第四章 強制的近代化の時代(続)
【12】琉球併合と皇民化
明治維新は、幕末の動乱を免れた南の辺境・琉球王国にも大きな転換をもたらした。明治政府は1871年の廃藩置県でいったん琉球王国を新設された鹿児島県の管轄としたが、翌年には琉球藩を設置し、時の国王・尚泰を藩王かつ日本の華族に叙した。
明治政府は、台湾に漂着した琉球御用船員らが台湾先住民に殺害された一件等への責任追及を名目とした74年の台湾侵攻後の有利な情勢を利用し、従来、中国清朝と日本の双方に二重統属してきた琉球を日本の支配下に一元化することを狙い、琉球に対し清との冊封関係の断絶と日本の元号使用、王の上京などを求めた。しかし清との歴史的な関係を重視する琉球側が拒否し続けたことから、79年、政府は武官を擁した処分官を琉球に派遣し、武断的に廃藩置県を布告した。
かくして日本の地方行政体としての沖縄県が設置され、独自王国としての琉球王国は終焉したのであった。ここまでのプロセスは、17世紀の薩摩藩侵攻時のような軍事作戦による侵略ではなかったため、日本史上は「琉球処分」という行政措置的な表現で言い表されるが、実際のところ、これは明治政府による力を背景とした「琉球併合」にほかならなかった。
ちなみに、初代沖縄県令・鍋島直彬は最後の旧肥前鹿島藩主であった。この点、北海道の初代開拓長官を短期間務めた旧佐賀藩主・鍋島直正も同じ鍋島一族(宗家)の出であり、ここに明治初期の南北両辺境の行政をともに九州の土豪大名出身の鍋島家が担うという一致があった。
こうして沖縄は正式に日本領土内に併合されたのであるが、元来独自の王国であったがゆえに、併合直後に旧王族士族の反乱事件などもあり、初代鍋島県政では要職を本土人で固めつつも、さしあたり旧慣温存の方針が採られた。
だが、1890年代になると、封建的な土地改革や参政権要求、議会開設など、沖縄人自身による内発的な近代化運動も起きる中、政府はようやく沖縄近代化に着手する。それでも、例えば地方議会の設置は北海道では1901年であったのに対し、沖縄では09年にずれこむなど、北の辺境・北海道と比べても沖縄近代化の歩みは遅かった。
こうした近代化政策は当然にも「皇民化」を伴うものであったから、沖縄伝統の宗教体系の抑圧排除と国家神道の強制が実施された。とりわけ日清戦争で日本が勝利し、沖縄の日本領有が国際法上も明確にされて以降、沖縄皇民化政策は徹底された。
中央主導の沖縄近代化政策の中でも封建的な土地制度の改革は農民の生活改善に資する面もあったが、本土の地租改正と同様に農民の租税負担を増した。産業開発の面では、農業中心でめぼしい潜在産業に乏しいことから、換金作物として普及し始めたサトウキビをベースとした製糖業を除いて高度な工業化は難しく、本土資本の展開も地場資本の育成も進展せず、経済的には苦しい状況が続く。
こうした状況は、日本が第一次世界大戦の勝者として旧ドイツ領の太平洋諸島(南洋諸島)を委任統治領として獲得すると、南洋諸島への沖縄移民を急増させ、沖縄をして全国随一の移民送り出し県とすることになったのだった。
このように、沖縄はいったん内部的に日本に併合された後、経済的に従属・周縁化され、今度はそこから外部的に排出されてもいくという矛盾の中に置かれるのである。