ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

スウェーデン憲法読解(連載第13回)

2015-01-31 | 〆スウェーデン憲法読解

第四章 議会の活動(続き)

議員の地位

第一〇条

議員及び代理議員は、いかなる職務上の義務又は他の類似の責務にも妨げられることなく、議員としての職務を遂行することができる。

 本条から第一三条までは、議員の地位に関する原則をまとめているが、筆頭の本条はブルジョワ議会制度に見られる自由委任の原則、つまり議員(及び代理議員)の職務活動は外部からの拘束には服しないことを定めた規定である。

第一一条

1 議員又は代理議員は、議会が承認しない限り、その職務を放棄してはならない。

2 理由がある場合には、選挙審査委員会は、自発的に議員又は代理議員が第三章第四条第二項の規定に従い、資格を有するか否かについて審査しなければならない。資格を有しないと宣言された者は、それにより、その職務を免ぜられる。

3 議員又は代理議員は、その他の場合には、当該議員が犯罪により明らかに職務にふさわしくないことが示された場合にのみ、職務を免ぜられる。この決定は、裁判所により行われる。

 議員は職務継続の義務を負う。そのような議員の地位を万全にするため、議員がその意に反して地位を奪われるのは、選挙審査委員会が議員の資格を否認した場合と裁判所が犯罪により職務不適格と決定した場合に限られる。
 日本の国会のように、議会自身の議決で議員を除名することはできない。その点で、議会の自律権には制約がある。

第一二条

1 議会が投票者の六分の五以上の賛成を得た議決により承認した場合を除き、議員としての職務を遂行する者又は遂行した者に対して、当該議員の職務の遂行の際の言論又は行為を理由として訴えを起こしてはならない。こうした承認がない限り、職務の遂行の際の言論又は行為を理由として、前記の者の自由は、剥奪してはならず、国内の自由な移動を妨げてはならない。

2 その他の場合で議員につき犯罪の疑いがあるときで、かつ、当該議員が当該犯罪を認めているとき若しくは現行犯で逮捕されたとき又は二年の禁錮より軽い刑が規定されていない犯罪であるときにのみ、拘束、逮捕又は勾留に関する法律を適用しなければならない。

 第一項は、ブルジョワ議会制度に共通する免責特権の規定である。ただし、議会の特別多数決による例外の余地を残すなど、特権を制約している。
 同様に、第二項の不逮捕特権についても、日本の国会のように、議会の許諾を要件とはしない一方で、自白している場合、現行犯の場合、一定の重罪の場合には例外を認めるという制約を設け、実際的なバランスを取っている。

第一三条

1 ある議員が議長である期間又は政府に所属している期間、当該議員の議員としての職務は、代理議員によって遂行される。議会は、議員が欠員である場合に代理議員が当該議員の地位に就かなければならない旨を定めることができる。

2 第一〇条及び第一二条第一項の規定は、議長及びその職務についても、適用される。

3 議員としての職務を遂行する代理議員については、議員に関する規定が適用される。

 本条は主として代理議員の地位を定めている。代理議員は議員とほぼ同等の地位を持つ。これにより、議員が議長職や大臣職にあるときに事実上欠員が生じないようにし、また個別的な欠員にも対応できるようにしている。議員の育児休暇などを取りやすくするとともに、議会を可能な限り定数どおり維持し、機能不全に陥らないようにするための仕組みである。

付加的規定

第一四条

議会の活動に関する付加的規定は、議会法で定める。

 憲法に直接規定されていない議会の活動の詳細は、下位法である議会法に委ねられる。

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スウェーデン憲法読解(連載第12回)

2015-01-30 | 〆スウェーデン憲法読解

第四章 議会の活動

 本章は、国会における議事手続きの原則をまとめている。必要最小限の事項が憲法上コンパクトにまとめられ、細目は下位法(議会法)に委ねられている。

常会

第一条

議会は、毎年、常会のために集会する。常会は、議会又は議長が安全又は平穏の観点から、別に定める場合を除き、ストックホルムで開かれる。

 常会の規定であるが、開催場所を原則として首都ストックホルムと指定しつつ、情勢により首都以外での開催も許容する点に、実際的なスウェーデンの特色が滲む。

議長

第二条

議会は、その内部で選挙期ごとに、議長並びに第一、第二及び第三副議長を選挙する。

 正副議長の選任に関する規定であるが、副議長に順位をつけ、三人まで選出することが憲法上義務づけられる点に特色がある。

委員会

第三条

議会は、その内部で、議会法の規定に従い、憲法委員会及び財務委員会を含む委員会を選挙する。

 委員会制度の規定であるが、憲法委員会と財務委員会については、憲法上設置が義務づけられている。

発議権

第四条

政府及び各議員は、議会法の規定に従い、統治法が別に定める場合を除き、議会の審議対象となり得るすべての問題について発議を行うことができる。

 政府(内閣)と議員の双方に対等な発議権が憲法上認められている。

議案の準備

第五条

政府又は議員により提案された議案は、統治法が別に定める場合を除き、議決される前に委員会により審査される。

議案の議決

第六条

1 議案が本会議において決定されなければならない場合には、各議員及び各大臣は、議会法に定める細則に従い、意見を述べることができる。

2 議会法においては、欠格条項に関する規定も定められる。

第七条

本会議における表決に際しては、統治法が別に定める場合又は議会手続に関する問題については議会法の本則が別に定める場合を除き、過半数の投票者が合意した意見が議会の議決としての効力を有する。可否同数の際の手続に関する規定は、議会法で定める。

 第五条から第七条までは、議案の審議表決に関する一連の規定である。委員会中心主義のため、委員会審議前置の原則が採られる。議決は、原則として単純多数決による。

調査及び評価

第八条

各委員会は、当該委員会の所管事項内で議会の議決を調査し、評価する。

 委員会は、事後的に議会の議決を調査・評価するフォローアップの権限も持つ。

議事の公開

第九条

 本会議における会議は、公開である。

2 ただし、会議は、議会法の規定に従い、秘密とすることができる。

 本会議公開の原則である。例外として秘密会とすることができるが、その要件について、日本国憲法のような定め(出席議員の三分の二以上の議決)は憲法上に見られず、議会法に委ねられている。

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国家承認という選択肢

2015-01-30 | 時評

本日現在、イスラーム国による日本人人質拘束事件が、ヨルダンを巻き込んで膠着状態に陥っているが、無事解放で解決したとしても、このような犯罪的な人質作戦は、いやしくも「国」を名乗る集団のすることではない。

といって、「有志連合」の空爆作戦を続けて、軍事的に壊滅させることは、正当な解決策ではない。空爆による被害の大きさを考えれば、個別的な人質作戦以上に非人道的とも言える。

軍事的手段での壊滅が正当化される場合があるとすれば、ナチスばりの民族浄化作戦のような反人道犯罪の徴候が確認される場合である。従来、人質殺害のほか、イスラーム国による異教徒殺害の情報もあるが、これらをナチスの犯罪と同視することにはなお飛躍がある。

イスラーム国をおとなしくさせ、和平をもたらす究極の方法は、イスラーム国を「国家」として承認することである。かれらは、前身とされるアルカーイダとは異なり、単なるテロ集団ではなく、明確に国家建設を目指し、実際に支配地域ではすでに統治を行なっている一種の政党組織であることについては、事情通の間でも意見の一致がある。

とするならば、かれらへの対処方針として、いったん国家承認してやることは、合理的な選択肢に入ってくるはずだ。ただし、その条件として、人質やテロ行為(支援行為を含む)の全面的な中止を要求することは、もちろんである。

イスラーム国が正式に国家として承認されれば、かれらの真価が問われる。実際に高い統治能力を示せるかどうかである。

現在のところ、イスラーム国はイラク人の反体制派を中心とした寄せ集め集団であり、行政実務者の主力はイラク戦争後に排除されたフセイン独裁時代の社会主義支配政党バース党の残党だと言われている。そのうえ、世界中からかき集めたアラビア語も話せない大量の外国人戦闘員の処遇という難題にも直面する。

敵視・空爆作戦は、かえってイスラーム国の結束を強め、その延命を助長するが、国家承認されることで、かえって内紛などから早期に自滅する恐れもあり、国家承認は逆説的な意味で「イスラーム国潰し」として機能する可能性すらあるのだ。

もちろん、「領土」を切り取られ、あるいは最終的に奪われる形になるイラク、シリアの両政府は反対するだろうが、帝国主義の時代のように欧米諸国に領土を侵略されるよりは、同じアラブ人勢力に明け渡すほうがましなのではないか。

国際社会を指導する人々も自称どおりの「賢人」ならば、空爆作戦のような凡庸陳腐な「対策」にばかり執着せず、真に賢明な奥の手を見せて欲しいものだ。

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晩期資本論(連載第25回)

2015-01-28 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(3)

出来高賃金では、一見したところ、労働者が売る使用価値は彼の労働力の機能である生きている労働ではなくてすでに生産物に対象化されている労働であるかのように見え、また、この労働の価格は、時間賃金の場合のように労働力の日価値を与えられた時間数の労働日で割った分数によってではなくて、生産者の作業能力によって規定されるかのように見える。

 出来高賃金は、時間決めではなく、成果決めで支払われる労賃形態であるから、成果のいかんにかかわらず一定額の賃金が支払われる画一的な時間賃金より「公正」な労賃形態であるように見える。しかし決してそうではなく、「出来高賃金は時間賃金の転化形態にほかならないのであ」る。

時間賃金の場合には労働がその直接的持続時間で計られ、出来高賃金の場合には一定の持続時間中に労働が凝固する生産物量で労働が計られる。労働時間そのものの価格は、結局は、日労働の価値=労働力の日価値という等式によって規定されている。だから、出来高賃金はただ時間賃金の一つの変形でしかないのである。

 労働時間無制限の純粋出来高賃金なら別であるが、作業効率や労務管理上、出来高賃金といえども、労働時間制の枠内で行なわれるしかない。その場合、労働時間の価格が労働力価値で規定されることに変わりはないため、出来高賃金の本質は時間賃金と同じである。ただし―

この場合には、労働の質が製品そのものによって左右されるのであって、各個の価格が完全に支払われるためには製品は平均的な品質をもっていなければならない。出来高賃金は、この面から見れば、賃金の削減や資本家的なごまかしの最も豊かな源泉になる。

 出来高賃金は本質においては時間賃金と変わりないが、賃金の支払いは成果決めであるので、当然所定の成果を出せない労働者には低い賃金しか支払われない。だが、成果の評価基準を握っているのは資本の側であるから、意図的に高い評価基準を設定することで、全体の賃金水準を引き下げたり、成果の上がらない個別の労働者を狙い撃ちして賃下げするような仕掛けもしやすくなる。

出来高賃金が与えられたものであれば、労働者が自分の労働力をできるだけ集約的に緊張させるということは、もちろん労働者の個人的利益ではあるが、それが資本家によっては労働の標準強度を高くすることを容易にするのである。同様に、労働日を延長することも労働者の個人的利益である。というのは、それにつれて彼の日賃金や週賃金が高くなるからである。

 出来高賃金制では、労働者は少しでもよい賃金を得ようと「頑張る」のは当然であり、自ら率先して労働時間の延長も受け入れる。出来高賃金は「一方では労働者たちの個性を、したがってまた彼らの自由感や独立心や自制心を発達させ、他方では労働者どうしのあいだの競争を発達させるという傾向がある。それゆえ、出来高賃金は、個々人の労賃を平均水準よりも高くすると同時にこの水準そのものを低くする傾向があるのである」。

これまでに述べてきたところから、出来高賃金は資本主義的生産様式に最もふさわしい労賃形態だということがわかる。

 出来高賃金は、月給制のような通常の時間賃金に比べ、資本にとって大きなメリットのある魅力的な労賃形態であることは間違いない。そのため、今後、導入が進む可能性がある。とはいえ―

・・・出来高賃金の変動は、それだけならば純粋に名目的であるのに、資本家と労働者とのあいだの絶えまのない闘争をひき起こす。なぜかといえば、資本家が実際に労働の価格を引き下げるための口実にそれを利用するからであるか、または、労働の生産力の増大には労働の強度の増大が伴っているからである。あるいはまた、出来高賃金の場合にはあたかも労働者は彼の生産物に支払われるのであって彼の労働力に支払われるのではないかのように見える外観を、労働者がほんとうだと思いこみ、したがって、商品の販売価格の引き下げが対応しないような賃金の引き下げに反抗するからである。

 出来高賃金制はあまりにも資本に有利な労賃形態であるために、単純な時間賃金制以上に労使対立を引き起こしやすいというデメリットが実はある。そのため、現時点では出来高賃金制は賃金水準が元来高く、労組活動が不活発なホワイトカラー労働者への例外的適用(エグゼンプション)が中心となっているが、全般に労組の対抗力が弱化している晩期資本主義では、ブルーカラー労働者への適用もしやすい環境が整いつつある。

☆小括☆
以上、「五 労賃の秘密」では、『資本論』第一巻の比較的短い第六篇「労賃」の部分を参照しながら、資本主義的労働の象徴である労賃の本質的な仕組みについて解析した。

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晩期資本論(連載第24回)

2015-01-27 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(2)

労賃はそれ自体また非常にさまざまな形態をとるのであるが、この事情は、素材にたいする激しい関心のために形態の相違には少しも注意を払わない経済学概説書からは知ることのできないことである。

 たしかに通常の経済学の教科書に労賃形態の詳しい分析は載っていない。それは、一つには、長きにわたり、資本主義的労賃形態は月給制に代表される画一的な時間賃金であったせいもあろう。しかし、晩期資本主義では、賃金体系の多様化の名の下に、種々の搾取的な労賃形態が登場してきており、分析の必要は高まっている。

労働力の売りは、われわれが記憶しているように、つねに一定の時間を限って行なわれる。それゆえ、労働力の日価値、週価値、等々が直接にとる転化形態は、「時間賃金」という形態、つまり日賃金、等々なのである。

 労賃は様々な形態をとるとはいえ、基本的には労働時間に応じた時間賃金の性質を持つことは現代でも変わりないところである。アルバイトの時給は典型的な時間賃金であるが、月給でも本質は同じである。

時間賃金の度量単位、一労働時間の価格は、労働力の日価値を慣習的な一労働日の時間数で割った商である。かりに一労働日は一二時間であり、労働力の日価値は三シリングで六労働時間の価値生産物だとしよう。一労働時間の価格はこの事情のもとでは三ペンスであり、その価値生産物は六ペンスである。ところで、もし労働者が一日に一二時間よりも少なく(または一週に六日よりも少なく)、たとえば六時間か八時間しか働かされないとすれば、彼は、この労働の価格では、二シリングか一・五シリングの日賃金しか受け取らない。

 労働時間の短縮は労働者に有利に見えるが、労働の価格はかえって引き下がり、資本にとっては有利な面がある。この逆説について、マルクスは「人々は、前には過度労働の破壊的な結果を見たのであるが、ここでは労働者にとって彼の過少就業から生ずる苦悩の源泉を見いだすのである。」と指摘している。
 ただし、「このような変則的な過少就業の結果は、労働日の一般的な強制法的な短縮とはまったく違ったものであ(る)」。つまり、労働法に基づく強制的な時短の場合とは異なり、資本の任意の戦略としての「時短」は、それ自体搾取の手段なのである。このことは、労働時間の短いパートタイム労働の例を見れば明らかである。

日賃金や週賃金は上がっても、労働の価格は名目上は変わらないで、しかもその正常な水準よりも下がることもありえる。それは、労働の価格または一労働時間の価格が変わらないで労働日が慣習的な長さよりも延長されれば、必ず起きることである。

 給料は上がっても、労働時間が延長される場合には、やはり労働の価格は相対的に引き下がる。この場合、「(標準労働日の)限界を越えれば、労働時間は時間外(overtime)となり、一時間を度量単位として、いくらかよけいに支払われる(extra pay)。といっても、その割合は多くの場合おかしいほどわずかではあるが」。晩期資本主義は、例外を作る「エグゼンプション」の名の下に、こうした「おかしいほどわずかな」割増賃金(残業代)すら骨抜きにしようとしている。

もし一人が一・五人分とか二人分とかの仕事をするとすれば、市場にある労働力の供給は変わらなくても、労働の供給は増大する。このようにして労働者のあいだにひき起こされる競争は、資本家が労働の価格を押し下げることを可能にし、労働の価格の低下は、また逆に資本家が労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを可能にする。しかし、このような、異常な、すなわち社会的平均水準を越える不払労働量を自由に利用する力は、やがて、資本家たち自身のあいだの競争手段になる。

 労働時間の延長によって一人の労働者の労働量が上がれば、少ない職をめぐって求職者間の競争は高まる。それによって、資本は労働の価格を引き下げ、いっそう長時間労働を強いることも可能になるが、そのようにして資本家間での競争も巻き起こす。それは表面上は安売り競争として現れるが、晩期資本主義では、こうした資本家間の破壊的な競争も激化している。

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晩期資本論(連載第23回)

2015-01-26 | 〆晩期資本論

五 労賃の秘密(1)

ブルジョワ社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として、現れる。

 これは『資本論』冒頭の書き出し「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。」と並び、商品と労賃を基軸として成り立つ資本主義社会の特質を端的に表現する一句である。

労働市場で直接に貨幣所持者に向かい合うものは、じっさい、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。

 労働者の主観においても、労賃は「労働の価格(対価)」と認識されているであろうが、マルクスの理解によれば、労賃とは商品としての「労働力の価格」であって、労働の価格ではない。このような理解の仕方は、マルクスから「労働市場」という概念だけは取り込んだ現代経済理論にあっても浸透していない。それは、最先端の現代経済理論にあっても基本的に古典派経済学の域を出ていないからである。

古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに「労働の価格」という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか?を問題にした。やがて、古典派経済学は、需給供給関係のほかには、労働の価格についても、他のすべての商品の価格についてと同様に、この価格の変動のほかには、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということのほかには、なにも説明するものではないということを認めた。

 実際、主流的な経済理論では、景気循環に伴う労働市場における賃金水準の変動しか論議の対象とならず、労賃のからくりについては視野の外に置かれたままである。

・・・労賃という形態は、労働日が必要労働時間と剰余労働時間とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去る。すべての労働が支払労働として現れるのである。

 マルクスはこうした賃労働の特質を明らかにするため、「賦役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される」農奴の賦役労働と、「労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」奴隷労働とを対比している。
 つまり、労賃は「労働の対価」という衣を纏うことによって、実は無償で働かされている剰余労働の部分を労働者自身に対しても隠しているというわけである。このことをマルクスは「労賃の秘密」と呼び、「労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、存在理由を理解することよりもたやすいことはないのである。」とも指摘している。
 「労賃の秘密を見破る」という課題こそ、マルクスが『資本論』を通じて示そうとしたことでもあるが、その際、マルクスは表面的な現象形態とその背後に隠されているものとの明確な区別を説き、次のような一般的な注意点を提示している。

現象形態のほうは普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。

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続々・がんばれギリシャ!

2015-01-26 | 時評

本欄で「がんばれギリシャ!」を書くのは、これで三度目になる。一度目は2011年9月、当時欧州債務危機の元凶としてギリシャが叩かれていた時期、二度目は翌年12年6月、総選挙(再選挙)で緊縮派が勝利しつつも、反緊縮派の急進左翼連合が野党第一党に浮上した時である。

そして、その急進左翼連合が今般総選挙で勝利し、とうとう政権に就くことになった。同党は前回総選挙で躍進したとはいえ、国際的な選挙大干渉と反緊縮策への有権者の躊躇から、野党第一党にとどまっていた。しかし、その後に展開された緊縮政策の苦しみを経験したギリシャ有権者は、今回は迷わず急進左翼を政権に就けたのだ。

金融市場にとっては痛い敗北であるが、打撃の影響範囲については議論があり、今後の動向を見なければならない。いずれにしても、緊縮を絶対化し、反対する者は市場の敵とみなす「緊縮全体主義」に対する地中海からの大きな反攻であることは間違いない。

とはいえ、急翼左翼連合は、社会党や共産党のような伝統的左派政党とは異なり、明確な理念を持たない左派の寄り合い所帯、「何となく左派連合」の域を出ていないうえ―大政党化すれば、その傾向は倍化する―、政権にありついたとなれば、ポストをめぐる諍いも起こり得る。しかも保守系反緊縮派政党との連立という「保革たすきがけ」を選択したため、政権運営は楽ではないだろう。

新政権が緊縮全体主義に傾く欧州主要国に包囲されながら、脱緊縮を実行し、かつ財政再建・生活再建を果たし、無事に任期を全うできるかどうかは不透明である。それでも、この地中海の反乱は、脱資本主義へ向けた小さな変化の灯火である。それすら消えてしまったら、真っ暗闇である。

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中国憲法評解(連載第1回)

2015-01-24 | 〆中国憲法評解

 冷戦時代の米ソ二極化がソ連の解体・消滅により終了して四半世紀を越え、世界の多極化が指摘される中、中国の経済成長に伴い、中国のパワーが増してきている。現代中国に対する評価は毀誉褒貶入り乱れるが、意外にその憲法には関心が持たれていない。憲法は国の仕組みの公式解説書としての意義を持つ法典であるから、現代中国を理解するうえでも不可欠のものである。
 現行の中華人民共和国憲法(以下、単に中国憲法という。)は、「文化大革命」の大混乱を経て、いわゆる「改革開放」後の1982年に全面改正されたものであり、その後も「改革」の進展に合わせて数次にわたり部分改正が重ねられて今日に至っている。*本連載終了後、2018年にも改正がなされたが、当連載には反映されていない。
 元来、中国憲法は旧ソ連憲法を参照して制定された1954年憲法が土台となった共産党支配を前提とする社会主義憲法であるため、今なお旧ソ連憲法との類似性を残してはいるものの、解体・消滅した旧ソ連とは異なり、体制の枠内で「改革開放」を経て「社会主義市場経済」への路線転換に成功したことを反映して、旧ソ連憲法とも異なる特色を備えた独自の憲法となっている。
 本連載では、中国事情を紹介するウェブサイト『恋する中国』に掲載されている試訳に準拠しつつ、中国憲法を逐条的に評解していくことにする(意味内容が変化しない限度で一部訳語を変更するほか、文字化けする一部漢字はカタカタまたは日本式漢字で表記する。)。


前文

 中国憲法前文は、旧ソ連憲法前文と同様、長文の論文スタイルで記述されているため、全文を紹介することは避け、要約評解にとどめる。
 前文は大きく五つのまとまりに分けることができるが、「中国は、世界でも最も古い歴史を持つ国家の一つである。中国の諸民族人民は、輝かしい文化を共同で作り上げており、また、栄えある革命の伝統を持っている。」の文言で始まる第一の部分は、特にアヘン戦争が勃発した1840年以降、1911年の辛亥革命を経て、現代中国建設の出発点となった1949年の中国革命までの歴史が概観される。このような書き出しは、旧ソ連憲法前文に倣ったものと考えられる。
 前文は1949年革命の歴史的意義について、「・・・毛澤東主席を領袖とする中国共産党に導かれた中国の諸民族人民は、長期にわたる困難で曲折に富む武装闘争その他の形態の闘争を経て、ついに帝国主義、封建主義及び官僚資本主義の支配を覆し、新民主主義革命の偉大な勝利を勝ち取り、中華人民共和国を樹立した。この時から、中国人民は、国家の権力を掌握して、国家の主人公になった。」と総括している。
 続く第二の部分では、はじめに「中国の新民主主義革命の勝利と社会主義事業の成果は、中国共産党が中国の各民族人民を指導し、マルクス‐レーニン主義及び毛澤東思想の導きの下に、真理を堅持し、誤りを是正し、多くの困難と危険に打ち勝って獲得したものである。」として、マルクス‐レーニン主義と毛沢東思想を基軸的な二大原理として掲げる。そのうえで、「我が国は、長期にわたり社会主義初級段階にある。」との現状規定により、「中国の各民族人民は、引き続き中国共産党の指導の下に、マルクス‐レーニン主義、毛澤東思想、トウ小平理論及び「三つの代表」の重要思想に導かれて」、「社会主義現代化の建設をする事」という未来目標が示される。
 これにより、中国式社会主義におけるマルクス‐レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論、さらに「中国共産党は、①中国の先進的な社会生産力の発展の要求②中国の先進的文化の前進の方向③中国の最も広範な人民の根本的利益という三要素を代表すべき」とする江沢民の「三つの代表」理論を加えた四つの指導原理が示されている。
 ここで注目されるのは、旧ソ連憲法のように現状を「共産主義建設に至る途上としての発達した社会主義社会」とは規定しておらず、現状をなお「社会主義初級段階」と規定しつつ、未来目標を「社会主義現代化」という中期目標にとどめていることである。つまり共産主義社会の建設は現実的な未来目標には置かれていない。ここに「改革開放」以降の中国の現実主義路線が見て取れる。
 こうした第二の部分を受けて、第三の部分は冒頭で「我が国では、搾取階級は、階級としては既に消滅したが、なお一定の範囲で階級闘争が長期にわたり存在する。中国人民は、我が国の社会主義制度を敵視し、破壊する国内外の敵対勢力及び敵対分子と闘争しなければならない。」とし、毛沢東思想に沿った一種の永続革命論的な闘争目標が示される。それと関連づけて、「中華人民共和国の神聖な領土の一部」と明記される台湾の統合が掲げられるとともに、中国共産党を中核とした統一戦線組織としての中国人民政治協商会議の重要性が示される。
 第四の部分は話題を転じて、「中華人民共和国は、全国の諸民族人民が共同で作り上げ、統一した多民族国家である。」の規定に始まり、対内的な民族協調及び対外的な国際協調が謳われる。
 民族協調に関しては、「大民族主義、主として大漢族主義に反対し、また、地方民族主義にも反対しなければならない。」とし、漢民族至上主義を諌めると同時に、少数民族の分離独立運動を牽制する文言も示される。
 一方、国際協調に関しては、主権と領土保全の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵及び平和共存の五原則(1954年に当時の中印首相会談で合意された平和五原則)に立脚しつつ、「帝国主義、覇権主義及び植民地主義に反対することを堅持し、世界諸国人民との団結を強化し、抑圧された民族及び発展途上国が民族の独立を勝ち取り、守り、民族経済を発展させる正義の闘争を支持して、世界平和を確保し、人類の進歩を促進するために努力する。」という対外政策の基本が示される。ここには、中国も当事国であった非同盟諸国運動の理念が反映されている。
 最後の第五の部分で憲法の最高法規性が宣言されるが、ここでは人民の憲法制定権力は強調されず、「全国の諸民族人民並びにすべての国家機関、武装力、政党、社会団体、企業及び事業組織は、いずれもこの憲法を活動の根本準則とし、かつ、この憲法の尊厳を守り、この憲法の実施を保障する責務を負わなければならない。」という憲法忠誠義務の宣言でしめくくられていることが特徴である。

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旧ソ連憲法評注(連載最終回)

2015-01-22 | 〆ソヴィエト憲法評注

第八編 ソ連の国章、国旗、国家および首都

本編は、表題どおり、ソ連の国の象徴や首都についてのまとめ規定である。

第百六十九条

ソヴィエト社会主義共和国連邦の国章は、太陽の光のなかにえがかれ、麦畑でかこまれた地球のうえの鎌とハンマーからなり、各連邦構成共和国の言語で、「万国のプロレタリアート団結せよ!」という文字が記される。国章の上の部分には、五尖の星がおかれる。

 国章中の鎌は農民、ハンマーは労働者を象徴しており、ソ連が労農プロレタリアートの国であるという標榜を表現していた。「万国のプロレタリアート団結せよ!」のメッセージは、マルクス‐エンゲルス『共産党宣言』のあまりにも有名な一句からの引用である。

第百七十条

ソヴィエト社会主義共和国連邦の国旗は、方形の赤い布であり、旗ざおに近い上の隅に金色の鎌とハンマーがえがかれ、その上に金色でふちどられた五尖の赤い星がえがかれる。旗の幅と長さの比は、一対二である。

 冷戦時代には、アメリカの星条旗と並び、ソヴィエトの赤星旗も覇権の象徴であった。ただし、アメリカ憲法には国旗の定めはない。

第百七十一条

ソヴィエト社会主義共和国連邦の国歌は、ソ連最高会議幹部会が承認する。

 国歌については、具体的な指定が憲法になかった。本憲法制定当時の国歌は1944年に制定された版であったが、本憲法制定と同年に歌詞だけ一部変更された。

第百七十二条

ソヴィエト社会主義共和国連邦の首都は、モスクワ市である。

 ロシア革命後首都として固定されたモスクワは革命の象徴でもあったため、憲法にも首都として明記されていた。

第九編 ソ連憲法の効力およびその改正手続き

 憲法最終編の本編は、憲法の最高法規性と改正手続きを定めている。

第百七十三条

ソ連憲法は最高の法的効力をもつ。すべての法律および国家機関のその他の法令は、ソ連憲法にもとづき、これにしたがって公布される。

 憲法の形式的な最高法規性を宣言している。ただ、日本国憲法第九十七条に相当するような実質的な最高法規性を謳う規定は見えない。

第百七十四条

ソ連憲法の改正は、両院それぞれの代議員総数の三分の二以上の多数決で可決されたソ連最高会議の決定によって、行なわれる。

 憲法改正は最高会議の決定のみで行なうことができ、日本の現行憲法のように国民投票は必要とされなかった。両院それぞれで代議員総数の三分の二というハードルは高いように思えるが、一党支配体制では事実上共産党が決定した改憲案に対して反対票が優位を占める可能性はほとんどなかった。

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一線を越えた

2015-01-21 | 時評

イスラム国も一線を越えたが、その前に日本政府も一線を越えていた。イスラム国による日本人拘束・身代金要求は、安倍首相の中東への「イスラム国対策」2億ドル支援表明後、イスラエル訪問中というタイミングを狙って起こされた。

支援金額と同額の2億ドルが注目されているが、パリの連続テロの直後にイスラム主義者が敵視するイスラエルを訪問したことも、イスラム国を刺激するに十分な愚策である。

日本メディア及びメディア文化人は「偶発性」を印象づけ、政府の外交姿勢とは関係なしという世論を作り出そうと懸命であるが、今回の事件は一段と米欧追随にのめり込む政府の外交姿勢に対する警告である。 

その徴候はすでに十年前の小泉政権当時から現れていた。過去十数年の日本政府は米欧の中東支配政策に全面協力し、表面上「非軍事」を標榜しながら、間接的には米欧の中東戦争を支援する姿勢を取ってきた。安倍政権下での集団的自衛権の解禁も、そうした支援をよりしやすくする効果を持つ。

従来、中東では日本人の印象は良いとされてきたが、米欧追随姿勢が顕著になった過去十年、すでにそうした「神話」は効力を失ってきていた。特に安倍政権になってからは、2013年にアルジェリアのガス・プラント襲撃事件で日本人の人質10人が死亡した事件も記憶に新しい。そこへ、今度の事件である。

政府は「人命第一」を言うが、すでに人命を犠牲にして政府方針を優先させた先例がある。小泉政権下の2004年、日本人を拘束したイラクの武装勢力が解放と引き換えに自衛隊撤退を要求したが、政府は拒否し、人質は殺害された。

この時は人質が渡航目的不詳の無名国民だったため、“自己責任”の名の下に冷然と見棄てることができたが、今回は比較的知られたジャーナリストも拘束されている。冷然と対応しにくいケースであろうが、どのように処理するのか。「人命第一」なら、イスラム国の不法な要求に従うしかないが、それは実質的にイスラム国に2億ドルの大規模経済援助をするに等しいことである。

犯行声明文は政府の賢明な意思決定を日本国民に促す内容になっているが、政治的な意思決定では蚊帳の外に置かれることに慣れ切って、政治的関心を喪失している日本国民にはいささか重過ぎる要求である。

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リベラリストとの対話―「自由な共産主義」をめぐって―(12)

2015-01-18 | 〆リベラリストとの対話

10:環境計画経済について③

リベラリスト:計画経済が最も苦手とする分野は、農業―広くは第一次産業―ではないでしょうか。ソ連型の計画経済が挫折した要因の一つとして、農業集団化の失敗があったと思います。自然の産物を育て、収穫する営為である農業は、人為的な計画に最もそぐわないものです。

コミュニスト:ですが、植物を工場で栽培する工場栽培のような技術が資本主義の下でも現れて始めていることからすると、農業が計画経済の完全な対象外とは言えなくなるのではないでしょうか。

リベラリスト:あなたの環境計画経済は、野菜果物が完全に工場で栽培される未来社会を想定しているのですか。

コミュニスト:そうではありませんが、さほど遠くない未来、ひょっとするとまだ資本主義の段階から工場栽培のウェートが相当に高くなるのではないかと予測しています。未来の環境計画経済も、その延長上に置かれるのではないかと考えられないでしょうか。

リベラリスト:私は、世界中で個人農業は減少し、食品資本や流通資本が直営する大農場が増加するだろうと予測していますから、工場栽培の拡大とともに、資本主義的な農業の集約化は避けられないだろうと見ています。共産主義的な計画農業もそれを継承するというなら、本質的にはどう違うのでしょうか。

コミュニスト:共産主義的な集約農業は、当然営利資本が経営するのではなく、公的な農業生産機構が運営する非営利的な農業ですから、見かけは同じでも内実は全く違います。

リベラリスト:言わば、旧ソ連の国営農場ソフホーズのようなものですね。しかし、旧ソ連ですら、ソフホーズの割合はそう高くなく、協同組合型のコルホーズが高いウェートを占めていたはずです。

コミュニスト:ソ連でも次第にソフホーズが増加していたのです。私は、コルホーズや個人農業を前提とした日本の農協制度のような中途半端な農業集団(合)化ではなく、環境的持続可能性を織り込んだより計画性の高い農業生産体制として、農業生産機構による統一的な農産を提唱しているところです。

リベラリスト:それは一方で、地方分権的にも運営されるというのですから、やはり中途半端になる可能性はあるでしょう。それに、私の祖国アメリカのように広大かつ反集権的な風土のところでは、そうした統一的な農産体制は無理のように思えます。

コミュニスト:農産は地域差が大きいので、地域的な特色を考慮した柔軟な分権は必須です。アメリカは分権が得意でしょうから、さほど心配は要らないのでないでしょうか。

リベラリスト:農業はよいとして、漁業はどうでしょう。こちらは養殖を別として、自然の生き物を捕獲する狩猟の一種であるからして、いよいよもって「計画」は妥当しないでしょう。

コミュニスト:漁業分野では、水産資源の持続可能性を維持するための漁獲割当という形の計画漁業が実現されます。農業とは別組織となりますが、水産機構のような統一的生産組織が設立されることになるでしょう。ちなみに、樹木を伐採する林業にも同様のことが当てはまります。

リベラリスト:興味深いお話ですが、私が理想とする第一次産業は、適切な環境規制・安全規制の下に、一定以上の規模の資本が直営する創造的かつ集約的な生産体制です。

コミュニスト:思慮深いお考えだとは思いますが、「適切な環境規制・安全規制」と「資本が直営する創造的かつ集約的な生産体制」が理想的に両立するかどうか、私は極めて疑問に思います。

※本記事は、架空の対談によって構成されています。

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スウェーデン憲法読解(連載第11回)

2015-01-17 | 〆スウェーデン憲法読解

第三章 議会(続き)

選挙区

第五条

議会の選挙のために国は、選挙区に分割される

 本章第一条にあったように、スウェーデン選挙制度は政党ベースの比例代表制を基本とするが、選挙区制も併用する。

選挙区間の議席配分

第六条

1 議会の議席のうち、三一〇は、固定選挙区議席であり、三九は、調整議席である。

2 固定選挙区議席は、各々の選挙区における投票権者の人数及び全国における投票権者の人数の比率に基づき、配分される。配分は、四年ごとに決定される。

 議席は通常の固定選挙区議席と、各政党の得票数に応じた議席配分となるように事後的に調整される調整議席とから成る。固定選挙区の議席配分は四年ごと定期的に見直し、定数不均衡を防止している。

政党間の議席配分

第七条

1 議席は、政党の間で配分される。

2 全国において四パーセント以上の票を獲得した政党のみが議席配分に参加することができる。ただし、それより少ない得票率であっても、ある選挙区において、一二パーセント以上の票を獲得した政党は、固定選挙区議席の配分に参加することができる。

 比例代表制を基本とするスウェーデンでは、議席は一発投票で決まるのではなく、政党間で配分されるものである。
 泡沫政党の乱立排除のため、原則4パーセント以上の得票率が要求されるが、一つの選挙区で顕著な得票をした政党には議席配分を認めるというように、小政党への配慮が行き届いている。

第八条

1 固定選挙区議席は、すべての選挙区につき、当該選挙区における選挙結果に基づき、政党間に比例的に配分される。

2 調整議席は、四パーセント未満の票しか得られなかった政党に配分された固定選挙区議席を例外として、議会における議席の配分が、その配分に参加する政党の全国の得票数に対して比例するように、政党間で配分される。ある政党が固定選挙区議席の配分の際に、当該政党のための議会の比例代表より多くの議席を獲得した場合は、調整議席の配分に際し、当該政党及び当該政党により獲得された固定選挙区議席は除外される。調整議席が政党の間で配分された後、当該議席は選挙区に還元される。

3 政党間の議席配分の際には、最初の序数を一・四に調整した奇数法が適用される。

 本条では比例代表制の具体的な内容が定められている。具体的な選挙方法をあげて法律に一任している日本国憲法とは大きく異なり、憲法上明示することで、恣意的な選挙制度「改革」がなされないように配慮されている。
 第二項第二文で、獲得議席数の多い大政党は議席配分であえて不利な扱いをすることで、巨大与党化を防止しようとするのも、多党制を徹底するためである。第三項で、日本などで採用される大政党に有利なドント式(得票数を1・2・3の整数で単純に割っていく)でなく、いわゆる修正サン・ラグ式を採用するのも、小政党に有利な配慮である。 

第九条

ある政党が獲得した各々の議席につき、一人の議員及びその議員の代理議員が選出される

 代理議員制度が存在するため、このような結果となる。

選挙期

第一〇条

1 各々の選挙は、新たに選挙された議会が集会したときから、その次の選挙で選出された議会が集会する時まで効力を有する。

2 新たに選挙された議会は、選挙日から一五日以内に集会するが、ただし、選挙結果が公表されてから四日目より早く集会することはない。

 選挙日と選挙日の間でなく、新旧最初の集会の間の期間を選挙期とする審議重視の規定である。

特別選挙

第一一条

1 政府は、通常選挙の間に特別の議会の選挙を決定することができる。特別選挙は、当該決定から三か月以内に実施しなければならない。

2 新たに選挙された議会の最初の集会から三か月を経過していない場合は、政府は、議会の選挙後に特別選挙に関する決定をしてはならない。政府は、政府の構成員が総辞職した後、新たな政府が発足するまでの間、その任務が中断している場もまた、特別選挙に関する決定をしてはならない。

3 一定の場合における特別選挙については、第六章第五条において定める。

 日本の衆議院解散に相当する規定である。特別選挙の理由については第三項が指示する第六章第五条の場合(新総理大臣が決まらない場合)を除き、特に制限はないが、第二項で新たな選挙期が開始してから三か月間と、内閣総辞職から新内閣成立までの間は特別選挙を実施できないという期間的制限がある。

選挙審査委員会

第一二条

1 議会の選挙については、議会により選出された選挙審査委員会に異議を申し立てることができる。当該委員会の決定については、異議を申し立てることはできない。

2 議員に選挙された者は、選挙について異議申し立てがなされた場合であっても、その職務を遂行する。選挙に変更があった場合には、変更が公表されてから速やかに、新しい議員がその議席を獲得する。同様のことが代理議員にも適用される。

3 選挙審査委員会は、正規の裁判官である者又は正規の裁判官であった者で、議会に所属していない者を委員長とし、その他六名の委員で構成される。当該委員は、各々の通常選挙後、その選挙が有効とされ次第、選出され、新たな当該委員会の選挙が実施されるまで任期を有する。委員長は、別に選挙される。

 選挙をめぐる争訟を通常裁判所ではなく、議会が選出する常設機関である選挙審査委員会に委ねる規定である。議会の自律権を徹底し、選挙争訟では司法の介入も排除する趣旨である。

付加的規定

第一三条

第一条第三項及び第三条から第一二条までに規定する事項及び議員の代理議員の選任に関する付加的規定は、議会法又はその他の法律で定める。

 選挙に関する細目的な規定を法律に委任する趣旨である。しかし自由、秘密及び直接選挙という選挙制度の根本原則と比例代表制、さらに定数349、議員歳費請求権については法律の委任を許さない憲法事項とされている。

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スウェーデン憲法読解(連載第10回)

2015-01-16 | 〆スウェーデン憲法読解

第三章 議会

 本章から先は、統治機構に関する規定となる。最初に立法府=議会に関する規定が来るのは通例どおりである。なお、スウェーデン憲法でいう議会(riksdagen)とは国の議会、すなわち日本国憲法上の国会に相当する機関を指すが、本連載では参照した国会図書館資料訳に従い、「議会」と訳出してある。

議会の形成及び構成

第一条

1 議会は、自由、秘密及び直接選挙により、選出される。

2 当該選挙に際しては、選挙人が特定の人物に投票する可能性を伴いつつ、政党に基づいて投票が実施される。

3 選挙において特定の名称の下に活動する選挙人のすべての結社又は集団が政党とみなされる。

 議会制度の基本事項が簡潔にまとめられている。注目されるのは、第二項で基本的に政党ベースの選挙が指示されていることである。すなわち小政党にもチャンスが開かれる政党名簿比例代表制を基本とするが、特定候補者への投票可能性を確保するため、選挙区制も併用される。
 第三項で、選挙のための政党の要件が広く取られているのも、小政党に対する配慮であり、スウェーデン憲法は多党制を徹底していることが見て取れる。

第二条

議会は、三四九名の議員の一院により構成される。議員には、歳費が支払われなければならない。

 スウェーデン議会は一院制で、かつ憲法上議員定数は349と予め定められている。スウェーデンの人口1000万人弱で議員定数300超というのは、人口1億人余りの日本に引き直すと、3000人超の大規模な定数となる。議員歳費削減のためとして、議会を縮小するいっそうの定数削減論が唱えられる日本の政治状況は、スウェーデンでは理解されないであろう。

通常選挙

第三条

議会の通常選挙は、四年ごとに実施される。

 つまり国会議員の任期は四年ということを意味するが、任期という形でなく、選挙の隔年という形で定めている。

投票権及び投票資格

第四条

1 一八歳に達しており、かつ、国内に居住しているか又は何度か居住していたすべてのスウェーデン市民は、議会の選挙の選挙権を有する。

2 投票のための要件を満たしている者のみが、議員又は代理議員となることができる。

3 投票権を有するか否かの問題は、当該選挙の前に調製される選挙人名簿を基に決定される。

 スウェーデンでは憲法上18歳から選挙権が認められているが、第二項で被選挙権と選挙権の要件をそろえていることから、被選挙年齢も18歳以上(スウェーデンの成人年齢は18歳)であることになる。つまりスウェーデンでは最低18歳で国会議員になれ、その実例もある。
 代理議員制度は文字どおり議員の代理人であって、議員が休暇を取った場合などに議員活動を代理する。この制度により、女性議員が産休などを取りやすいため、女性議員の増加に寄与しているとされる。

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晩期資本論(連載第22回)

2015-01-14 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(5)

 マルクス経済理論で最も重要な経済指標は、これまでにも見てきた剰余価値率(搾取率)である。剰余価値率は、資本構成に着目すれば、剰余価値を可変資本(労働力の価値)で割った商として表されるが、労働の成分に着目するなら、剰余労働(時間)を必要労働(時間)で割った商として表される。より平易に言い換えれば、不払労働を支払労働で割った商である。
 
 これに対して、現代の経済理論でもなお主流である古典派経済学では、剰余労働によって生産された剰余価値(剰余生産物)を全労働(総生産物)で割った商をもって労働分配率として示すことが行われるが、この定式によると、例えば、必要労働6時間+剰余労働6時間の計12時間労働という例でも、マルクスの定式によれば、六分の六で剰余価値率100%と算出されるところ、分母に総労働時間の12時間が置かれるため、十二分の六=50%と剰余価値率は過少に算出されることになる点に、マルクスは強く反対している。
 しかし、現代では労働組合をはじめとする労働運動主流もこうした古典派的な労働分配率を労働経済の指標とする保守的な傾向が定着しており、マルクス的な剰余価値率は顧みられなくなっている。

 とはいえ、剰余価値(率)という概念も、晩期資本主義の労働関係では限界をさらしている。上述のように、剰余価値率は剰余労働を必要労働で割った商として表されるが、この定式でポイントになる必要労働と剰余労働とを時間量で厳密に区別することが困難になっているからである。
 そもそも『資本論』が主として想定する工場労働のように比較的単純明快な労働の場合でも、労働力の維持・再生産に必要な労働(支払労働)とそれを越えた剰余労働(不払労働)とを、労働の種類・内容や経験年数等の要素を捨象して時間的に析出することは難しいが、現代では裁量労働や在宅労働など「働き方の多様化」の名のもとに労働時間の枠自体を曖昧にする労務管理戦略が出現していることから、ますます必要労働と剰余労働の切り分けは困難化している。それでも、剰余価値(率)の概念を生かすとすれば、それはこの概念の裏に隠された政治学的な側面である。

それ(資本)は本質的には不払労働にたいする指揮権である。

 この一言に『資本論』の政治学的な含意が垣間見える。ここで不払労働とは剰余労働のことであるから、言い換えれば、資本の本質は剰余労働に対する指揮(命令)権ということになる。厳密な算出可能性はともかくとしても、資本は常に労働者に剰余労働を強制し、搾取することで成り立っている。
 マルクスは別の箇所では、よりはっきりと政治的な表現で、「・・・資本は自分の労働者にたいする自分の専制を、よそではブルジョワジーがあんなに愛好する分権もそれ以上に愛好する代議制もなしに、私的法律として自分勝手に定式化している」とか、「・・・アジアやエジプトの諸王やエトルリアの神政官などの権力は、近代社会では資本家の手に移っているのであって、それは、彼が単独の資本家として登場するか、それとも株式会社におけるように結合資本家として登場するかにはかかわらないのである。」とも述べて、資本(家)と労働(者)の関係をまさに政治的にとらえようとしている。
 
 マルクスにとって資本は単に経済学的な概念ではなく、政治的権力でもあった。このような一見独特な把握の仕方の背後には、政治的なものの出発点を労働の場における階級闘争に置こうとするマルクスの視点が控えていることが見て取れる。
 しかし、晩期資本主義の特徴は、労働者の階級闘争が鈍化し、せいぜい恒例の賃上げ交渉に矮小化されている点にある。賃上げは不払労働の軽減につながるが、決定打ではない。賃金体系にも様々な仕掛けがあるからである。これがマルクスが篇を改めて取り組む次の課題である。

☆小括☆
以上、「四 剰余価値の生産」では、『資本論』第一巻第三篇「絶対的剰余価値の生産」第八章「労働日」に始まり、第四篇「相対的剰余価値の生産」、第五篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」に至る箇所を参照しながら、マルクス経済理論の中核概念である剰余価値(率)について、その現代的な意義を概観した。

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晩期資本論(連載第21回)

2015-01-13 | 〆晩期資本論

四 剰余価値の生産(4)

資本主義的生産は単に商品の生産であるだけでなく、それは本質的に剰余価値の生産である。労働者が生産するのは、自分のためではなく、資本のためである。だから、彼がなにかを生産するというだけでは、もはや十分ではない。彼は剰余価値を生産しなければならない。生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。

 資本主義を剰余価値の生産という視点から見た比較的わかりやすい総まとめである。マルクスはさらに具体例として、「物質的生産の部面の外」から教育労働者=教師の例を挙げ、「学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。」と皮肉交じりに述べている。
 マルクスが『資本論』で取り上げる労働者は断りない限り、物質的な商品を生産する工場労働者を想定しているが、ここで商品生産に従事しない教師の例が出されていることは、教育にも資本の支配が及び、営利企業系(株式会社)の学校が出現している時代を先取りするような先見性が認められる。

労働者がただ自分の労働力の価値の等価だけを生産した点を越えて労働日が延長されること、そしてこの剰余労働が資本によって取得されること―これは絶対的剰余価値の生産である。それは、資本主義体制の一般的な基礎をなしており、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。この相対的剰余価値の生産では、労働日ははじめから二つの部分に分かれている。すなわち、必要労働と剰余労働とに。剰余労働を延長するためには、労賃の等価をいっそう短時間で生産する諸方法によって、必要労働が短縮される。

 絶対的剰余価値と相対的剰余価値に区別に関する総まとめである。これに続けて、マルクスは資本と労働の関係という観点から、絶対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の形式的従属」、相対的剰余価値生産を「資本のもとへの労働の実質的従属」とも表現している。つまり、形式的に「ただ労働日の長さだけを問題にする」絶対的剰余価値の生産と、より実質的に「労働の技術的諸過程と社会的諸編成とを徹底的に変革する」相対的剰余価値の生産の相違を言い表したものである。

労働力がその価値どおりに支払われることを前提とすれば、われわれは次の二つのどちらかを選ばなければならない。労働の生産力とその正常な強度とが与えられていれば、剰余価値率はただ労働日の絶対的な延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられていれば、剰余価値率は、ただ必要労働と剰余労働という労働日の二つの構成部分の大きさの相対的な変動によってのみ高められ、この変動はまた、賃金が労働力の価値よりも低く下がるべきでないとすれば、労働の生産性かまたは強度の変動を前提する。

 マルクス経済理論における最も重要な経済指標となる剰余価値率の変動要因をまとめた定理である。最終的にマルクスは、労働力の価値と剰余価値の相対的な大きさを決定づける要因として、①労働日の長さ、すなわち労働の外延量②労働の正常な強度、すなわち労働の内包量③労働の生産力の三要因を抽出し、各々が可変的ないし不変的であるような様々な場合を想定して縷々数理的に検証している。
 その最後のところで、マルクスは労働の持続性と生産力、強度が同時に変動する場合を取り上げ、その中で(1)労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合と(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合との対照を試みている。このうち、(1)の実例として、1799年から1815年にかけての英国で、実質労賃が下がったのに名目賃金が引き上げられた状況で生活手段の高騰が生じたケースを挙げ、次のように分析する。

・・・高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのである。この時代こそは、無限的な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速的な増加によって特別に特徴づけられた時代だったのである。

 実は、このような絶対的‐相対的剰余価値の総合的増大こそは、資本家・経営者が思い描く資本主義経済の理想状態である。しかし、それは一般労働者大衆にとっては生活難を意味する。これと類似の現象は「アベノミクス」下の現代日本でも起きている。

資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、すなわち社会的な予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。

 これは先の二つの場合のうち、(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合を想定した指摘であるが、このようなことは資本主義体制では実行不能であり、まさに「資本主義的生産形態の廃止」をもって実現する。『資本論』は基本的に資本主義経済体制の分析の書であって、未来の共産主義経済体制のあり方を議論の対象外としているが、ここでマルクスは補足的に、共産主義経済体制のありように言及している。
 マルクスが想定する共産主義社会では、剰余価値生産の源泉である剰余労働が消え、必要労働に純化されるとともに、剰余労働の一部は備蓄生産や福祉的な生産を目的とする必要労働に転換される。さらに進んで―

労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されているほど、すなわち社会の一つの層が労働の自然必然性を自分からはずして別の層に転嫁することができなければできないほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分はますます短くなり、したがって、個人の自由な精神的・社会的活動のために獲得された時間部分はますます大きくなる。

 「労働がすべての労働能力ある社会成員のあいだに均等に配分されている」社会とは、共産主義社会のことである。これに対して、「資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである」。会社社長が観劇に興じる時間は、彼が雇用する労働者の生活時間の大半が労働に充てられることで作り出されている。反対に、社長自ら工場のラインに立つならば、他の労働者にも観劇を楽しむ時間が作り出されるというわけである。

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