ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

靖国‐孤立化戦略

2013-12-27 | 時評

26日の安倍首相による靖国神社参拝は、国民向けの1日遅れのクリスマス・プレゼントとなった。だが、このプレゼントは世界から芳しくない評価を受けており、外交的孤立を懸念する声が政権筋からも出ている。

しかし、頼みの米国を含めた世界の反発を計算済みであえて敢行されたなら、これは外交的孤立も覚悟の一つの政治戦略―孤立化戦略である。その狙いは消費増税決定後の支持率低下を歯止め、政権発足1年の節目に当たり政権基盤を引き締めることである。その効果は一定出ており、ネット世論調査では参拝後、支持率急伸という結果も見られる。

外交的には戦略的な誤りを指摘する意見もあるが、安倍政権としては、普天間基地移設の早期解決で対米得点を稼ぎ、アジア政策は中国・韓国など反日感情の強い東アジアを飛び越えてインドや中東など西へ手を広げる戦略を進めれば孤立は一時的なものと踏んでいるのだろう。

こうした孤立化戦略は、世界が何を言おうが譲れないものがあるという国内向けの強い指導者像の演出によって国民の愛国心を刺激し、政権の求心力を高める統治術として、しばしば権力政治的に使われる。中国の一方的な防空識別圏設定や朝鮮のミサイル発射もそうした戦略の一つで、日本の靖国参拝がこれに加わり、近時の東アジアではこうした孤立化戦略の角突き合いが続いている。

日米同盟によって米国にくくりつけられているため孤立化戦略を取りにくい日本にとって、ほとんど唯一対米自立を演出できるのは、靖国参拝という「魂」の分野しかない状態なのであるが、それを高支持率維持のために有効活用する戦略は、小泉政権が前例を作っている。

もっとも、以上は安倍政権が世界の反発を予め計算に入れていた場合のことである。特に盟主・米国の否定的反応のトーンを読み違えていたのなら、まさに誤算の失策だったことになる。

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沖縄/北海道小史(連載第4回)

2013-12-17 | 〆沖縄/北海道小史

第二章 独自社会の発展(続)

【6】琉球王国の成立
 沖縄のグスク戦国社会では、13世紀後半頃から王と呼ぶべき有力首長が台頭し、次第に統一王国形成へ向けて動き出す。琉球正史上最初の王朝とされる天孫氏王朝は、おそらく沖縄の農耕革命をもたらしたのが天孫降臨神話を携えた九州からの移住民集団であった事実を反映する神話と思われるが、13世紀後半に浦添グスクに拠ったと見られる英祖王はある程度実在性が推定できる最初期の有力首長である。
 しかし、5代90年に及んだとされる英祖王統の勢力範囲は明らかでなく、英祖王統滅亡後、沖縄本島は中部・北部・南部の三つの地域王権が鼎立するいわゆる三山時代に入る。
 三山の首長たちは独自に中国の新王朝・明と朝貢関係を持ち、それぞれの王として冊封された。やがて、元来は南山に属する辺境の佐敷按司にすぎなかった尚巴志が武力で三山の首長を次々と滅ぼし、1429年までに統一王朝(第一尚氏王朝)の樹立に成功した。彼は中山の首都であった首里(那覇)を王都とし、首里城を王宮として拡張した。以後、琉球王国は首里を中心に確定する。
 第一尚氏王朝は確証できる沖縄最初の統一王朝として、引き続き明との朝貢貿易や、室町幕府体制の日本とも外交・貿易関係を持ち、琉球王国の基礎を築いたが、その出自から地方按司らを完全に統制できるだけの権威を確立できず、政情は不安定であった。
 1469年、第6代尚泰久王の有力な重臣であった金丸が第7代尚徳王の死後、重臣らの推挙で王位に就き、尚円を称して新王朝を開いた。これが第二尚氏王朝であるが、金丸は元来伊是名島出身の農民の子とされ、血縁上第一尚王家とのつながりはない。また、尚円の政権掌握後、第一尚氏一族が粛清されていることからしても、王朝創始の経緯はクーデターと見られ、第二尚氏王朝は簒奪王朝であっただろう。
 その第二尚氏王朝も当初は安定しなかったが、尚円王の長男で第3代尚真王の時に中央集権制を確立し、16世紀に入るとまだ独立状態であった先島諸島にも手を広げる。1500年には石垣島の支配者オヤケアカハチを攻め滅ぼしたのに続いて、22年には与那国島も征服して、王国版図を南に拡大することに成功した。
 以後、琉球王国はこの第二尚氏王統で確定する。第二尚氏王朝下でも明との朝貢貿易の伝統は引き継がれ、同王朝前半期の琉球は中国、日本、東南アジア方面をつなぐ中継貿易を基軸とした港市国家として経済的にも繁栄した。それは武家政権の日本とは性格を異にする独自の島嶼王国であった。

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沖縄/北海道小史(連載第3回)

2013-12-16 | 〆沖縄/北海道小史

第二章 独自社会の発展

【4】グスク時代の始まり
 南の辺境にあって狩猟採集社会が長く続いた沖縄社会では本土の平安時代末期の12世紀頃になると、稲作を軸とした農耕が開始される。
 どのようにして沖縄の農耕社会が開始されたかについてはなお未解明であるが、この頃を境に沖縄人の人類学的形質そのものが弥生時代以降に現れた本土農耕民と同型に変化し始め、現在に至っているところからすると、本土の平安時代末期以降、九州を中心とした本土からの農耕系移住民が大量化し、先住沖縄人と通婚・混血して新しい沖縄人が形成されたと考えられる。言語的にも、沖縄語は本土日本語の方言ないしは同語族系言語に変化する。
 これは、沖縄社会にとっては形質的な変化に加えて、言語・文化面にも及ぶ社会革命の始まりであった。それは社会編成のあり方にも大きな変革をもたらした。13世紀に入ると、各地にグスクと呼ばれる城塞が多数出現する。この建造物の用途に関しては聖域説・集落説・城館説等の学問的な論争が続いているが、おそらくそのすべての機能を兼ねた地域首長の拠点であったろう。
 やがて按司と呼ばれるようになるこれら地域首長は農村集落の長でもあり、農業生産を統括しつつ、グスクに拠って相互に抗争し合ったと見られる。こうした大小様々なグスクが沖縄全域で300以上も確認されていることからして、グスク時代初期はこれら按司が勢力を張り合う一種の戦国時代であったと考えられる。
 この間、本土の古墳時代におけるような大規模墳墓の築造がなされた形跡はないが、社会段階としては各地に農耕王としての首長が割拠した本土の古墳時代前期のような状況にあったのが、沖縄のグスク時代であったと言えよう。

【5】アイヌ社会の形成
 北の辺境・北海道でも11‐12世紀になると、変化が生じてきた。本土のヤマト国家は8世紀以降、東北地方へ勢力圏を拡大し、この地方に割拠したエミシ勢力掃討作戦を断続的に展開して強制移住もしくは俘囚化政策を進めた結果、10世紀までには一種の民族浄化が完了した。しかし、北海道のエミシ勢力はこうした掃討作戦の手を免れて存続していたのだった。
 エミシの呼び名も本土の中世以降、エゾに変化していったが、この頃までには北海道エミシは文化的にも続縄文文化から擦文文化の時代に変化していた。これが後のアイヌ民族社会の基層となったと考えられる。
 ただし、沖縄と異なり、当時の農耕技術では稲作に適さなかった寒冷地・北海道では本土農耕民の移住の波は生ぜず、農耕社会への移行は見られなかった。擦文文化時代には農耕も広がるとはいえ、主産業とは言えず、基本的には狩猟採集社会が続く。また形質的にもアイヌ民族は本土の和人とほとんど混血せず、独自の形質が長く維持されたのであった。
 かくしてアイヌ社会は沖縄のグスク時代のような農耕首長の割拠する社会とはならなかったが、族長を中心に地域的な集団が形成され、有事に際しては団結する緩やかな連合が形成されたようである。
 かくしてアイヌは伝統的な社会文化を保持しつつ、族長層を中心に和人勢力と活発な交易関係を持ち、商業民族としての性格を強めていくのである。

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粛清考

2013-12-14 | 時評

師走の朝鮮民主主義人民共和国で行われた電撃的かつ冷酷な粛清。その経緯や細かな背景分析は「ウォッチャー」に譲るとして、もっと大きな視点でこうした政治的粛清をとらえれば、それは足元でも見つかる。

2005年のいわゆる「郵政解散」総選挙で与党執行部が断行した「刺客」擁立作戦も、執行部に刃向かう議員の政治生命を絶った粛清の一種である。文字どおりに生命を絶つ粛清との違いは小さくないとはいえ・・・。

こうした反党分子排除という手法は、イデオロギーを問わずおよそ政党組織に付き物である。政党は特定の政治的価値観を共有する同志の結合体というタテマエから、異分子を排除する構造になりやすい。

中でも、レーニン主義の影響を受けた共産党ないしその亜型政党では、一枚岩的団結がことのほか重視され、分派は容赦なく粛清される。レーニンの後継者スターリンはそうした粛清を大規模に行い、独裁体制維持の手段として大々的に活用した。朝鮮はスターリン主義の最後の継承者である。

例外的に、アメリカの二大政党は政党というよりも大雑把な政治的傾向と利害関係で結びついた政治クラブ的な性格が強く、相互転籍もしばしばあり、反党行為者への粛清はない。その代わり、選挙戦では両党間での非難中傷の潰し合いが常態化し、しばしば日常政治にも延長戦的に持ち込まれる。

全般に、政党は内外の異分子に対して寛容ではない。そうした非寛容さは、民主主義と両立するものではない。教科書的には政党は民主主義の代名詞と扱われるが、実際のところ、政党は民主主義を腐食させている。

真の民主主義の地平にたどり着くためには、多党制か一党制かを問わず、政党政治は解消されるべきである。一般通念に反し、「政党なき民主主義」は決して概念矛盾ではなく、民主主義の同語反復である。 

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革命家マンデラ

2013-12-07 | 時評

5日に死去したマンデラ元南ア大統領の功績は、単に人種差別体制を廃止したこと自体にあるのではなく、30年近くも刑務所にいながらにして強固な人種差別体制を終わらせる革命的社会変革を成し遂げたことにあった。

マンデラは非武装主義の限界から武装闘争路線を支持し、そのために当局により30年近くも投獄され、活動を制約されたことから、彼が創設に関わった軍事組織は引き続き武装闘争を継続するも、マンデラ自身は結果的に「非武装」とならざるを得なかったのではあった。

そうした点では、獄中体験がなく、自由に武装闘争を展開できた毛沢東の「政権は銃口から生まれる」「革命は暴動である」という―むしろ通常的な―革命思想にはおさまらない独特の革命家となった。

アパルトヘイト廃止は決してマンデラ一人の手で成し遂げられたわけではなく、旧南ア白人政権によって殺傷された無名の人々の力と世界の民衆の支援にもよるが、マンデラ自身が武装闘争を直接に指揮していたら、革命は成功していなかったであろう。

とはいえ、革命成功後大統領となったマンデラの実績は決して手放しで称賛できるものではない。彼はアフリカにありがちな解放闘争指導者のように独裁者として権力にしがみつくことはせず、一期だけで退いたが、彼が後に残した体制はアフリカにありがちな旧解放闘争組織(ANC)による実質的な一党支配体制であった。

辛辣な見方をすれば、少数派白人独裁から多数派黒人独裁への逆転が起きただけであった。そのため、新興国として注目される新生南アも政治腐敗・失政というアフリカによくあるお決まりの道と無縁ではない。

マンデラは資本主義に反対する社会主義者を標榜していたが、大統領として社会経済構造の変革に大きく踏み込むことはしなかったため、南アの人種間経済格差は今なお解消されないばかりか、支配政党幹部とその周辺者が新興黒人富裕層を形成し、黒人間での格差も生じている。

結局、マンデラの主要な功績は反アパルトヘイト革命家としてのそれにあり、政治家としての側面についてはメディア上で追悼儀礼的に称賛されるほど過大評価できないということになるだろう。

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沖縄/北海道小史(連載第2回)

2013-12-04 | 〆沖縄/北海道小史

第一章 長い先史時代(続)

【3】交易活動の発展
 沖縄/北海道両辺境の狩猟採集経済は長期にわたって持続したとはいえ、その担い手たちは海洋民族でもあったから、アマゾンやニューギニアの密林奥深くに済む先住民たちのように、閉鎖的な自給自足社会のまま持続することはなく、やがて本土との交易活動が活発化する。
 まず沖縄ではおおむね縄文時代晩期(沖縄では前期貝塚時代末)、九州の縄文人たちとの間で沖縄地方が主産地となるゴホウラやイモガイなど貝の交易が始まる。次いで弥生時代に入ると、沖縄特産のヤコウガイの交易が広域にわたって展開される。それは遠く北海道にまで及んでいたことが立証されており、「貝の道」と呼ばれる海洋交易ルートを通じて、早くも両辺境が結ばれていたことを示唆している。
 この貝交易で貝の交換財となったのは、土器やガラス玉、金属器といった品目であった。しかし弥生時代以降の本土農耕文化の影響はこの時期まだ沖縄には及ばず、狩猟採集経済は安定的に維持されていく。
 本土が古墳時代を過ぎて飛鳥時代に入ると、ヤマト国家による踏査の手が沖縄にも伸びてくる。『日本書紀』では推古朝の616年に掖久・夜勾・掖玖の人30人が来朝し、日本に永住したという記事が現れるのを皮切りに、南西諸島への遣使に関する記事が散見されるようになる。7世紀末、文武朝に南島(沖縄)から初めて正式の朝貢があり、これ以降、沖縄主要地域はヤマト国家に服属し、朝貢関係に入ったと見られる。そして平安時代以降、本土との交易は非公式の私貿易も含めていっそう拡大していく。 
 一方、北海道の狩猟採集文化は東北地方北部にもまたがる形で広がっており、民族的・文化的にも両者は一体で、交易関係も早くから始まっていたと見られる。また上述のように、「貝の道」を通じた広域の交易も本土の弥生時代以降展開され、南の沖縄ともつながっていた。だが、沖縄と同様、北海道にもなお農耕文化は伝播せず、いわゆる続縄文文化と呼ばれる狩猟採集文化が持続する。
 しかし、7世紀に入ると、遠征の実力をつけたヤマト国家による踏査の手は北辺の北海道にも伸びてくる。特に斉明朝期には、将軍阿倍比羅夫が北方に派遣され、渡島(北海道)の蝦夷らを服属させる記事が『日本書紀』に見え、この頃から蝦夷勢力はヤマト国家に服属するようになったと見られる。本土の奈良・平安時代以降、北海道蝦夷は東北蝦夷の居住域でもあった出羽国を介して和人(日本人)と活発に交易するようになる。
 こうして両辺境が単なる交易活動を超え、本土の農耕社会を基盤として発展してきたヤマト国家に服属し、本土との政治的な結びつきを持つようになったことは、伝統的な固有の狩猟採集経済を少しずつ変容させ、やがて本土経済に組み込まれていく長い過程の始まりであった。

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沖縄/北海道小史(連載第1回)

2013-12-03 | 〆沖縄/北海道小史

第一章 長い先史時代

【1】両辺境の先住民
 沖縄/北海道は、日本の南北の辺境地域である。ほとんどすべての国で言えることだが、辺境地域の先住民は中心地域の住民とは元来民族的に異なっていることが多い。日本の両辺境もその例外ではなく、沖縄/北海道の先住民は本来、本土の日本人とは異質であった。というか、両辺境の先住民は「本土の先住民」である縄文人と系統的に近かったというのが、近年の遺伝子系譜学的な結論である。  
 1967年に沖縄本島南部で発見された1万7千年ほど前の人骨港川人は縄文人の祖とみなされてきたが、近年は疑問視されている。ただ、港川人が縄文人の亜種もしくは祖型である可能性は残り、港川人と縄文人をつなぐミッシングリンクの解明は今後の課題とされる。
 一方、沖縄といっても沖縄本島から300キロ以上離れた先島諸島はまた異質であり、ここでは縄文系文化は見られず、むしろマレー‐ポリネシア系の台湾先住民文化とのつながりが濃厚に確認されている。つまり、この地域は後に琉球王国版図に組み込まれるまで、マレー‐ポリネシア系民族の勢力圏であったと考えられる。
 いずれにせよ、沖縄地域では九州を中心とした本土日本人の移住の波が起きる10世紀ないし11世紀頃まで、先住民固有の社会が持続していくのである。
 他方、北海道の先住民は縄文人であったが、5世紀頃からより北方のオホーツク文化圏に属する異民族の北海道移住の波があり、北海道縄文人はこのオホーツク文化人とも混血・同化しつつ、いわゆるエミシ(蝦夷)民族となった考えられる。これが中世以降になって、いわゆるアイヌ民族として確立されていく。
 アイヌは日本列島最北の地に居住していながら身体的に寒冷地適応を遂げていないことが特徴であり、本来は縄文人を基盤とする南方系の民族であったが、生活様式的には寒冷地に適応し、近世まで北海道の主要民族として独自社会を営んだ。
 こうして日本の金属器時代に当たるいわゆる弥生時代以降、本土の縄文人たちが朝鮮半島を中心とする大陸部から移住してきた農耕民系の異民族勢力に同化吸収されていく中で、両辺境はなお長きにわたり、先住民の勢力圏であり続けたのであった。

【2】狩猟採集経済の持続
 沖縄/北海道両辺境の先住民社会の基本は、狩猟採集経済であった。このように本土よりも長い間狩猟採集経済が持続した理由は両辺境が本土よりも後進的であったということにあるのではなく、両辺境地帯が長きにわたり農耕民族の侵入を免れたことが大きい。その間、顕著な人口増加もなく、狩猟採集経済の枠内で環境的にも持続可能な自足社会が維持できていたのである。
 このようなことは辺境地帯ではありがちなことである。考えてみれば、本州を含む日本列島自体が東アジアの辺境に当たる離島群であって、本土でも狩猟採集経済を主軸とした―晩期には限定的に焼畑農耕が開始されていたと推定されている―中・新石器時代に相当する縄文時代が、1万年以上という気が遠くなりそうな歳月にわたって持続したのであった。 
 つまりメソポタミアやエジプト、あるいは中国大陸でも農耕を基盤とする文明社会が形成され、歴史時代に入っても、日本列島ではなお先史時代が続いていたわけだが、これも後進性のゆえではなく、狩猟採集経済が持続可能であったからである。そうした辺境日本のさらなる南北辺境に当たる沖縄/北海道では、本土にもまして長い間、狩猟採集経済が持続し得たのであった。

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