ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

近代科学の政治経済史(連載第30回)

2022-11-30 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

数学・物理学と兵器
 理論学術の代名詞である数学・物理学も、軍用学術としての顔を持つ。中でも、弾丸や爆弾、近年ではロケット弾や弾道ミサイルなど、およそ飛翔型兵器すべてに通じる弾道計算を行う弾道学の分野である。
 本格的な弾道学は大砲の発明に始まると言われるが、近代弾道学の基礎を築いたのは、16世紀イタリアの数学者ニコロ・フォンタナ・タルタリアである。独学の数学者であった彼は、それまで経験的な知見に依存していた弾道計測を初めて数学的に基礎づけ、45度射角で発射された砲弾が最も長距離を飛翔することを発見した。
 弟子を介してガリレオを孫弟子に持つタルタリアは近代科学が形成される以前の科学者というより数学者であり、より精確な運動力学に基づく弾道学の成立は、ニュートン力学以後を待つ必要があった。
 その点、ニュートン流古典力学を踏まえた弾道振り子を発明したイギリスの数学者・物理学者ベンジャミン・ロビンスの著書『新砲術原理』は弾道学を革新した科学的著作であった。同書はドイツの数学者レオンハルト・オイラーによって翻訳され、ドイツにも紹介された。
 弾道振り子は兵器そのものではないが、弾丸の速度や運動量を物理学的に正確に計測する用具として革新的であったところ、より直接的かつ精確に発射速度を計測できる弾道クロノグラフが19世紀初頭にフランス軍によって開発されて以来、弾道振り子は時代遅れとなる。
 このように、弾道学はとりわけ実践性が強い軍事科学であるため、19世紀以降は軍人科学者による自前での研究開発が進められていく。その過程で、弾丸が発射されるまでの運動を扱う砲内弾道学と発射された後の運動を扱う砲外弾道学が分岐していった。
 このうち砲内弾道学に関しては、アメリカ陸軍砲兵士官トマス・ジャクソン・ロドマンによる一連の実験や発明が先駆的であった。中でも革新的な中空鋳造の鋳鉄製銃である名もロドマン銃を開発し、南北戦争での北軍の勝利に貢献した。
 他方、砲外弾道学に関しては、ロシア軍の砲術家ニコライ・マイエフスキーはドイツの軍需企業クルップ社の工場に派遣されて実験を行い、それをもとに勘に依存しない精緻な砲外弾道計算式を確立し、近代弾道学の発展に寄与した。
 その点、ロシアは18世紀初頭に時のピョートル大帝が設置したモスクワ数学・航海学校を前身とする砲術学校を擁して砲術研究を国策として展開した。19世紀半ば以降はミハイロフスカヤ軍事砲術学校としてロシア軍事科学の教育研究の中核となり、如上マイエフスキーも同校卒業生にして教官ともなった。
 ちなみに、マイエフスキーが派遣されたクルップの大砲工場は19世紀末、様々な弾道実験の場としても活用され、弾道学の発展に貢献しており、軍産連携による兵器の共同開発の先駆例ともなった。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第29回)

2022-11-28 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

近代化学と兵器
 軍用学術としての科学という点では、化学ほど軍用学術との結びつきが強いものはない。それは火薬やまさしく化学兵器の開発・改良において、化学的知見が不可欠であるからに他ならない。
 そもそも近代化学の父とみなされるフランスのアントワーヌ・ラヴォアジェは火薬委員会委員となり、先述したように兵器廠に研究室を構え、ここで大砲用火薬の火力や生産量を向上させる成果を上げたことが初期の業績であった。
 ちなみに、ラヴォアジェはフランス革命に際して、旧体制下で憎まれ、革命では集中的に断罪された徴税請負人をしていた過去の経歴から、断頭台に消えることとなった。これは科学とは無縁の理由での処刑であったが、彼が旧体制の軍事科学者としてスタートし、ブルボン王朝の協力者であったことは革命に巻き込まれることを必然のものとしたであろう。
 火薬に関する研究はその後も一貫して軍事科学の重要なテーマであったが、長く主流的であった黒色火薬や褐色火薬は使用時の白煙が障害となっていたため、19世紀以降、無煙火薬が開発される。
 無煙火薬はニトログリセリン、ニトロセルロース、ニトログアニジンという三種のニトロ系基剤から製造されるが、中でも基軸的なニトログリセリンはイタリアの化学者アスカニオ・ソブレロが初めて開発した。
 ソブレロはやはり爆薬研究で知られたフランスの化学者テオフィル‐ジュール・ペルーズの門下生であるが、もう一人の著名な門下生として、スウェーデンの化学者アルフレッド・ノーベルがいる。
 ノーベル賞創設者としてその名を残しているノーベルの主要な研究テーマは爆薬の改良であった。中でも、ソブレロの合成法では爆発力が激甚に過ぎて実用に耐えなかったニトログリセリンを安定化させ、実用的な爆薬に仕上げたことが画期的な成果であった。
 こうして実用化されたダイナマイトは早速日露戦争で日本軍によって大量に実戦使用され、ロシア軍に対して優位に立つことに成功する要因となるなど、その高い実用性が証明された。
 ノーベルはまた単なる科学者にとどまらず、17世紀設立の古い鉄工所ボフォース社の経営者として、同社を兵器メーカーに転換し、スウェーデンを代表する軍需企業に育てており、軍需資本家としての一面も見せた。
 軍事科学者として富を得たノーベルが遺言で、学術部門に加え、その軍事科学業績とは相容れない平和賞の創設をも指示したのは、ダイナマイトの開発に象徴される軍事科学者としての顔が批判されるようになり、没後のイメージダウンを懸念したためと言われるが、そうしたイメージ戦略は成功したとも言える。
ちなみに、ノーベルとは別に、イギリスの二人の化学者フレデリック・エイベルとジェイムズ・デュワーは無煙火薬コルダイトを開発したが、本製品がダイナマイトと類似していたため、ノーベルとの間で特許紛争に発展した。
 最終的に、コルダイトが無煙火薬の主流に落ち着き、第一次大戦以降実戦使用されるようになり、第二次大戦では広島に投下された原子爆弾リトルボーイにもコルダイト爆薬が使用されている。

コメント

中共支配体制の躓きの石

2022-11-27 | 時評

中国でいわゆるゼロ・コロナ政策に対する民衆の抗議行動が拡大し、盤石と思われてきた中国共産党支配体制が綻びを見せ始めたが、これはパンデミック初期には感染防止策の範として自由主義標榜諸国によってさえ追随されたロックダウン政策の持続が体制維持の躓きの石となっていることを示している。

今般抗議行動は当面のゼロ・コロナ政策による厳しい生活統制に対する民衆の不満の噴出であるが、タイミングとしては習近平国家主席・党総書記の長期執権が既定路線となり、ある種の個人崇拝体制が明瞭となったことへの異議も裏に込められていると見られる。

しかし、今般抗議行動では「自由」や「共産党退陣」のスローガンが一部で掲げられるなど、一政策や個別の政権への反対を超えた中共支配体制そのものの打倒という従来は見られることのなかったスローガンが現れていることが注目される。

今般抗議行動は1989年の天安門事件とも対比されるが、天安門事件の抗議者たちは体制そのものの転換より、党指導部に対し当時のソ連共産党のゴルバチョフ政権を念頭に体制内改革を要求するレベルにとどまり、抗議行動も主として北京に集中していたことに比しても、今般抗議行動のスローガン、地理的範囲双方の拡大には注目すべき点がある。

今後の展開としては、確率の高さの順に、〈1〉武力鎮圧(弾圧)〈2〉政策撤回(緩和)〈3〉体制崩壊(政変)の三つがあり得るが、ここでは、いささか気が早いながらも、現時点では確率的に最も低いが、当ブログの問題関心に沿う(3)体制崩壊を考えてみたい。

実際のところ、体制崩壊予測にも、確率の高さ順に、(ⅰ)党内政変による新政権樹立(ⅱ)ブルジョワ民主勢力による新体制樹立(ⅲ)共産主義的民衆統治体制への変革の三つがある。

このうち(ⅰ)は厳密には体制崩壊ではなく、体制内改革であるが、党内改革派が離脱してブルジョワ民主政党を樹立する挙に出れば、(ⅱ)の展開に重なる。

一方、過去数十年来の資本主義適応化路線の中で育った新興富裕層の中から新たにブルジョワ民主政党が台頭し、政権の受け皿となる可能性もあるが、70年を越える一党支配が続き、対抗野党が完全に排除されてきた中では、共産党離脱者の存在抜きでは困難であろう。その意味では、(ⅰ)と(ⅱ)の展開は連続性を持つ。

いずれにせよ、中国のブルジョワ民主化は西側諸国の望むところであろうが、一党支配の崩壊後に多数の政党が誕生・林立し、安定政権が樹立されなければ、辛亥革命後の中国のようにある種の内乱状態に陥り、今や中国も枢要な参加者となっているグローバル資本主義に悪影響を及ぼすであろう。

(ⅲ)は確率的に最も起きそうになく、現状でこれを密かに待望するのは世界でも筆者一人くらいのものかもしれない。実際、中国共産党が事実上の中国資本党に変貌し、共産主義の結党理念が棚上げから在庫一掃へと転換された時代状況下では望み薄かもしれない。

しかし、拙『共産論』でも論じたように、中国に代表されるような共産党支配体制の諸国にあって、真の共産主義は「共産党に対抗する共産主義革命」によってもたらされる。言い換えれば、共産党から真の共産主義を取り戻すことである。その意味で、(ⅲ)は(ⅰ)と(ⅱ)とは明確な一線を画する展開である。

現状では、今般抗議活動は近年の世界各国で頻発する未組織市民による自然発生的な民衆蜂起の一種であり、筆者が年来提唱してきた民衆会議のような結集体の体を成していないが、さしあたってはゼロ・コロナに服従しない民衆の対抗権力としての結集体の設立に至るのかどうか、注視していきたい。

コメント

続・持続可能的計画経済論(連載第39回)

2022-11-25 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(6)土地所有制度廃止準備
 移行期における貨幣制度廃止準備と並ぶ関門は、土地所有制度の廃止準備である。すなわち、土地を何者にも属さない無主物として管理するシステムへの移行である。
 ここで留意すべきは、このプロセスは従来しばしば社会主義的土地政策として諸国で施行されることもあった土地の国有化とは全く異なるということである。土地の国有化は、土地の所有権主体を私人から国に移転させるのみで、土地所有という観念をなお残している。
 しかし、ここで言う土地所有制度廃止とは、そもそも土地を「所有」という観念から解放し、野生の動植物と同様に所有権主体を有しない自然物とすることを意味している。言わば、地球そのものを元の自然状態に戻すことである。
 従って、土地の個別的な接収のように有償ではなく無償の法的措置となるが、国その他の公共団体が私有地を強制的に無償で接収する社会主義政策とも異なり、単に法的観念のうえで土地所有権を消滅させるものである。
 もっとも、このことは土地を原始的な無管理状態で放置することを意味しないから、各領域圏ごとに土地を公的に管理するシステムを構築しなければならない。そうしたシステム構築の準備は移行期に開始される。
 その第一段階は、土地所有権消滅法の制定である。これは土地所有制度廃止の法的根拠となる法律である。ただし、混乱を避けるため、土地所有権の消滅は遡及的でも即時的でもなく、将来の期日を定めた将来効とする。
 第二段階は、将来の土地管理機関の前身となる組織の設立である。土地管理機関は無主物化された土地の公私の利用や処分全般に関する事務を所掌する公的機関であるが、その前身組織としては現行の土地登記機関(登記所)を統合して設立することが簡明であろう。
 登記所は土地所有制度を前提に私有地の現況を公示する登記の事務を所掌する機関であり、現状では登記の形式的な事務のみを扱うが、錯綜した土地の所有に係る情報を包括的に把握している公的機関であるから、これを移行的に土地管理機関に再編することは合理的と考えられる。
 なお、将来の土地管理機関は土地の侵奪や押領などを取り締まる警察機能を備えるので、その前身組織にも法執行部署を設置し、不動産事犯の取締り態勢を準備する。

コメント

IT資本と賃奴制

2022-11-23 | 時評

勤労感謝の日という祝日は日本独自のものであるようで、国民の祝日に関する法律によれば、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」ことがその趣旨とされる。元来は、宮廷行事である新嘗祭に合わせた祝日であったものを戦後、勤労感謝デーに振り替えたらしい。

「勤労をたつとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」という文言からは、資本家・経営者もまた労働者の勤労に感謝するという趣旨を読み取ることもできる。そこからすると、ツイッター社を買収したイーロン・マスクの「長時間労働か、退職か」発話は、勤労感謝の対極にある勤労蔑視発話と言えよう。

この発話者にとって、労働者は企業の奴隷に過ぎず、長時間働かない奴隷など無用というわけである。このような発話が21世紀の先端的IT資本家の口から出たことは驚きではない。

IT業界と言えば、20世紀末以降現在に至るまで、新興業界の代名詞であり、カジュアルな「新しい働き方」でも脚光を浴びてきたが、一方で、一部を除き世界的なIT大手のほとんどは労働組合を拒否しているなど(外部記事)、その実態はまるで19世紀の資本である。

「長時間労働か、退職か」発話も、そうした19世紀的時代感覚を露骨に表す象徴的な言葉と言える。今日では、伝統的な大手資本の経営者なら―本心はともかく―、公には口にしない言葉である。

マスクならぬマルクスは、まさに長時間労働か退職かを迫られた19世紀の賃金労働者の被搾取的な働き方を評して「賃金奴隷」と言ったが、20世紀以降、労働法制の整備によって搾取に制約がかけられると、賃金労働者は奴隷的ではなくなった。それは主として労働時間削減の成果である。

とはいえ、労働者は制約された時間内での高密度な成果労働を要求され、経営管理者の業務命令や目標数値に束縛される限りでは、奴隷ではないが依然従属的であった中世の農奴に擬して、賃奴と言うべき存在であり続けている。

しかし、「長時間労働か、退職か」という発話は、そうした賃奴制を再び賃金奴隷制に巻き戻すかのような逆行的内容を備えている点で、注目すべきものがある。これに触発されて、他の資本も追随するなら、労働の世界は再び19世紀的状況に回帰していくだろう。

このような反動に対して、労働者はどう対応するのか。興味深いことに、2021年のギャラップ調査によると、調査対象となったアメリカ人の68%が労働組合を支持すると答え、1965年以来、労働組合運動に対する最も強い支持を示したという(上掲記事)。

近年の労組は経営側にすっかり飼い慣らされて社内機関化し、労組組織率は低下傾向を辿り、労働運動も斜陽化、5月1日のメーデーも恒例イベントと化している中、資本主義総本山のアメリカで労働運動復調の兆しがあるというのは興味深い。

ただ、労働運動の活性化と労使対決は、20世紀への巻き戻しである。現今の反動的状況下ではそれもやむを得ないかもしれないが、「勤労感謝」の精神を労使が共有することはより重要である。だが、それが真に可能となるのは、資本主義ではなく、まさに労使共産の体制下においてである。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第28回)

2022-11-22 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学(続き)

近代的軍需資本の誕生
 兵器の製造は戦争の歴史と同じだけの長さを持つが、近代以前、兵器の製造は各国が自給自足の形で行い、兵器の製造を業とする商人は存在していなかった。その点、15世紀にオスマン帝国に大砲を売り込んで成功したウルバンのような先駆者は例外的である。
 フルネームが知られていないウルバンはハンガリー人とされるが(異説あり)、元来はビザンツ帝国に仕える技術者であった。しかし、ビザンツは彼に充分な俸給を与えなかったため、巨大な射石砲の開発製造計画を敵国のオスマン帝国に売り込み、オスマン帝国は早速これを採用してビザンツ帝都コンスタンティノープル攻略に成功、ビザンツを滅ぼした。
 ウルバンは商人ではなかったが、好条件を提示した敵国に自作の兵器を売り込む無節操な商魂は、まさに後の軍需資本の先駆けとも言えるものであった。彼はオスマン帝国から提供された工房で大砲を製造したので、これは工場を備えた軍需産業の遠い先駆けでもあったと言える。
 とはいえ、近代的な軍需産業の成立は、軍事工学の発達が見られた19世紀後半の欧州においてである。そうした意味で、近代的な兵器の開発製造を業とする軍需資本は、軍用学術としての軍事工学を応用した技術資本と言える。
 中でも先駆的なのは、イギリス人の発明家ウィリアム・アームストロングが立ち上げた軍需企業である。アームストロングは事務弁護士から発明家に転じるという稀有の経歴を持つ人物でもあった。
 彼が創業した会社は当初、民需用の水力クレーンの開発で成功を収めた後、イギリス陸軍から機雷の設計を受注したことを契機に軍需に進出したが、中でも最も成功した商品は、革新的な後装式ライフル砲、その名もアームストロング砲であった。
 彼が1859年に分社して設立した軍需企業エルズウィック兵器会社はイギリスを超えて世界中で事業を展開し、アームストロング砲の顧客には南北戦争中の南北両軍や幕末日本の佐賀藩もあった。
 エルズウィックは後に戦艦建造にも事業拡大し、当時は世界唯一の自己完結的な戦艦造船工場を備えた。顧客には大日本帝国海軍もあり、日露戦争ではエルズウィック社製艦が投入されている。
 一方、ドイツでも、発明家フリードリヒ・クルップが創立した小さな鉄鋼会社を継承した子息のアルフレート・クルップが軍需に進出し、当時ドイツ統一の野心に燃えていたプロイセン御用達の大砲製造業者として成功を収めた。
 実際、クルップ社製大砲は普仏戦争でのプロイセンの勝利に貢献し、ドイツ統一後、クルップは鉄血宰相ビスマルクと組んで軍産連携を強めた。クルップの顧客には幕末の江戸幕府も含まれ、軍艦開陽丸に搭載する大砲を受注している。
 クルップの軍需産業は1903年にフリードリヒ・クルップ社として正式に立ち上げられ、実質的な国策会社の立場で、二つの大戦を通じてドイツの軍事大国化に寄与した。
 他方、エルズウィック兵器会社は航空機産業として台頭していたヴィッカース社と1927年に合併し、改めて総合軍需資本ヴィッカース‐アームストロングス社となり、主要事業が1960年代から70年代に国有化された後、残部も1977年まで存続した。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第27回)

2022-11-21 | 〆近代科学の政治経済史

六 軍用学術としての近代科学

兵器はそれ自体が科学的な産物であり、兵器の開発は物理学・化学及びそれらを応用した工学、さらには生物学・医学にも及ぶ総合的な軍事科学の成果である。そのため、近代科学の形成以前から、兵器の開発は経験的な自然学的知見と不可分であったが、近代科学の形成と発展は軍事科学の発達とも相即不離であり、従来見られなかったような殺傷力の高い兵器の開発を促し、20世紀以降の戦争のあり方をより陰惨なものにした。同時に、兵器その他の軍事技術産品の生産は軍需産業の発達を促進しつつ、軍・産・学の複合的な巨大ネットワークを生み出し、科学の軍用学術化を高度に進行させていった。より効率的・大量的な殺傷力を追求する、言わば「死の科学」の誕生である。


近代軍事工学の確立
 およそ軍にまつわる学術を包括した最広義の軍事学の中でも科学的分野は軍事科学と呼ばれるが、その中でもとりわけ兵器その他の軍事技術産品、さらには通信設備などにも及ぶ軍需品の開発に関わる下位分野が軍事工学である。
 こうした軍事工学を最初に体系化したのは古代ローマであるとされるが、古代の軍事工学は近代的な科学的知見に基づいておらず、専ら経験的な実践知識の蓄積に基づく知的体系であった。それがより科学的な形を取るには、やはり17世紀以降の近代科学の形成を待たねばならなかった。
 その点、主に18世紀に火薬の研究で名を成したフランスの科学者(化学者)アントワーヌ・ラヴォアジエとアメリカ植民地生まれのイギリスの科学者ベンジャミン・トンプソンは興味深い事例である。
 トンプソンはラヴォアジエの未亡人と短期間結婚したこともあり、両人には縁があったが、生前のラヴォアジェがフランス軍の兵器廠に研究室を構えて火薬の改良に貢献すれば、トンプソンは王党派としてアメリカ独立戦争に際してはイギリス軍のために火薬実験に従事した。
 共通項の多い両人であったが、摩擦熱をめぐる科学論争では対立関係に立った。すなわち、トンプソンは、摩擦熱の発生要因に関する長年の通説だったフロギストン燃素説に代えてラヴォアジェが提唱したカロリック熱素説を反証して熱素説に終止符を打ち、熱力学の発展にも寄与したのであった。
 両人は18世紀の軍事工学者としての一面を持つが、軍事工学の飛躍は19世紀から20世紀初頭にかけての科学的な進展によってもたらされた。この時期の重要な成果として、爆発時の発煙量が少ない無煙火薬、爆速が音速を超える爆轟、弾薬を自動的に装填しながら連射できる機関銃の開発は画期的と言える。
 また、19世紀後半から20世紀初頭にかけての電気工学の誕生は、電信・電話技術を早速軍用通信に応用することを可能にし、それまで伝令兵や伝書鳩に頼っていた軍事通信システムを刷新し、通信速度を高めた。
 蒸気船の発明は同時に蒸気戦艦の開発を促進し、19世紀末から20世紀初頭にかけて大国間の建艦競争を促進した。これは軍事工学の発達が軍拡競争の動因となった初例でもあり、今日まで日夜継続されている事象でもある。
 さらに20世紀初頭の航空機の発明、さらに航空工学の誕生は、それまで想定されたこともなかった空戦という新たな戦術を生み出し、空戦に専従する航空隊、さらには独立した新たな軍種としての空軍の誕生につながっていく。

コメント

続・持続可能的計画経済論(連載第38回)

2022-11-20 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(5)貨幣経済廃止準備 
 移行期にはまだ連鎖的な貨幣交換で成り立つ資本主義は完全には廃されず、その相当部分が残されたままである(残存資本主義)。しかし、この時期からほとんどの人にとって未知の新経済システムに適応するための試行を展開することは、円滑な移行を達成するうえで不可欠である。 
 こうした貨幣経済廃止準備は移行過程における最大の眼目であるとともに、最大の難関でもある。これに失敗した場合は、経済の混乱と物資不足、飢餓さえもあり得るので、最も慎重な熟慮のもとに遂行する必要がある。
 その点、貨幣経済廃止の到達点は通貨制度の全廃にほかならないが、これは経過期間を過ぎた初動期間の達成課題となる。その手前の経過期間では通貨制度は残存したまま、デノミネーションのようなショック措置も行うことなく、試行的な準備措置が採られる。
 経過期間における準備措置としては、以前見た経済計画会議準備組織も、経過期間を通じて貨幣交換によらない経済計画の策定について予行演習を行うが、これはもとより計画経済の対象範囲に含まれる基幹的生産活動における机上演習である。
 それに対して、市民の日々の暮らしに直結する消費財の貨幣交換によらない無償供給に関する予行演習は、先述した消費事業組合準備組織を通じて行われる。こちらは机上演習ではなく、主に食糧を中心とした日常必需品及び一部の雑貨的有益品の取得数量規制付きでの無償供給を実際に試行するものである。
 いかなる品目で試行するかは政策的な問題となる。こうした部分的な物資の無償供給は戦時/災害時の配給制に似ているが、配給制のような時限的な臨時措置ではなく、来る貨幣経済廃止に向けた準備措置であるから、経過期間の進行に合わせて、対象品目は次第に拡大していく。
 なお、電力やガスのような基本的光熱サービスの供給事業はエネルギー産業分野として経済計画会議準備組織の所掌事業に含まれるが、消費財の無償供給と合わせ、経過期間の段階から、こうした基本的光熱サービスの無償供給試行を開始することも想定される。

コメント

近代革命の社会力学(連載追補4)

2022-11-18 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐3〉独立革命後の諸状況
 ベルギーの独立革命は1830年12月のロンドン会議でひとまず国際的に承認を得たものの、オランダはこれに不服であった。そのため、独力で武力による奪還を図り、1831年8月に再びベルギーに侵攻した。
 当初のベルギー軍は民兵団程度のものにすぎず、数日でベルギーは陥落寸前となったが、ベルギーはフランスに応援を要請、フランス軍が支援介入に乗り出したことで、蘭仏戦争の危機に直面した。そのため、イギリスの仲介を経て停戦が合意され、ベルギー侵攻作戦は十日間で収束した。
 このいわゆる「十日戦争」ではオランダが勝利寸前で外交的に敗北したことでベルギー独立は確証される結果となったが、オランダはなおも旧南ネーデルラントの奪還に執着し、独立承認を拒んでいた。最終的に、オランダと五大国(英仏露墺独)、ベルギーの間で締結された1839年のロンドン条約をもってようやくベルギーの正式な独立が確定した。
 ところで、ベルギー独立革命は総体としてカトリック系南ネーデルラントのプロテスタント系オランダへの反感をエートスとしてはいたものの、特にフランス語を母語とするワロン人の反オランダ感情を基盤としてワロン人主導で実行されたことで、独立ベルギーはフランス語至上主義となり、オランダ語を母語とするフラマン人との間で、言語をめぐる対立関係が顕在化する。
 この対立関係は俗に「言語戦争」と呼ばれ、実際に武器を取る内戦に発展することはなかったものの、国の分裂を招きかねない深刻な対立軸となった。この対立はひとまず両言語を対等に扱う平等法の制定で中和化されるが、最終的にはワロン地域とフラマン地域とを分ける不安定な言語分割連邦制へと止揚されていく。
 ちなみに、ベルギーの土台となった旧南ネーデルラントには独自のドイツ語圏に属するルクセンブルクも含まれていたが、ルクセンブルクはベルギー独立革命に参加し、いったんベルギー領となった。
 しかし間もなく東西分割され、ワロン系住民の多い西部はベルギー領(リュクサンブール州)に、東部はベルギーを離れ独立した後、一時オランダと同君連合を形成し、1890年以降に大公国として再独立するという複雑な経過をたどった。
 こうし言語分断を内包しながらも、独立ベルギーのドイツ出身初代国王レオポルド1世は、ベルギーを永世中立国として独立の担保としつつ、欧州の経済強国に発展させる野望を抱き、立憲君主制憲法の枠を逸脱した政治介入により、国政を指導した。
 王太子としてその遺志を継いだレオポルド2世の時代には、欧州列強に先駆けてアフリカ大陸侵出を図り、コンゴ、後にはルワンダ、ブルンディを植民地化し、ベルギ―を帝国主義国家に押し上げた。
 しかし小国ゆえの無理な海外膨張であったため、その植民地経営は苛烈を極め、20世紀のアフリカ諸国独立に際しては、コンゴ動乱ルワンダやブルンディの凄惨な民族紛争を誘発するなど、禍根を残すことになる。

コメント

近代革命の社会力学(連載追補3)

2022-11-16 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐2〉独立革命への急転
 今日のベルギーにほぼ相当する南ネーデルラントにおける反オランダ感情が独立革命に展開した触発契機は、1830年に復活ブルボン朝が打倒されたフランス七月革命であった。当時は新聞メディアの発達期であり、七月革命の時々刻々は新聞を通じて南ネーデルラントにも伝えられ、関心を呼んでいた。
 そうした中、1830年8月、ブリュッセルの王立モネ劇場で上演されたオペラ『ポルティチの物言わぬ娘』の公演後に民衆暴動が突発した。このオペラはナポリの反スペイン蜂起を題材とする愛国的なフランス歌劇であったことが、市民の反オランダ感情に着火したのである。
 その経緯から「オペラ座の反乱」とも呼ばれる民衆蜂起が独立革命に急転していったのであるが、このようにベルギー独立革命は芸術が革命の引き金となった稀有の事例であるとともに、音楽の持つ潜在的な革命触発力を示唆している。
 その後、短期間で南ネーデルラント全域に広がった蜂起に対して、オランダ当局は軍を動員して鎮圧に当たり、ウィレム1世の次男フレデリック王子指揮下のオランダ軍は9月末、市街戦でブリュッセルの制圧を試みるも、革命派民兵の激しい抵抗にあい、失敗した。
 同月26日には、独立派のブルジョワ人士から成る臨時政府が樹立された。臨時政府は28日に中央委員会を設置し、同10月4日に独立を宣言し、11月には制憲国民会議選挙を実施した。
 行き詰ったオランダ国王ウィレム1世は欧州主要国に外交的介入を求め、同年11月にはロンドンにオーストリア、イギリス、フランス、プロイセン、ロシアの主要国から成る国際会議が招集されるが、諸国は議論の末、ベルギーの独立を承認したため、ウィレムの期待は外れた。
 こうしてベルギー独立は国際的にも承認を得たものの、オランダは大いに不満であり、引き続き武力による奪還を図り、最終的にウィレム1世治世末期の1839年まで独立承認を拒んだ。
 一方、革命参加者には労働者階級が多かったにもかかわらず、ベルギー臨時政府は基本的にリベラルなブルジョワ派であり、立憲君主制を志向していた。そのため、翌1831年2月に制定された憲法は王権が制約されたイギリス式の立憲君主制を規定したが、全体として、当時としては最も先進的な成文憲法となった。
 問題はオランダ国王に代えて誰を君主に推戴するかであったが、当初は七月革命で王位に就いたフランス国王ルイ・フィリップの次男で、独立戦争にもフランス軍部隊を率いてベルギー側で参加したヌムール公ルイに即位を要請した。しかし、これはベルギーがフランスに吸収されることを恐れたイギリスの反対で実現しなかった。
 そのため、一時的に摂政を置いたうえ、イギリスの仲介を経て、イギリス王室の親類筋でもあるドイツ系ザクセン‐コーブルク‐ゴータ家出身のレオポルドを初代国王に招聘する運びとなった。こうして、1831年7月、レオポルドが初代ベルギー国王として即位し、独立ベルギー王国が正式に成立した。

コメント

近代革命の社会力学(連載追補2)

2022-11-14 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(7)ベルギー独立革命

〈7‐1〉南ネーデルラント地方の特殊性
 ウィーン会議の政治反動への反作用として、1820年から10年間に及んだ長期的な第一次欧州連続革命の余波事象の中でも、その最終期に当たる1830年のベルギー独立革命は今日のベルギー王国、さらにはルクセンブルク大公国の形成にも直接つながり、欧州の地政学にも影響を及ぼす固有の意義を持った。
 ベルギーは元来、単立の統一国家ではなく、スペイン支配を経て、18世紀以来、オーストリア領ネーデルラントと神聖ローマ帝国領(リエージュ司教領)に分裂していた。そうした中、1789年にオーストリア領ネーデルラントのブラバントとリエージュ司教領で同時的な革命蜂起があった。
 その結果、1790年にはリエージュを含めたベルギー合衆国の樹立が宣言された。その初発地の名を取って「ブラバント革命」とも称されるこの事象は単立国家ベルギーが形成される胎動ではあったが、オーストリア軍による迅速な鎮圧作戦により年末までに挫折した。そのため、この事象はベルギー独立革命としての持続性を持ち得なかった。
 その後のオランダはフランス革命に触発されたバタヴィア共和革命が挫折した後、フランス軍に侵攻され、フランス支配下に移ったが、ナポレオンの敗退後、1815年のウィーン会議を経て成立したネーデルラント連合王国(オランダ)の領土に編入されるという転変を経験した。
 このオランダ統治下の南ネーデルラントはカトリックが優勢で、フランス語を話すワロン系人口が多いなど、プロテスタントが優勢なオランダにあって、宗教的・民族的構成の点で異質的であった。
 そのうえ、フランス支配時代に先駆的な産業革命を経験していた南ネーデルラントはなお後進的な北ネーデルラントとは経済格差がある反面、政治的にはワロン人が疎外されるなど、政治経済的な南北不均衡が顕在化していたことは、南ネーデルラントの独立への希求を強めた。
 一方、この時期のオランダは、オラニエ家の世襲統領を擁する君主制的共和制から明確に君主制国家として再編されるという反動化の時代を迎えていた。中でも、時の初代国王ウィレム1世は開明的ながら「遅れてきた啓蒙専制君主」と称される専制的な統治手法で臨んでいたことも、革命を誘発する要因となった。

コメント

続・持続可能的計画経済論(連載第37回)

2022-11-13 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第7章 経済移行計画Ⅰ:経過期間

(4)消費事業組合準備組織の設立
 持続可能的経済計画の二本目の柱として、広域的な地方圏単位での消費計画がある。これは持続的計画経済システムが完成された段階では、地方圏ごとに組織された日常消費財の供給にかかる協同組合組織である消費事業組合自身が策定する地方的な経済計画となる(拙稿)。
 経過期間においては、こうした消費事業組合の前身組織となる包括事業体が設立される。この事業体は基幹産業分野における包括企業体と類似した構制を持つが、将来の消費事業組合は同時に経済計画機関でもあるため、消費事業組合の前身事業体は計画機関を見据えた準備組織でもある。
 すなわち、将来の消費事業組合は貨幣経済によらない計画的な無償供給システムの中核を担う組織ともなるので、経過期間における消費事業組合準備組織はそうした無償供給システムの構築に向けた準備と予行という重要な任務を担う。
 こうした消費事業組合準備組織は発達した資本主義経済体制下でもしばしば商業的な小売流通資本と併存している生活協同組合組織に類似しており、既存の生協組織を再編することによって設立することも可能であろう。
 生協組織が存在しない場合、または存在する場合でも、現代の資本主義体制下で小売流通の中核を担うスーパーマーケットやコンビニエンスストアといった小売流通資本の統合が図られる必要がある。その統合過程は、基幹産業分野における包括企業体のそれに準じて考えることができる。
 ただし、併存する営利的な小売資本と生協組織という法的性質が相容れない事業組織を統合する場合は法的に困難な点もあるが、消費事業組合準備組織としての包括事業体は営利/非営利の対立を止揚した特殊な移行事業体として統合される。
 なお、準備組織は将来の広域的な地方圏単位で設立される消費事業組合の前身組織となるものであるので、広域圏ごとに分立する必要があるが、広域圏の区割りが未定の段階では、区割りを先送りして、さしあたり全土的な組織として暫定的に発足させてもよいであろう。

コメント

辞職ドミノと本質回避

2022-11-12 | 時評

改称統一教会関連や「死刑のハンコ」発言での大臣辞職が続き、野党は鬼の首でも取ったようなはしゃぎようであるが、そうした辞職ドミノの中で、本質的な問題が回避されている。

一つは、改称統一教会を含めた宗教団体の選挙介在という問題である。公職選挙過程で宗教団体が組織票集めに大きな役割を果たし、見返りとして政策にも影響を及ぼすことは、政教分離の精神を空洞化させる宿弊である。

こうした宗教介在選挙の実態については国会に特別調査委員会を設置し、国政調査権を行使すべきであるが、現状、相当数の議員(特に連立与党系)が何らかの宗教団体の支援を受けていると見られる中では、タブー化されているテーマである。

改称統一教会被害者救済法案も重要ではあるが、それで幕引きとするなら、宗教介在選挙という大元の本質問題は巧妙に隠蔽されることになる。救済法案をそうした隠蔽の遮蔽物として利用してはならない。

もう一つは、「死刑のハンコ」発言に象徴される機械的死刑執行慣例である。実際、日本は現在でも毎年死刑執行を続ける数少ない国の一つであるが、死刑執行命令の権限を持つ法務大臣は政治家であって法曹ではないため、命令発出に際して法律的な視点からの最終チェックを自ら実施する態勢になっていない。

そのため、大臣は法務省事務方が選び出した死刑囚について執行命令書に機械的にサインするだけで、まさに「死刑のハンコ」である。辞職した法務大臣は本当のことを言ったまでであるが、気の毒にも、それが禍いとなった。

たとえ本当のことでも、死刑制度は野党でさえこれを正面から議論することを避けている日本の巨大なタブーの一つであるから、不用意に口走ってはならなかったのである。

しかし、大臣辞職で幕引きとすることで死刑執行をめぐる問題、ひいては死刑制度存続の是非という本質問題は封印されたことになる。これも、与野党総ぐるみでの本質回避行動と言える。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第26回)

2022-11-09 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

ロシア革命と電化事業
 資本主義体制下での電化は19世紀末頃から台頭してきた民間電気資本の主導で経済的に推進されていったが、ロシア革命後のロシア→ソヴィエトでは社会主義政権の手で政策的に電化事業が上から展開されていった点で特筆すべきものがある。
 そもそもソヴィエト体制を象徴した計画経済の出発点となったのも、内戦終結後の1920年に設置されたロシア電化国家委員会(略称ゴエルロ)が策定、遂行した全土電化計画(ゴエルロ計画)であった。これは、当時のレーニン政権が構想していた全土電化を通じた経済復興及び経済開発という野心的な政策の一環である。
 そのことは、ゴエルロがソヴィエト計画経済の司令部となる国家計画委員会(略称ゴスプラン)に吸収・編入され、自身も技師でゴエルロ初代委員長グレブ・クルジザノフスキーがゴスプラン初代委員長に横滑りした人事にも見て取れる。
 もっとも、ロシアにおける電化事業は、すでに革命前の帝政ロシア時代末期に始まっていた。帝政ロシアでは1899年に第一回全ロシア電気技術会議が開催されて以来、電化社会の構築に向けた全国会議がたびたび開催され、発電所の建設その他の電化事業が急ピッチで推進されていたのである。
 また、1891年には、郵便電信学校を前身とする電気工学研究所が創立され、99年以降はアレクサンドル3世電気技術研究所と改称されて、ロシアにおける電気工学の研究・教育の中核機関となった。
 実のところ、革命後のゴエルロ計画も、そうした帝政ロシア時代に始まる電化事業の初動を継承しつつ、20世紀に入り、大戦と革命、内戦の動乱の中で崩壊した経済の再建と新国家ソヴィエトの計画経済の基盤として導入されたものであった。
 人的にも、帝政ロシア末期に育成された多くの電気工学者や技術者がゴエルロに参加していたが、中でもカール・クルーグは、西側での知名度は低いながらも、ソヴィエト時代初期の代表的な電気工学者・教育者として、ソヴィエトにおける電気工学の最高学府となるモスクワ電力工学研究所の創設と運営にも関わった。
 ソヴィエトにおける電気工学は支配政党(共産党)の国策と分かち難く結びついていたため、後に改めて見るように、科学が政治と一体化されるソヴィエト科学の特質を最も初期に示した事例でもあった。ゴエルロに参加した科学者・技術者の多くも、革命家・党員であった。
 反面、ゴエルロ参加者の中にも、とりわけ1930年代のスターリンによる大粛清に巻き込まれて処刑されたボリス・スタンケルのような例もあり、科学者への政治的迫害はソヴィエト時代の科学と政治の関わりを特徴づけるものとなる。

コメント

近代科学の政治経済史(連載第25回)

2022-11-07 | 〆近代科学の政治経済史

五 電気工学の誕生と社会変革(続き)

「電流戦争」と電化社会
 直流/交流の送電方式をめぐり、直流派の発明王エジソンが交流派を相手に繰り広げた紛争は俗に「電流戦争」とも呼ばれ、現代の映画の題材にすらなったが、これはエジソンが前身社を創業したゼネラル・エレトリックと、エジソンと対立した交流式の発明者テスラから特許を取得したウェスティング・ハウスという二大電気資本間の競争でもあった。
 紛争の発端は、電流が常に同方向にのみ向かう直流送電と電流が時間の経過とともに電圧や方向を変える交流送電という送電技術の優劣をめぐる技術的な紛争であったが、資本が絡むことで経済効率をめぐる競争ともなった。
 エジソンの直流送電システムは白熱灯が電気需要の中心だった電力事業の黎明期には主流的であったが、電圧を自在に変えられないため、電圧ごとに別の架線を要するなど、送電網を拡大するうえでは非効率であった。
 それに対し、テスラの交流送電は変圧器で電圧を自在に変化させられる点が最大のメリットであり、電気抵抗による送電損失を減らし、送電範囲の拡大や安定性を確保する点で分があり、「電流戦争」は交流式に軍配が上がる。ゼネラル・エレクトリックさえも、最終的には交流式を採用するに至った。
 ただ、この争いは交流式が直流式を排除したという単純な結末で終わらない。後に電力用半導体素子の開発によって、交流から直流へ、反対に直流から交流へ変換するパワーテクノロジーが登場すると、両方式は互換性を持つようになり、両者の対立は技術的に止揚された。
 現代の電化社会では、発電、送配電などの主軸的な電力供給システには交流式を用い、電子機器内の直流を必要とする段階で半導体回路により直流式に変換するという形で併用することが一般的であり、現代電化社会は両方式を止揚的に統合している。こうして、「電流戦争」は20世紀以降の電化社会の基盤を整備する役割を果たしたと言えるだろう。

電気椅子処刑の「発明」
 「電流戦争」はエジソンによって、交流式を貶めるネガティブ・キャンペーンが大々的に打たれた点でも熾烈な紛争であったが、彼が交流式の感電危険性を訴えるために電気椅子の実験を企画したことで、電気椅子による死刑執行という副産物を産んだ。
 死刑執行に電流を持ちいるという奇抜なアイデア自体はニューヨーク州の発明家で歯科医でもあったアルフレッド・サウスウィックの発案であり、当時の処刑法であった絞首の反人道性を訴えるキャンペーンに応じて、ニューヨーク州が電気処刑を採用した。
 その際、電気処刑用の交流式電気椅子を開発したのが、エジソンの協力者となった技術者・発明家のハロルド・ブラウンであった。彼はエジソンの反交流式キャンペーンのために雇われて交流式電気椅子を開発したが、それが彼らの意図を超えて、より〝人道的な〟死刑執行方法として州政府によって採用される結果となったのである。
 ニューヨーク州による最初の電気椅子処刑は1890年、殺人犯のウィリアム・ケムラーなる死刑囚に対して行われた。立会人らによれば、その光景は悲惨なもので、とうてい〝人道的〟とは言い難いものだったことが記録されている。
 結果として、エジソンの反交流式キャンペーンが功を奏したかに見えたが、意外にも、電気椅子処刑法は廃止されなかったどころか、他州にも広がり、絞首に代わる一般的な処刑法にさえなったのであった。
 これは「電流戦争」の思わぬ派生事象であるとともに、電気工学と政治・司法との最も奇妙な関わりを示しているが、電気椅子処刑はアメリカ以外の国には普及せず、アメリカでもその反人道性が懸念され、1980年代以降は薬物処刑に代替されていく。

コメント