ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

沖縄/北海道小史(連載最終回)

2014-03-27 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程(続)

【18】「沖縄返還」以後
 1969年に沖縄返還が公式に発表された後も、翌70年には米軍人が起こした交通事故の処理をめぐり、旧コザ市で大規模な反米騒乱が発生するなど、不穏な情勢が続くが、72年、法的には約束どおり沖縄は日本の施政下に復帰し、再び沖縄県となった。
 けれども、この「返還」は多くの沖縄人の意思とは異なり、米軍基地の存続が前提となっており、米軍はなおも駐留を続けることとなった。その裏には、後に漏洩事件化した日本側の費用負担の密約があり、日米安保条約の下で、日本側が駐留米軍を全面的にサポートする条件での「返還」であった。
 その結果、沖縄県は全国の米軍施設の大半が集中する「基地の県」という現実を担わされることになった。反米闘争は新たに反基地闘争の形に変形されて、なお続いていく。
 これに対し、中央政府では早速に沖縄開発庁を設置し、中央主導での沖縄経済の振興を図った。この手法は北海道開発庁を通じた北海道開発政策とパラレルなものであり(01年の中央省庁再編で共に廃止)、これで戦後の南北両辺境に対する中央政府の開発政策が出揃ったことになる。
 しかし、戦後当初の革新道政が間もなく保守道政に変わり、その下で中央直結型の開発が進展していく北海道とは異なり、長く米軍支配下に置かれた沖縄の革新勢力は強力であった。米軍支配時代の民選行政主席から返還後初代県知事となった屋良の後も、78年まで革新県政が続く。任期中に病死した平良幸市知事の後、ようやく保守系西銘順治知事が誕生するが、西銘知事も元は革新系地方政党・沖縄社会大衆党の出身であった。
 しかし、90年には再び革新系・大田昌秀が当選した。94年に再選された大田知事は、米軍用地の強制貸借の代理署名を拒否し、政府との訴訟に発展するなど、中央政府は返還後20年以上を経ても沖縄県政をコントロールし切れなかった。95年には、米軍兵士による少女暴行事件をめぐり、返還後最大規模の抗議集会が開催された。
 この事件をも一つの契機として、大田県政時代に持ち上がった普天間基地移設問題が90年代以降、沖縄県政及び政府の安保政策上の棘となっている。この問題は日米合意により名護市辺野古への県内移設で決着したが、2009年の政権交代により成立した鳩山民主党政権がいったん県外移設に方針転換し、短期で撤回するなど、中央政府の方針も二転三転した。
 沖縄でも保守化が進み、98年以降は返還後初めて二代連続で保守県政が続いているとはいえ、沖縄保守勢力も基地問題に関する限り、県民の意思に敏感であらざるを得ず、中央主導の統制は困難である。
 結局のところ、「返還」されたとはいえ、元来独立国であった歴史を持つ沖縄はなおも周縁化されたまま、他方で戦後の基地依存経済からの脱却はなお途上であり、日米安保体制下での沖縄県の自立には特有の難題が残されている。

[後記]
 2014年沖縄県知事選では、振り子が再び左に振れ、普天間基地の辺野古移設に反対する翁長氏が推進派の現職仲井眞氏を破って当選した。沖縄県民の投票箱を通じた“反乱”に等しい選挙結果であった。これに対し、12年総選挙で復権した自民党体制は完全無視と沖縄振興予算の減額という報復的な対抗措置をもって臨み、警察力を投入して移設事業を強行する策に出ている。ここには、中央政府の沖縄軽視の態度が如実に現れている。
 ただ、中央政府を通じての対米交渉には根本的な限界があり、今後、沖縄県民は、中央政府への「降伏」か、それとも独自の対米交渉を実現するため、再び独立して外交権を回復するかの歴史的な岐路に立たされるであろう。

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沖縄/北海道小史(連載第15回)

2014-03-26 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程(続)

【17】米軍支配下の沖縄
 沖縄は日本敗戦後、米軍の直接支配下に編入され、日本が主権を回復した1951年のサンフランシスコ講和条約でも引き続き、沖縄に対する米国の施政権が規定されたため、沖縄は本土の北辺・北海道とは全く異なる戦後史を歩むことになる。「皇民化」に続く「米民化」であった。
 このように、連合国の顔をした米国が沖縄を日本本土と分離して統治したのは、幕末の「黒船」による開国圧力の時以来、沖縄を対日戦略の要衝とみなしていたためと考えられる。しかし1949年以降、東西冷戦が開始されると、米国は対日戦略を超えて、沖縄を極東における軍事的要衝とみなし、米軍基地の建設・整備を精力的に推進する。「基地の島」の始まりであった。
 米国は50年、公式の沖縄統治機関として琉球諸島米国民政府を設置した。この機関は「民政府」と称されながら、実態は軍政機関であって、その長官は高等弁務官と改称された後も、一貫して米国陸軍の将軍が任命された。
 米国は当初、沖縄を群島ごと四地域に分け、民選知事を擁する群島政府を設置したが、民選知事が反米的な言動を取ることを懸念し、52年に改めて統一的な琉球政府を設置した。その長たる行政主席には沖縄人が任命されたが、琉球政府に自治権はほとんどなく、民政府の指令を執行する下部機関にすぎなかった。
 こうした非民主的な軍政統治体制の下、米国は沖縄各地で軍事力を背景とした土地の強制収用によって基地の建設を急ピッチで進めていったのだった。こうして、沖縄では雇用を含めた経済も米軍基地に依存するシステムが構築されていく。
 一方で、米国の強権的な手法に対し、沖縄人の反米感情は高まりを見せた。その最初の頂点は56年の「島ぐるみ闘争」に現れた。これは琉球政府の立法機関であった立法院が54年に行った「土地を守る四原則決議」を契機に起きた全島規模の反基地デモであった。この結果、基地用地借用に際しての高額地代の支払いなど、一定の歯止めがかけられたものの、本質的な解決には至らなかった。
 「島ぐるみ闘争」の56年には、沖縄人民党(後に日本共産党に合流)を率い、当時の反米派旗手だった瀬永亀次郎が那覇市長に当選したのも、選挙を通じた沖縄人の反米感情の発露と言えた。これに対し、当局は民政府系の琉球銀行による預金凍結や給水停止といった制裁措置で応じ、市議会を動かして不信任決議をさせたうえ、過去の投獄歴を理由に瀬永から被選挙権を奪って追放した。
 60年代に入ると、本土復帰の機運が高まり、祖国復帰協議会を通じた復帰運動が組織された。ベトナム戦争勃発後、沖縄米軍基地がベトナムへの出撃基地となると、本土のベトナム反戦運動とも交差して復帰運動はいよいよ活発化した。
 こうした情勢を見た米国も早期の沖縄返還に傾斜するようになり、68年には琉球政府行政主席の直接選挙を初めて実施、復帰派で革新系の屋良朝苗が当選した。そして翌69年にはついに、日米共同声明をもって72年の沖縄復帰が正式に発表されたのである。

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危険な米露対立

2014-03-19 | 時評

ウクライナ・クリミア紛争をめぐり、ロシアがウクライナ領土に組み込まれてきたクリミア自治共和国の編入を宣言したことで、冷戦的な緊張関係ともいささか異なるきしんだ米露対立の情勢が深まっている。

国際社会はロシア側の国際法無視の侵略行動として反露に強く傾斜しているが、自治共和国側の事実上の要請に基づく軍事介入に対するそうした杓子定規な非難が、誇り高いロシアをかえって強硬策に追い込んでいる。これは、冷戦時代末期最大の米ソ対立のきっかけとなったソ連のアフガニスタン軍事介入の時と類似した状況である。 

元来、歴史的にみて、クリミア半島はウクライナよりもロシアとの結びつきが強く、現在もロシア系住民が多いことから、住民投票でもロシア編入が支持されたのである。ウクライナの民衆革命でウクライナ民族主義に傾斜する親欧政権が樹立されたことで、ロシア系住民迫害への不安が広がったことも、この結果を後押しした。欧米はロシア軍の圧力下での投票を無効と主張するが、仮にロシア軍が介入していなくとも、結果は同じだったであろう。

とはいえ、ロシア側も、ウクライナの革命政権を一切認めず、外交交渉を拒み軍事的な手段でクリミア半島に介入したうえ、編入手通きを一方的に進めるのは性急すぎるが、その裏には二度にわたるプーチン政権下で再生しつつあるロシアが、この機会をとらえて、ソ連邦解体後の世界秩序の中で再び米欧に対抗し得る極として浮上しようとする戦略が見え隠れする。

ロシアに民族主義的かつ武断主義的なプーチン政権が強力な基盤を持ち、他方米国には外交的な指導力に欠けるオバマ政権が対峙するという状況が問題の解決を難しくしている。もしウクライナ内戦となって、当事勢力双方を支援する形でクリミアを舞台に米露が戦火を交えれば、局地的でも史上初の米露戦争となる。

柔軟な出口戦略を模索すべき時であるが、その場合、表面に見える領土をめぐる政治問題よりもウクライナの対外債務問題という世界経済に影響する経済問題の国際的な解決が糸口になるかもしれない。

さしあたりは欧米が杓子定規に国際法をふりかざすのをやめ、クリミア半島の歴史を理解し、クリミアがウクライナ領内の自治共和国として一定の自治権を保持してきた経緯を理解すること、他方でロシアもクリミア編入手続きを急がず、当面は事実上の「独立」状態にとどめておくほうが望ましかった。

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歴史の継承と検証

2014-03-17 | 時評

継承するが、検証する━。従軍慰安婦問題に関する20年前の「河野談話」を巡る安倍政権の方針は一見矛盾しているが、必ずしもそうではない。「継承」とはあくまでも対外的な宣明であって、国内的には「検証」するという趣旨だからである。

このように内外二重基準となったのは、米国のとりなしで対韓関係を改善する前提的言質としての「継承」が必要だった反面、従軍慰安婦に懐疑的な安倍政権の本心は「検証」、すなわち事実上の談話否定にあるからである。

ただ、「継承」すると宣明した以上、表面上は否定できないから、非公開での「検証」によって「談話」の信頼性を揺るがせ、国内的には骨抜きにしようという作戦なのだ。憲法を改正せずに「解釈」で集団的自衛権を容認しようという手法とも共通するやり方である。

しかし、本当の「検証」とはいまだに当時の官房長官の名を冠して呼ばれる中途半端な宣明にとどまっている「談話」をさらに補強して、内閣の公式宣言に格上げすることであるが、現状そんなことを期待できる情勢にないどころか、その正反対の逆流が起きようとしている。

単に安倍政権が右派だからではない。「談話」を覆そうとするような愛国史観は学校教科書から慰安婦記述を一掃し、なおかつ世論に浸透することにも成功しつつあるからだ。「河野談話」は皮肉にも、そうした流れを作り出す起爆剤となってしまったのだった。

現在、愛国史観の流れを食い止められる有力な対抗軸は存在しない。一方、韓国でも愛国主義の高揚から歴史認識に関する譲歩が容認される空気は存在しない。かくして、歴史認識問題は向こう何世代にもわたり、暗礁に乗り上げるだろう。

暗礁から降りる方法はただ一つ、国家という神話的な枠組みから人々が解放されることである。国家が存在する限り、歴史認識は大なり小なり愛国史観の影響を受け、互いに衝突せざるを得ないからである。

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アンネとオンリー

2014-03-16 | 時評

背筋の寒くなるような二つの出来事が続いた。一つは、公立図書館等での所蔵図書『アンネの日記』の大量損壊事件。もう一つは、サッカースタジアムでの「JAPANESE ONLY」の横断幕騒ぎである。

現時点で、後者についてはリーグから無観客試合という「厳しい」とされる制裁措置が下り、前者についても関与を認める被疑者の逮捕という結果は出ている。

後者のJAPANESE ONLYについては、メディア上では「日本人だけ」という訳も見られたが、この英文の含意は「日本人以外お断り」という他民族排斥である。JAPANESEをWHITEに変えれば「白人以外お断り」という典型的な人種差別言説となる。このような明白な差別表現が公衆トイレの落書きでなく、衆人環視の横断幕として掲げられていたことになる。

前者の『アンネの日記』のほうは現時点でまだ捜査中だが、被疑者は「同書の実作者はアンネではない」という信念を持つと供述しているとされる。このアンネ偽作説は、ドイツなどで親ナチのホロコースト否認論者―「アーリア・オンリー」論者とも重なる―によってかつて盛んに宣伝されたが、現在では裁判や研究を通じて否定されており、それ自体ユダヤ人差別言説である。

捜査機関は被疑者が「意味不明」の供述をしているとして、精神鑑定まで計画しているようだが、上記のような動機からの犯行だとすれば、ネオナチ的な思想確信犯の可能性は高く、単純な心神喪失者とは思えない。もし当局が本件を心神喪失者による単なる図書損壊事件として処理しようとしているなら、それは差別という論点逸らしの隠蔽となりかねない。

いずれにせよ、日本社会は従来反差別への認識が甘く、いまだに包括的な差別禁止立法も存在せず、先の横断幕などはそもそも司法処理される「事件」にならないという風土ではあるが、それにしてもこれほど明瞭に人種・民族差別が市井で表出される時代はいまだかつてなかっただろう。

筆者はかねて、現代日本が戦前の軍国下での擬似的なファシズムとは別に、大衆的な基盤を持った真正のネオ・ファシズムの方向へ向かっているのではないかと杞憂とも受け取られかねない危惧の念を持ってきたが、上記二つの出来事―両者は底流でつながっている―は、そうした危惧を裏書きしているように思えてならない。


[追記]
検察当局は6月、アンネ関連書籍破損の被疑者を不起訴処分とした。心神喪失が理由である。しかし、捜査により、被疑者は他の図書館や書店でも同様の行為を繰り返していたことが判明している。上掲の供述内容や無差別に図書の損壊に及んでいたわけではなく、アンネ関連書籍やホロコースト関連書籍をターゲットに損壊していたことを考慮すると、なお疑問の残る処分である。

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沖縄/北海道小史(連載第14回)

2014-03-12 | 〆沖縄/北海道小史

第六章 戦後両辺境の道程

【16】戦後の北海道開発
 敗戦後の北海道には本州と同様、米軍を主力とする占領軍が進駐する一方、いわゆる北方領土についてはソ連軍が引き続き占領していた。こういう状況の下、戦後北海道史がスタートするわけだが、戦前との大きな相違は、北海道庁長官職が公選制となったことである。
 1947年に行われた初の道庁長官選挙では、日本社会党の公認を受けた若干35歳の道庁職員労組指導者・田中敏文が決選投票の末、当選した。田中は地方自治法制定後の51年に行われた第一回北海道知事選挙でも再選され、以後59年に退任するまで、実質三期にわたって知事を務めた。
 こうして、戦後の北海道は左派系道政からスタートすることになったのだった。このことは、北海道の開拓者精神を基盤とした革新的な気風の反映とも考えられる。
 田中道政は「北方生活文化の確立」を重点政策課題に掲げ、防寒住宅として不燃性コンクリートブロック住宅の建設を推進するなど、寒冷地北海道の暮らしの向上に焦点を当てた。
 しかし、この時期、中央政府では北海道の資本主義的な開発を計画しており、50年、地方自治法制定後廃止された北海道庁に代わる上からの開発指導機関として北海道開発庁を、翌年には運輸省等の統合直轄事業機関として北海道開発局を設置した。これらを通じて、中央直結型の開発を推進しようとの狙いであった。
 一方で、55年には中央政界で保守合同により自由民主党が結成されたことにも後押しされ、田中知事の退任を受けた59年の北海道知事選挙では保守系で旧内務官僚出身の町村金五が当選、以後、83年まで二代にわたる保守道政の中で上からの北海道開発の流れが確立される。
 他方、戦前からロシアを意識した北辺防衛の最前線であった北海道の位置づけは戦後も米ソ冷戦構造の中で継承発展され、北海道には占領終了後の54年に発足した自衛隊の主要基地が置かれ、今日に至っている。これらの基地の多くは米軍も一時利用可能であることから、一時利用施設を含めた面積で見れば北海道は沖縄を上回る米軍関連施設を抱えていることにもなる。
 北海道は、本州で革新自治体の誕生が相次いだ70年代には逆に保守道政の真っ只中にあったが、北海道の革新的風土は83年の知事選で社会党を中心とした左派の支持を受けた横路孝弘が当選した時、再び立ち現れた。
 以後三期にわたって連続当選した横路は上からの開発に対し、一村一品運動などの地域おこしに重点を置いた政策を進めるが、一方で国際競技会や地方博誘致などのイベント行政にのめり込み、特に88年の世界・食の祭典では大幅な赤字を出すなどの失政も見られた。
 95年に横路を副知事から継いだ堀達也知事は二期目で保守系相乗りとなり、03年の知事選では経済産業省出身の高橋はるみが当選し、保守道政に完全復帰した。とはいえ、高橋は東北地方を含めた北日本では初の女性知事であり(全体では4人目)、わずかながらここにも北海道の革新性は残されている。
 50年にわたって中央主導の総合開発を担ってきた北海道開発庁は01年の中央省庁再編を機に廃止され、地方分権化の流れの中で北海道も自立化を目指す時期に入った。しかし、北海道開発局は国土交通省の下に存置されるなど長年の中央主導開発からの脱却は容易でなく、かつて主要産業であった石炭産業を支えた炭鉱が閉鎖された後、破綻に陥った夕張市のような基礎自治体も存在するなど、自立化への課題は多い。
 他方、旧来の中央主導開発に対しては、アイヌ民族による裁判闘争という現代的な形態の抵抗運動も現われた。現代アイヌの拠点である日高地方で、ダム建設による伝統文化地域の水没を阻止することを目指した二風谷〔にぶたに〕ダム建設差し止め訴訟はその象徴的な事例であった。
 この訴訟では97年、札幌地裁がダム建設の差し止めは棄却しながらも、アイヌをそれまで政府が認めてこなかった先住民族として認知する画期的判決を下し、これを契機に同化政策の支柱であった旧土人法の廃止と、民族回復を規定するアイヌ文化振興法の制定というアイヌ政策の歴史的転換が導かれたのだった。
 しかし、それはすでに何世代にも及ぶ強制同化政策により、アイヌ語話者も激減し、アイヌ語が消滅危惧言語へと向かう中での、遅きに失した民族回復であるとともに、民族差別を明確に禁止する政策ではなく、長年の差別構造の根本的な変化につながるものとは言い難い。

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「日米共同自衛権」と呼べ

2014-03-07 | 時評

安倍政権による「集団的自衛権」の解禁に向けた「解釈改憲」の企てが大詰めを迎えている。しかし、政府の法制官僚たちがどのように言葉を取り繕っても、集団的自衛権と憲法9条を和解させることは不可能であろう。

そういう無駄な努力はあっさりやめて、手の内を明かしてしまったほうがよさそうである。手の内とは、従来「集団的自衛権」の名で呼ばれてきたものの正体とは、日米同盟に基づく「日米共同自衛権」のことだという事実である。

「集団」というと通常は最低でも三か国のグループを想起するが、日本の安保論議ではほとんど専ら日米間での共同作戦しか想定されないのだから、「集団」の語は不適切であり、「共同」のほうが妥当である。

ただ、こうした日米共同自衛権ですら憲法上の整合性を取るのは至難である。となれば、ついでに自衛隊の存立根拠も含めて、日米安保条約が日本国憲法に優先するという半ば公然の秘密も明かしてしまったほうが、すっきりするのではないか。

いわゆる憲法学説においては、こうした条約優位論は異端的であるが、国際政治の現実に照らす限り、日米安保条約が憲法9条より尊重されてきたことは明らかであり、「集団的自衛権」の議論もその延長上のことにすぎない。

こうして「憲法に優位する日米安保条約上、日米共同自衛権が認められる」という赤裸々に政治的な「解釈」を政権の見解として打ち出したほうが、大きな波紋は呼ぶだろうが、憲法破りの糾弾をいくらか小さくできる策である。

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