ザ・コミュニスト

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良心的裁判役拒否・目次

2012-02-04 | 〆良心的裁判役拒否

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より該当記事をご覧いただけます。

はしがき ページ1

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

 第1章 「裁判役」という課役 ページ2
 (1)「犯罪との戦い」への召集
 (2)憲法違反の裁判役

 第2章 強制と排除 ページ3 ページ4
 (1)出頭義務と免除特権
 (2)「辞退」の仕掛け
 (3)六つの排除システム
 (4)最後に残る人々

 第3章 審理・評決法の欠陥 ページ5 ページ6
 (1)糾問裁判への回帰
 (2)奇数・僅差評決法の問題性
 (3)裁判員の口封じ

 第4章 「平成司法改革」の舞台裏 ページ7 ページ8
 (1)「平成司法改革」の狙い
 (2)法曹界の裏取引

 第5章 真の「司法参加」とは? ページ9 ページ10
 (1)「司法参加」と「司法動員」
 (2)陪審制と参審制
 (3)―削除―
 

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

 第6章 拒否から廃止へ ページ11
 (1)不正の制度
 (2)運動論の再検討

 第7章 良心的拒否の基礎 ページ12 ページ13 ページ14
 (1)良心的拒否とは?
 (2)良心的拒否の法的根拠 
 (3)選択的拒否と全般的拒否
 (4)人を裁くなかれ

 第8章 合法的に拒否する方法 ページ15 ページ16 
 (1)良心的拒否の「拒否」
 (2)「精神上の重大な不利益」による辞退
 (3)心裡留保による辞退
 (4)「排除」を仕向ける方法

 第9章 超法規的に拒否する方法 ページ17 ページ18 ページ19
 (1)憲法及び条約に基づく拒否
 (2)全面的不出頭
 (3)良心的守秘義務違反
 (4)制裁のリスク

 第10章 市民的不服従へ ページ20 ページ21
 (1)個人的拒否から集団的拒否へ
 (2)「プチ革命」の可能性 

補遺1 ページ22

補遺2 ページ23

コメント

良心的裁判役拒否(連載最終回)

2012-02-03 | 〆良心的裁判役拒否

補遺2―あとがきに代えて

 まえがきでも触れたように、本連載の叙述は裁判員制度施行前に用意していた草稿に基づいています。制度施行から3年近くが経過しようとしている現在、再考しなければならない問題が生じています。
 それは本連載の主題にとってどんでん返しにようになりますが、果たして良心的拒否‐市民的不服従だけで制度を廃止に追い込めるだろうかということです。
 このように問うことにはわけがあります。すなわち、これまでの制度運用状況を見る限り、毎年相当数の人が法律上の辞退を認められているばかりか、良心的拒否者を含むと見られる不出頭者も少なくないことの結果として、呼出状を送付された裁判員候補者のうち実際に裁判員選任手続に出席しているのは実質4割弱にとどまっています。しかも、当局は不出頭者に対する過料の制裁をまだ1件も発動していないというのです。
 こうしたデータから推察すると、司法当局としても、裁判員制度をめぐっては相当数の辞退者・拒否者が出るであろうことを想定して、それらの者は深追いしないという方針を持っていると見られます。言い換えれば、積極的な協力姿勢を示す候補者だけをピックアップして翼賛的な「少数精鋭主義」で制度を運用しようとの方針です。
 この点、裁判員制度における原則6人という裁判員数は、原則12人の陪審制と比べ、こうした「少数精鋭主義」を採りやすい員数構成になっていると言えます。
 その結果として、裁判員裁判における無罪率は従来の職業裁判官裁判よりも低く、一部で期待されていた死刑判決の抑制にもつながらず、量刑水準は総体として従来並みか、一部凶悪事件では制度施行前から始まっていた厳罰化政策に沿ってかえって重罰化の傾向を示しているのです。
 要するに、裁判員制度は本文でも述べたとおり、「犯罪との戦い」という法イデオロギーに立脚した必罰‐厳罰装置としておおむね“順調に”機能し始めており、本文でも引いた法学者・小田中聡樹氏の言葉を再引用すれば「国民に刑事裁判参加を義務付け強制することを通じて権力層に抱き込み、「統治主体意識」つまりは権力的意識・処罰意識を注入し、国家的な処罰・取締体制の基盤を強固なものとしていくこと」という支配層の狙いはかなりの程度実現できていると言ってよいでしょう。
 一方で、多くの国民が依然として制度に否定的でありながら、本文で提示したような市民的不服従のうねりは見られず、当局としても、一部の拒否者は放任しておいても制度は十分に維持していけると踏んでいるようです。そうなると、制度を廃止させるための戦略も見直さざるを得ないように思われるわけです。
 とはいえ、本連載が主題としてきた良心的拒否の意義が失われたわけではありません。しかし、このように制度を言わば外側から揺さぶるだけでなく、内側からも揺さぶることが必要ではないかと考えられるのです。
 裁判員制度を内側から揺さぶるとは、良心的拒否とは反対に、制度に批判的な立場に立ちつつ、あえて裁判に参加してみること―言わば「批判的裁判参加」―を意味します。
 具体的には、あえて裁判員を引き受けつつ、評議を通じて必罰・厳罰の流れに抗することです。これは一見困難なことのように見えますが、要するに「疑わしきは被告人の利益に」(無罪の推定)及び「刑罰は必要最小限度で」(刑罰の謙抑性)という刑事司法の二大鉄則に忠実な意見を堂々と述べればよいのです。
 実際、このように基本に忠実な初心的意見を述べることこそ、言葉の真の意味で「国民の健全な社会常識」に沿った裁判行動と言えるのではないでしょうか。
 このような行動をとる裁判員が増加することで、裁判員裁判が思惑どおり粛々と遂行できないようになれば、当局としても所期の狙いを外され、制度を維持していく意義を感じなくなるでしょう。
 ただし、理論編でも見たように、裁判員制度は排除の装置を何重にも用意しています。制度に批判的な者は裁判員選任手続の段階で「不公平な裁判をするおそれがある」とみなされて排除される可能性もありますが、選任手続をどうにかパスしても、審理や評議の過程で同じように判断されれば改めて解任されるおそれがあります(裁判員法41条1項7号・43条2項・同条3項)。
 従って、批判的裁判参加を完遂するには制度の是非論には言及しないなど、言動に相当な神経を使う必要があるかもしれません。
 このように、裁判員制度に対する良心的拒否と批判的参加の二つの流れが合わさることを通じて、制度廃止への道筋が見えてくるのではないかというのが、現時点での筆者の見方ということになります。
 さて、最後に、刑事司法全般に妥当する小田中氏のもう一つの警告的至言を引いて締めくくりとします。

「もし私たちが人身の自由を蔑ろにして警察、検察、裁判所の処罰権力に人身拘束、取調、起訴、裁判についての権限拡大と濫用を許せば、人間と社会の自律性は衰退し、かえって犯罪と非行は増大し、人間崩壊、社会崩壊が進むという悪循環に陥っていくでしょう。」

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良心的裁判役拒否(連載第22回)

2012-02-02 | 〆良心的裁判役拒否

補遺1

 今回は、前回までの本文では論じ切れなかった問題を補足しておきたいと思います。それは裁判員制度の制定と同時期に前後して行われた二つの法改正についてです。
 その二つとは、検察官の不起訴処分の当否をくじで選ばれた一般国民が審査する検察審査会(以下、検審という)の権限が大幅に強化され、検審の「起訴相当」議決に強制的逆転起訴という強い効力が認められたこと、裁判員制度の対象事件の大半をカバーする重大凶悪事件で、被害者(遺族を含む)やその委託を受けた弁護士が裁判に参加し、被告人質問や証人尋問、さらには実質的な求刑までできる「被害者参加」の制度が刑事訴訟法上に創設されたことです。
 前者の検審の制度は、戦後の司法改革の中で、検察官の権限を民主的にコントロールする目的から創設されたものですが、元来は「不起訴不当」「起訴相当」いずれの議決にも拘束力は認められていませんでした。
 しかし、裁判員制度の制定と同じ2004年の法改正では、検審の「起訴相当」議決に拘束力が付与されたうえ、検察官の再捜査・再度の不起訴処分をはさんで二度の「起訴相当」議決がなされると、強制的に起訴される仕組みが導入されたのです。これはもはや検察官の権限統制という本来の目的を逸脱して、一度でも被疑者と目された犯人らしき者は必ず罰すべきだという必罰主義的な観点に立ちつつ、一般国民を動員し、検察官の不起訴処分を覆してしまう新たな制度装置であって、その趣旨は裁判員制度とも共通する連動的な制度です。
 この制度の恐ろしさは、検察官が二度にわたり不起訴とした案件が検審の議決だけで自動的に起訴されてしまい、被告人はそれに対して異議申し立ても許されないということです。検察官が二度も不起訴にしたからには、有罪判決を導くだけの証拠に欠ける可能性が高いのに、検審の大雑把な審査だけで自動的に逆転起訴されてしまうのです。これでは、検審が“冤罪製造マシーン”と化してしまう日も近いでしょう。
 もう一つの「被害者参加」は、従来の刑事裁判では被害者がカヤの外に置かれてきたという認識に基づく殺人被害者遺族らが結成した団体が中心となって運動した結果実現した新しい制度です。
 この制度の最大の眼目は従来、検察官が専権的に行ってきた求刑を被害者側も検察官とは別個独自に行えるようになった点にあります。この場合、被害者側は検察官の方針にとらわれず、自由に意見できるので、検察官の求刑より重くも軽くも求刑できます。
 ただ、制度導入の経緯から言っても、この制度を通じて表出される被害者側の意見はほとんどの場合、厳罰を求める方向に傾きがちであることは否めないでしょう。
 加えて、この制度の下で被害者側の委託を受けた弁護士が関与してくるときは、被害者側に立って被告人を追及する立場から被告人質問や証人訊問を繰り出し、検察官的に振舞うことになるため、被告・弁護側は本来の検察官と被害者側弁護士というあたかも二種類の検察官を相手にするかのような形となり、防御上の負担が二重にのしかかってもきます。
 如上の二つの制度は、裁判員制度と組み合わさって、同時に発動されることがあります。その場合に想定され得る最も懸念すべきシナリオは以下のようなものです。
 凶悪殺人事件で逮捕された被疑者について、検察官は証拠不十分と見て不起訴処分とします。しかし、その結論に納得のいかない被害者遺族の請求で検審による審査が開始された結果、検審は「起訴相当」の議決をします。これを受けて検察官が再捜査したところ、結果はまたしても不起訴。そこで、検審の再度の審査にかけられた結果、こちらは再び「起訴相当」の議決で、被疑者は強制的に逆転起訴されます。
 殺人事件は裁判員裁判の対象中の対象事件ですから、被告人は選択の余地なく裁判員裁判にかけられます。こうした強制起訴によった場合、訴追役を務めるのは通常の検察官ではなく、裁判所が選任する指定弁護士と呼ばれる弁護士になります。 
 捜査段階から一貫して無実を訴えている被告人は全面的に起訴事実を争い、無罪を主張します。元来証拠不十分で検察官が二度も不起訴とした案件ですから、訴追側指定弁護士は初めから守勢に立たされています。
 ところが、そこへ被害者参加制度を利用して被害者遺族が参加、名状し難い感情を吐露し、「被告人は反省もせず、嘘をついて刑を逃れようとしている。死刑判決でなければ私は自殺する」と涙ながらに訴えます。これが功を奏したか、判決は意外や有罪・死刑。
 被告・弁護側は即日控訴しますが、裁判員裁判における控訴審は一般国民の意識が反映された一審判決を尊重して極力破棄しないとの最高裁方針に従い、控訴は棄却されます。被告・弁護側は上告に及ぶも、元来上告理由は限られているため、あっさり棄却。その結果、死刑冤罪という最も深刻な冤罪が確定してしまいます。
 このように、裁判員制度と検審による強制起訴、被害者参加は、いずれも一般国民の「司法参加」という一見して「民主的」な体裁をとりながら、三位一体で被告人を有罪・厳罰へ流していく―冤罪の現実的危険を孕みつつ―新たな社会管理の装置として配備され、動き出しているのです。 

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良心的裁判役拒否(連載第21回)

2012-01-28 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第10章 市民的不服従へ(続き)

(2)「プチ革命」の可能性
 戦後の日本支配層は、旧兵役制度のように国民全般に過酷な役務を強制するような制度の創設を長く自制していました。それは、―彼らにとっては不本意にも占領下で「押し付けられた」―現行憲法で規定されるようになった基本的人権及び自由に一定は譲歩して手控えてきた結果なのでしょう。
 戦後半世紀を過ぎて、そうした長年の自制を大きく転換したのが、裁判員制度と、「努力義務」の形を取りつつも実質的な戦争協力義務を国民一般に課する有事法制です。その意味で、裁判員制度の創設は、有事法制の整備と並んで戦後日本の画期点と言ってさしつかえないものです。ただし、画期点と言っても、前進へ向けての画期ではなく、個人の尊厳よりも国家の尊厳を優先する戦前の権威主義的な体制へ向けての逆行的な画期です。
 これはもはや本連載の主題を超えた話になりますが、管見によれば、戦後日本およそ70年の「発展」プロセスはその全体が戦前的な体制へ向けて逆走を続けてきた「後方への発展」の歴史であったと理解されるのですが、裁判員制度は同時に配備された有事法制とともに、そうした「逆走」のプロセスをいっそう加速化させる新たな道具立てなのです。
 その行き着く先には、―改憲を伴いつつ―軍事的な兵役制度の復活と旧治安維持法に準ずるような思想取締法規の再現前とが待ち構えているでしょう。
 そういう認識に立つとき、裁判員制度を市民的不服従によって廃止に追い込むことは、「逆走」の流れを―完全に阻止することは困難だとしても―歯止める「プチ革命」の意義をも帯びてきます。それだけに、当局としても裁判員経験者を使った世論工作の推進や罰則の強化など、状況を見ながら硬軟織り交ぜた制度防衛策を繰り出してくる可能性があります。
 そこで、「プチ革命」を成功へ導くためには、一般市民とともに弁護士たちが市民的不服従に合流することがカギになると思われるのです。
 裁判員裁判の対象事件は刑事訴訟法上はすべて弁護人が付かなければ開廷することのできないいわゆる「必要的弁護事件」です。従って、もし弁護士たちが裁判員裁判の対象事件での弁護を一斉にボイコットする一種のストライキに出れば、公判を開くこともできず、制度はたちまち立ち往生してしまいます。
 現状では日弁連が全面的に制度を支持・推進する立場にあるため、そんな「弁護士スト」は望み薄ではありますが、個々的に制度に反対する弁護士たちが、単に口で批判するだけにとどまらず、裁判員制度への協力を拒否することは制度を廃止させるうえで大きな動因となります。
 ただ、それは一方で、裁判員裁判を回避することが許されていない対象事件の被告人にとっては、弁護人がなかなか付かないという不利益をもたらすことになるため、弁護士倫理上の問題を生じかねないこともたしかです。
 しかし、正当な事由のない診療拒否が法律上禁じられている医師とは異なり(いわゆる応召義務)、弁護士の弁護拒否は違法ではありません。それは弁護という仕事が微妙な勝敗予測のうえに成り立つからというだけでなく、弁護士自身の思想・信条と無関係には成り立たないことにもよるものでしょう。弁護士にはある種の「良心的弁護拒否」が認められるのです。
 もっとも、裁判員制度推進の旗を振っている日弁連は、制度に批判的であるがゆえに対象事件の弁護を拒否する会員弁護士に懲戒処分を科そうとするかもしれません。しかし、法律のプロである弁護士は自身に対する不当な処分に対する高度の防御能力を備えているはずです。もちろん、日弁連が「改心」して制度反対論に転じてくれるのが一番良いのですが。
 いずれにせよ、裁判員制度の最終的な帰趨は弁護士層の動向いかんにかかっていると言っても過言でありません。その意味で、「弁護士の反乱」は裁判員制度の廃止をもたらす隠れた必須条件なのです。

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良心的裁判役拒否(連載第20回)

2012-01-27 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第10章 市民的不服従へ

(1)個人的拒否から集団的拒否へ 
 
前回まで、裁判員制度は不正の制度であり、その廃止を公然求めることをためらう必要はないこと、そしてその突破口は良心的拒否にあることを論じてきました。
 ただ、良心的拒否は本質的に個人的な実践であって、それを通じて直ちに制度の廃止につなげることは困難です。それはまだ、制度の維持を前提に「少数者」の尊重を求めるというレベルにとどまります。
 そこで、言葉の真の意味で「拒否から廃止へ」を実現するためには、個人的な拒否を集団的な拒否へと高めていく必要があります。このような個別的な良心的拒否を超えた集団的な良心的拒否は、もはや狭い意味の「良心的拒否」にとどまらない市民としての不服従=市民的不服従へと発展していきます。
 良心的拒否の先覚者ソローが論文タイトルに冠した「市民的不服従」は、彼が示したような孤独な単独行動ではなく、集団的な連帯行動のうねりに高められて初めて生きてくるのです。
 そこで考えなくてはならないことは、今はまだ各地で個々ばらばらに実践されているであろう良心的裁判役拒否の集団的なうねりをどのようにして作り出せるだろうかということです。
 最も端的なのは、一種の運動体を結成することです。こうした運動体は裁判員候補者として抽選される前の市民同士の予備的なものであれば、現状何ら問題なく結成できるのですが、問題はいざ裁判員候補者に抽選され、呼び出されてしまった場合です。
 そうした場合、候補者は連携して情報交換し合い、励まし合いながら拒否行動に出たいところですが、裁判員法はこうした連帯行動を妨げるかのような規定を置いているのです。
 すなわち同法101条1項前段は「何人も、裁判員、補充裁判員、選任予定裁判員又は裁判員候補者若しくはその予定者の氏名、住所その他の個人を特定するに足りる情報を公にしてはならない。」と定めています。
 この規定は一見して「個人情報保護」を趣旨とするように読めますが、それは本人以外の第三者―特に裁判所職員をはじめとする訴訟関係者―にも個人特定情報の保護が義務づけられている限りにおいてのことです。「何人も」という文言には本人自身も含まれるわけで、例えば、裁判員候補者に抽選されたあなたや筆者が自らその事実を個人が特定されるような形で公表することも禁じられているのです。このことによって、裁判員候補者同士(裁判員同士も)が横に連帯することが妨げられてしまいます。
 ただ現行法上、この規定には違反した場合の罰則が設けられておらず、いわゆる訓示規定にとどまることが一つの救いです。従って、この規定に公然と違反して裁判員候補者同士が徒党を組んでもそれだけで制裁を科せられることはないわけです。
 もっとも、訓示規定とはいえ、法の規定に違反することは例の「不公平な裁判をするおそれ」の認定に影響する可能性はあり、排除されることも考えられますが、裁判役を拒否したい市民にとってはかえって好都合なことでしょう。
 もし今後、裁判員制度に対する市民的不服従の運動が盛り上がれば、当局は先の法101条に過料あるいは刑罰の制裁規定を付加する法改正で応じてくる可能性もないことはありませんが、そこまでの挙に出られた場合は、匿名で参加できる形の運動体を結成すること―その際は、インターネットが有用でしょう―を考えればよいと思われます。
 ただ、注意すべきは、態度を決めかねている裁判員候補者に対して、裁判役を拒否するよう説得することは、場合により裁判員法107条に定める裁判員等に対する威迫罪に問われるおそれがあることです。
 同条は第1項で過去の裁判員経験者等への威迫罪を定めていますが、第2項では現役裁判員、裁判員候補者等やその親族に対してまで、「面会、文書の送付、電話をかけることその他のいかなる方法をもってするかを問わず、威迫の行為」をすることを最大で2年の懲役刑をもって禁じているのです。裁判員法上の様々な罰則規定―過料から罰金、懲役刑まで罰則のデパートでもあります―の中でも一番重いのがこの威迫罪です。
 処罰されるのは「威迫」ですから、常識的な範囲内で裁判役を拒否するよう勧めることは「威迫」に当たらないはずですが、「威迫」とは「脅迫」より広く漠然とした言葉で、一般に「他人に対して、言語、動作で気勢を示して、不安、困惑の念を生じさせること」とされていますから、迷っている裁判員候補者にやや強い調子で拒否を説得して悩ませたりするようなことをすると、「威迫罪」が成立しかねないおそれがあるのです。
 従って、裁判役を集団的に拒否するにあたっても、理解ある弁護士の助言は不可欠になるでしょう。

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良心的裁判役拒否(連載第19回)

2012-01-21 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第9章 超法規的に拒否する方法(続き)

(4)制裁のリスク
 
超法規的な方法による良心的拒否を実践するときに念頭に置かねばならないのは制裁を科せられるリスクです。特に、理由を示さない全面的不出頭は裁判所側から「正当な理由」を欠くと判断されやすいため、注意を要するところです。
 この場合に科せられる可能性があるのは、何度か指摘してきた過料(最大10万円)です。過料は罰金と似ていますが、刑事罰である罰金とは異なり、行政的なペナルティーです。従って、捜査機関によって身柄を拘束されるような心配はありません。
 ですが、過料は非訟手続という特殊な裁判手続を通じて科せられ、その際に裁判所は予め検察官の意見を聴くものとされ(非訟事件手続法162条1項)、過料の執行は検察官が行うことになっています(同法163条1項)。このように、過料という制度は刑事手続とは異なりながら、検察官が関与してくるという点では罰金の制度に近似しています。
 もちろん当事者は争うこともできますが、それは即時抗告という簡易な手続によってです(裁判員法113条)。当事者はここで不出頭に「正当な理由」があったことを証明し、過料処分の不当性を訴えることができます。ただ、そうすると、結果として自分自身の信条の内容を裁判所で明かさざるを得なくなるというジレンマもありますし、それなら最初からそのように申し出ればよかったとして、即時抗告を棄却されてしまうこともあり得ます。
 ところで、この即時抗告を通じて裁判員制度の違憲性を主張し、憲法訴訟に発展させるという方法もあります。これは最も断固たる訴訟の方法ではありますが、落とし穴もあります。
 それは裁判所が裁判員制度の違憲性を認める可能性は乏しく、合憲の判断が示される公算が高いということです。というのも、最高裁当局は憲法の番人としてあらゆる国家制度の憲法適合性を中立な立場で審査するという憲法上の職責に反して、政府とタッグを組んで裁判員制度のPRに努めてきた手前、今さら憲法違反を言い出せなくなっているからです。
 実際、昨年11月には、裁判員裁判を受けた被告人側が裁判員制度の違憲性を主張した上告に対して、最高裁は明白に合憲とする判決を出しました。この判決で、最高裁は裁判役を義務づけることは憲法18条が禁ずる「意に反する苦役」に当たらないとも明言しています。
 この判決は15人の判事の全員一致であったことからして、仮に裁判員候補者が憲法違反を主張して争った場合でも同一の結論となる公算は高いと見られます。
 憲法訴訟を提起して最高裁まで争った末に合憲判断を引き出してしまうと、最高裁の判例は先例として大きな重みを持ちますから、やぶへびとなる危険が高いわけです。従って、憲法訴訟を提起するかどうかについては慎重に熟慮したほうがよいと思われます(当面は提起しないほうがよいというのが私見です)。
 なお、前回見た良心的守秘義務違反に対して想定される制裁は、「6ヶ月以下の懲役又は50万円以下の罰金」という投獄を含むまぎれもない刑罰です。従って、当事者は捜査機関によって身柄を拘束され、刑事訴追される危険にも直面します。
 万一捜査が始まってしまったら、少なくとも身柄拘束は回避するため、捜査機関の任意出頭要請は受け入れ、捜査に協力したほうがよいでしょう。さらに、刑事訴追を避けるためには、冤罪を明らかにするなどの正当な目的でのやむにやまれぬ行動であったことを説明し、不起訴処分とするよう検察官に要請することです。それでも起訴を強行されてしまった場合は、実質的な違法性がないことを主張して起訴事実を争い、無罪判決の獲得を目指します。
 以上の検討からも明らかなように、裁判員制度とは、各人の良心の領域に対して、民事・刑事の両面から制裁=抑圧を加える衝動を隠さない、まさにファッショ的な制度なのです。
 それだけに、限られた有効な法的対抗措置を検討するうえでは弁護士の助言と支援が欠かせないでしょう。その際は、裁判員制度全般に批判的・否定的な弁護士を探すべきだと思われます。
 現在、日弁連は理論編でも指摘したような経緯から総体として裁判員制度を支持・推進する翼賛的な立場をとっていますが、個々的には制度を厳しく批判し、反対運動に身を投じている弁護士も少なくありませんから、そうした弁護士のほうが一般的な弁護士よりも的確な助言と熱心な支援とを得られやすいと考えられるのです。

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良心的裁判役拒否(連載第18回)

2012-01-20 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第9章 超法規的に拒否する方法(続き)

(3)良心的守秘義務違反
 
今回は、本来の主題からは外れますが、裁判員経験者が自らの良心に従い、あえて守秘義務に違反して評議の秘密等を公表する「良心的守秘義務違反」の問題に触れておきたいと思います。
 裁判員制度施行後現在までのところ、このような事例は生じていないようですが、自らが関わった有罪判決に冤罪の疑いが生じてきた、あるいは冤罪として再審無罪が確定してしまったといった場合に、一審裁判当時無罪意見を述べながら有罪の多数意見に押し切られた元裁判員が良心の呵責を感じて自分は無罪意見を述べたという事実をメディアなどに公表し、自らも関与させられた有罪判決を批判するといった行動に出ることはあり得ます。
 しかし、理論編でも述べたように、守秘義務は自分自身を含む評議時の「裁判員の意見」から「事実の認定の当否」にも及ぶのですから、元裁判員が上のような行動に出れば、守秘義務違反の罪に問われ、最大で6ヶ月の懲役刑に処せられることになります。
 実は、裁判員制度施行前の職業裁判官裁判の時代に、同様の事態が生じたことがあります。元プロボクサーの袴田巌氏が勤務先であった会社の専務一家を殺害し金品を奪ったとして、強盗殺人等の罪に問われ、最高裁でも死刑判決が確定しながら、現在では戦後の代表的な冤罪事件として再審開始が待たれている「袴田事件」をめぐって、この事件の第一審死刑判決(昭和43年静岡地裁判決)に陪席裁判官として関与した元判事の熊本典道氏が、当時自分は無罪の意見を述べたが、2:1の評決で有罪・死刑判決の結果となったという事実を記者会見して公表したのです。そのうえで、熊本氏は当時の一審判決は誤りだったとも明言し、同事件の再審支援を表明しました。
 ちなみに、袴田氏は昭和55年に死刑判決が確定した後、精神に変調を来たし、正常なコミュニケーションができない状態が現在も続いているということで、冤罪の重圧が当事者の精神障碍まで引き起こした点でも最も悲劇的な冤罪事件の一つです。
 さて、このような異例の、しかし良心的な行動に出た熊本元判事は守秘義務違反の罪に問われないのかというと、何の咎めもありません。職業裁判官は裁判員のような形で法律上守秘義務を課せられていないからです。これも不公平な話ですが、職業裁判官の場合は評議の秘密を一生涯守り通すことが職業上の不文律となっており、わざわざ罰則を置いて取り締まるまでもないと考えられているようです。
 ただ、法律上守秘義務を課せられる裁判員の場合にあっても、良心的守秘義務違反は、良心的裁判役拒否と同様に、思想良心の自由の発露ですから、形式上守秘義務の罪を構成するからといって、直ちに処罰されるべきではありません。金銭目的などでなく、真摯な気持ちから自らの良心に従ってあえて守秘義務を破ったと認められる限り、社会的にも正当な行為として、そもそも不起訴とされるべきでしょう。
 同様に、そのような元裁判員に接触して談話を取り、公表に協力したジャーナリストその他の表現者も共犯の罪に問われるべきではありません。

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良心的裁判役拒否(連載第17回)

2012-01-14 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第9章 超法規的に拒否する方法

(1)憲法及び条約に基づく拒否
 この章では、前章で見た合法的に裁判役を拒否する方法に対して、超法規的に拒否する方法を見ていきます。
 ただし、ここで言う「超法規的」とは「違法」という意味ではなく、裁判員法に規定のない方法によるという趣旨です。裁判員法に規定のない拒否だからといって直ちに違法となるのではなく、他のより上位の法規範に根拠を見出すことができる場合があります。その最も正攻法的なものは憲法にのっとった方法です。
 ここで、良心的拒否の究極的な根拠は憲法19条で保障された思想良心の自由にあることを再確認しておきます。ただ、これもすでに指摘したように、憲法19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」というたった一片の条文だけでは良心的拒否という実践を基礎づけるには不十分なきらいもあることから、直接に国内法的効力を持つ国際人権規約18条2項の「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」という規定を併せて主張することで、憲法条項の限界を補うことができます。
 従って、この方法は本来「超法規的」というよりも、まさしく「合法的」な方法とみることもでき、良心的拒否の方法としても最も正攻法的なものとさえ言ってよいのですが、裁判員法は良心的拒否の規定を正面から置いていないために、結果として「超法規的」とならざるを得ないという理不尽さがあるわけです。
 問題は、この方法をどのような状況で使うかですが、まずは前章で見た合法的な各方法の可能性を検討したうえで、どうしても該当するものが見出せないとか、それらの方法によったところ成功しなかったという場合に残された方法として使ってみるのがオーソドックスではあると思われます。
 もちろん、ストレートにこの方法によってもよいのですが、その場合、逆に裁判官の側から法令に基づく「辞退」の方法を検討するように勧められる可能性もあり、そうなると初めからそうするのと同じ結果となるでしょう。
 いずれにしても、この方法を着実に実行するためには、裁判員選任手続に「出頭」し、裁判官の面前で自己の信条の内容を説明した上で、憲法及び条約にのっとって拒否したい旨を表明する必要があります。
 そうなると、やはり自己の内心事情を踏み込んで開示させられるばかりか、「超法規的」であるがゆえに法律面でも裁判官が難色を示し、受け入れてくれないおそれもあります。裁判官とちょっとした法律論争をするくらいの覚悟は必要かもしれません。そこで予め自分自身の見解をまとめた書面を準備し、裁判所に提出するといったことも有益と思われます。
 一方、裁判所の側でも、裁判員法に良心的拒否条項が置かれていないからといって、良心的拒否を一切許さないという硬直した運用に走るのではなく、裁判員法より上位の規範である憲法及び条約に基づく良心的拒否を認める運用を確立することが、まさに憲法上要求されているとものと考えます。

(2)全面的不出頭
 今まで見てきたような合法的及び超法規的方法はどれもまどろっこしいし、プライバシーも保てないとお感じの方は、端的に呼び出しに一切応じないことです。
 このような場合に裁判所側がどこまで追いすがってくるのか実態は承知していませんが、仮に電話等で問い合わせが来ても「出頭しません」の一点張りで、出頭しない理由も明かさないのです。
 通常の良心的拒否では、自己の信条を開示したうえで拒否するのですが、そうなると自己の信条を第三者、とりわけ公権力に対して明かさない自由―そうした「沈黙の自由」も思想良心の自由の重要な内容を構成します―については自ら放棄せざるを得ないことになります。それを避けるには、理由を示さない全面的不出頭という黙秘的な不服従を実行するしかありません。
 実際上、最高裁の平成22年度データによると、呼び出された裁判員候補者の選任手続期日出席率(呼出取消しの場合を除く)は約80パーセントとされており、残りの20パーセント、つまり5人に1人は不出頭を実践している計算になりますから、すでにこうした形で裁判役を拒否されている方は一定数おられるようです。
 しかし、この方法による場合、裁判所の側では果たして不出頭の理由が良心的拒否なのか、それとも単に面倒で回避したいだけなのか確認がとれないので、さしあたり正当な理由のない不出頭とみなさざるを得なくなります。そのため、この方法によるときは、例の過料の制裁を覚悟しておく必要もあります。
 そういうリスクを回避する一種の妥協策として、裁判所から呼出状が届いたら、(1)で見たように憲法及び条約に基づく良心的拒否の実践として出頭しない旨を説明した書面を裁判所宛てに郵送するといった方法もあり得ます。言わば、(1)と(2)とを組み合わせたような方法です。ここまでしておけば、裁判所側から正当な理由のない不出頭と決めつけられることはないでしょう。その代わり、やはり沈黙の自由は最小限放棄することにはなります。
 このように、裁判員制度とは進むも退くも落とし穴だらけ・・・・・のようです。

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良心的裁判役拒否(連載第16回)

2011-12-23 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第8章 合法的に拒否する方法(続き)

(3)心裡留保による辞退 
 
前回見た「精神上の重大な不利益」による辞退を下手に申し立てると、内心事情を詮索されて、それこそ「精神上の重大な不利益」をこうむりかねないという皮肉な事態を避けたければ、良心的拒否であることを内心に隠して(=心裡留保)、法律上認められた通常の辞退を申し立てる方法があります。
 このような方法は一見してフェアーでないようにも見えますが、辞退を申し立てるに際しての内心の動機は何でもよいので、完全に合法的な方法です。
 辞退の制度についてはすでに理論編でも先取り的に概要をお示ししましたが、ここではより細かく整理します。まず、もう一度辞退の制度をおさらいすると、辞退には(A)無理由辞退と(B)理由付き辞退の二種がありました。以下では、この分類に従って各々どのような場合が含まれるのかをまとめておきます。

(A)無理由辞退
 〈a〉70歳以上の者
 〈b〉学校教育法上の学校の学生・生徒(常時通学を要する課程のみ)
 〈c〉地方公共団体の議員(会期中のみ)
 〈d〉裁判員経験者等
(B)理由付き辞退
 〈a〉健康・体調によるもの
   a1 重い疾病または傷病
   a2 妊娠中または出産直後
 〈b〉介護・養育・付添い等の必要によるもの
   b1 同居の親族の介護または養育の必要
   b2 別居の親族や同居人の介護または養育の必要 
   b3 配偶者、直系親族、兄弟姉妹、同居人が重い疾病または傷害の治療を受ける場合の入退院に付き添う必要
   b4 妻や子が出産する場合、入退院に付き添ったり、出産に立ち会ったりする必要
 〈c〉重要な用務によるもの
   c1 自ら処理しなければ事業に著しい損害が生ずるおそれのある重要な用務
   c2 父母の葬式への出席その他の社会生活上の重要な用務
 〈d〉不便・不利益によるもの
   d1 住所・居所が裁判所の管轄区域外の遠隔地で出頭が困難
   d2 裁判員の職務を行うこと等により、自己または第三者に重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当な理由

 理論編でも述べたように、(A)の無理由辞退は一番簡単なので、該当者はこれを申し立てればよいわけですが、(B)の理由付き辞退は各理由の存在を申立者自身が証明する必要があります。
 立法者としては案外親切に細かな事情を配慮したつもりかもしれませんが、かえって申立者は家庭内事情まで裁判所に事細かく説明させられ、場合によっては医師の診断書など各種証明書の提出も求められることもあるでしょう。
 なお、d2は(1)で見た「精神上の重大な不利益」による辞退を含む政令条項に定められていますが、それ以外に「身体上の重大な不利益」と「経済上の重大な不利益」による辞退も認められています。
 これも漠然としていてわかりにくいのですが、a1のような重い疾病ではないものの、例えば人前で緊張すると腹痛を起こすなど、緊張性の身体症状が出やすいような場合が想定されそうです。
 一方、「経済上の不利益」もなかなか見当がつきにくいのですが、c1の不可代替的用務とまで言えないものの、自らが裁判役に就いていたら、著しい収入減が避けられないとか、第三者である取引先に重大な損失を及ぼしかねないといった場合が想定されているのでしょうか。
 いずれにせよ、こうした心裡留保の方法による場合は、内心事情の詮索は避けられる反面、所定の理由の存在を証明するためには、自身や第三者のプライバシーまで開示せざるを得ないことは覚悟する必要があります。

(4)「排除」を仕向ける方法
 
前回までに見てきた「辞退」という方法によっては裁判役を拒否し切れない事情がある場合に残された一種のウルトラ手法は、意図的に「排除」を仕向ける方法です。
 第2章のタイトルにも冠したように、裁判員制度は「強制と排除」の制度ですから、「排除」の規定も備えていたのでした。「排除」は裁判員を積極的にやってみたいと思う人にとっては由々しきことでしょうが、拒否したい者にとっては当局側から肘鉄を食らうことは好都合な面もあるわけです。
 中でも有用なのは、例の「不公平な裁判をするおそれがある」者を不適格者として排除する規定です。良心的拒否者は「人を裁くなかれ」という信条を持つのですから、裁判員選任手続の際、「私が裁判員になったら、どんな場合でも無罪の意見を述べます。」と宣言するとよいでしょう。
 「どんな場合でも無罪の意見を述べる」とは、要するに裁判員として公平な立場に立たないと宣言するに等しいことですから、間違いなく「不公平な裁判をするおそれがある」と認めてもらえるでしょう。しかも、この理由で排除されても、それ以上何らの制裁も科せられませんから無傷で済みます。
 ほとんど考えられないことではありますが、そのように宣言しても万が一裁判官が等閑に付してしまった場合は、どんな場合でも被告人を無罪にしてしまう裁判員の存在を許すことのできない検察側から敢然と忌避の申し立てがなされることは確実ですから、結果としてやはり排除されます。
 こうした方法はいささか脱法的だとお感じの向きもあるかもしれませんが、これも法律の規定に準拠した合法性の範囲内ですから、自信を持ってよいと思います。ただし、若干の「演技」が必要になるかもしれませんが・・・。

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良心的裁判役拒否(連載第15回)

2011-12-17 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第8章 合法的に拒否する方法

(1)良心的拒否の「拒否」
 裁判員制度の法案概要が政府の司法制度改革推進本部の検討会(前出)から示された際、当時の与党・自由民主党からも異論が起き、同党が政府に対し、思想信条を理由とする辞退を認めるよう求める事態となりました。
 これを受けて、所管官庁の法務省は法律でなく内閣の政令で思想信条を理由とする辞退を規定することを検討したとされますが、結局見送られ、後で見るような漠然とした「重大な不利益」を理由とする辞退の規定を置くことでお茶を濁しました。
 見送りの理由として「辞退を認めるかどうかの線引きが難しい」などと弁解されていましたが、むしろ政府当局は初めから良心的拒否を認めるつもりがなかったものと見るのが合理的でしょう。良心的拒否が「拒否」されたのです。
 ここには、戦後憲法の最大成果である思想・良心の自由に対する統治権力の無理解がさらけ出されているように見えます。
 ただ、当時の与党・自民党はせっかく正当な問題提起をしておきながら、なぜ最後までそれを貫かなかったのでしょうか。やや勘ぐってみると、当時いわゆる有事法制の整備が同時並行的に鋭意進められていたことと無関係ではないかもしれません。
 有事法制は兵役制度とは違いますが、有事―有り体に言えば「戦時」―には一般国民にも自衛隊の活動に協力する義務を負わせる制度です。やはり小泉政権下で成立した有事法制上、一般国民に課せられる協力義務は任意性が担保された罰則なしの「努力義務」の形をとることで、辛うじて憲法違反性を免れていますが、良心的拒否はここでも規定されていませんから、任意の「努力義務」といっても、実際上はなかなか「協力」を拒否し切れないように仕組まれているのです。
 そういう企てと平行的に進められていた裁判員制度において、正面から良心的拒否条項が設けられると、そのことは反射的に有事法制のほうにも響いてきて、そちらでも良心的拒否条項を設けるよう求める声が強まってくることは確実です。そうした事態を避けたかった与党・自民党は裁判員制度上の良心的拒否の問題でも強く押していかなかったのではないか━。
 これは証明されていないことですが、先の「努力義務」を規定した有事法(武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律)は裁判員法のおよそ1ヶ月後に成立しており、如上のような推測も成り立つほど微妙な時期であったのです。
 それにしても、裁判員法と有事法が同時成立した2004年当時は、戦前宗教弾圧を受けた経験を持つ宗派団体を支持基盤とする公明党が連立政権に加わり、また同じく戦前は徹底した思想弾圧対象であった日本共産党も野党として現在より多くの議席を保持していたのに、良心的拒否の問題が国会内でも強力に提起されなかったのは不可解でした。それらの与野党もこぞって「日本型司法参加」のPRに呪縛されていたのでしょうか。
 ともあれ、裁判員法には明示的な良心的拒否条項は置かれなかったのですから、正面から合法的な形で良心的拒否を実践することはできないわけです。

(2)「精神上の重大な不利益」による辞退
 政府当局が良心的拒否条項の創設を見送るのと引き換えに設けたのは、「裁判員の職務を行い、又は裁判員候補者として・・・・裁判員等選任手続の期日に出頭することにより、自己又は第三者に身体上、精神上又は経済上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」場合に裁判員任務(選任手続への出頭を含む)を辞退できるとする政令条項でした。
 国会で討議・制定する法律でなく、内閣が国会の関与なしにいつでも改廃できる政令で定めるという非民主性もさりながら、一般国民が文言を一読しても具体的にどんな場合が想定されているのか予測できないという点からも、人を食った非民主的な規定だと言えます。
 とはいえ、正面から良心的拒否条項が設けられなかった裁判員法上、さしあたって良心的拒否の仮託的根拠となりそうな規定は上記政令条項しかないのも事実ですから、何とかこれを使うことを検討してみましょう。その場合、注目されるのは「 精神上の重大な不利益」という部分です。
 それにしても漠然としていて戸惑いますが、「人を裁くなかれ」という信条を持つ人が裁判員の職務を行うことや裁判員候補者として選任手続に「出頭」させられることは精神的に苦痛であり、「精神上の重大な不利益が生ずると認めるに足りる相当の理由がある」と認めてもらいたいものです。
 ただ、「不利益」という語は利益に関わる言葉であり、単に苦痛であるというだけでは内面的な葛藤にすぎず、利害に関わらないので「不利益」とは言えないのではないかという解釈も成り立ちます。加えて、そこに「重大な」とか「相当な(理由)」といった限定句もかぶさるのですから、厳格に解釈すると、例えば自分が所属する団体等がメンバーに裁判員に就くことを禁じており、それに違反すれば除名ないし破門のような不利益処分を科せられるおそれがあるというぐらいでなければ重大性と相当性の要件を満たさないのではないかとも言えそうです。
 この点、実施初年度(平成21年)の最高裁のデータによると、上記政令条項による辞退が認められたのは473人で、全辞退者の約7パーセントにすぎないことがこうした厳格解釈の可能性を示していますが、翌年(平成22年)のデータでは、一挙に1552人、割合にして27パーセントに急増しており、やや緩やかな運用に変わったことが窺えます。
 とにかく意図的に文言をあいまいにして裁判所の裁量を大きく取ろうとしている規定ですから、初めに述べたように、予測可能性に欠けるということがこの規定の問題性です。
 その結果、この規定に基づいて辞退を申し立てると、裁判所は該当性を判断するために申立者の思想や信仰の内容を相当踏み込んで問いただす必要があります。要するに、裁判官の質問攻めにあうということ。
 それに対して申立者が回答を拒んだり、思わず嘘をついてしまったりすると、最大で50万円または30万円という重い過料の制裁を科せられることになります(詳しくは裁判員法110条・111条参照)。 
 このようにして裁判員法は良心的拒否を正面から認めないばかりか、良心的拒否者の内心事情を重い制裁の下に探索しようとすらするわけです。

注 最高裁データは、精神上の不利益か経済上の不利益かの内訳を示さないので、良心的拒否型の辞退が認められた者の実数や割合は不明である。なお、令和4年度データによれば、上記条項による辞退が認められたのは889人である。

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良心的裁判役拒否(連載第14回)

2011-12-09 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎(続き)

(3)選択的拒否と全般的拒否
 良心的拒否が正面から認められるようになると、実際に拒否が認められる範囲はどこまでかという問題が生じてきます。とりわけ、ある特定の場合にだけ義務の遂行を拒否する「選択的拒否」の可否が問題となります。
 例えば、兵役の例では、侵略戦争への従軍は拒否する(他の戦争ならこの限りでない)とか、裁判役で言えば、今回与えられた事件での裁判員任務は拒否する(別事件ならこの限りでない)といったことが許されるかどうかです。
 このように特定の場合にだけ義務の遂行を拒否するという態度は、およそあらゆる場合に義務の遂行を拒否する「全般的拒否」よりも現実的で穏健なものと言えなくありません。そこで、このような選択的拒否をこそ保障すべきではないかとの考え方もあり得るところです。
 ところが、事はそう簡単ではないようです。このような選択的拒否で問題なのは、選択の基準が明確に立てられないことです。例えば、イラク戦争は侵略的だが、アフガニスタン戦争はそうではないと言い切れるでしょうか。こういう議論をしていると終わらなくなってしまう恐れもあります。
 まして裁判役の場合、A事件と別のB事件との違いをどこに見出したらよいでしょうか。一応、死刑相当事件とか冤罪事件といった線引きも考えられなくはありませんが、死刑相当か、また冤罪かといったことは、審理してみないとわからないことであって、事前にはっきりと識別できるものではありません。
 もっとも、死刑相当事件の場合、最高刑が死刑に係る事件かどうかで一応区別できますが、最高刑が死刑に係る事件だからといって死刑以外に選択肢が全くないわけではない以上(例外中の例外として、刑法81条の外患誘致罪は法定刑が死刑のみ)、この区別も相対的なものにすぎません。
 となると、選択的拒否を認めることは、拒否者による恣意的な対象選択を許す結果となりかねないため、むしろおよそ兵役なり裁判役なりをすべて拒否するという「全般的拒否」だけが認められるということになります。
 実際上、このような全般的拒否者であって初めて、その人の信念なり信仰なりが法的保護に値するほど強いものであることが確証され、その信条に反する義務の遂行を強制することの違法性も露わになると言えるでしょう。

(4)人を裁くなかれ
 良心に従い裁判役を全般的に拒否するというときに判断の規準となる規範は、「人を裁くなかれ」というものでしょう。
 この規範はキリスト者にとってはなじみの深いものと思われます。というのも、イエスの教えの中心はまさに「人を裁くなかれ」にあったと言って過言ではないからです。
 当時のユダヤ教では石打ちの刑(死刑)に相当する大罪とされた姦淫の罪を犯した女が連れてこられたとき、イエスが「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と呼びかけたところ、誰も投げる者なく、イエスは女に二度と罪を犯さないよう諭して帰らせたという『新約聖書』のエピソードはよく知られています。
 こうしたイエスの教えは「人はみな罪人である」といういわゆる原罪論と、それを基礎とした隣人愛の思想に由来するものでした。従って、キリスト者であれば、この教えに従って、裁判役を全般的に拒否することは困難ではないでしょう。
 しかし、「人を裁くなかれ」という規範は決してキリスト者だけの専売特許ではなく、非宗教的な信条としても十分に成り立つものと思われます。「原罪」という考え方に立つかどうかを問わず、隣人に対して法壇の高みから人を裁く資格があるほど崇高な人間は存在するのでしょうか。
 たしかに自分であれば絶対に犯すことはないだろうと思われるような犯罪を犯す人は存在するわけですが、しかしもし自分がその人と同じ境遇にいて、同じ状況に立たされたら絶対に同じことをしなかったと断言できるかどうか・・・。
 それを考えると、人を裁く資格が自分にあると確信できる人はほとんど存在しないのではないかとさえ思えてきます。このことは「人を裁く」ことを仕事としている職業裁判官についても言えることですから、この議論を延長していくと、司法制度ないし刑罰制度の存立可能性如何という問題に到達しますが、ここでは深入りしません。
 ともあれ、裁判員制度では「裁く」という要素が一段と強く現れるのは、理論編でも見たように、この制度が「犯罪との戦い」という法イデオロギーに立って重大犯罪に厳罰で対応するというコンセプトを強く帯びているからです。
 元来、事実認定・法令の適用・量刑と三段階ある刑事裁判作用のうち、刑罰の種類と量を決める量刑には「裁く」という要素が濃厚なのですが、裁判員制度の圧倒的な重点は、重大犯罪において一般国民が「健在な社会常識」なるものをもとに刑罰を下すという量刑の点にあるのですから、強烈に「裁く」制度なのです。
 これに対して、陪審制における陪審員の役割は基本的に否認事件での事実認定、それも細かな認定より有罪・無罪の結論を出すことにありますから、「裁く」という要素はゼロではないとしても、裁判員制度に比べればはるかに希薄であることはたしかであり、「人を裁くなかれ」という信条とも比較的両立しやすいと思われるのです。

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良心的裁判役拒否(連載第13回)

2011-12-03 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:略

第7章 良心的拒否の基礎(続き)

(2)良心的拒否の法的根拠
 ソローの時代には、まだアメリカでも良心的拒否という実践は認知されていなかったため、「脱税」をした彼は逮捕されました。しかし、その後、国民国家の整備・強化に伴い、国家が国民に課す義務と個人の信条とが衝突する場面は増えていきます。兵役制度はその代表的なものでした。そこで、良心的拒否を法的に認知しようという動きも生じてきます。今日、徴兵制度を残す民主的な諸国の多くで導入されている良心的兵役拒否条項はその表われです。
 この点、徴兵制度を持つドイツでは、憲法で「何人も、その良心に反して、武器をもってする戦争服務を強制されない。」(4条3項)と定め、良心的兵役拒否を憲法上の基本権として保障するに至っています。
 こうした限りで、良心的拒否はれっきとした法的根拠を持つようになってきたわけですが、良心的拒否のより一般的な法的根拠は思想良心の自由を保障する憲法条項です。
 ドイツ憲法上、その良心的兵役拒否を保障するのと同じ条文の第1項に「信仰、良心の自由・・・・は、これを侵してはならない。」と定められているのは、そのことを端的に示しています。徴兵制度が廃止されたため、良心的兵役拒否が問題とならない日本でも、憲法19条に「思想及び良心は、これを侵してはならない。」という簡明な規定が置かれています。これは兵役の義務を定めていた明治憲法には全く見られなかった、戦後憲法の最大成果の一つです。
 ただ、これだけの規定では法律上の義務の遂行を拒否するという実践の直接的な根拠としては弱く、ただ単に権力側からする攻撃的な思想弾圧のようなものを受けないことの保障にすぎないという矮小的な解釈も成り立ってしまう恐れもあります。
 そこで、こうした場合に登場願うのが、国際人権規約です。正式には「市民的及び政治的権利に関する国際規約」と題する国際条約の第18条は、その第1項で「すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。」と定めるのに続き、第2項で「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。」と定めています。
 この規定は兵役など特定の役務に限らず、また法律上の強制に限らず、事実上の強制をも含むと解し得る広い文言の下に、自己の信条に明確に反するばかりか、反するおそれのある一切の強制に従わない権利を保障するもので、まさに良心的拒否の一般的な根拠にふさわしい条項となっています。
 日本はこの条項を含む人権規約を1979年に批准しており、しかも人権規約は国内法なくして直接に国内でも適用されるため、私どもは人権規約条項を日本国内の裁判所でも活用していくことができる立場にあるわけです。
 こうして、一見して心もとない良心的拒否にも、れっきとした法的根拠があることに自信を持つことができる時代に私どもは生きているのです。
 ところで、良心的拒否が正面から認められる場合に、制度上いわゆる代替的義務が課せられることがあります。例えば、良心的兵役拒否者に対して、福祉施設等での社会奉仕活動を義務づけるようなものが典型的です。
 これは良心的拒否が一定の思想・信仰を持つ者に対する特権となってしまうことを防ぐためのバランス措置としての意味を持ち、ドイツ憲法ではこれについても明文の限定を置く周到ぶりです。
 こうした代替的義務の制度は公平性を確保するための方策として一定の合理性が認められるものの、そうした方策を必ず導入しなけければならないというものではなく、あくまでも政策的な問題です。そして、代替的義務を導入する場合も、その義務の内容がまたしても各自の思想良心の自由を侵害する不正なものであってはならないことはもちろん、拒否の対象となる義務と実質上同種のものであってもなりません。
 この点、ドイツ憲法はこうした代替的義務についても「・・・良心の決定の自由を侵してはならず、かつ軍及び連邦国境警察の部隊と何ら関わらない代役の可能性を与えなければならない。」(12a条2項)と丁寧に定めています。
 この点、良心的裁判役拒否の場合はそもそも代替的義務の制度を導入すべきではないでしょう。なぜなら、このような課役は第1章で見たとおり、それ自体違憲の疑いが強いのであり、百歩譲って合憲だとしても、兵役制度ほど集団的に徴用される制度ではないため、公平性確保の必要性はそう高くないと考えられるからです。

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良心的裁判役拒否(連載第12回)

2011-12-02 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第7章 良心的拒否の基礎

(1)良心的拒否とは?
 良心的拒否という実践は、「良心的兵役拒否」という形で、従来圧倒的に軍事的な兵役との関わりでなされてきたため、戦後は兵役制度を廃止した日本ではまだなじみの薄い実践だと思います。
 ちなみに、憲法上「臣民の義務」として兵役が明確に定められていた戦前は、一方で思想良心の自由を認めない全体主義的な国家体制であったため、兵役拒否は理由のいかんを問わず許されませんでした。
 良心的拒否とは、自己の良心に照らして不正と判断される法律上の義務の遂行を拒否する実践ですから、それは思想良心の自由に基礎を置く実践であり、従って思想良心の自由のないところでは全く成り立たない実践です。
 ところで、単なる「拒否」でなく「良心的」と限定するのは、単に面倒だからとか、何となく嫌だからという「回避」の心情ではなしに、法律上課せられる義務の内容を自身の信条に照らして吟味するというプロセスを経て拒否することが求められるからです。
 その際、規準となる自己の信条は宗教的なものである場合と、非宗教的なものである場合とがあります。どちらであるか、あるいはどちらでもあるかは、各自の信条の持ち方によって異なります。信仰者であれば、自己の信ずる宗教の教義を踏まえた信条を持っていることが多いでしょう。
 この点、良心的拒否を立法上認めてきたアメリカでは、合法的な良心的拒否の範囲を宗教的な信条に基づく場合に限るのが伝統であったのですが、その後、非宗教的な信条に基づく場合にまで拡大するようになりました。
 罰則をもって担保されるような法律上の義務の遂行を拒否するほどの信条を持つ人が信仰者に多いことは歴史上も認められる事実ですが、だからといって良心的拒否を信仰者に限って容認するという方法をとると、信仰者に一種の免除特権を認めるに等しくなり、それも問題です。宗教的かどうかを問うことなく、とにかく各自の信条による吟味を経ているなら「良心的拒否」として認めるのが適切だと言えます。
 ただ、「信条」といっても、およそいかなる信条でも許されるというわけではありません。極端な例ではありますが、「自分は殺人を肯定する」という信条に基づいて裁判役を拒否するというようなことは、いくらそれもその人なりの確信であるからとはいえ、法律上の義務の遂行を拒否することを正当化できるような信条とはとうてい評価できません。
 「良心的拒否」であって単なる「確信的拒否」ではないことには意味があるわけです。従って、「良心的拒否」の規準となる「信条」とは、少なくとも他者を侵害するような内容のものではないことが条件となるでしょう。
 この点、良心的拒否の歴史的先駆者として知られてきた19世紀アメリカの作家、H・D・ソロー(1817-1862)は、黒人奴隷制を維持し、西部領土の拡張を狙ってメキシコ侵略戦争を続ける当時のアメリカ政府に抗議するため、6年間にわたり納税を拒否して逮捕されるという大胆な行動を示しました。そのソローが自らの体験をもとに書いたのが、『市民的不服従』という有名な論文です。
 ソローはここで、「良心的拒否」(conscientious objection)でなく、「市民的不服従」(civil disobedience)という語をタイトルに冠していますが、彼の行動の本質は、奴隷制や侵略戦争を不正とみなす彼の信条に基づいて奴隷制や侵略戦争への協力の意味を持つ政府への納税義務の遂行を個人的に拒否したという点で、まさに良心的拒否にほかなりませんから、論文の論旨はここでの議論にも基本的に妥当します。
 その論文の中で、彼は「不正な法律は存在する。われわれはそれに従うことに満足していればいいのか、あるいはそれを改める努力をしながら、成功するまでは従っているのがいいのか、それともすぐに背くのがいいのか」と問うたうえで、次のような規準を提出しています(以上及び以下、富田彬訳によるが、一部訳文変更)。

「もし、その不正が、政府という機械に必然的な摩擦の一部分なら、放っておくがいい。ひょっとしてその摩擦はだんだんすりへらされるだろうから。もしその不正がただそれ自身を動かすためのバネか滑車かかクランクをもっているのなら、その不正を正すことが角を矯めて牛を殺す結果にならないかどうかを考えてみるのもよかろう。しかしその不正が、あなたがたをして他者に対して不正を働かせるような性質のものであるなら、私はそんな法律は破ってしまいなさいと言いたい。あなたがたの生命をその機械の運転を止める反対摩擦としなさい。私の為さねばならないことは、ともかく私の非難する悪事には力を貸さないということである。」

 ここで重要なのは、破るべき法律の持つ「不正」の内容を「あなたがたをして他者に対して不正を働かしめるような性質のもの」と限定していることです。つまり良心的拒否の対象となる「不正な」法律上の義務とは、他者に対して及んでいくような不正を内容とする義務だということになります。
 その例としては、まさに兵役のように武器を取って他者を直接に殺傷するような義務や、ここでの主題である裁判役のように裁判権力を行使して他者の生命・自由を剥奪する命令を下すような義務が挙げられるでしょう。
 ソロー自身が実行した納税拒否はやや微妙ですが、政府への納税を通じて、他者を差別する黒人奴隷制や侵略戦争のような不正に間接的に協力させられるという限りにおいては、やはり一個の不正な義務付けとみなすこともできるでしょう。
 前章(1)で裁判員制度の不正な問題点を整理・列挙した際に、良心的拒否を根拠づける中核的要素は他者たる被告人に及んでいくような不正であると前もって指摘しておいたのも、このことに関わっています。

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良心的裁判役拒否(連載第11回)

2011-11-26 | 〆良心的裁判役拒否

実践編:裁判役を拒否する方法を探る

第6章 拒否から廃止へ

(1)不正の制度
 本連載は裁判員制度に関する最高裁判所の初の憲法判断が出るまで休止しておりましたが、今月16日の大法廷判決で全員一致の合憲判断が出されたことを受けて、再開致します。今般の合憲判決によって、裁判員制度については一応司法府のお墨付きが出たことになるため、当面制度は存続していくことが確実となったからです。
 そこで、本章からは「実践編」として、いよいよ連載の主題である良心的拒否の問題に入っていきますが、その前に前章までに見てきた裁判員制度の問題点をここで改めて整理しておきたいと思います。なお、最高裁で合憲判断が出たということは、「裁判員制度は少なくとも憲法には反しない」という意味しか持たず、制度にいかなる問題点も存在しないというわけではありません。
 この制度を「拒否」するというからには、憲法問題に限らず、制度がどんな問題性を持つのかを明確にしておかなければ、早くも合憲判断が出されたこととあいまって、「日本型司法参加」云々のPRに動揺し、結局は拒否し切れなくなってしまう恐れがあるからです。
 その際、裁判員制度が抱える数々の問題点は単なる「不当」の域を超えて、「不正」の域にまで達しているということを明確に意識する必要があります。
 ここに「不当」とは、単に政策的な妥当性の欠如を意味していますが、「不正」とは法的・道義的な正当性の欠如を意味しています。「不当」にとどまらず、「不正」だからこそ、自己の良心に従い「不正」に手を貸すことを拒む「良心的拒否」の扉が開かれるわけです。
 では、裁判員制度の「不正」な問題点とは?(以下、主語抜きの箇条書きにしますが、各文の主語は言うまでもなく裁判員制度です)。

(a)憲法上の根拠なくして、裁判役という新たな「国民の義務」を賦課する。
(b)一般国民を罰則付きで、精神的・肉体的にも、場合により経済的にも負担の重い重罪事件の裁判に動員する。
(c)各人の良心に反して、他者の権利・自由を剥奪する処罰任務を強制する。
(d)特に、僅差で反対意見の裁判員にも死刑判決に関与させて、他者に死を命ずる任務を強制する。
(e)裁判員の権限及び身分保障の弱さから、裁判官主導の裁判が実行され、一般国民が冤罪や違法捜査を見逃した不正な判決に加担させられる恐れがある。
(f)裁判員選任手続の過程におけるプライバシー保護の配慮が欠如しており、各人の思想・信条に関わる情報の取得も可能で、その結果によっては思想・信条による差別も発生し得る。
(g)補充裁判員を含む裁判員経験者は、懲役刑の制裁で担保された広範な守秘義務を終生にわたって課せられ、国家への忠誠を強いられるとともに、その者と接触を図り共犯に問われる恐れのある表現者の言論出版の自由も侵害される。
(h)裁判員の負担軽減を口実に、対象事件の被告人の争う権利を厳しく制約し、なおかつ裁判員裁判を回避する権利を認めないなど、いわゆる適正手続保障(デュー・プロセス)を著しく軽視している。

 なお、以上に掲げた問題点のうち、青で示した(a)(b)(f)(g)は裁判役を課せられる者自身に降りかかってくる「不正」であるのに対し、赤で示した(c)(d)(e)(h)は裁判役が向けられる他者、すなわち被告人に及んでいく「不正」です。良心的拒否を根拠づけるうえで特に核心を成す「不正」はこの他者に及んでいくほうの「不正」であるということも、ここで頭に入れておいてください(これについては、改めて後述します)。

(2)運動論の再検討
 裁判員制度は(1)で整理したような不正の制度にほかならないのですから、公然廃止を求めていくことをためらう必要はありません。しかし、すでに成立し動き出してしまった制度をどのようにして止められるかという壁が立ちふさがります。
 実際のところ、こんな制度はそもそも法案段階で廃案とすべきであったのですが、理論編でも指摘したような法曹界での裏取引の結果ひねり出された特異な政治的制度ですから、その制度設計過程は不透明でした。そのうえ、国会はカヤの外ですから、ろくに審議もしないまま、2004年の4月から5月にかけてあっという間に衆参両院で可決・成立してしまったのでした。当時は小泉内閣の安定期で、「改革」と銘打たれたものは何でもトップダウン式手法で押し通せてしまえたことも、こうした拙速に影響したのでしょう。
 いずれにせよ、そもそも法案を廃案に追い込むという形の運動を展開するいとまがなく、出来てしまってから反対に動く受身の運動とならざるを得ない状況でした。
 もっとも、裁判員法は5年間の周知期間を置いていたため、実際の施行は2009年にずれ込んだのでしたが、周知期間とは試験期間ではなく、PR期間ですから、実際、政府は「タウンミーティング」と称する官製市民集会で、参加者にいわゆる「やらせ」の賛成意見を述べさせるなどの不正な手法を含め、なりふり構わぬ世論工作を展開したのです。
 支配層は既成事実を作られると大衆は弱いという性質をよく知っているのです。そして、「知識人」は既成事実に抵抗すると地位・名声に響くため大衆以上に既成事実に弱いということもよく知られていますから、支配層は裁判員制度について専門的に語ることのできる法学者・法律家を中心に、「知識人」の多くを制度肯定・賛美の列に加えることに成功しています。既成事実にお墨付きを与える最高裁判決も出たことは、こうした傾向をいっそう強めるでしょう。
 はて、こんな状況で私たちはどうやって裁判役という不正に立ち向かっていけるのでしょうか。その突破口となり得るのが、本連載の主題である「良心的拒否」です。制度廃止へ向けた運動も、憲法及び国際条約に根拠を持つこの「良心的拒否」という観点から、改めて検討し直す必要がありそうです。その意味で、「拒否から廃止へ」なのです。

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良心的裁判役拒否(連載第10回)

2011-10-21 | 〆良心的裁判役拒否

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