ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

ワクチンの計画的分配―資本主義の試金石

2020-11-29 | 時評

先般、サウジアラビアで開催されたG20首脳会議における共同声明の中で、国際製薬資本による新薬完成が間近と取り沙汰される新型コロナウィルス・COVID‐19のワクチンに関して、「全ての人々が手頃な価格で公平に利用できるよう、努力を惜しまない」という文言が盛り込まれた。

この文言が単なる政治的なリップサービスではなく、真に世界的規模で、全世界の津々浦々にワクチンを供給するプランの表明だとしたら、直ちに疑問となるのは、今日ではG20すべてが前提とする資本主義世界市場において、いかにして、薬剤の計画的かつ全世界的な公平分配という人類史上前例のないプランを実現させ得るかということである。そのような壮大なプランは、二つの点で市場経済原理と衝突する。

一つは、そもそも、ありとあらゆるモノを商品として貨幣と交換で生産・流通させる資本主義経済においては薬剤といえども一個の商品であるから、市場価格で購入できる者だけが早い者勝ちで取得できることが原則であり、特定の商品を統制価格で全員一律に購入させることは資本主義的ではない。中でも厳重な特許権にガードされた薬剤の場合、開発企業の市場支配力は強大である。

仮に、その点は今回限りの“人道的な”例外として公平な価格統制を認めるとしても、一国のみならず、全世界的規模で、津々浦々のすべての人に「手頃な価格」で届くように、特定の薬剤を生産・供給するという施策は、通常の市場経済ルートでは不可能なことである。実際、そのような生産と供給がどのように行われるのか、イメージできない。

文字通りにそのようなプランを実行するには、全世界的な規模での計画経済システムを一時的にでも構築しなければならないはずであるが、一国内においてすら計画経済システムを忘却し、そもそもそれを発想することすらやめてしまった世界において、グローバルな規模での計画経済システムの構築などできるのであろうか。

さらに付け加えれば、今般のワクチンは異例の超短期的な治験による見切り発車的な供給となるため、全世界的なレベルでの精密かつ中立的な薬剤の認可制度と、供給後の不測の事態に備えて、ワクチンの作用/副作用に関する継続的かつ中立的な監視システムとが必要であるところ、現存国際社会はそのようなグローバルな規模での適確な規制や監督を可能にするほど、統合されてはいない。

いずれにせよ、今般のワクチン供給問題は、資本主義にとっての歴史的な試金石として、見ものとなるだろう。もし、G20首脳会議の共同声明どおりに全世界への公平分配が見事達成されれば、コミュニストながら、資本主義をいくらかは見直さなければならないかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載補遺8)

2020-11-29 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(4)「軍事社会主義」とその自壊
 ボリビア第一次社会主義革命は軍部内の中堅将校が主導するクーデターに外部の労組勢力及び新興の社会主義政党である統一社会主義者党が相乗りする形で、革命に発展したものである。
 そのため、およそ3年に及んだ革命の間、何度か改造された政権は軍人と労組幹部、政党人の軍民連合政権の形態を取っていたが、主導権は軍人にあり、軍人主導で社会主義的な施策が展開されたため、「軍事社会主義」と命名された。
 その点、統一社会主義者党は復員軍人団などからも支持されていたものの、革命後も明確な形で支配政党となることはなく、幹部党員が入閣はしたものの、革命政権の一翼に関わったにすぎなかった。
 革命指導者は革命後、最初の正式な大統領に就いたダビド・トロ大佐と革命直後に暫定大統領となっていたヘルマン・ブッシュ中佐の二人であるが、チャコ戦争の英雄でもあったブッシュ大統領のカリスマ性が勝っていた。
 約3年に及んだ革命はトロ政権期と続くブッシュ政権期とに二分されるが、1年余りで終わったトロ政権期の政策で中心を成したのは、米系資本スタンダード・オイル社の国有化である。
 この国有化は国民の支持を得たが、妥協的なトロは間もなく、より急進的なブッシュと不和に陥る。その結果、1937年7月、ブッシュの再クーデターによりトロは解任され、チリへ追放された。
 こうして、満を持して正式の大統領となった30代のブッシュ大統領はその武勲や容姿からもカリスマ性は充分だったものの、政治力ではトロに劣っていた。そのため、政権内外での軋轢が大きく、長期政権は望めなかった。
 それでも、ブッシュ政権期には、1938年の総選挙を経て招集された国民会議で新憲法が採択されるという重要な成果を得た。この憲法はボリビア史上初めて労働者の権利や社会保障、さらには先住民の権利を保障する画期的な憲法であった。
 しかし、ブッシュには政治調整能力が欠けていたうえ、「軍事社会主義」では政策展開上の核となる政治勢力が定まらず、革命に相乗りしていた左派勢力も強力な指導者を欠き分裂していき、政策の円滑な展開は困難であった。
 苛立ったブッシュは1939年4月、自ら「独裁者」を宣言し、国民会議を停止したうえ、大統領令を通じて政策を展開する権威主義に転換した。この「独裁」はいっとき成功し、労働法の制定のほか、鉱山貨幣のようなユニークな政策も実現された。
 鉱山貨幣とは、基幹産業である錫の輸出で獲得された外国為替をすべて中央銀行に納付させたうえ、必要な外貨額と株主への配当に充てるため最大5パーセントを還付し、残余は1ポンド‎‎当たり141ボリビアーノの‎‎交換レートで譲渡するというもので、後の第二次社会主義革命で実施された鉱山会社の国有化には進まないまでも、錫産業の収益を国が取得する初の試みであった。
 とはいえ、ブッシュの独裁に対する批判は強まり、彼は次第に追い詰められていく。その結果、1939年8月、ブッシュは拳銃自殺を遂げた。暗殺説も取り沙汰されたが、公式には自殺で確定している。
 こうして、「軍事社会主義」はブッシュの死により、唐突に終了することとなった。彼を継承できる軍人は他におらず、また分裂した社会主義諸政党も革命を継承するだけの力量を持たなかったからである。個人のカリスマ性に頼った革命の自壊現象と言える。
 この後、1940年代、軍人出自のグアルベルト・ビジャロエルの政権時代に、いっとき社会主義革命が復活するかに見えたこともあったが、全体として1952年の第二次社会主義革命までは保守回帰の時代となった。

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近代革命の社会力学(連載補遺7)

2020-11-28 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(3)軍民連合革命への展開
 最終的に事実上の敗北に終わるチャコ戦争での予想外の苦戦は、それを発動したサラマンカ大統領と軍との軋轢を生み、サラマンカは戦争末期の1934年、軍の圧力(事実上のクーデター)を受け、辞職に追い込まれた。
 代わって、真正共和党のサラマンカ政権と連合していた自由党のホセ・ルイス・テハダ・ソルツァーノ副大統領が就任することとなった。自由党にとっては、1920年以来の政権党奪回である。
 テハダ・ソルツァーノはサッカー選手出身かつ弁護士という経歴を持つ人物で、初代のボリビア五輪委員長に任命されるなど練達の政治家でもあったが、暫定性を免れず、軍との信頼関係を構築することはできなかった。
 この頃、長引くチャコ戦争の中で士気が低下していた軍部内でもヒエラルキーの変動が起きていた。相次ぐ作戦の失敗により司令部を構成する将官の権威が失墜し、代わって佐官級中堅将校の発言力が増し、かつ急進化していた。
 そうした急進的将校のグループとして、ヘルマン・ブッシュ中佐が組織する復員軍人団が結成された。当初、この軍人グループは非政治的な圧力団体として組織されたが、戦争を機に急変動するボリビア社会の中で、必然的に政治化した。
 こうした軍士官の政治化は、大恐慌と戦争という二つの要因によるインフレーションの中、生活苦にあえぐ労働者の運動との連携を容易にした。チャコ戦争を機に、二大労働組合によるストライキが全国に及んでいたが、通常は不倶戴天の敵となりやすい労組と軍の連帯関係が形成されていくのである。
 同時に、新たな左派政党として、統一社会主義者党が結党されたことも、革命へ向かう地殻変動を助長した。統一社会主義者党はストを展開する労組とも連携して政権打倒運動に乗り出していくが、まだ革命への決定的な動因は生じていなかった。
 暫定に近いテハダ・ソルツァーノ政権はストを収束させるだけの有効な対策を打てない中、武力鎮圧に傾き、軍部にスト鎮圧の介入を求めるも、ストに同情的な中堅将校が発言力を増した軍は動かず、むしろ労組の要請に応じて不介入を約束するありさまであった。
 そうした中、1936年5月、連合社会主義者党の有力政治家らが「革命委員会」を組織して決起したのに続いて、軍も決起し、テハダ・ソルツァーノ大統領を追放、軍人と文民から成る軍民評議会を樹立した。
 当初、暫定大統領にはブッシュ中佐が就くが、間もなく、ブッシュより年長でより政治的な調整能力が期待され、如上の復員軍人団の代表者に担がれていたダビド・トロ大佐がチャコ戦争での武装解除任務から帰還して大統領に就任する。
 この1936年の軍民評議会の樹立から、37年の政変によるトロ大統領解任とブッシュ大統領の就任を経て、39年のブッシュ大統領自殺により突然の幕切れとなるまでが、第一次ボリビア社会主義革命の過程である。

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近代革命の社会力学(連載補遺6)

2020-11-27 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(2)チャコ戦争と社会変動
 ボリビア第一次社会主義革命の動因として、1932年‐35年のチャコ戦争は決定的であった。この戦争は折からの世界恐慌への対応策として、時のダニエル・サラマンカ大統領が断行した征服戦争であるが、完全な裏目の結果となり、戦後のボリビアは社会経済の全般的な混迷に陥った。
 その点、チャコ戦争の前と後で、ボリビア社会は大きく変化しており、チャコ戦争は戦後のボリビアに大きな社会変動をもたらしたという意味で、ボリビア近代史上の大きな画期となる出来事であったと言える。
 チャコ戦争前のボリビアの社会構造は錫鉱山を所有する錫財閥を最大の経済的なマシーンとしつつ、伝統的な白人支配層の寡頭支配が続いていた。その点、しかし、ボリビアは他の南米諸国よりも先住民の人口割合が高く、人口の過半数を先住民が占めてきたことから、白人寡頭支配は少数独裁支配としての性格がより濃厚であった。
 もっとも、政治的には、錫財閥と結ぶ自由党の台頭により、伝統的な支配層を代表する保守党の支配が覆され、19世紀末から20世紀初頭にかけては自由党の天下となる。自由党はその名のとおり、リベラルな中道保守政党であり、当初は先住民に接近したものの、かれらの急進化を恐れて間もなく抑圧に転じ、寡頭支配の構造を解体することはなかった。
 自由党の支配は分派によって結成された共和党による1920年のクーデターにより終わる。共和党は自由党内の改革派によって結党された新党であり、自由党よりも革新的な立ち位置にあり、この先、チャコ戦争にかけては、26年の軍部クーデターをはさんで共和党または同党からの分派政党の大統領が続く。
 しかし、それも1929年世界大恐慌を機に再転換を余儀なくされる。世界大恐慌の影響による危機打開のため、1930年に再び軍部クーデターが発生するが、翌年には、共和党からのもう一つの分派政党であるより保守的な真正共和党のダニエル・サラマンカ政権に民政移管された。
 そして、サラマンカ大統領は不況打開策として、1932年、隣国パラグアイとの国境線未確定地帯である半砂漠グランチャコにおける潜在的な油田開発を見込み、パラグアイに戦争を仕掛けたのであった。
 ボリビアは当初、第一次大戦で活躍したドイツ人将校によって指導された近代的な軍隊によって、質量ともに劣るパラグアイ軍を圧倒して優位に立つ想定だったが、この目算は完全にくるい、およそ3年に及んだ戦闘は事実上ボリビアの敗北に終わった。
 多大の犠牲を払った総力戦の敗北は、錫財閥に代表される寡頭支配への疑問を掻き立てることになった。特に専門職や知識人、軍士官など中産階級の青壮年の間で体制への批判が広がった。こうしたチャコ世代と呼ばれる批判的中産階級の中でも、戦争に従軍した若手将校は戦場の悲惨さを経験して急進化した。
 またスペインによる征服以来、独立後も周縁化されてきた先住民層がチャコ戦争に徴兵され、従軍体験を持ったことで、先住民の間に国民意識が醸成されたことも見逃せない。かれらは第一次革命の直接的な担い手とはならなかったものの、戦後、地位向上運動に乗り出していくが、こうした先住民運動も革命への地殻変動を助長しただろう。
 こうして総力戦を経た社会変動が革命の素地を形成するプロセスには、第一次大戦後のロシア、ドイツ、オーストリアなど欧州諸国との類似性が認められる。ちなみに、ドイツ人将校に指導されたボリビア軍に対し、パラグアイ軍はロシア革命後の亡命ロシア人将校を顧問に迎えており、チャコ戦争はあたかも第一次大戦の同窓会的な様相も呈していたのである。

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比較:影の警察国家(連載第24回)

2020-11-27 | 〆比較:影の警察国家

Ⅱ イギリス―分散型警察国家

[概観]

 イギリスは「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」の正式国名のとおり、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという四つの連合構成体が連合して単一国家を形成している。
 この四つの連合構成体はアメリカ合衆国の連邦を構成する州ほどに分権が徹底した小邦ではないが、歴史の過程でイングランドに征服・併合されていったウェールズ以下の三つの連合構成体は自治権を有するため、警察制度もまたこれら連合構成体ごとに別々に構制されている。
 イギリスの中心を成すイングランドは近代警察制度発祥地の一つでもあり、1829年に創設された首都警察(Metropolitan Police Service)―日本における通称ロンドン警視庁―は、世界における首都警察の範となってきた。
 しかし、19世紀以前のイングランドにおける治安は地域の自警組織や地域名望家から選任される治安判事に委ねられることが基本であり、近代警察の時代に遷移して以降も、全土を管轄する集権的な国家警察の制度は発達しなかった。
 そのため、現在でもイングランド及び法体系上イングランドと一体的なウェールズにおける警察は、地域(市または郡)ごとに設置・運営される。その点では、イングランドの制度が移民により持ち込まれたアメリカと類似する点も多い。
 スコットランドにおける警察もかつては同様の構制であったが、2013年にスコットランド全域を管轄するスコットランド警察に統合された。
 これに対して、かつて分離独立武装闘争が激しく展開され、今もくすぶる北アイルランドにおける警察は王立アルスター保安隊という重武装の警察軍に近い組織であったが、和平合意後の2001年に、北アイルランド全域を管轄する北アイルランド警察として再編された。
 一方、イングランド伝統の自治体警察主体の警察制度は、1990年代まで続いた北アイルランド武装闘争や2005年のロンドン同時爆破テロ事件などを経て次第に揺らぎ、警察機能の強化の観点からも、治安に関わる中央行政を担う内務省(Home Office)の役割が強化され、同省が総合的治安官庁として、アメリカの国土保安省に近い存在となっている。
 また、今日でも中央集権的な国家警察を持たないことではアメリカと同様ながら、2013年には組織犯罪や人身売買、サイバー犯罪、麻薬密輸などの全国的な重大犯罪を捜査する機関として、アメリカのFBIに相当するような国家犯罪庁(National Crime Agency:NCA)が設置された。
 こうした国家警察機能を持つ機関は主に内務省系の機関であるが、他に鉄道省、国防省、ビジネス・エネルギー・産業戦略省、法務総監府などの系列機関も存在している。
 また、本来は諜報機関であるが、形式上内務大臣の管轄下にあり、国内公安諜報活動に特化した保安庁(Security Service:通称MI 5)も、かねてより対テロリズム諜報業務を行っており、ロンドン爆破事件以降、「テロとの戦い」がイギリスにも及ぶ中、広義の警察機関としての機能を強めている。
 これら国家レベルの警察諸機関はいまだ例外的ではあるも、21世紀以降、増加・増強される傾向にあり、それらの全体がアメリカの連邦警察集合体に相当する中央警察集合体を形成し、影の警察国家化を促進する要素となっている。
 その他、イギリスでも、アメリカと同様、企業体や大学などの自律的な部分社会が固有の小規模な警察組織を擁していることがある。
 全体として見ると、イギリスにおける影の警察国家化は、内務省が緩やかに統括する各地方警察を主力としながら、中央警察集合体が必要性に応じて増殖する形で、分散型警察国家として発現していると言える。

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近代革命の社会力学(連載補遺5)

2020-11-26 | 〆近代革命の社会力学

二十四 第一次ボリビア社会主義革命

(1)概観
 南米において世界恐慌が革命を惹起した例として、1932年のチリ社会主義革命に次ぐのが1936年5月のボリビア社会主義革命である。ボリビアでは、第二次大戦後の1952年にも、再度の社会主義革命が勃発しているので、36年革命を第一次社会主義革命と呼ぶこととする。
 ボリビアは19世紀における南米独立運動の英雄シモン・ボリバルの名を冠した南米の高原国家として1825年に独立した後、銀の産出国として銀の輸出を経済の軸に発展していったところ、19世紀末以降、欧米の金本位制の採用に伴う銀価格の下落から、銀に代わり錫が輸出の軸となっていった。
 こうした錫基軸のボリビア経済は20世紀初頭に全盛期を迎えるが、1929年に始まる世界大恐慌の影響から錫の輸出が急激に低迷したことは、ボリビア経済に打撃を加え、深刻な不況を招来した。
 このことが革命の動因となる点では、同時期、銅輸出の低迷が革命の動因となったチリと類似するところであるが、チリと異なったのは、恐慌が革命に直結せず、時間差をもって発現したことである。
 というのも、ボリビアでは恐慌からの打開策として、時のダニエル・サラマンカ大統領が1932年、隣国パラグアイとの国境線未確定の半砂漠地帯グランチャコにおける独占的油田開発を目論み、パラグアイに戦争を仕掛けたからである。
 このいわゆるチャコ戦争は当初のボリビア優位の想定を外れ、1935年まで継続した末、実質的にボリビアの敗北に終わり、目的のグランチャコの領有権はパラグアイに渡ったうえに、当時人口300万人ほどのボリビア側に6万人の戦死者を出す悲惨な結果となった。
 このチャコ戦争の失敗が、1936年5月の第一次社会主義革命を惹起したのであった。この革命の特徴は、チャコ戦争で活躍した青年将校が主体となったことである。その意味では、軍事クーデターに近いものであるが、下剋上的なクーデターであったこと、下支えとして全国に及んだゼネストの波があったことから、革命としての実質を持つに至った。
 革命主体が軍人であったことから「軍事社会主義」とも呼ばれる特異な社会主義革命でもあったが、通常は保守思想に染まりやすい職業軍人が社会主義化したのも、チャコ戦争体験のなせるわざだったかもしれない。
 実際のところ、革命後の体制は1932年チリ革命と同様に軍人と文民による軍民連合政権の枠組みであったが、100日天下に終わったチリの早まった革命とは異なり、ボリビアの社会主義革命は39年までの約3年間で外資企業の国有化や錫山銀行の設立など社会主義的な政策を推進した。
 しかし、権力闘争や革命政権の二代目大統領となったヘルマン・ブッシュの独裁化と突然の自殺といった不穏な展開が続き、革命は短期で挫折することとなった。
 とはいえ、この戦前の革命体験は、戦後1952年の第二次革命の前哨となったことは間違いなく、第一次革命とは対照的に、1960年代前半まで十数年のスパンで継続される「長い革命」となった第二次革命では、第一次革命での未完の革命事業がより広汎に推進されることになる。

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近代革命の社会力学(連載第172回)

2020-11-25 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(5)早まった革命の瓦解と事後的結党
 ダビラ暫定大統領による政変で、チリ社会主義共和国は第二段階を迎えるかに思われたが、頼みの陸軍との亀裂から、1932年9月13日に辞職に追い込まれ、陸軍出身の内相バルトロメ・ブランシュに地位を譲った。
 基本的には、この新たな政変により社会主義共和国は事実上終焉したと言えるが、ブランシュも政権閣僚だったことを考慮すれば、共和国は形式上まだ存続していた。
 しかし、10月に陸軍の一部が反乱を起こし、ブランシュも一か月持たずに辞職、後任は最高裁判所長官に委ねられたが、これはもはや政権の清算と革命前の体制の回復への過渡的な過程にほかならなかった。
 こうして、チリ社会主義革命は100日余りの天下で幕引きとなるのであった。結局のところ、チリにおける社会主義革命は恐慌後の社会的な混乱を背景として突発的に生じたもので、準備不足の早まった革命であることを免れなかった。
 この100日余りの期間は、独立以来のチリの歴史の中ではごく短い異例の一幕にすぎなかったが、社会主義政権は大恐慌後の経済危機に対応する緊急措置に関しては、平常時の政権では成し得ない対応を矢継ぎ早に実行したという点で、危機対応政権としての意義はあったと言えるかもしれない。
 また、同時期の欧州やチリ以外のラテンアメリカ諸国では、恐慌を契機にファシズムが台頭し、ナチスドイツをはじめ、いくつものファシズム体制が樹立されたのとは対照的に、チリでは社会主義革命を経験し、ファシズム体制の台頭を阻止した点でも、特筆すべきものがある。
 もっとも、社会運動のレベルではチリにもファシズムの波は発生し、特にドイツ移民の多いチリではナチスに同調するチリ国家社会主義運動がドイツ系チリ人の支援を受けて伸張し、1938年にはクーデターを企てたが、時のアレッサンドリーニ自由党政権によって武力鎮圧された。
 一方、社会主義陣営では、組織化の欠如が革命の早期挫折を招いたことの反省も踏まえ、革命翌年の1933年、改めて社会主義政党としてのチリ社会党が結成された。社会主義革命が事後的に社会主義政党を産み落とすという異例の事例である。
 党総書記には社会主義革命の主要メンバーでもあったマーマデューク・グローベが就任し、同じくマッテや元暫定大統領のダビラも入党したほか、後に社会党初の大統領となるサルバドール・アジェンデも若手党員として参加している。
 チリ社会党は、1930年代、ファシズムに対抗するため、共産党をはじめとする幅広い革新政党を糾合するソ連・コミンテルンの新戦略・人民戦線の中核となり、1938年には急進党のルイス・アギーレを大統領に当選させることに成功している。
 これ以降、人民戦線は40年代に民主戦線と改称しながらも、急進党出身の大統領を連続して選出する革新的選挙連合として、第二次大戦をまたぎ終戦直後まで継続されていく。その結果、総じて、社会主義革命終息後のチリ政治は、急進党の時代を迎えた。
 1938年から第二次大戦後の短い中断をはさんで52年まで6人の大統領を輩出した急進党は社会主義政党ではないが、反教権主義の中道左派的な位置を占める政党であり、このような革新政治の定着も社会主義革命の間接効果と言えるかもしれない。

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近代革命の社会力学(連載第171回)

2020-11-23 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(4)「百日社会主義共和国」の施策と内紛
 1932年6月4日から同年9月13日までのおよそ100日天下に終わったため、いささか揶揄を込めて「百日社会主義共和国」とも呼ばれる暫定評議会政権がまず当面したのは、大恐慌が招いた目下の経済危機への対処であった。
 暫定評議会は、緊急の困窮者救済策として、賃貸住宅からの立ち退き強制の禁止や預金引き出し制限を伴う3日間のバンク・ホリデー、貯蓄貸付組合や質店に質入れされた日用品の返還、さらには、失業者向けの無料食事の提供などを矢継ぎ早に打ち出した。
 また急激な財政悪化を食い止めるべく、暫定評議会は首都の宝石店に警察部隊を差し向け、現金化可能な証書による補償付きで宝石を押収するという奇策にも走った。さらに、チリで営業する内・外国銀行の保有する預金や債権を一方的に国有化する措置も講じた。
 こうしたいささか強引な緊急措置以外に、いくらか「社会主義」に沿った政策と言えたのは、生活価格総局を設置し、主食品の価格統制を行ったことぐらいであった。そもそも漠然とした社会主義の旗の下に連合した暫定評議会は、統一的な理念も綱領もないままスタートしたため、長期的な展望を伴う施策を実行する力量を持っていなかった。
 この時点での暫定評議会メンバーのうち、最も急進的だったのはグローベ大佐とマッテであったが、外交官出身のダビラはより穏健で、社会主義の急進化には否定的であった。権力構造的には、陸軍を支持勢力に持つダビラが優位にあった。
 元来、陸軍はイバニェス元大統領の支持者が多く、単にモンテーロ前大統領への反発からモンテーロ政権を転覆する革命を支持したにすぎず、社会主義にはそもそも否定的であったから、いずれ亀裂が生じることは自明であった。
 ダビラはいったん辞職した後、6月13日に陸軍の支持を受けて事実上のクーデターを起こし、グローベとマッテをイースター島に追放したうえ、形だけのプガ議長も解任して、自らが後任に就いたのであった。この政変により、暫定評議会はダビラ派で固められ、革命政権の構造が大きく変化した。
 ダビラは翌月には暫定評議会を解散して自ら暫定大統領への就任を宣言したうえ、非常事態を宣言し、検閲を導入しつつ、中央計画経済の手法による経済再建を試みようとした。彼は従前の合議制を廃して、権力集中的な手法で社会主義共和国を軌道に乗せようとしたのである。
 同時に、ダビラは革命以来、廃止されていた議会を復活させるべく、新たな議会選挙を布告するのであったが、ダビラには民衆的な支持がなく、さらに頼みの陸軍との間にも亀裂が生じ始めており、政情は著しく不安定化し、社会主義共和国はにわかに凋落へ向かう。

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比較:影の警察国家(連載第23回)

2020-11-22 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

4:部分社会警察の二面性

 これまでに見てきたアメリカにおける連邦―州―自治体の三層の公的権力にまたがる警察集合体に加えて、特殊アメリカ的な制度として、大学、学校区、博物館、企業体などの自律性を保障された部分社会ごとに設置された部分社会警察と呼ぶべき特殊警察機関がある。
 こうした部分社会警察は、連邦や州の公的権力の介入を許さず、各部分社会が独自に警察業務まで自己完結的に担うことにより、その自律性を確保しようとしている点では、アメリカ的な自由主義の表れと見ることもできる一方、極細分化された警察機関の林立により、警察国家化を促進する要因ともなるという二面性を備えている。
 そうした部分社会警察の中でも最も典型的なものは、大学警察である。大学警察は大学キャンパス及びその周辺域のみを管轄する警察であり、その管轄内に限っては、通常の警察と同等の権限を持つまさしく警察組織である。アメリカでは私立大学を含む大半の大学が大学警察を擁し、大学警察の大半は武装している。
 例えば、ハーバード大学警察部(Harvard University Police Department:HUPD)は80人以上の警察官を擁し、同大学構内の警備から講内犯罪の捜査までを一貫して担い、大学警察官は逮捕などの法執行の権限も保持している。
 一方、アメリカの学校区は各州内にあって、それ自体が独立した自治体に準じて扱われるため、独自の警察組織を備えていることがある。例えば、ロサンゼルス学校警察局(Los Angeles School Police Department)は、500人以上の要員を擁し、各学校区の学校敷地内やその周辺での警察活動を行う。
 博物館警察としては、スミソニアン協会が運営する博物館等の警備を担当する警備警察として、スミソニアン協会警護局(Smithsonian Institution Office of Protection Services)がある。
 ただし、スミソニアン協会系の博物館等自体は、連邦政府が保有・運営主体となっているため、警備局も連邦系の警察機関と見ることもできるが、協会の運営は自律的であるので、これも部分社会警察の一種とみなし得る。
 企業体警察としては、鉄道企業や港湾企業などの公共交通系企業体が運営する固有の警察組織が代表的なものである。
 例えば、全米最大級の長距離旅客鉄道網を運営する通称アムトラック(National Railroad Passenger Corporation:Amtrak)には、同社固有の鉄道警察として、アムトラック警察部(Amtrak Police Department)が設置されている。
 アムトラックは連邦政府系の公営企業だが、全米最大の貨物鉄道会社ユニオン・パシフィック鉄道のような完全な私鉄にさえ、固有の鉄道警察として、ユニオン・パシフィック警察部(Union Pacific Police Department)が設置されている。
 港湾警察としては、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社警察部(Port Authority of New York and New Jersey Police Department)がある。同警察はその名称にもかかわらず、港湾以外にも、ニューヨーク周辺の空港からハドソン川架橋・トンネル、都市間鉄道に至る広汎な公社の管轄域・施設に係る警察活動全般を担う警察である。
 興味深いところでは、アメリカ動物虐待防止協会(American Society for the Prevention of Cruelty to Animals:ASPCA)に、2013年まで愛護法執行部(Humane Law Enforcement Division)があり、動物虐待事案専門の警察(言わば、動物警察)として機能していたが、現在は廃止され、協会本部のあるニューヨークで市警と連携して動物虐待事案の捜査を支援するプログラムに再編された。
 これは部分社会警察から自治体警察に権限が移管された一例であるが、部分社会警察は一般的に小規模で、要員の経験や練度にも限界があるため、現代では一般警察と連携せざるを得ないことが多い。そのため、部分社会の自律性を文字通りに貫徹できるわけではなく、むしろアメリカ型多重警察国家の補完的役割が大きいと言える。

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近代革命の社会力学(連載第170回)

2020-11-20 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(3)社会主義者の軍民連合
 チリの1932年社会主義革命は電撃的に起きた点で特異であるが、その核となったのは、弁護士出身のエウジェニオ・マッテを中心に、革命前年の1931年に結成された社会主義的政治結社・「新しい公共行動」(NAP)であった。
 これは、フリーメーソンの自由主義思想を基盤としたラテンアメリカ特有の新しい社会主義を理念とするグループで、チリでも1922年に結成されていたマルクス主義の共産党とは一線を画していた。このNAPを中心に、マーマデューク・グローベ大佐を中心とする空軍と陸軍の中堅将校が参加する形で革命集団が結成され、1932年6月4日、クーデターの形で革命が実行された。
 このような社会主義革命に軍人が参加したのは、チリでは、1924年から25年にかけて、従来の議会共和制が崩壊するきっかけを作ったクーデター以来、軍内に革新派が形成されていたこともあり、その中心に、かねてから前のイバニェス政権打倒を企て、イースター島へ追放されたこともあるグローベ大佐がいた。
 とはいえ、革命に参加した軍人はごく一部であったから、この突発的な革命に対し、時のモンテーロ大統領は軍を動員して鎮圧を図ることもできたが、大恐慌後の経済危機対策で行き詰まっていたモンテーロがあっさり辞任したため、革命もまたあっさりと成功を収めたのであった。
 その結果、先のマッテとグローベに、駐米大使カルロス・ダビラ、退役将軍アルトゥーロ・プガを加えた暫定評議会が設置され、プガが議長職に就いた。この体制で、社会主義共和国の樹立が宣言されたのであった。ただし、プガは間もなく陸軍の圧力で辞任に追い込まれ、陸軍の支持を受けたカルロス・ダビラが後任に就いた。
 このような軍民混合のグループによる革命というあり方は、同時期に並行したタイの立憲革命における人民団にも通じるところがあるが、独立以来、すでに共和国としての歴史が長いチリにおいては、社会主義を包括的な共通理念として軍民が急速に連合した点に大きな相違があった。
 それだけに、この社会主義軍民連合はほとんど組織されておらず、にわか仕立ての様相を否めなかったうえに、労働運動や民衆との連携もなかったため、政権基盤は極めて脆弱であった。実際、この突発的な社会主義革命は人々を驚かせ、賛否をめぐって世論は二分された。
 保守勢力の反発を招いたのは当然としても、蚊帳の外に置かれた共産党や労働組合も、軍事クーデターの手法で実行された革命には否定的で、評議会メンバーらを軍国主義者と名指して非難し、野党を形成した。結局、革命政権の主要な支持基盤は、社会主義者の知識人と中流の勤労者団体だけというありさまであった。
 特に共産党を蚊帳の外に置いたことで、ソ連と外交関係は樹立したものの、世界の共産党総本部となっていたソ連及びコミンテルンからの直接的な支援を得られなかった革命政権の行く末はかなり不透明であり、その持続性には初めから疑問府が付いていた。

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近代革命の社会力学(連載第169回)

2020-11-18 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(2)大恐慌とチリの社会経済危機
 チリにおける1932年社会主義革命の動因となった1929年大恐慌が震源地アメリカから遠く離れた南米大陸南端のチリに破局的な影響をもたらしたのは、当時のチリが硝石(チリ硝石)と銅の輸出に依存した極端な輸出経済構造をとっていたためであった。
 チリ硝石は、19世紀後半に当時ペルー領だったタラパカ地方をチリ軍が占領して以来、世界最大の産出地となり、主に欧州への輸出でチリ経済は大いに潤った。しかし、乱掘削により1920年代には早くも枯渇が懸念され、20世紀初頭のハーバー・ボッシュ法によるアンモニア合成技術の発明以来、衰退し始めていた。
 そうしたところへ大恐慌に見舞われ、もう一つの基幹鉱物資源である銅の国際価格の下落も手伝い、チリは当時の国際連盟によって恐慌による影響が最も大きな国と名指しされたほどの打撃を被ることとなった。
 そのひどさは、輸出額が恐慌年の1929年から革命年の1932年にかけて六分の一まで激減、連動して輸入額も落ち込み、GDPでは1929年から32年までに20パーセント以上の落ち込みを記録するというものであった。
 労働に関しても、重要な雇用セクターであったチリ硝石及び銅山労働分野での大量解雇に伴う失業率の増大が見られた。職を失った鉱山労働者らは首都サンチアゴに国内難民として流れ込み、ホームレス化したため、炊き出しが行われる有様であった。
 大恐慌当時のカルロス・イバニェス大統領は軍人出身で、旧来の議会共和制を解体する契機となった1924年から25年にかけての二度の軍事クーデターにも関与していた人物である。その後、1927年に民選の大統領に就任すると、再強化された大統領権力をフル活用し、権威主義的な統治手法を用いつつ、アメリカからの融資に頼った大規模な公共投資でチリの近代化を推進しようとしていた。
 しかし、大恐慌を契機にアメリカからの融資も停止したことにより、政権運営に行き詰まり、1931年7月に政権を投げ出す形で事実上亡命、同年10月に行われた大統領選挙で、イバニェス政権の内相だったフアン・エステバン・モンテーロが初めて急進党から大統領に当選した。
 独立後チリにおける最大級の経済危機の最中に発足したモンテーロ政権は、公共支出の縮減、公務員給与の削減、行政改革などの教科書的な緊縮財政政策で経済危機に対処しようとしたが、通貨安とインフレーションの進行に歯止めをかけることはできず、早くも行き詰まった。
 このような突発的経済危機が直接に革命を惹起することは歴史上稀であるが、チリの場合は、大恐慌の影響が社会経済全般に及び、まさに危機的だったことに加え、1925年の新憲法下における新たな大統領共和制がまだ固まっていなかったことは、革命の土壌を形成したであろう。

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近代革命の社会力学(連載第168回)

2020-11-16 | 〆近代革命の社会力学

二十三 チリ社会主義革命

(1)概観
 前回まで見たタイ立憲革命と同年、大恐慌の影響がより直接的な動因となって発生した革命として、南米チリにおける1932年6月の社会主義革命がある。この革命は、独立後も全般に保守寡頭支配の共和制が根強い南米大陸において、初の社会主義を標榜した革命である。
 チリを含む旧スペイン領南米諸国では19世紀におけるスペインからの独立以来、独立運動で功績のあった現地生まれの白人(クリオーリョ)が独立後共和国の支配階級に上り、政治経済を寡頭支配する構造が定着していた。その構造は強固で、革命によって揺らぐ余地は狭かった。
 チリでもそうした構造は同様だが、ここでは1891年、当時の改革主義的なホセ・マヌエル・バルマセダ大統領と議会の対立が内戦に発展した後、議会を中心とする議会共和制の仕組みが整備されるなど、執行権独裁を防ぐ制度が導入され、ブルジョワ、中産、労働者の三大階級が議会制のもとに一定の均衡を保つ体制が形成されていた。
 とはいえ、この議会共和制は保守勢力が議会を掌握し、大統領権力を制約する構制であり、実は寡頭支配を防衛するための仕掛けでもあった。これに対して、第一次世界大戦後、チリの基幹産業であったチリ硝石の国際価格の下落を契機とする経済危機の中、大統領権力を再強化する改革的な潮流が起き、1925年の新憲法で大統領共和制へ移行した。
 この新しい共和制の中では、進歩的な新政党として急進党が台頭し、1931年の大統領選挙で、同党のフアン・エステバン・モンテロが初当選する。しかし、大恐慌の渦中にあって、彼の緊縮財政政策は効果を上げず、国民生活の窮乏を招き、翌年の社会主義革命を惹起したのである。
 そうした意味では、まさに大恐慌が産み落とした「大恐慌革命」とも言える稀有の事例であるが、それだけに、この革命は一過性の性格が強く、十分に組織化されていない軍人と文民の社会主義者のグループがクーデターの手法で電撃的に実行したものであり、民衆的な基盤も、国際的な支援もほとんどなかった。
 そのため、「社会主義共和国」を標榜したものの、政権運営は当初から行き詰まり、わずか三か月余りで瓦解、革命前の大統領共和制がすぐに復旧されることとなった。総じて、チリにおける社会主義革命はこの時点では早まった革命であり、比喩的に言えば、産まれた未熟児がすぐに死んでしまったようなものである。
 ただ、この時、革命に結集した人士を中心に、翌年、社会主義者の包括政党として、チリ社会党が結党された。同党はこれ以降、共産党を含むチリにおける革新政党を糾合した人民戦線の中核政党となり、1970年の大統領選挙では世界で初めてマルクス主義を標榜する民選大統領を誕生させることになる。

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比較:影の警察国家(連載第22回)

2020-11-14 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

3‐3:州の政治警察機能

 アメリカにおける政治警察機能は、以前の回で見たように、FBIをはじめとする連邦警察集合体に属する諸機関が中心的に担っているが、9.11事件後の「テロとの戦い」テーゼは、各州レベルでの政治警察機能の強化をも結果している。
 その点、日常的な犯罪の取り締まりに注力せざるを得ない自治体警察は政治警察機能まで十分に担うことが困難であるため、ニューヨーク市警やロサンゼルス市警のように独自の対テロリズム部署を稼働できる大都市警察の場合を除いて、州の政治警察機能は基本的に州公共安全省が担う構制となる。
 例えば、最古の州警察テキサス・レンジャーで有名なテキサス州の場合は、州公共安全省内に諜報・対テロリズム局(Intelligence and Counterterrorism Division)が、レンジャーとは別立ての独立部局として設置されている。
 一方、公共安全省を持たないニューヨーク州では、ニューヨーク州警察内の対テロリズム室(Office of counter terrorism)の下に、州警察諜報センター(State Police Intelligence Center)が稼働している。ニューヨーク市警の対応部署との二重的な稼働である。ニューヨーク州は9.11事件の現場となった州だけに、こうした二重構えの政治警察機能を備えている。
 これらとは別に、連邦レベルにおける国土保安省に対応する治安総合機関として、機関名は州によりまちまちながら、州国土保安部局(State Offices Of Homeland Security)と総称される機関が設置されるようになっている。
 例えば、ニューヨーク州では、国土保安・緊急サービス局(Division of Homeland Security and Emergency Services)がそれに該当する。テロの危険度が相当に低い辺境飛び地州のアラスカ州でさえ、ほぼ同一名称の国土保安・緊急事態管理局(Division of Homeland Security and Emergency Management)を擁している。
 これらは連邦レベルの国土保安省の州版といった位置付けで、州内警察集合体の対テロリズム部署や連邦の国土保安省と連携して活動する調整機関であり、それ自体は警察機関ではないが、州レベルの政治警察機能を円滑にする役割を持つ。
 テロリズムの未然防止のためには、犯人の地元州レベルでの監視・諜報活動も重要であることが認識されるにつれ、こうした州レベルでの政治警察機能がよりいっそう強化される可能性もあり、連邦のそれと合わせて、影の警察国家化が進展するかもしれない。

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比較:影の警察国家(連載第21回)

2020-11-13 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

3‐2:合衆国国家守備隊の二面性

 州警察を基軸とするアメリカの州レベルの警察集合体のほかに、州レベルの警察機能を持つ組織として重要性を持つのは、合衆国国家守備隊(United States National Guard)である。通常「州軍」と意訳されるこの組織は厳密には州の軍隊ではなく、正式名称どおり、合衆国の警察軍組織である。
 たしかに、この組織の沿革は合衆国を構成する以前の各植民地の民兵団にあり、合衆国が成立し、連邦軍が組織された後も連邦軍に吸収されることなく、予備兵力として多くの戦争に動員されたきた軍事組織であるが、同時に、この組織は州の警察力が不十分な中、州内の治安秩序維持を主任務とする一種の警察軍としても機能してきた。
 その意味で、予備兵力としての側面に傾斜して、これを「州軍」と意訳してしまうと、警察機能の面が削ぎ落され、アメリカにおける影の警察国家を組成するUnited States National Guardの二面的な役割が見落とされる恐れがある。
 そうした軍事‐警察の二面性を持つ組織としての性格は二つの大戦を経て構築されてきた現行制度下でも維持されており、陸上隊と航空隊から成る国家守備隊は基本的に連邦軍の予備兵力として国防総省の管轄下に置かれ、連邦から予算を配分されつつ、平時には州知事の指揮下で州内の治安秩序維持等に従事するという二重の役割を担う。
 このうち、後者の州内治安部隊としての役割において、州の警察集合体の一部を構成することになるが、ここでの国家守備隊の役割とは、州内での暴動・騒乱事態に際して出動・鎮圧する機動的な警備警察活動である。その点、自治体警察や州警察にも警備警察としての機能は備わっているものの、小規模組織が多く、大規模な事態には対処し切れないため、人員・装備も高度な国家守備隊の出動が要請されることになる。
 この面での活動は主として州知事の自主的な判断に基づき、その指揮下で行われるが、例外的に、連邦全土に関わる事態に対しては、連邦政府の要請に基づき、州知事が出動を命ずる場合もあるという点では、部分的に連邦レベルの警備警察機能にもかぶっている。
 国家守備隊の警備警察としての役割が飛躍的に高まったのは、1960年代、公民権運動やベトナム反戦運動が激化した際の騒乱鎮圧に際してであった、この時期の最も悪名高い国家守備隊の出動例として、1965年にカリフォルニア州で起きた人種騒乱に際してカリフォルニア州国家守備隊が出動し、鎮圧過程で1000人以上の死傷者を出したワッツ事件がある。
 公民権運動や反戦運動の退潮に伴い、国家守備隊の治安出動事例は減少し、災害救助のような平和的任務が増発したが、近年、自治体警察による人種差別的な致死的法執行に抗議するデモが全米に拡散する中、再び国家守備隊の治安出動例も出ており、警備警察機能が再強化されつつある。

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近代革命の社会力学(連載第167回)

2020-11-11 | 〆近代革命の社会力学

二十二 タイ立憲革命

(5)武官派の優位と疑似ファシズムへの転化
 1938年にパホン首相が事実上の不信任により退任した後、首相の座に就いたのは、やはり軍人のプレーク・ピブーンソンクラームであった。彼はパホン前首相よりも一回り下の世代の人物であったが、人民団に加わり、早くから野心的な頭角を現していた人物である。
 ピブーンは1938年総選挙後に招集された議会(人民代表院)の選挙ではわずか5票しか獲得できなかったにもかからわらず、後任者となるに当たっては、軍部の支持と圧力があった。これにより、二代続けて武官派から首相が選出されることとなり、文民中心の政党政治が未確立の中、武官派の優位が決定的となった。
 一方、文官派の指導者プリーディ―のほうは、パホン内閣で内相と外相を経験し、ピブーン内閣でも財務相に起用され、政権の主要閣僚としての座は維持していたが、文官派の劣勢は明らかであった。
 首相に就任したピブーンは同時代イタリアのファシズムとその指導者ムッソリーニに傾倒しており、就任早々からファシズムに傾斜した政策を展開し始めた。手始めは、人民団員を含む反対派の大量検挙と処刑という恐怖政治であったが、続いて自身もそこに含まれた華人の権利を制限し、同化を促進する一種の民族浄化政策を開始したのであった。
 国名を従来のシャムから民族自称のタイに変更したのも、そうした民族主義政策の象徴であった。こうした国粋的な民族主義政策には、従来から経済的な権益を握っていた華僑華人勢力を階級闘争ではなく、民族差別によって抑圧する狙いがあったこともたしかであり、その点では、同時代ドイツの反ユダヤ政策にも通じるところがある。
 対外政策に関しては、すでに前任のパホン首相時代からの親日政策をさらに進め、太平洋戦争が勃発すると、国民総動員体制を採るとともに、当初は中立を標榜するも、間もなく日本との同盟に転じ、枢軸国側に立って米英に宣戦布告した。
 しかし、その過程で日本軍のタイ領内通過を認めるという形で日本軍による準占領状態に陥ったことへの国民の反発が高まり、ピブーンは第二次内閣を率いていた44年、いったん辞職に追い込まれることになる。
 しかし、サバイバル戦術に長けた彼は、戦後、クーデターによって返り咲き、以後、1957年に軍部内造反派のクーデターで失権するまで、連続的に通算八次もの内閣を率いて、一時代を築いた。
 こうしたピブーンの体制は、個人崇拝による独裁政治であった。その点、ピブーンは戦後、自身の政党を結成したものの、基本的には政党よりも軍部を支持基盤とする軍事政権の性格が強かったため、純粋のファシズム体制ではなかったが、ファシズムに強く傾斜した疑似ファシズムの性格を持っていた(拙稿参照)。
 このような方向性は出発点の立憲革命の理想からは逸脱したもので、とりわけ文官派のプリーディーの理念とは合わなかったから、彼はピブーンと次第に敵対するにようになる。特に親日政策に反対し、戦時中は日本の準占領状態に抵抗する自由タイ運動を組織するなど、完全に袂を分かった。
 人民団文官派は戦後、民主主義の確立を目指して新党・民主党を結党し、クアン・アパイウォンを首相に擁して政権を獲得するが、ピブーンのクーデターで打倒され、民主党体制が根付くことはなかった。結局、タイはピブーンの最終的な失権後も、軍部のクーデターが相次ぐ体質が今日まで続いている。
 結局のところ、1932年立憲革命は絶対君主制の転換という点では長期的な成功を収めたものの、中心となった人民団における武官派主導のクーデターという手法によったことから、武官派の優位が確立し、人民団が役割を終えた後も、軍部優位の構造が定着したのである。

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