇対象者の個別矯正に関わることがある。

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犯則と処遇(連載第8回)

2018-11-30 | 犯則と処遇

6 矯正処遇について(下)

 前章で、「矯正処遇」にはさらに細分化された種別があると述べたが、その種別としては軽いものから順に、第一種から第三種まで三つの区分を想定することができる。この種別を分ける基準となるのは、反社会性向と病理性の強弱である。
 従って、司法機関による各種別の選択決定にあたっても、刑罰とは異なり、結果の重大性とか犯行態様の悪質性などといった応報的要素によるのではなく、反社会性向と病理性の程度を科学的に判定したうえで決せられるのである。

 具体的に見ていくと、まずは「第一種矯正処遇」であるが、これは1T=1年とし、法定更新は1年ごとに2回まで(最長3年)、裁量更新は2年を年限として(通算5年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、比較的軽微な犯則行為者で、病理性も弱いが、反復性が認められ、一定以上の反社会性向を持つ者である

 次いで「第二種矯正処遇」であるが、これは1T=3年とし、法定更新は1回目2年、2回目1年を限度に(最長6年)、裁量更新は4年を年限として(通算10年が上限)認められる種別である。これに該当するのは、反社会性向は強いが、病理性はさほど強くない者である。

 最も重いのは「第三種矯正処遇」である。これは1T=5年とし、法定更新は1回目3年、2回目2年まで認められ(最長10年)、裁量更新は認められない代わりに「終身監置」が予定されている種別である。これに該当するのは、病理性の強い者であるが、その中でも精神医療的対応を必要としない「A処遇」とそれを必要とする「B処遇」とにさらに下位区分される。 

 なお、「終身監置」は、前章でも述べたとおり、例外的な矯正困難者に対する処分であるから、改めて司法機関による決定を絶対条件として、極めて慎重な運用が要求される。
 ただし、「終身監置」に付された場合でも、再犯の危険が相当程度に除去されたと認められるときは、通常の保護観察よりも行動制限の強い特別保護観察付きでの「仮解除」が許され、「仮解除」の間にさらに改善・更生が進めば「本解除」も許されるというように柔軟性を持たせる。

 以上の三種の「矯正処遇」に共通しているのは、もはや懲役刑におけるような労働(刑務作業)の強制はないということである。「矯正処遇」の中心はどこまでも矯正のためのプログラムそのものである。

 その具体的な内容も三種別で異なっており、反社会性向がさほど強くない者を対象とする「第一種矯正処遇」では外部講師を招聘しての講話や対象者同士でのワークショップのような集団的処遇が中心となる。
 これに対して反社会性向が強い者を対象とする「第二種矯正処遇」では心理セラピーやカウンセリングなどのより個別的な処遇が中心を成す。
 さらに病理性の強い者を対象とする「第三種矯正処遇」ではよりいっそう個別性が強化され、全体として治療的な処遇が中心となる。特に「B処遇」では臨床心理士や医師も加わったチームによる医療的な対応が行われる。

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犯則と処遇(連載第7回)

2018-11-29 | 犯則と処遇

6 矯正処遇について(上)

 「犯則→処遇」構想の下、矯正施設に拘束して行なわれる「矯正処遇」は外見上、今日の自由刑と類似しているが、類似性は外見上のみであり、実質上は決定的に異なる。とりわけ、その運用方法である。
 自由刑の場合、終身刑や無期刑は別として、通常は「懲役x年」というように予め刑期を定めて執行される。これには刑罰の恣意的な運用を防ぐ意味があると宣伝されてきた。
 しかし裏を返せば、それは応報の前提となる個人責任の度合いを数値的に算定するという無理を裁判官に強いていることにほかならない。民事責任の重さを示す損害賠償額が確立された数式に基づいて算出されるのとは異なり、刑事責任の重さを定量的に算出できる数式などは存在しないからである。
 また矯正という観点からしても、所定の刑期内に矯正が効果を上げるという保証はないにもかかわらず、満期に達すれば釈放せざるを得ないため、再犯の危険を排除することができない。

 これに対して、「矯正処遇」は「更新付きターム制」という方法により運用される。この方法の下で、対象者は予め法律で定められた矯正プログラムの一単位=ターム(1T)の期間内に矯正を終え、社会復帰することが原則となる。
 この1Tの年数は、改めて次章で見るように、「矯正処遇」の細分化された種別ごとに異なるが、最長でも5年とする。なぜなら、矯正が成果を上げるにはできるだけ短期集中的に効果的なプログラムを課する必要があるからである。

 ただし、1Tの期間内に所期の矯正効果が上がらなかった場合には、さらに所定の回数だけ更新することが許されることが、刑罰としての自由刑とは決定的に異なるもう一つの点である。
 この更新には予め更新年数が法律で定められ、かつ2回までしか更新できない「法定更新」と、法定更新が満了した後も、司法機関の裁量により所定の年限の範囲内で追加更新が可能となる「裁量更新」とがある。
 さらに、例外的に矯正効果がほとんど上がらない矯正困難者のために法定更新期間満了後に司法機関の決定で行われる「終身監置」も予定される。これは、要するに例外的な矯正困難者に対して、慎重な科学的判定のうえに与えられる最後の手段となる。

 ところで、「犯罪→刑罰」体系における自由刑では、執行猶予や仮釈放といった刑罰の仮放免の制度が設けられることが多い。これは刑罰が人の法益を報復的に剥奪する有害な処分であるからこそ、情状によっては事前または事後の仮放免を認めて刑罰の負担を軽減しようという法の「温情」であるが、「犯則→処遇」図式においては、こうした温情主義でバランスを取る必要はない。
 「矯正処遇」は拘束的処遇であるという点では対象者の法益を制限する側面も認められるが、総体としては、対象者の反社会性を矯正して更生につなげるという利益な処分であるから、仮放免制度でバランスを取る必要はないのである。ただし、上述のように、終身監置だけは終身拘束という重大な不利益を考慮して、「仮解除」の余地を認める必要がある。

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共産教育論(連載第20回)

2018-11-28 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(3)数的思考
 数的思考科目は、数という概念を理解し、その基礎と応用を学ぶ科目である。当科目も、言語表現科目と並び、基礎教育課程の基幹的科目であるので、基礎教育課程全13ステップで、発展的に割り振られる。
 当科目は、伝統的な学校教育上の教科で言えば数学(算数)に該当するが、内容上は相当な相違点がある。すなわち、伝統的な数学科目が数学上の計算式や公式を暗記し、正解値を求める「算術」に終始しがちなのに対し、数的思考科目は、まず数学の基層にある様々な「思考」そのものの理解からスタートする。
 その点では、数学そのものというより、いわゆる「数学の哲学」に近い内容を持つ。実際、数学とは数字という世界共通文字(ないし図形)を用いた一つの論理的な表現行為である。その意味で、数学は言語表現の一種であると同時に、科学的思考法の有力な手段ともなる。まさに数的「思考」であり、それは言語表現科目と科学基礎科目とをつなぐ科目とも言えるものである。
 もちろん、基礎教育の初等段階では加算・減算・乗算・除算の基礎的な四則演算法の習得も目指されるが、最終的な目標はそうした計算式を覚えて正解を出すことにあるのではなく、これらの演算がどのような意味を持っているのかの理解に到達することを目指す。
 従って、教材についても、機械的な計算ドリルのようなものではなく、むしろアニメーションなどを活用したビジュアルな通信教材を用いて、数の概念を視覚化したり、計算問題に関しても、数式の羅列ではなく、視覚化された図式を使用して考察させるなどの工夫がなされるだろう。―視覚障碍者向けには、点字版の提供などの配慮もされる。
 基礎教育課程のステップを進むにつれ、次第にいわゆる「高等数学」に属するより抽象性の高い微分積分・幾何代数・関数といった分野に進むが、こうした「高等数学」段階になると、従来の数学教育では数学嫌いの脱落者を出しがちであった。
 その点、数的思考科目で取り扱われる「高等数学」は、抽象的で複雑な計算問題を解くのではなく、「初等数学」段階と同様に、それぞれの数式命題や定理の基礎にある「思考」そのものを理解することが目指される。
 それと同時に、それら「高等数学」の実社会における応用例について学習し、自身でも簡単な活用が可能になることが目指される。その点では、「高等数学」というよりは、「応用数学」と言える内容である。それに関連して、基礎教育課程終盤では、統計学の基礎も重視される。
 当科目の方法論としては、上述したようにビジュアル教材が広く活用されるが、基礎教育課程のステップを進むにつれ、コンピューターを使った計算法も学習する反面、暗算のような特殊技能は除外される。現代の市民的素養として必要な数的思考としては、計算機による演算のほうが必要性が高いからである。
 また、基礎教育課程全般について妥当することであるが、与えられた問題の正解を導くのではなく、自ら問題を立て、探求するという方法が全ステップで貫かれる点は、当科目についても同様である。

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共産教育論(連載第19回)

2018-11-27 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(2)言語表現
 言語表現科目は、各領域圏ごとの公用語(複数ある場合はすべて)及び世界公用語による表現力を身につける科目である。当科目は基礎教育課程の中でも、最も基礎的かつ基幹的な科目として、標準13か年の13ステップすべてで、発展的に割り振られる。
 当科目の目的は、共産主義社会を担う市民として、領域圏公用語及び世界公用語での読み書きの基礎的な力量を前提に、世界公用語を含む二つ以上の言語で、一定の事柄に対する自己の見解を自由かつ論理的にまとめる能力の育成にある。
 伝統的な学校教育上の教科では、一般に各国の公用語を「国語」として教えつつ、英語が公用語でない場合は英語を「外国語」として「国語」とは別立てで教えるパターンが多い。一方で、エスぺラント語のような「世界語(国際語)」はほとんど教育対象とされない。
 しかし、共産教育における基礎教育課程では、こうした伝統を覆し、およそ言語による表現全般を統合的に教育する。その際、「国語」に相当する各領域圏ごとの公用語による表現が基本となることは当然であるが、ここで言う公用語は事実上の公用語(共通語)を含み、かつ公用語が複数存在する場合は、可能な限りそのすべてを習得することが目指される。
 これに加え、世界公用語語の習得とそれによる表現も必修化される。その点、共産主義的な世界共同体は暫定的な世界公用語としてエスペラント語を指定するので、とりあえずはエスペラント語が軸となるが、仮にエスペラント語以外の新たな世界公用語Xが開発されるのであれば、その言語Xが教育言語に採用されることになるだろう。―知的障碍生徒に対しては、その理解度・発達度に応じて世界公用語を免除することもあり得る。
 要するに、当科目は各領域圏の公用語と世界公用語によるバイリンガルまたは、それ以上のマルティリンガルな言語運用能力の養成を目指す科目と言える。そのため、担当教員も教育対象となる言語すべての知見及び教授技能を要することになる。
 科目の方法論的な特徴としては、読むことにとどまらず、それ以上に書くことに重点が置かれることがある。たしかに、まずは読むことが表現行為の基礎であり、読むことは基礎教育課程の初等段階では重視される。
 しかし、読むことは本質的に受身的な表現行為であり、言語能力の最終目標は、自身で一定のレベルを保った文章が書けるようになることに置かれる。そのため、中等段階以降では、実際に自分で設定した自由なテーマの下に文章を書く訓練を繰り返し行なう。
 また、当科目の教材・題材としては、文学的な文章ではなく、すべて説明的ないし論説的な文章が使用される。文学的な文章の読解・表現力は市民的な素養を養うことを目的とする基礎教育課程では優先的な地位を持たないからである。
 ちなみに、指定されたテーマで、かつ制限字数内で記述するといった各種試験でしばしば実施される統制的記述課題は採用されない。共産教育は外部強制的でなく、内発的な知的探求を軸とした「構想力‐独創性教育」を本質とするからである。
 それとも関連して、当科目はメディアやインターネット経由の情報の正確かつ批判的な読解力―情報リテラシー―を習得する教育を包含する。高度情報社会における表現行為は、膨大な情報の収集及び咀嚼という情報リテラシーを前提とするものだからである。
 ところで、言語能力には読み(読解)・書き(記述)に加えて、話し(弁論)も含まれるわけだが、弁論に関しては、基礎教育課程の終盤段階で、通学によって提供される。ただし、任意選択にとどまる。弁論教育は、弁論を必要とする職業を志望する者に特化すれば十分だからである。

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共産教育論(連載第18回)

2018-11-26 | 〆共産教育論

Ⅳ 基本七科各論

(1)基本七科前説
 13か年一貫制の基礎教育課程における教科教育は、基本七科としてまとめられる。すなわち、①言語表現②数的思考③科学基礎④歴史社会⑤生活技能⑥健康体育⑦社会道徳の七科である。各科目の具体的内容に関しては次節以下で個別に見るとして、ここでは基本科目に含まれていないいくつかの想定科目について見ておく。
 まず一見してわかることは、音楽や美術(図工)に関わる科目が存在しないことである。現行の学校教育ではこれら芸術系科目も必修的(または選択必修的)に提供されるのが一般である。しかし、芸術系科目はあげて生徒の個人的な関心と資質―私見によれば、その両者の収斂的総合がいわゆる「才能」―に依存するのであり、たとえ選択制でも、全生徒必修とすべきではない。
 そこで、これら芸術系科目―演劇や舞踊も含め―は基本七科には含めない。芸術系科目のうち、音楽分野の吹奏楽のようなものは基礎教育課程の付随的な課外活動として提供することはあってよいが、芸術分野は原則的に生徒の自発的な習い事として外部の専門的な指導者に委ねられる。
 また、後に該当節でも再言するが、体育系科目が「健康体育」と規定されるのは、特定の競技スポーツを学習する「競技体育」が基本七科から除外されることを意味している。無数に存在し、現在進行的に増加している競技スポーツも、生徒の個人的な関心と資質に依存する点では芸術分野とパラレルな関係にあることから、これらも課外教育ないし個人的な習い事に委ねられる。
 さらに、高度情報社会を前提とする基礎教育課程であれば、「情報処理」のような情報特化科目も想定されるところであるが、基本七科にはそれが見えない。これは、情報教育を除外する趣旨ではない。実際、基礎教育課程は原則としてインターネットを介した通信教育で実施されるのであるから、その過程そのものが高度情報化されていると言ってよい。
 従って、6歳から開始される基礎教育課程の初年から情報機器の扱いができなくてはならない。その点では、基礎教育課程の全体が一個の情報教育だとも言えるので、「情報処理」と銘打った特殊科目を用意することはないのである。
 その代わり、「言語表現」科目の中に情報読解力(いわゆるリテラシー)の養成が含まれるほか、「生活技能」の中に情報機器の機械的な仕組みや安全な取扱全般に関する技術教育が包含され、さらに「社会道徳」にはインターネット利用に係る情報倫理教育が包含される、というように情報教育は各科で必要に応じて包含的に行なわれる。

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犯則と処遇(連載第6回)

2018-11-22 | 犯則と処遇

5 処遇の種類

 「犯則→処遇」体系における処遇の種別はいたって簡素であり、基本的には、施設に収容する拘束的処遇としての「矯正処遇」と、収容しない非拘束的処遇としての保護観察」の二種類のみである。
 実際のところ、前者の「矯正処遇」は対象者の特性及び処遇内容の違いによりさらに種別が細分化されるが(後述)、いずれにせよ「矯正処遇」は反社会性向の強い者、初犯ではあるが人格的な病理性が強く、矯正を要する者を対象とする処遇である。その限りでは、今日の自由刑に類似するが、刑罰ではないので、その実施場所はもはや「刑務所」とは呼ばれず、「矯正センター」と呼ばれる。

 一方、「保護観察」はより反社会性向が低い者を対象とする処遇である。「犯罪→刑罰」体系の下での保護観察は、刑務所から釈放された者に課せられることが多いが、「犯則→処遇」体系の下では、保護観察もそれ自体が独立の処分となる。 
 さらに、広い意味での処遇の一つとして「没収」が加えられる。「没収」は犯則行為に起因する不法な収益を剥奪するもので、それは人でなく物を対象とする処分であるが、上述の「矯正処遇」や「保護観察」と併用して、または独立して付し得る一個の処遇である。
 このうち、独立処分としての「没収」は、例えば些少価値物品の窃盗や違法薬物の単純所持など軽微な犯則行為者を対象とする最も軽い処遇として位置づけられる。

 ところで、以上の「矯正処遇」「保護観察」に「没収」を加えた三種の処遇の間には、一応「矯正処遇」>「保護観察」>「没収」という軽重関係がある。しかし、この軽重は刑罰の軽重関係のように犯行の重大性のみによるのではなく、処遇対象者の反社会性向の強弱によるところが大きい。

 この点にも関連して問題となるのは、一人の者が複数の犯則行為をした場合の処遇である。刑罰制度の場合、複数の犯罪行為に科せられる刑を単純に加算するか、最も重い罪を基準とするか、制度は分かれる。
 いずれにせよ、このような処理の仕方には、応報刑論の思想が明瞭に込められている。なぜなら、こうした処理は複数の犯罪行為の組成(パッケージ)を犯罪学的に分析することなく、刑を単純加算し、あるいは重罪を基準として厳罰を科そうとするものにほかならないからである。

 これに対して、「犯則→処遇」体系の下では、犯行パッケージの犯則学(犯罪学)的な分析を通じ、その中で最も中核的とみなされる罪の処遇に付することになる。
 例えば、殺人と窃盗のパッケージであれば、たいていの場合は殺人行為が中核的とみなされるであろうが、傷害と窃盗のパッケージのような場合は、微妙な分析が必要となる。
 もし、このパッケージにおける傷害とは窃盗の共犯者との内輪もめから相手を殴り、傷害を負わせたものならば、窃盗行為のほうが中核的とみなされ、窃盗犯に対応した処遇に付せられる。それに対して、このパッケージにおける窃盗が傷害を加えた被害者の所持品をついでに盗んだというのであれば、傷害行為のほうが中核的とみなされ、傷害犯に対応した処遇に付せられるのである。

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共産教育論(連載第17回)

2018-11-20 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(6)統一教材の使用
 正規の教育課程では、科目ごとに教科書が使用されるのが通例である。自由主義的な教育論からは教科書を使用しない教育法も提唱・実践されているが、脱教科書主義教育は指導教員の資質や力量に大きく左右されるため、どの教員に付くかにより教育レベルの不合理なばらつきが避けられない。
 他方、複数の市販教科書の中から、指定教科書を地域ごとに選択するやり方も、出版社により内容の異なる市販教科書がどの地域に居住するかにより、一方的に選択・強制されるという不合理を避けられないから、そのような教科書選択主義も適切でない。
 共産教育における基礎教育課程は、全市民の平等な知的啓発を目指す観点からも、教材使用に係るいかなるばらつきも容認しない。そこで、およそ文字教材に関しては、基礎教育教材開発機構によって作成された統一教材が全土で使用される。
 しかも、全世界市民の平等な知的啓発を推進するため、使用教材の全世界的な統一を目指すべく、基礎教育開発機構の教材は、現ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)を継承する世界教育科学文化機関が作成した世界教育ガイドラインに沿った内容とする。
 このガイドラインは世界共同体に包摂される各領域圏に対して絶対的な拘束力を持たず、各領域圏教育行政の裁量を容認するが、ガイドラインから明らかに逸脱した教材が使用されている領域圏に対しては、世界教育科学文化機関を通じて是正の措置が採られる。
 基礎教育課程の教材は、もはや紙の教科書ではなく、オンライン教材として提供される。これは基礎教育課程がインターネットを使用した原則的な通信教育の形態で提供されることに相応したものであって、オンライン教材は、予め全生徒に配布されたタブレット型の専用端末にセットされた状態で提供される。
 その内容も、伝統的な学校教育で使用されてきた教科書とは異なり、事前知識として与える解説は必要最小限度に抑えたうえ、生徒が予め設定された「練習問題」の解答を考えるのではなく、逆に生徒自らが問いを立て、自らがその問いを探求するという形で進行していく。
 そのため、生徒の自主的探求を補助するために参照可能な優良ウェブサイトや電子書籍などにも、専用端末からアクセスすることができるようにセットされる。そうした生徒の自発的な探求をサポートするのが基礎教育課程教員の主要任務であることも、以前の回で記したところである。

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共産教育論(連載第16回)

2018-11-19 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(5)基礎教育課程の科目編成
 通信教育を原則とする基礎教育課程に学年はなく、標準で1年を単位とする13か年一貫のステップがあるのみである。また自習を基本とするため、全員一律に適用されるカリキュラムも存在しない。ただし、基本となる七つの科目―基本七科―が存在する。
 基本七科の各内容については後に詳論するが、ここで項目のみ列挙すると、①言語表現②数的思考③科学基礎④歴史社会⑤生活技能⑥健康体育⑦社会道徳の七科目である。これら基本七科は、標準13か年にわたる基礎教育課程の中で、生徒の発達度に応じて段階的に割り振られていく。
 例えば、基礎教育課程の初等段階(おおむねステップ1乃至2)では、すべての知の基礎となる①言語表現と②数的思考が中心となる。③科学基礎は抽象的な思考力が発達し始める中等段階(おおむねステップ3以降)からスタートする。④歴史社会は社会的な関心が芽生える中等段階後期(おおむねステップ6以降)からスタートする。
 もちろん言語表現や数的思考は全課程を通じて、徐々にレベルアップさせながら通年的に提供されるし、⑤生活技能や⑥健康体育などの通学制で提供される実技科目や、通信制と通学制が組み合わされる⑦社会道徳についても同様である。
 なお、障碍者統合教育が実施される基礎教育課程では、障碍者にも基本七科が提供されるが、障碍の内容や発達度に応じて、適切に修正された内容となり、場合によっては、科学基礎や歴史社会のようなアカデミックな性格の強い基本科目が免除されることもある。
 他方、生活技能では、非障碍生徒も共通内容として障碍者の生活について学ぶが、実際の障碍者の生活設計にとって必要な補助具の使用法などについては、障碍者コースに特化した形で提供される。
 基礎教育課程には、以上のような教科科目のほかに、職業導入科目が組み込まれる。これは、教科科目とは全く別立てで、おおむね中等段階からはじめは職場見学の形でスタートし、高等段階に入ると、提携する指定職場でインターンとして実際に職業体験をする。
 職業導入科目は教科科目のような細分化された科目制を採らないが、工業、情報、事務、公務、農林、水産、研究といった代表的な職域ごとに、職業理解に関する通信教育と上述のような実地教育の組み合わせによって提供されることになる。

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犯則と処遇(連載第5回)

2018-11-16 | 犯則と処遇

4 法定原則

 「ベッカリーア三原則」の第一は罪刑法定主義であった。「犯罪→刑罰」体系の下ではまさに犯罪と刑罰との対応関係が法律で明確に定められていなければならないとする法定原則が、刑罰制度の恣意的な運用を防止する最低限の担保となる。
 このような法定原則は「犯則→処遇」体系の下でも基本的に妥当する。すなわち、犯則と処遇との対応関係は法律で明確に定められなければならない。このことは法治主義の一般原則からしても当然であるし、「処遇」といえども義務付けを伴う以上、対象者の権利を制限する性質を免れないからでもある。

 もっとも、「犯則→処遇」体系においては、犯則ごとに個別の処遇法が定められるわけではない。例えば、傷害についてみれば、「人を傷害した者は、××の処遇に付する」というように、予め個別的に処遇が対応的に定められるわけではない。なぜなら、矯正のための処遇法は、各犯則行為者の特性に応じて科学的に選択されるからである。
 結局のところ、「犯則→処遇」体系における法定原則とは、何が矯正処遇(またはそれに代わる保護処遇)を要する犯則であるか、また処遇法としていかなる種別と内容とが与えられるかについて予め法律で定めておくことを意味する。

 ところで、罪刑法定主義というとき、犯罪と刑罰との対応関係を定める法律は一般法(一般刑法)にとどまらず、特別法(特別刑法)を含んでいる。そのために、現代国家は一般刑法に加えて無数の特別刑法を抱えるようになっており、一国における刑罰条項の精確な総数を誰も数え上げることができないほどである。こうした刑罰の増殖・インフレ現象は一般市民に犯罪と刑罰との対応関係を見えにくくさせ、ひいては犯罪の防止にも逆効果となっている。
 これに対して、「犯則→処遇」体系の下における法定原則では、犯則と処遇の内容を基本的に一般法で定めることが目指される。このことは、特別法の存在を一切許容しないという趣旨ではなく、交通事犯や薬物事犯といった一般法では律し切れない特殊な犯罪への対応を定める特別法の存在は排除しない。しかし、それらは必要最小限にとどめられる。

 そうした一般法は「犯則→処遇」体系の全体を包括する統合法、すなわち「犯則法典」として編纂されるのでなければならない。
 すなわち、犯則法典は日本の現行刑事法体系で言えば、刑法、刑事訴訟法に刑事収容施設法、さらには更生保護法の一部までカバーするような広範な内容を持つことになるのである。
 このような統合法であることによって、一般市民も「犯則→処遇」の手続き的な流れを一本の法律から一覧的に把握できるようになる。法定原則の究極的な意義は、このように犯則と処遇の内容が包括的に事前告知されるところにこそあるのである。

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犯則と処遇(連載第4回)

2018-11-15 | 犯則と処遇

3 責任能力概念の揚棄

 諸国の近代的刑罰制度においては、犯行当時心神喪失の状態にあった者は無罪とされることが多い。このような「心神喪失者=無罪」という定式は「犯罪→刑罰」体系の重要な例外をなすものであるが、この例外規定はまさしく「犯罪→刑罰」体系の所産である。
 なぜなら、この図式にあっては、犯罪の責任主体をあげて個人とする以上、その肝心な個人が心神喪失状態にあり、責任主体としての適格性を欠いていたならば、そもそも刑罰を科し得ないことになるからである。

 この「心神喪失者=無罪」という定式の論理的前提となっているのは、「責任能力」という概念である。「責任能力」とは刑事責任を負い得る能力、すなわち事理弁識能力及び行動制御能力を指し(とりわけ前者)、心神喪失とはそうした能力を欠いた無能力の状態とみなされている。
 ここで事理弁識能力とは要するに理性の働きのことであるから、「責任能力」概念は理性/狂気というデカルトに始まる近代合理主義の二分法的思考の所産の一つであることは明白である。しかし理性の喪失=狂気=無能力という発想は、精神疾患者に対する差別的視線に根差している。それは精神疾患者を無能力者と決めつけているのである。

 だからといって、精神疾患者にも常に「責任能力」を認めて、当然に処罰の対象とするのは、あの「犯罪→刑罰」体系をいっそう徹底していく必罰主義的な反動である。この点では、「心神喪失者」を罪に問わないという取扱いは差別的であると同時に、「病者を鞭打たない」という人道主義的な配慮の一面をも含んでいることは見落とせない。

 「犯則→処遇」体系にあっては、「責任能力」概念を全否定するのでなく、これを弁証法的に揚棄することによって、犯行当時精神疾患に犯されていた者に対しても、それ相応の処遇を与えることが目指されるのである。
 その点、「犯則→処遇」体系の下では、犯罪を犯した個人の責任は将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任であった。このように考えるならば、犯行当時精神疾患に侵されていた者であっても、将来へ向けて自らの疾患を治療・克服し更生を果たすべき責任を負うことは十分に可能である。

 ただし、精神疾患者に対する処遇は医学的な診断に基づく適切な精神医療を組み込んだ治療的な処遇でなければならないが、これは、矯正と更生を目指す処遇ということにおいて、一般的な処遇と共通の目的を有するものであって、精神疾患者に対する強制入院のような制度とは本質を異にする。
 その意味で、「責任能力」概念は全否定されることなく揚棄され、後に改めて詳しく見るように、犯則行為者に対する処遇内容の種別の問題に収斂されると言える。

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共産教育論(連載第15回)

2018-11-13 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(4)教員の役割及び養成
 前回見たように、基礎教育課程が原則的に通信教育として提供されると、教員の役割も既成の学校教員のそれとは大きく異なることになり、教壇に立って大勢の生徒に向かって説諭する御馴染みの教員の姿は見られなくなる。
 それに代わって、教員は基本的には生徒たちが自分のペースで標準13か年の各ステップを進んでいく上での学習アドバイザーという性格が強くなるだろう。実際、基礎教育課程の教員は、基礎教育センターに常駐して、生徒からの質問・相談に電子メールや遠隔チャット、または面談の方式で答えることが主要な役割となる。
 このような教員像は、個別学習塾の指導員に類似していると言える。実際、基礎教育課程の教員は、全員が科目ごとの専従制を採り、既成の小学校教員のように、単独で全科目を指導するという包括担当制を採らない。包括担当制は、通信制での個別学習の指導には適さないからである。
 一方で、基礎教育課程の教員は、学習塾の指導員とは異なり、あくまでも正式な義務教育課程の教員であるから、個別の教科指導にとどまらず、各生徒の適性や興味関心に応じた将来の進路も考慮した上での総合的な教育を使命とする。
 そのため、教員は担当する生徒と定期的に面談し、学習状況に加え、日常の生活状況も把握し、必要に応じて保護者とも面談する。また、保護者からの教育上の相談にも応じる場合もある。
 さらに、障碍者統合教育を実施する関係上、すべての教員は障碍児教育に関する知見も有し、障碍の内容や程度に応じた個別教育を行なう力量を要する。障碍生徒の状態によっては、家庭教師のような訪問指導も行なうこともある。
 このような教員像からすれば、その免許や養成のあり方も自ずと既存のものとは異なるものとならざるを得ない。まず、教員は基礎教育課の各科目ごとに専門教員免許が付与される一方、障碍者教育を包括した統合的免許として付与される。
 また、教員の質の均一化を図り、地域による教育レベルの格差が生じないよう、教員免許試験は全土一律なものとされる。ただし、採用に関しては各教育区ごとに行なわれるので、身分としては教育区の所在する地域圏(郡)の公務員である。
 こうした基礎教育課程の教員養成は、後に述べる高度専門職学院の一環である教育学院で一元的に実施される。すなわち、教員となるには、教育学院の基礎教育課程教員養成科を修了したうえ、上述の統一免許試験に合格する必要がある。

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共産教育論(連載第14回)

2018-11-12 | 〆共産教育論

Ⅲ 基礎教育課程

(3)原則的通信教育
 共産教育における義務的な基礎教育課程は、既存の教育システムとは相当に異なるが、中でも最も大きな特色は原則的に通信制を採るということである。すなわち、通信制では提供できない一部科目を除いて、基本的には遠隔通信教材を用いて実施される。
 そのため、既存の教育システムにおける学校という形態を採らない。もっとも、13か年一貫制のシステム全体を機能的な意味で一つの「学校」とみなすことはできるが、校舎という物的な施設を伴う学校制度ではない。
 具体的に言えば、生徒は専用インターネットを通じて予め配信された通信教材を用いて、自宅または指定自習室を利用して、自分のペースで学んでいく。教材のあり方については後に述べるが、各科目ごとに既成の知識を満載した教科書ではなく、一定の基礎知識を前提に自ら内発的に問いと立てて探求する作業を繰り返していく方式である。
 もっとも、基礎教育課程の初等段階(既存義務教育制度のおおむね小学校1、2年相当)では、まだ自ら問いを立てることが困難であるため、言語や数を中心とした基礎的な知識の習得も実施されるが、それも自ら問いを立てるための前提知識の習得という意義を持つ。
 そのため、通信教育で提供される科目では、教師が一方的に開設する講義スタイルの受身的「授業」は一切排除される。ただし、基礎教育の初等段階では、アニメーションを活用した解説型の映像教材が多用されるが、13か年のステップを進むにつれ、解説型映像教材の割合は低下し、完全自習型の教材が中心を占めるようになっていく。
 通信教育に必要なインターネット回線及び端末は専用のものが無償かつ安全にすべての子どもに提供される。この専用インターネット回線は、基礎教育の教材開発を専門とする機構が直営する専用プロバイダーを通じて提供され、予めセットされた厳重なフィルター機能により教材及び教科関連の優良サイト以外へのアクセスは遮断される。
 また、前回見たように、基礎教育課程は障碍者統合教育を基本とするため、障碍を持つ生徒向けには、その障碍の特性に合わせた障碍者支援機能が備わった専用端末や専用教材が提供されることになる。
 こうした遠隔通信教育を有効に実施するため、基礎教育の提供主体となる地域圏の各地区―教育区―ごとに基礎教育センター(以下、「センター」と略す)が設置され、そこに教員を配し、指定自習室や図書室、通学で提供される一部科目用の教室や室内運動場も附置する。この施設は外見上は既存の校舎に類似するが、学校というよりは教育サポート施設である。
 生徒は、自身の趣向や家庭事情に応じて、自宅学習か指定自習室での学習かを随時選択できる。教員への質問や相談は随時電子メールや遠隔チャットで受け付けるほか、事前予約すれば、センターで教員と面談し、個別に質問や相談をすることもできる。
 なお、通信制では提供できない科目として、健康体育や生活技術といった実技科目のほか、職場見学やインターン方式を採る職業導入教育、反差別教育の一環としての障碍者コースとの交流教室などがあるが、これらについては各該当項目で改めて触れる。

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犯則と処遇(連載第3回)

2018-11-10 | 犯則と処遇

2 犯則行為に対する責任

 反社会的な法益侵害行為である犯則行為を犯した者に対して処遇を与えるという場合、処遇という法的効果を生む根拠は責任である。責任という概念自体は、「犯罪→刑罰」体系においても、刑罰という法的効果を生む根拠として存在しているが、ここでの「責任」の意味内容は、両者で大きく異なっている。

 刑罰における責任とは、犯罪行為に対する道義的な非難に由来するとされるが、突き詰めれば、報復や復讐の観念を法律的なオブラートに包んだものである。要するに、古くからある「目には目を、歯には歯を」という同害報復観念のリフレーンなのである。
 もちろん、法理学者はもっと洗練されており、自ら犯した犯罪行為に対する応報としての刑罰を犯罪者に科することこそ、自由なる個人の責任主体性を尊重する仕方なのだと論ずるが、実のところ、そうした社会から完全に遊離した観念的な個人としての責任主体を措定することによって、かえって“主体”を受刑者という受動的な地位に追い込む矛盾を来たしていると言えるだろう。

 これに対して、「犯則→処遇」体系における責任は刑罰のように過去の行為に対する反作用として強制される反動的な責任ではなく、過去の行為を前提としながらも、将来へ向けて更生を果たすべき展望的な責任である。そのような責任の賦課として、一定の処遇を与えられるのである。
 従って、処遇は刑罰のように一方的に強制される処分ではなく、それを与えられる本人との合意に基づいて賦課されるある種の契約となる。もちろん、純粋の約定のようなものとは性質が異なるが、一方的な強制ではない双務的な合意である。

 一方で、「犯罪→刑罰」体系は、個人責任の追及には実に熱心だが、社会の責任は等閑視している。しかし、人間は社会内においてのみ個別化される動物である。つまり、社会と全く無関係に存在し得る人間個体=個人はあり得ない。なぜなら、そもそも人間的本質とは社会的諸関係(構造)の総体にほかならないからである。とすると、個人の行為にはそうした社会的諸関係が映し出されているはずである。
 とりわけ反社会的な行為は社会的諸関係の歪みを病理的に映し出す鏡である。そうした意味で各種の犯則行為とは、比喩的に、社会体の疾患であると言えるのである。別の言い方をすれば、社会は犯則に温床を提供し、犯則を誘発したことに対して有責なのである。そのような社会責任の帰結として、社会病理分析と再発防止のための社会改良が導かれなければならない。

 この関係をより標語的に表現するならば、「手を下したのは個人、背中を押したのは社会」ということになるだろう。このような個人と社会との相互責任連関の中で、犯則行為者たる個人が負うべき責任は処遇の賦課、社会が負うべき責任は社会改良として現れるのである。

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犯則と処遇(連載第2回)

2018-11-09 | 犯則と処遇

1 序論―「犯罪」と「犯則」(と「反則」)

 本連載では、「犯罪→刑罰」という現段階では世界でも圧倒的に支配的な刑法体系におけるのとは異なる用語が多用されるが、中でも最も基本的なものは「犯則」である。一方で、人口にも膾炙している「犯罪」の語は行論上必要のない限り、用いられない。そこで、一文字違いの「犯罪」と「犯則」の意味的相違について、冒頭の章で説明しておく。

 まず、よりなじみ深い「犯罪」(crime)は、文字通り、「罪」という道徳的な罪悪観念をベースとした用語である。もっとも、英語表記におけるcrimeは法律的な犯則行為を意味しており、道徳的な罪を表すsinとは区別される。これは、道徳とはひとまず分離された法律に基づく処罰という近代の合理主義的な刑法観念に沿った用語ではある。
 とはいえ、crimeを犯した者に刑罰(punishment)を科すという「犯罪→刑罰」体系の下では、刑罰という応報的な法的効果とあいまって、crimeが道徳的なニュアンスを帯び、限りなくsinと重なり合うことは避けられない。

 その点、「犯則→処遇」体系にあっては、犯罪は道徳的な罪から完全に分離され、法に違反する反社会的な法益侵害行為として純化されるため、もはや「犯罪=crime」ではなく、「犯則=offense」として把握されることになる。
 もちろん、人々の意識においては、窃盗なり殺人なりの典型的な犯則行為は道徳的にも罪と認識されるかもしれないが、「犯則→処遇」体系が根付く典型的な共産主義社会においては、貨幣経済が廃されるので(拙稿)、人間をして最も多く罪悪に駆り立ててきた金銭にまつわる犯則行為は根絶される。
 そうなれば、なお残る少数の犯則行為に対しては、道徳的な糾弾よりも、まずは真相解明とそれに基づく犯行者に対する科学的な矯正処遇を優先させるべきとする認識が高まると期待される。こうして、「犯則→処遇」体系は、合理化された近代的な「犯罪→刑罰」体系の下でもなお未分化だった法と道徳の関係性を完全に切断し、法的・科学的な犯則処理の体系として純化されることになるのである。

 とはいえ、伝統的な「犯罪」と「犯則」は、かなりの程度重なり合うだろう。例えば、窃盗や殺人などは典型的な犯則行為でもある。しかし、猥褻表現犯罪のように表現活動をめぐる道徳的な価値観が前面に出てくる「犯罪」はもはや「犯則」ではなくなるか、ごく限定的に犯則化されるかのいずれかの道をたどるだろう。

 ちなみに、日本語では同音異字語となる「犯則」と「反則」の区別にも触れておきたい。「反則」とは、典型的には、交通法規違反のように、行政的な取締規定に違反する行為であり、その法的効果は矯正処遇ではなく、何らかの行政的なペナルティーである。なお、スポーツのルール違反も「反則」(foul)というが、これは法律外の用法である。

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