ザ・コミュニスト

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戦後日本史(連載最終回)

2013-11-19 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

結論

 2009年9月の政権交代により、ある種の熱狂の中でスタートした民主党政権は、三代目野田内閣の下、消費増税策をめぐる内紛から反増税派の小沢一郎とその支持グループが集団離党するなど分裂・迷走の末、12年12月の解散・総選挙の結果、わずか57議席にとどまる壊滅的大敗を喫し、幕を閉じた。代わって、野党・自民党が前回総選挙とは正反対の地滑り的圧勝を収め、政権に返り咲いたのだった。
 政権の主は、再び安倍晋三である。この第二回安倍政権は1年で挫折した第一回政権の反省を踏まえてか、かつての愛国主義的なスローガンは封印し、長期不況からの脱却を目指す経済対策プログラムを前面に打ち出してきた。
 とはいえ、第二回安倍政権が第一次政権時よりも穏健化したわけではない。それどころか、民主党が壊滅し、日本維新の会も伸び悩んだ中、戦後史上例を見ないほどに野党が断片化し、与野党格差が広がった状況下、13年7月の参院選でも圧勝して衆参両院を制した安倍政権は巨大化した連立与党の力をもって、改憲という悲願達成へ向けて動き出そうとしている。
 さしあたりは、国家安全保障・機密保護に関する政府権力を強化して下準備を着々と進めているところである。またNHK経営委員人事に対する政府の影響力を強め、公共放送を通じたイデオロギー宣伝に乗り出そうとしているのも、そうした準備工作の一環とみなし得る。
 一方で、第一回安倍政権時には十分に展開できなかった新自由主義的な経済政策に関しては、戦後改革の重要な産物の一つである労働法制の抜本的な規制緩和―労働ビッグバン―を改めて目指しており、言わば小泉政権時の第二次新自由主義「改革」に引き続く第三次新自由主義「改革」を断行する構えを見せている。
 第一回安倍政権当時の包括的スローガンは「戦後レジームからの脱却」であったが、これは今まさに権力基盤を大幅に強化して再生した第二回政権の下、本格的に実施に移されようとしているのである。これを本連載のキーワードで表現し直せば、「逆走」のゴールへ向けたラストスパートということになろう。
 こうして3年3か月間の中だるみを経て再開された「逆走」の急流は、以前にも増して急ピッチとなることは間違いない。この激流を阻止し得るだけの力量を備えた勢力は、少なくとも議会内には存在しないと言ってよい。今や、日本の政党地図は共産党を含めて「総保守化」してしまっているからである。
 もっとも、共産党は12年12月総選挙で議席を伸ばし、一定の党勢回復傾向を示したが、これは民主党とともに壊滅した社民党支持票を吸収する形で、一定の積み増しがあったからにすぎない。その党名にもかかわらず、日本共産党の現行路線は実質上社会民主主義であって、これは本来の革命的な共産主義の理念からすると資本主義的後退・保守化を示しているのである。
 一方、12年に結党されたばかりの反原発派環境政党・緑の党も13年の参院選で初めて立候補者を立てたが、一人も当選者を出すことはできなかった。選挙戦略上の不備もあったとはいえ、あれほどの原発大事故も、緑の党に議席をもたらす追い風とはならなかった。
 こうして「赤」も「緑」も対抗力を持つことができない現在、1950年を起点とする「逆走」は半世紀以上をかけてゴールに達しようとしているのである。最終ゴールはまだ視界にはっきりととらえられているわけではないが、行く手にうっすらと浮かび上がって見えるのは、議会制の枠組みを伴いつつ、ファッショ的色彩を帯びた管理主義的かつ選別・淘汰主義的な国家社会体制である。(連載終了)

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戦後日本史(連載第29回)

2013-11-18 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔三〕ファシズムの予兆

 民主党政権の3年3か月間で「逆走」の流れは中断こそしなかったものの中だるみを来たす中、底流では「逆走」のマグマが鬱積していた。
 自民党はかつての革新系社会党に代わって中道保守系民主党がライバルに浮上して以来、従来よりもいっそう右に軸足を移し、右派政党としての性格を強めてきたが、2009年総選挙での大敗は、この傾向を決定的にした。
 実際、大敗の中でも「生き残り」を果たした議員の多くは党内右派の有力者たちであったから、大敗・下野による党のダウンサイジングは、かえって自民党を右派政党として再構築する機会となった。
 とはいえ、大敗・下野の影響は大きく、09年総選挙の前後には相当数の脱党者を出した。そうした面々の受け皿となった派生政党の中には、「みんなの党」のように明白に新自由主義を志向する小泉「改革」の忠実な継承勢力のようなものも見られた一方で、自民党よりもさらに右に出る極右政党も現れた。
 その一つは、元来自民党内最右派に属した石原慎太郎東京都知事(当時)を精神的指導者とする「太陽の党(旧称・たちあがれ日本)」であり、ここには石原をはじめとする国家主義・国粋主義的傾向のベテランらが結集した。
 他方において、当初は自民・公明両党の支持を背景に大阪府知事に当選したタレント弁護士の橋下徹を中心に、大阪を地盤とする地域政党としてスタートした「日本維新の会」(以下、「維新の会」と略す)のような新しいタイプの極右政党も出現した。
 維新の会は経済的には新自由主義傾向を、政治的には国家主義傾向を示す―その限りでは小泉政権をいっそう極端化したような性格を持つ―混合的な要素から明確な性格付けの難しい政党であるが、地方政治の面ではいわゆる道州制・「大阪都」構想を掲げ、知事に教育分野にも踏み込む強大な権限を付与してトップダウンの権威主義的な執行権独裁を志向する点や大衆扇動的な政治宣伝を駆使する点で、ファシズムの傾向を濃厚に持つ。 
 同党はまず大阪で旋風を巻き起こし、瞬く間に大阪府/市の地方政治を掌握し、民主党政権が行き詰まりの度を深める中、全国的にも「第三極」としての期待を集めるようになった。
 しかし維新の会は民主党政権が揺らぐ中で近づく総選挙をにらみ、自前の全国組織化ではなく、前出太陽の党と合併する道を選択したが、これは同党が来たる総選挙で伸び悩む要因となる党略上の失敗であった。
 たしかに両党の橋下・石原両指導者は国家主義的な価値観と権威主義的な政治手法を共有していたが、世代的には親子ほども離れ、橋下が新自由主義的な国家の再構築に傾斜するのに対し、石原は旧来の国粋主義に近いというイデオロギー的な齟齬が当初から認められた。
 結局、この合併は維新の会を手っ取り早く全国政党化するには役立ったが、同党の「新しさ」のイメージを損なう結果ともなったのだった。
 ともあれ、こうした極右政党の台頭とそれにも触発された自民党の右派純化路線は、政党全体の座標軸を大きく右へ動かし、ファシズムの到来を予期させるような状況を作り出した。
 ここで予期される新時代のファシズム―ネオ・ファシズム―とは、戦前の旧ファシズムとは異なり、議会政治に適応化しつつ市場経済原理を取り込み、新自由主義とも親和的であるが、本質的には旧ファシズムの系譜を引く差別・淘汰思想を蔵した国家主義的・国粋主義的な潮流である。
 維新の会はそうしたネオ・ファシスト政党の先取り的な存在であり、日本政治の今後の動向次第では本格的なネオ・ファシスト政党として改めて躍進する可能性も―分裂の可能性とともに―残されている。
 あるいはまた、民主党が外国人地方参政権の解禁に積極であることに対する反発から顕在化してきた在日韓国人排撃運動のような外国人・少数民族排斥を精神的な基盤とする別筋のネオ・ファシスト政党の出現なども可能性として想定できるような情勢が作り出されているのである。

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戦後日本史(連載第28回)

2013-11-06 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔二〕「逆走」の中だるみ

 民主党政権最初の首相に就いたのは、鳩山由紀夫であった。鳩山は55年体制最初の自民党首相となった鳩山一郎の孫に当たり、自民党議員を経て、新党さきがけ時代の同僚・管直人とともに民主党の共同創立者となった。
 ここで、安倍‐福田‐麻生‐鳩山と、政権交代をまたいで四代続けて父もしくは祖父が首相経験者という首相を輩出したのは、日本史と言わず、世界史上も異例―というより異常―であり、日本の戦後政治が議会制民主主義の衣を纏いつつ、議員職が特定の名望家系に世襲化されるブルジョワ寡頭政に近づいてきたことを示している。
 それはともかく、鳩山内閣は社民党を連立に引き込んだ関係上、一定のリベラル左派色を帯びていたが、このことが命取りとなる。鳩山内閣は沖縄の普天間基地移設問題をめぐり、自民党政権時代の日米合意で辺野古への移設が決まっていたのを覆し、県外移設の方針を打ち出したが、これは沖縄で一定の影響力を保持する社民党の主張に引きずられたに等しかった。
 当然にも米国政府及び外務省は強く反発し、外交交渉は難航、結局、鳩山内閣は県外移設を断念した。これに対し、県外移設にこだわる社民党閣僚が辺野古移設の最終的な日米合意の閣議決定への署名を拒否し罷免されたのを機に連立を離脱したことを契機に、鳩山内閣は10年6月、わずか9か月で総辞職となった。
 後任に就いたのは、党共同創立者の管直人であった。管は市民運動をバックとする小政党の出身であり、そうした経歴の首相としては史上初の異例な人物であったが、政治的には左派と右派の間を浮動する日和見で、ある意味ではイデオロギー的な軸が不明瞭な民主党を最も象徴する人物でもあった。
 管内閣は民主党が選挙公約に掲げた歳出抑制を通じた財政再建という方針を事実上覆し、自民党案に沿った消費増税の方針を突如打ち出したことで反発を買い、10年7月の参院選で与党は大敗、2年後の総選挙惨敗のきっかけを作った。
 こうして参議院では政権運営を困難にする野党主導の「ねじれ」が再び発生したところへ、管内閣は11年3月、福島第一原発事故を伴う東日本大震災という最大難局に直面する。
 管首相はとりわけ原発事故対応において、不適切な現場介入をしたとの批判を浴び、震災復旧対応でも被災者が満足する迅速な対応を打ち出せず、民主党政権への信頼を低下させるもとを作った。
 支持率が急落・低迷する中、結局、管内閣も11年9月をもって1年余りで総辞職となった。後任には野田佳彦財務相が昇格する形で就任したが、野田は政治歴や知名度では前二者に及ばず、役者不足の感は否めなかった。
 ただ、細川護熙元首相が率いた日本新党の流れを汲む野田は、信条面では保守色が強く、イデオロギー的には自民党に限りなく近い人物であった。
 実際、中国脅威論者の野田首相は、自民党政権時代にも棚上げされていた尖閣諸島領有の意思を明確にして同諸島の国有地化を実現し、その後の日中関係悪化のきっかけを作った。また消費増税の方針を管内閣以上に鮮明にし、野党自民党に歩み寄る姿勢を一段と強めた。
 結果的に、政権担当日数では野田内閣が鳩山・管両内閣を上回り、通算3年3か月間の民主党政権では最長となったが、この間、鳩山→管→野田の順で政権の保守色が順次強まり、自民党政権復活の下準備が整うのである。
 総じて言えば、民主党政権の3年3か月は「逆走」の中だるみ期間ではあったが、流れを本質的に止めることはなかった。ただ、「逆走」では従来自民党と競走関係にあり、小泉「改革」後の国家体制を承継した民主党に「逆走」を止める意思も能力もなかったのは無理からぬことではあった。

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戦後日本史(連載第27回)

2013-11-05 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

終章 「逆走」の行方:2009‐

〔一〕民主党政権の成立

 安倍内閣が1年で挫折した後、後任に就いたのは、福田赳夫元首相の息子で、安倍と同じ派閥に属しながら穏健派の福田康夫であった。最右派安倍の後任により穏健な福田が座ったのは、安倍内閣への国民的警戒感が07年参院選大敗を招いたことに配慮したある種の微調整が働いたせいであっただろう。
 けれども、福田内閣も07年参院選で作り出された「ねじれ」を乗り切ることはできず、1年余りで退陣、後任には麻生太郎が就く。
 母を介して戦後の「逆走」の流れに先鞭をつけた吉田茂の孫に当たる麻生は元来、宮沢喜一元首相の流れを汲む比較的リベラルな派閥に属していたが、イデオロギー的には明らかに安倍と近い関係にある右派であり、小泉・安倍両政権下でも総務相や外相の要職を歴任していることから、森首相以来四代続けて首相を出した最右派かつ最大派閥の後ろ盾を得ていた。
 08年9月に発足した麻生内閣が最初に直面したのは、いわゆるリーマン・ショックを契機とする金融危機と世界同時不況であった。「百年に一度」とも評され、1929年大恐慌の再来も懸念される中、麻生内閣は緊急経済対策を打ち出すが、焼け石に水のごとくであった。
 ここで小泉政権時代に突破口が開かれた非正規労働の拡大がマイナスに効いてくる。08年末から翌年頭にかけては危機の中で解雇された派遣労働者を中心とする大量の失業者が事実上ホームレス化し、人道団体の仲介で政府や東京都が一時的な宿泊所を提供する「派遣村」が出現するなど、危機的状況に陥った。
 出口の見えない経済危機の中、麻生内閣は首相自身のジョーク交じりの失言癖もマイナスに作用して支持率が落ち込み、野党側からは衆議院解散要求が出るが、敗北を恐れる連立与党は解散に踏み切れなかった。
 解散時期を先延ばしにした末に09年7月、麻生首相がついに解散・総選挙を決定するも、結果は予想を超えた自民・公民連立与党の歴史的な惨敗であった。自民党は獲得議席が半減以下となり、結党以来初めて衆議院でも第一党の座を野党・民主党に明け渡すこととなった。
 こうして09年9月、戦後初めて実質上完全な形の政権交代が実現し、地滑り的勝利を収めた民主党が政権に就く。新政権は与党第一党民主党を筆頭に、社会民主党―自民・民主両党と連立を組んだ日和見政党は同党唯一である―、国民新党を加えた連立政権としてスタートした。
 この連立組み合わせからも、早々から施政方針が大きくぶれるこの政権の雑多な性格がみてとれるが、辛うじて性格づけするとすれば、新政権は中道保守・右派に中道左派が相乗りした総中道政権であったと言えるであろう。となると、99年来急進化していた「逆走」の流れは、さしあたりよどむことになりそうであった。

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戦後日本史(連載第26回)

2013-10-22 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔五〕最右派・安倍内閣の「業績」

 右派・小泉政権の5年は「逆走」をいっそう急進化し、戦後最右派の内閣を産み落とした。2006年9月の小泉政権退陣後、後継首相に就いた安倍晋三は、母を介して50年代に右派内閣を率いた岸信介元首相の孫に当たり、父も80年代に首相候補に名の挙がった安倍晋太郎元外相という政治一族の生まれであった。
 就任時52歳だった安倍は小泉と同じ派閥に属し、若くして小泉政権の官房長官を務めるなど、小泉首相の信任も厚く、安倍後継は前首相からの禅譲に等しいものであった。
 安倍は祖父岸の右派路線の継承者であって、改憲を暗示する「戦後レジームからの脱却」や「美しい国、日本」などの愛国主義的なスローガンを携え、その周囲には多くの右派政治家が集まり、若手・中堅右派のホープでもあった。
 実際、安倍の主要な政治的関心は郵政民営化のような経済政策よりも、改憲を軸とするイデオロギー政策のほうに置かれていた。わけても改憲へ向けたプロセスを具体的な政治日程に乗せることを最大使命とした。「逆走」のアクセルはいっそう強く踏み込まれるはずであった。
 こうしてポスト小泉の本格政権を期待されてスタートした安倍内閣はわずか1年で退陣に追い込まれるのであるが、その1年の間に決して小さくはない「業績」を残している。
 その最大のものは改憲のための国民投票法の制定である。従来、憲法には改憲条項がありながら実際の改憲手続きを定めた法律は未制定のままであった。そこで安倍内閣は改憲へ向けた最初の突破口として、史上初めての本格的な改憲国民投票法の制定を急ぎ、強行採決の形で成立に持ち込んだのであった。
 また改憲とも密接に関連する重大な法改正として、教育基本法の改定も断行された。教育基本法は戦前の尊王・国家主義的な忠君愛国教育を廃し、憲法の精神に基づいた民主的教育の精神的支柱としての意義を担う基本法として、憲法とほぼ一体のものであるから、改憲を狙う安倍内閣にとっては第二の突破口であった。
 とりわけ愛国教育を基本原則の一つとして法に明記することが最大目標とされ、いくらか妥協的な修正文言を加えられたものの、愛国教育が教育基本法の新たな基本原則として位置づけられることになった。
 さらに防衛力増強と自衛隊の国軍化に関心の強い安倍内閣は、従来内閣府外局として附属機関的存在であった防衛庁の正式な省昇格も実現させた。これは単なる名称変更にとどまらず、自前の主務大臣を持った防衛当局が政治行政的な発言力を増強することを意味した。
 これらの施策は小泉前政権からの引き継ぎという面もあり、そのすべてを安倍独自色とみなすことはできないが、どちらかと言えば経済政策に重心を置いていた小泉政権がやり残した政治面での「逆走」をさらに進めていく意味を帯びていた。
 ただ、安倍内閣はこうした施策を小泉政権下の郵政解散総選挙での圧勝で巨大化した与党の力をもって、十分な審議を経ずに与党だけでの強行採決を繰り返して権威主義的に進めていった点において、政治手法の面でもまさに「戦後レジームからの脱却」を図っているかのように見えた。
 こうした安倍内閣の手法には国民の間から警戒心も生じたと見え、07年7月の参議院選挙で自民党は一転して大敗、代わって2年前の郵政解散総選挙で大敗した野党第一党・民主党が多数を占め、参議院では野党勢力が主導権を握るいわゆる「ねじれ」に陥った。
 この結果、政権運営に行き詰まった安倍首相は、健康状態の悪化による執務困難を表向きの理由として、07年9月、突如辞任を表明し、安倍内閣はわすか1年で退陣することとなったのであった。

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戦後日本史(連載第25回)

2013-10-09 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔四〕第二次新自由主義「改革」

 小泉政権を経済政策面で特徴づけるキーワードは、新自由主義であった。ただ、これもまた20年前の中曽根政権時代の規制緩和・民営化を軸とした経済政策の復刻であり、歴史的に見れば中曽根政権時代の第一次新自由主義「改革」に対して、第二次新自由主義「改革」と呼ぶべき波であった。
 それはしかし、中曽根時代の第一次「改革」と比べてもイデオロギシュで、社会保障・労働、司法にも及ぶ広範囲なものであって、そのイデオロギー的なベースには、小渕内閣時代の諮問機関の答申が置かれていた。そうした意味で、小泉政権を準備したのは小渕政権であったと言える。
 そうした第二次新自由主義「改革」のシンボルは郵政民営化であったが、より民衆の生活に直結する広範囲で歴史的と評してよい悪影響を及ぼしたのは、派遣労働の規制緩和であった。
 派遣労働についてはやはり中曽根政権時代に限定的に解禁されていたが、小渕政権時代の1999年の原則自由化を受け、小泉政権下の04年には製造業にまで拡大され、これによって一気に派遣労働者が増大していった。いわゆる非正規労働の時代の号砲であった。
 社会保障分野では画一的な社会保障費抑制策によって各種社会サービスが停滞し、また公的年金の給付額を財政経済情勢に応じて減額調整することも認めるマクロ経済スライド制を導入するなど、財政均衡に傾斜した政策を志向した。
 こうした方向性は弱肉強食の「市場原理主義」との非難も招いたが、小泉政権は終始高支持率をキープし、彼の政策によって痛めつけられるはずの一般大衆によって喝采されていたのである。
 小泉政権時代、野党勢力では民主党が筆頭野党の地位を確立しつつあったが、イデオロギー的な軸の定まらない雑居政党で、自らも結党時の基本政策に「市場原理の貫徹」を謳う同党が小泉「改革」への明確な対抗軸を示すことはなく、第二次新自由主義「改革」は政党地図の総保守化という大状況の中、暗黙の与野党合作で進められていったのである。
 皮肉にも、小泉政権の敵は自党内にあった。とりわけ田中角栄以来、郵政利権を基盤としている党内勢力の間では郵政民営化に対する反発は当然にも根強く、郵政民営化法案が上程されると党内から公然たる反対行動が起き、法案は参議院で否決されるに至った。
 05年8月の衆議院解散・総選挙はそうした党内の“抵抗勢力”を排除するために打たれた布石であって、実際、小泉は郵政民営化に反対する自党系候補者を公認せず、対抗馬(いわゆる“刺客”)を立てる奇策を用い、自党を圧勝に導いたのであった。
 このような党内抗争の結果、郵政民営化に反対する議員らが自民党を離党して国民新党を結成する動きも見られたが、小泉政権の基盤を揺るがすことはなかった。
 こうして「既得権打破」を呼号する小泉の姿勢は、一般大衆の目には田中角栄に象徴されたような旧来の利権保守主義からの決別を示す「改革」と映り、ますます小泉政権への支持を高めたのであった。
 小泉政権の施策は市場からも好感され、2002年2月に始まる景気回復は小泉政権時代を通じて軌道に乗り、政権退陣後の07年10月まで戦後最長の好況をもたらした。
 失業率も04年以降改善に転じたが、その裏には非正規労働者の急増という現象があり、雇用不安を内蔵した好況であった。このことは、小泉政権退陣後の世界同時不況に際しての「派遣切り」による大量失業という反作用的な破綻の伏線となっていく。

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戦後日本史(連載第24回)

2013-10-08 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔三〕右派・小泉政権の登場

 1999年の画期を作り出した小渕政権は、2000年4月、首相の発病、内閣総辞職によって突然終わった。その後党幹部の密議により、森喜朗が後継首相に就く。森は岸信介の流れを汲む右派派閥の領袖で、田中派、次いでそれを引き継ぐ竹下派の党内支配が続く中、長く閉塞していた同派閥からは76年‐78年の福田赳夫以来の首相誕生であった。
 しかし、森首相は就任早々から大きくつまづく。まず「日本は天皇を中心とした神の国」という発言が波紋を呼んだ。これはメディア上では「失言」という受け止めをされたが、実際のところ、国旗国歌法制定の直後にあっては、出るべくした出た明治憲法回帰的な「逆走」発言と言えた。
 結局、森内閣は首相自身の「資質」が疑問視されて低支持率に終始し、00年6月の解散・総選挙をはさんで1年余りで退陣した。後任には同じ派閥のベテラン小泉純一郎が就いた。
 小泉は森の辞任表明を受けた自民党総裁選挙で、当初本命視されていた首相返り咲きを狙う橋本龍太郎を破ってのサプライズ登板であった。しかし、01年4月に発足した小泉政権の性格は、まさに99年を起点とする「逆走」の急進化にふさわしいタイムリーなものだったのである。
 その基本性格と施策は、様々な点で「逆走」再活性化の流れを作り出した20年前の中曽根政権に酷似していた。特に外交防衛面では、対米協調に重心を傾けた事大主義的保守主義を基調とし、当時のレーガン共和党政権と親密な関係を築いた中曽根政権と同様、小泉政権もレーガン政権の流れを汲むブッシュ共和党政権と親密な関係を取り、ブッシュ政権が主導した01年のアフガン戦争、03年のイラク戦争に全面協力したのである。
 ただ、観念論的な“不沈空母”発言にとどまった中曽根とは違い、戦争協力にまで踏み込んだことも含め、小泉政権の右派的性格は中曽根政権のそれをはるかに上回っていた。その象徴と呼ぶべきものを三つ挙げるとすれば、有事法制、靖国神社公式参拝、新憲法草案である。
 有事法制は、従来机上論にとどまっていたものを99年の周辺事態法制定を契機にさらに歩を進めた実質的な戦時体制法であり、内容上憲法的疑義を持たれるものであった。
 靖国神社公式参拝は中曽根も一度敢行したが、中国の異議を受けて以後差し控えたのに対し、小泉は中国の異議を押し切って連年の参拝を繰り返した。これによって対中関係は冷却し、中国では05年、日本政府の教科書検定に右派的傾向の歴史教科書が合格したことを契機に大規模な抗議行動が起き、一部が暴徒化する事態となった。
 新憲法草案は政権末期に提案されたもので、長年自民党が棚上げしてきた「自主憲法」制定論を初めて明確な形にして公表した点で画期的であった。その内容は自衛隊を「自衛軍」に転化し、基本的人権を「公益」「公序」によって制約することを容認するなど、明治憲法回帰的な「逆走」の到達点を指し示すものでもあった。
 小泉政権と中曽根政権の類似性は、大胆な解散・総選挙に打って出て自党に圧勝をもたらした点にも見られた。中曽根が86年6月に違憲の疑いも指摘された衆参同日選に打って出て圧勝し、国鉄分割民営化を断行したように、小泉も05年8月、持論である郵政民営化を断行すべく、解散・総選挙に打って出て圧勝をもたらしたのである。
 ただ、その政治手法には明確な相違があり、ともに官邸主導のトップダウンによりつつも、所詮は官僚出身の超然的な中曽根に対し、生粋の政党人である小泉は「ワンフレーズ」とも称された単純なプロパガンダを巧みに利用した大衆扇動的手法に長けていた。この点では、従来の日本の首相には見られなかった―強いて類例を挙げるとすれば、田中角栄か―新しいタイプの首相でもあった。
 そうした手法にもよりつつ、小泉政権はやはり中曽根政権とほぼ同じく約5年に及ぶ長期政権の中で、「逆走」の急進化を本格的に主導していったのである。

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戦後日本史(連載第23回)

2013-09-25 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔二〕政党地図の総保守化

 画期1999年を導いたのは、96年の日本社会党解党に始まる日本の政党地図の総保守化という政治的な大状況であった。
 すでに述べたとおり、社会党が実質上解党した後、党内主流派はこぞって同年に新党さきがけの鳩山由紀夫と管直人が中心に結成した民主党(第一期)に合流していった。
 民主党は当初、さきがけのようなリベラル保守系小政党の出身者と社会党右派の議員を中心に結成されたため、あいまいながらもいくぶん左派色を帯びてはいたが、98年に改めて結成し直された民主党(第二期)には小沢一郎と袂を分かった保守系議員ら雑多な分子も流れ込んだため、そのイデオロギー的な基軸はいっそう不明瞭となり、左派と右派の間を浮動する日和見主義政党として再編された。
 そのため、結党時点で統一的な綱領を策定することすらできないありさまであったが、経済政策的には「経済社会においては市場原理を徹底する」など、当時はまだ自民党が明確に染まっていなかった新自由主義に傾斜した政策を抽象的に掲げていた。
 ただ民主党は雑多な分子から成る綱領も持たないヌエ政党であるがゆえに、かえって「非自民党」という一点でまとまりやすく、二大政党間で政権を転がし合ういわゆる二大政党政を志向する者たちにはアピールしやすい利点を備えてはいた。
 実際、民主党は第二次結党から二年後の2000年の総選挙で早くも100議席の大台に乗せる伸びを見せた。さらに03年には小沢一郎率いる自由党と合併する形で“選挙の達人”小沢を迎え入れたことで、保守層に食い込む足がかりも得て、同年の総選挙では177議席を獲得する躍進を見せたのだった。
 一方で、連合を中心とする労組主流は旧社会党の後身と目される社民党を支持せず、民主党支持に転じていたことから、民主党は労組勢力を支持基盤に取り込むことにも成功していた。このことは、日本の労組主流派がいよいよプチブル保守化の傾向を強め、資本主義体制の中に完全に回収されたことを裏書きしていた。
 ともあれ、こうして90年代の新党乱立状態が止揚され、自民党と拮抗する新たな大政党として民主党が台頭してきたことにより、戦間期の政友会・民政党の二大政党政に類似したブルジョワ二大政党政の構図が再現前し始めたことは事実であった。
 一方、社民党は旧社会党時代の最大支持基盤であった労組を失ったことが打撃となり、再び大政党化する可能性は完全に封じられた。日本共産党は96年の総選挙では旧社会党支持層の一部をも取り込む形で26議席を獲得する伸びを見せたが、その後は民主党の台頭・大政党化に伴い、急速に後退していった。
 また60年代の結党以来「中道政治」の代表として野党勢力の中堅を担ってきた公明党は、99年の小渕内閣以来自民党との連立・協調を基本とする方針に転じ、自民党の補完勢力となったことで、野党時代には一定保持していた革新性を喪失した。
 かくして、90年代末以降の日本の政党地図は自民党と新興の民主党を軸とし、総保守化する傾向を強めていくのである。そこにはたしかに政権獲得を目指す政党間の競争関係は存在したが、それは「逆走」の競走体制と言うべきものにほかならなかった。

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戦後日本史(連載第22回)

2013-09-24 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第5章 「逆走」の急進化:1999‐2009

〔一〕画期の1999年

 橋本政権は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」という六大改革を掲げ、「逆走」の完成へ向けた長期政権を目指す構えを見せたものの、消費増税が響いて1998年7月の参議院選挙で自民党が敗北した責任を取り、退陣した。
 後任には竹下登の後継者と目された同じ派閥の領袖・小渕恵三が就いた。連続して竹下系の首相が続いたことは、まさに80年代末の竹下内閣以来、過去10年にわたって自民党の竹下派支配が続いていた事実を物語るものであった。
 小渕内閣の課題はさしあたり橋本がやり残した「六大改革」を継承することであったが、「逆走」という観点から見れば、同内閣がその短い命脈の間に行ったことは、それ以上であった。1999年が一つの大きな節目である。この年、小渕内閣下で軍事・治安・国家象徴という根幹的分野に関わる三つの極めて問題含みの法律が一挙に制定されたのである。
 一つは周辺事態法である。これは日米安保条約のガイドラインが97年に改訂されたことを受け、「周辺事態」に際して従来より踏み込んで日米共同の軍事行動を可能とする根拠法であり、2000年代初頭に矢継ぎ早に「整備」されたいわゆる有事法制への突破口となるとともに、将来の集団的自衛権の解禁をも暗黙の射程に収めた布石であった。
 もう一つは治安分野で、史上初めて盗聴の権限を正面から捜査機関に与えた通信傍受法である。これはさしあたりオウム真理教による一連の凶悪組織犯罪や暴力団犯罪を念頭に置きつつ「組織犯罪対策」を名目としているとはいえ、通信の秘密や適正手続を保障する憲法上の疑義を排して導入された違憲性の強い治安立法であった。
 三つめは日章旗を国旗、君が代を国歌と明記する国旗国歌法である。従来90年代に入り、学校式典で国旗掲揚・国歌斉唱を義務づける動きが強まっていたことに対する思想良心の自由を根拠とした教職員の抵抗を排除する統制法規として、国旗国歌法が取り急ぎ制定されたのである。
 このことは同じ年、平成天皇在位10周年奉祝式典が民間団体と関係議員連盟主宰の形式を取りつつ盛大に挙行されたことと合わせ、国家主義的風潮を蘇生させる重要な出来事として銘記される。
 以上三本の法律はいずれも憲法上重大な疑義を持たれながら、小渕内閣は小沢一郎が新たに結成した自由党、続いて公明党と連立を組むことで、さしたる抵抗も受けずに粛々と制定することができたのである。
 小渕内閣はまた、「経済戦略会議」及び「司法制度改革審議会」という二つの大がかりな諮問機関を設置し、経済政策及び司法政策の面で2000年代以降強力に現れる新自由主義的な国策のイデオロギー的礎石を置いた。
 すなわち前者は市場主義的な競争社会を強力にエンドースする経済イデオロギーを打ち出し、後者は前者の経済イデオロギーとも連動しつつ、弁護士大増員を軸としたビジネス支援型司法を推進する方向性を打ち出し、いずれも間もなく小泉政権下で具体化ないし実行されていく新自由主義的施策の土台を作ったのである。
 結局のところ1999年は、加速化していた「逆走」が2000年代へ向けていっそうギアアップされ、急進化していく最初のステップの年であったと総括できるであろう。

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戦後日本史(連載第21回)

2013-09-11 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔四〕独占資本解禁と「内務省」復活

 「55年体制」の終焉を画した村山政権は96年1月に退陣した。代わって自民党から3年ぶりに出た橋本龍太郎を首班とする新たな連立政権には引き続き社会党から党名変更した社会民主党も参加し(第二次内閣からは閣外協力)、自社連立の枠組みは維持される。とはいえ、橋本内閣の成立は、自民党政権の名実ともに完全な復活を意味した。
 橋本新政権が当面した課題は、90年代初頭のバブル経済崩壊後、深刻さを増しつつ遷延していた不況に対処することであった。当時はバブル期に不良債権を抱え込んだ銀行による貸しはがしや貸し渋りのために資金繰りに行き詰った企業のリストラ解雇や倒産が始まっていた。
 こうした中で、橋本政権は総選挙を経た第二次内閣下の97年に独占禁止法を改正し、47年の同法制定以来、財閥解体・経済民主化の柱として半世紀にわたって禁止されてきた純粋持株会社の解禁に踏み切り、大資本主導の企業再編を促す政策に転換した。この大転換はまた、金融不況対策として金融行政の規制緩和と金融持株会社の解禁に象徴されるいわゆる「金融ビッグバン」の一環でもあり、これにより大金融資本としてのメガバンクの再編も実現した。
 こうした施策の結果、法的にも独占資本が半世紀ぶりに復活することとなるが、これは経済政策面での一足早い「逆走」の到達点でもあった。
 橋本政権はまた行財政改革にも着手し、財政再建のため、消費税率の引き上げも断行した。さらに行政改革の一環として、中央省庁の全般的な再編にも乗り出す。特に97年に続々と表面化した金融機関の破綻に関してその監督官庁としての責任が鋭く問われた大蔵省が主要なターゲットとなる。
 戦後の大蔵省は戦前の旧内務省が解体された後は、国家財政から金融行政まで司る総合官庁として絶大な影響力を誇り、4人ものOB首相を輩出してきたが、橋本改革では金融行政の権限を大部分剥奪され、新設の金融監督庁(現金融庁)へ移管されることとなり、名称も財務省に変更された。
 一方で、自治省・郵政省の合併を軸とするメガ官庁として総務省が新設された。英語公式名ではMinistry of Internal Affairs and Communications(内務通信省)と訳され、「行政組織、公務員制度、地方行財政、選挙、消防防災、情報通信、郵政事業など、国家の基本的仕組みに関わる諸制度、国民の経済・社会活動を支える基本的システムを所管し、国民生活の基盤に広く関わる行政機能を担う省」と自己紹介される同省は実質上旧内務省の部分的な復刻版であって、将来ここに戦後内務省から分離された警察庁が外局として加われば、まさしく戦後版内務省となるだろう。
 結局、従前の1府22省庁を1府12省庁へ統廃合した橋本行革は、旧総理府を拡充して首相権限の強化を図った内閣府を筆頭に、総じて巨大な許認可権が集中するメガ官庁を多数出現させることになったが、これも戦前の同種行政制度への「逆走」にほかならなかった。
 以上のような「逆走」の大仕事が、自社連立・連携の翼賛的な枠組みを通じて合作的に断行されたことの歴史的な意味は大きい。

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戦後日本史(連載第20回)

2013-09-10 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔三〕大震災/サリン事件と統制強化

 村山自社連立政権は自民党・社会党双方の支持者から疎んじられ、総じて不人気であったが、同政権は90年代を象徴する二つの大きな天災事変に見舞われたことでも、ネガティブな記憶にとどめられている。
 そのうち1995年1月17日早朝に発生した阪神淡路大震災は6000人を超える死者を出した久々の大規模自然災害であった。この時、村山内閣は初動の災害救助対応に手間取り、批判を浴びた。
 続いて震災の衝撃冷めやらぬ同年3月20日に東京の営団地下鉄線内で朝の通勤ラッシュ時間帯に猛毒神経ガスのサリンが散布され、死者13人を含む数千人の死傷者を出した世界的にも未聞の大量殺傷事件は、大震災以上に社会を震撼させた。
 この事件は、前年6月に長野県松本市の住宅街で発生し、死者8人を出したサリン散布事件とともに、新興宗教団体・オウム真理教の組織的犯行と特定され、教祖をはじめとする教団幹部・信徒多数が逮捕・起訴された。
 20世紀も残すところあと5年という時期に起きたこの凶悪事件は、82年以降「逆走」の流れが再活性化し、93年からは加速化もしてきた状況下で、宗教的過激勢力に多くの高学歴者を含む青年たちが引き寄せられていた衝撃的な事実を社会に突きつけた。
 これは「逆走」鈍化期の青年たちを惹きつけた革新・革命運動がほぼ完全に退潮した一方で、脱政治化された青年たちが宗教へ傾斜し、容易に宗教反動勢力の走狗として異常な凶悪犯罪にまで走り得ることをも証明した出来事であった。
 村山内閣はこの大事件に際して、50年代の「逆コース」施策の象徴でもあり、制定時には社会党も反対に回った破壊活動防止法(破防法)の強制解散条項のオウム真理教への適用方針を打ち出したのであった。
 皮肉にも、破防法による団体強制解散はそれが本来主要なターゲットとしてきた共産党をはじめとする共産主義革命団体への適用例は一例もなく、適用されればオウム真理教が初例となるはずであったところ、政府(公安調査庁)の適用請求を受けて審査に当たった公安審査委員会は、請求棄却の決定を下したのだった。
 こうして一見政府内部で抑制が効いた形となった背景としては、一度でも強制解散が発動されれば先例となって累が及びかねない共産党やその他の市民団体が強力な適用反対キャンペーンを展開したという外部的要因が大きかったであろう。少なくとも、社会党に属する村山首相が表向き「慎重」姿勢を示す以上に破防法発動に異論を呈した形跡は見られなかった。
 結果的に棄却されたとはいえ、村山政権が初めて破防法に手をかけたことは、冷戦終結後その存在意義が揺らいでいた破防法所管官庁・公安調査庁を蘇生させるとともに、90年代末以降盗聴立法や刑法・少年法厳罰化など治安面での統制強化策が次々と打たれていく大きな契機となったことは間違いない。
 ちなみに「人にやさしい政治」を掲げた村山政権下、死刑執行も約1年半で8件行われた。社会党はかねて選挙公約でも死刑廃止を掲げていながら、ここでも自党の政策をあっさり取り下げて、死刑存置派の連立相手・自民党に歩調を合わせたのだった。
 結局、村山自社連立政権の“功績”は、治安面でも「逆走」の加速化をいっそう円滑に推し進めるための土台を築いたことにあっただろう。

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戦後日本史(連載第19回)

2013-08-28 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔二〕自社連立と「55年体制」の終焉

 細川内閣が8か月余りで瓦解した後、事実上小沢一郎が率いる新生党党首・羽田孜が後任首相に就く。しかし、首相指名直後、小沢らによる与党第一党・社会党の発言力を削ぐことを狙った統一会派作りの画策が表面化し、これに反発した社会党が連立を離脱したため、少数内閣として発足した羽田内閣はわずか2か月余りで瓦解した。
 その後の展開はあっと驚くものであった。94年6月、野党・自民党と連立を離脱したばかりの社会党が連立政権を成立させたのである。こうして、70歳の社会党委員長・村山富市を首班とし、細川内閣にも参画していた新党さきがけも加わった異形の連立政権の発足をもって、自社対抗を軸とした「55年体制」は正式に終焉したのである。
 ただ、頭は与党第二党・社会党、胴体は第一党・自民党というこのスフィンクスのような怪物の正体は、どう見ても復活した自民党政権であった。それはまた一種の翼賛体制でもあって、社会党は従来の党是をすべてかなぐり捨て、自衛隊合憲・日米安保堅持へ動き、わずか数年前には導入そのものに反対した消費税の税率引き上げ―村山内閣時には未実現―にも賛意を示した。
 村山内閣は表向き「人にやさしい政治」をキャッチフレーズとしたが、その実態は自民党が主導する「逆走」の流れに乗り、間もなく自党の命脈を絶つこととなる選挙制度改革法の施行を見届けるというものであった。
 こうしたことが可能となったのも、村山首相は元来、保守に傾斜した社会党右派に属し、党国会対策委員会の経験も長く、長年の与党・自民党とも内通しており、政権与党復帰のためには自党の理念も政策も投げ捨てることにためらいはなかったからである。
 一方で、戦前の帝国主義的植民地支配と戦争加害事実を認め、反省と謝罪を表明した95年8月15日の村山首相談話は、歴史認識の問題に関して、与党第一党の自民党が首相を出す第二党・社会党に一定の配慮を示したことによる妥協の産物であって、村山内閣のほとんど唯一「社会党らしさ」を滲ませた事績であった。
 けれども、法的な戦争責任については解決済みであることを強調するこの控えめな談話でさえ、帝国主義支配を愛国的な自衛とアジア解放の努力の賜物であったとする歴史認識を伴う「逆走」の流れの中では異物的なものであって、保守反動勢力の強い反発を招いた。
 その結果、90年代後半以降、村山談話の意義を否定するような政治的言説が活発化し、人口にも膾炙するようになり、歴史認識の面でも「逆走」の加速化はかえって促進されたのである。
 それはさておき、こうした異形の自社連立政権の効果は、自社両党にとって対照的であった。自民党はこれによって、ごく短期間での政権復帰を果たし、以後時々の状況に応じて連立相手を変えながら向こう15年にわたって政権党の座を維持し続けるのに対し、社会党は初めて小選挙区制の下で行われた96年の解散・総選挙でわずか15議席にとどまる壊滅的惨敗を喫し、事実上命脈が尽きたのである。
 結局、社会党は右派を中心とするグループが新党さきがけの鳩山由紀夫と管直人を中心に結成された民主党へ合流する一方、左派は新社会党なる分派を結成して離脱し、元委員長・土井たか子を中心とする護憲・市民運動派が96年1月に党名変更された社会民主党に残留し、事実上解党したのであった。
 皮肉にも、村山自社連立政権最大の“功績”は、首相自身が属した社会党をすみやかに解体し、「逆走」の加速化を軌道に乗せたことにあったと言えるだろう。

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戦後日本史(連載第18回)

2013-08-27 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第4章 「逆走」の加速化:1993‐98

〔一〕細川政権と小選挙区制移行

 ソ連邦解体目前の1991年11月、リクルート事件後の中継ぎ登板という役割を果たして退任した海部首相に代わって、大蔵官僚出身の宮沢喜一が首相に就いた。
 宮沢は高度成長期の池田勇人首相側近として頭角を現し、池田の流れを汲む有力派閥の領袖となっていたが、その首相就任に当たっては竹下派の少壮幹部として党内で台頭してきていた小沢一郎の尽力があったため、宮沢政権も結局は竹下派の影響下に置かれた。
 しかも、宮沢政権は折から発覚した東京佐川急便事件―竹下派実力者・金丸信が東京佐川急便より5億円の闇献金を受けたとされる疑惑―を受けて金丸が議員辞職した後の竹下派の内部抗争に巻き込まれたうえ、小選挙区制導入をめぐる党内対立も勃発するなか、「政治改革」の切り札として小選挙区制導入を主張する小沢とその配下のグループは、野党提出にかかる宮沢内閣不信任案に賛成したうえ、集団離党し、新党結成に動いた。
 こうした党内造反によって成立した内閣不信任決議を受けて93年7月に行われた解散・総選挙で、ついに自民党は衆議院でも史上初めて過半数割れする大敗を喫した。
 この時の総選挙では保守系新党ブームが巻き起こり、特に自民党出身で前熊本県知事の細川護熙が結成した日本新党が注目を集め、細川自身を含む35人の当選者を出した。小沢らが結成した新生党も55議席を獲得する。
 自民党も過半数割れしたとはいえ、なお優勢な比較第一党の座を守ったため、日本新党を含む新党との連立を通じた政権維持を画策したが、不調に終わり、ついに同党は史上初めて下野することとなった。
 一方、小沢一郎は細川を首相に擁立しつつ、総選挙では議席半減の歴史的惨敗に終わった社会党も抱き込んだ八党連立内閣の結成を画策し、成功した。こうして、93年8月、初当選者が首班となる異例の細川連立内閣が発足する。
 世上、これをもって「55年体制」の終焉と称されることが多いが、それは必ずしも正確ではない。たしかに自民党は下野したが依然最大党派であったし、一方、細川連立内閣では惨敗した社会党が数的には与党第一党であったので、結局のところ「55年体制」のキープレーヤーであった自民・社会両党がそれぞれ敗北しつつ、与野党入れ替わったにすぎないとみる余地が十分あるからである。
 とはいえ、小沢や細川ら新政権の実力者が構想していたのは、「55年体制」を解体し、自民党ともう一つの保守系政党が政権交代し合う二大政党政治の構築であった。
 このようにブルジョワ二大政党が政権をキャッチボールし合う形の二大政党政なら、つとに戦前昭和初期に経験済みであったが、細川政権の使命は、その一見清新なイメージとは裏腹に、そうした古い政治への「逆走」を加速化させることにあったとさえ言える。
 それゆえ細川政権最大の使命は、従来社会党やその他の小政党にも一定以上の当選者の確保を可能にしてきたいわゆる中選挙区制に代え、一選挙区一当選人原則で、二大政党化を導きやすいとされる小選挙区制を衆議院に導入することであった。
 細川内閣は細川自身の東京佐川急便からの過去の借入金疑惑をきっかけとしてわずか8か月余りで総辞職したが、小選挙区制導入を柱とする「政治改革」だけはすみやかに実現され、94年から施行されたのであった。
 今日まで維持されている新たな小選挙区制は、比例代表制並立という形で修正されているとはいえ、組織動員選挙に長けた自民党にとってはさほど痛手とはならない一方、すでに弱体化していた労組に依存する社会党にとっては壊滅的打撃となりかねない制度であって、その狙いは自民党を含むブルジョワ保守総体による「社会党潰し」にあったと言って過言でなかった。
 にもかかわらず、社会党は占領期の片山内閣以来45年ぶりとなる政権与党の地位と大臣ポスト欲しさに細川連立内閣に参画し、自らの命脈を縮めるような罠にはまったのだった。

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戦後日本史(連載第17回)

2013-08-14 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔五〕冷戦終結と湾岸戦争

 1年半余りで退任した竹下首相の後任には、竹下派の支持を受けて中曽根派幹部の宇野宗佑が就いた。ところが、宇野首相には就任早々に女性スキャンダルが持ち上がったうえ、就任直後の1989年7月の参議院選挙で、自民党は結党以来初めて参議院で過半数を割る大敗を喫し、宇野首相はわずか2か月余りで退任に追い込まれる。
 続いて、三木武夫の流れを汲む少数派閥出身の海部俊樹が首相に就いたが、実権はやはり竹下派の掌中にあった。こうして「大統領型宰相」中曽根が政権を去った後には弱体な政権が続き、「逆走」はまたも停滞期に入るかに思われた。
 そうした中だるみの危機を国際情勢の激変が救った。それは89年の冷戦終結とそれに引き続く91年のソ連邦解体とであった。「逆走」の停滞の危機を国内環境的に救ったのが昭和天皇の死と改元であったとすれば、国際環境的に救ったのは天皇の死と同年の暮れに起きた冷戦終結と2年後のソ連邦解体であったと言える。
 1950年に始動した戦後日本の「逆走」は結局のところ、東西冷戦という戦後の国際情勢によって支えられていたわけであるが、同時に「逆走」の長期鈍化をもたらしたのも、同じ国際情勢なのであった。
 一方に米国の代理人的立場で日本の内政・経済を安定的に運営する自民党・財界があり、対する社会党・労組の背後には60年代以降日本共産党との不和対立から日本社会党支持に方針転換したソ連が介在していた。
 冷戦終結はソ連邦解体の引き金を引き、ひいては日本社会党・労組勢力の後ろ盾をも失わせる結果となったのだった。日本社会党が91年のソ連邦解体からわずか5年で事実上解党したことは、決して偶然事ではなかった。
 イデオロギー的な面から見ても、ソ連邦解体は社会主義・共産主義をはじめ、およそ反/脱資本主義的な思潮の退潮をもたらし、資本主義市場原理一辺倒の風潮を全世界的に作り出した。このことは、イデオロギー的には反共の流れにある戦後日本の「逆走」を加速化していくうえで、大きな追い風となっただろう。
 もう一つ、冷戦終結後に起きた久しぶりの国際戦争であった湾岸戦争も、「逆走」の停滞を防ぐチャンスとなった。この時、日本は自衛隊の海外派遣を禁ずるものと解釈されてきた憲法9条の趣旨に沿って、イラクを攻撃する米国率いる多国籍軍への軍事協力を差し控えたのであるが―総計130億ドルの資金拠出は行った―、このことが米国の不興を買ったものと理解され、自衛隊の海外派遣解禁へ向けた論議がにわかに高まる。
 その結果、91年には自衛隊史上初めての海外任務として海上自衛隊の掃海艇部隊が湾岸戦争後のペルシャ湾に派遣されたのを皮切りに、翌92年には自衛隊が国連平和維持活動に参加することを可能とするPKO協力法が制定された。ここに自衛隊の専守防衛原則は崩れ、以後自衛隊の海外派遣の実績が積み上げられていく。
 このことは、「逆コース」施策の目玉として50年代に誕生した自衛隊が単なる「自衛隊」から、実質上の「軍隊」へ向けて逆成長していく出発点ともなった。それは93年に始まる「逆走」加速化の合図と言えたかもしれない。

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戦後日本史(連載第16回)

2013-08-13 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

第3章 「逆走」の再活性化:1982‐92

〔四〕「天皇崩御」と尊王モード

 5年近くに及んだ中曽根政権が1987年11月に退陣した後、中曽根の「裁定」により田中角栄の流れを汲む竹下登が政権に就いた。田中本人は85年に病気で倒れ、すでに影響力を失っていたが、代わって田中と袂を分かつ形で独立した竹下を中心とする勢力が新たに自民党内最大派閥として台頭していたのである。
 そうした強力な支持基盤を持つ竹下政権は中曽根政権が構想を掲げただけで果たせなかった売上税(消費税)の導入を改めて政権課題とし、86年総選挙での大敗の後、再起しつつあった社会党を中心とする野党勢力の反対を振り切って実現させた。しかし折から発覚したリクルート汚職事件の影響から、世論の批判を追い風とする野党の突き上げを受け、竹下政権が長期政権化する可能性は急速に失われた。
 こうして再び「逆走」の停滞が起こりかけたとき、それを救ってくれるような大きな出来事が80年代の終わりに起きた。それは昭和天皇の発病・死去であった。
 天皇は87年に内臓の病気で歴代天皇では初となる開腹手術を受けていたところであったが―これも「玉体」にメスを入れることのタブーが解けた象徴天皇制ならではのことであった―、88年9月に大量吐血し、病床に臥せた。この時点から、宮内庁を中心に天皇の「ご病状」がマスメディアを通じて「大本営発表」式に刻々と報道され、社会現象となった。
 結局、すでに87歳の高齢に達していた昭和天皇は治療の甲斐なく、89年1月に永眠し、戦争をはさんで60年以上に及んだ長い昭和の時代が幕を閉じた。元号は昭和から平成へ変わる。
 この63年ぶりの改元は、昭和生まれの国民にとっては初の経験となる「天皇崩御」とともに、元号と結びついた天皇の存在性を改めて国民に強く意識させることとなった。
 この間、天皇の発病から死去に至るまで、多くの社会的行事が中止ないし縮小されるなど、社会全体が「自粛」ムードに支配され、尊王がモードとなった。こうした「自粛」を政府が直接に主導した形跡はないが、皇室行政を担う宮内庁が前面に出て報道管理を徹底したことで、間接的には政府が尊王モードを醸成したと言ってよいだろう。
 このことは、10年後、平成天皇在位10周年の節目に当たって、多数の芸能人を含む著名人を動員しての大規模な奉祝式典が挙行され、再び「天皇陛下万歳」の唱和が鳴り響く時代の序章となり、平成の時代に「逆走」がさらに加速化・急進化していくうえでの精神的なベースともなったのである。
 こうして、こちらもすでに命脈が尽きかけていた竹下政権は、改元と昭和天皇の葬礼という時代を画する任務を最後の仕事として、89年6月に退陣した。  

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