ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

通貨破壊戦争

2013-05-31 | 時評

2年前の最初の時評は「ドル安」を扱うものであった。そこでは基軸通貨ドルの価値下落を資本主義の終わりの始まりの予兆として扱ったのだった。しかし、今や「ドル高」について書かねばならなくなった。コミュニストは当てにならないと思われるかもしれない。

だが、長期的に見れば、1ドル=360円時代に比べ、1ドル=100円はなお「ドル安」の流れの中にある。それは1970年代の「ニクソン・ショック」以降、米国自身が望んできたことでもある。自国通貨の価値をあえて低めるのは、労働力の価値を下落させ、輸出を伸ばすという最も安易な景気浮揚策だからである。

日本は1980年代以降、長らくこうした米国のドル安戦略のせいで、円高に苦しめられてきたが、ここへ来て円安誘導で巻き返しを図り、一定の成功を収めているように見えるわけだ。

このように主要通貨を持つ諸国が自国通貨の価値を低め合う「通貨戦争」の実態は通貨破壊戦争である。それは近隣窮乏化政策として非難されることもあるが、むしろ国内窮乏化政策の面が強い。輸出で景気回復に成功しても、反面で輸入は不調となり、現今の燃油高騰のような事態も招く。実質賃金は下落する一方、物価は上昇する。

これは資源を輸出できる資源国にとっては有利な策だが―しかし生活者にとっては不利―、日本のように資源を輸入に頼る無資源国にとっては総決算すれば不利な策ではないか。

いずれにせよ、通貨破壊戦争即貨幣廃止への道ではないとはいえ、キャッシュレス化の進展と併せ、人類は無意識のうちに既存の貨幣システムから離脱しつつあるとも言える。それはやはりそうとは意識されない終わりの始まりの徴候である。

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マルクス/レーニン小伝・目次

2013-05-30 | 〆マルクス/レーニン小伝

本連載は終了致しました。下記目次各「ページ」(リンク)より別ブログに掲載された全記事(補訂版)をご覧いただけます。

第1部 カール・マルクス

第1章 人格形成期 p1 p2
(1)中産階級的出自
(2)進歩‐保守的な恋愛
(3)哲学との出会い
(4)古代唯物論研究

第2章 共産主義者への道 p3 p4 p5
(1)17歳の職業観
(2)新聞編集者として
(3)在野知識人へ
(4)盟友エンゲルス
(5)『共産党宣言』まで

第3章 『資本論』の誕生 p6 p7 p8
(1)初期の経済学研究
(2)プルードンとの対決
(3)経済学研究の道
(4)主著『資本論』をめぐって

第4章 革命実践と死 p9 p10 p11 p12 p13
(1)共産主義者同盟の活動
(2)国際労働運動への参画
(3)パリ・コミューンへの関与
(4)バクーニンとの対決
(5)労働者諸政党との関わり
(6)最後の日々

第5章 「復活」の時代 P14 p15 p16 p17
(1)マルクス主義の創始
(2)エンゲルスからレーニンへ
(3)ロシア革命とマルクス
(4)ソ連体制とマルクス
(5)正当な再埋葬

第2部 ウラジーミル・レーニン

第1章 人格形成期 p18 p19
(1)中産階級的出自
(2)兄の刑死
(3)逮捕と追放
(4)弁護士資格取得

第2章 革命家への道 p20 p21 p22 p23
(1)ペテルブルクへ
(2)最初の政治活動
(3)何をなすべきか
(4)社会民主労働者党への参加

第3章 亡命と運動 p24 p25 p26
(1)党内抗争と理論闘争
(2)第一次ロシア革命と挫折
(3)哲学への接近
(4)レーニン主義政党の構築

第4章 革命から権力へ p27 p28 p29 p30 p31
(1)第二次革命の渦中へ
(2)10月革命と権力掌握
(3)ボリシェヴィキの全権掌握
(4)内戦・干渉戦と「勝利」
(5)最高権力者として

第5章 死と神格化 p32 p33 p34 p35
(1)レーニンの死
(2)忠実な相続人スターリン
(3)偉大な亜流派トロツキー
(4)人間レーニンの回復

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軍隊と性暴力/性搾取

2013-05-28 | 時評

軍隊に性暴力/性搾取は付き物である。橋下徹大阪市長があまりにも粗野な形で対照させてみせた在日米軍兵士の性犯罪と旧日本軍の従軍慰安婦制度は、発言者自身の思い込みや両者を切り離そうとする米当局の努力にもかかわらず、同根なのである。なぜか。

軍隊の存在理由が「征服」にあるからだ。性暴力/性搾取は最も下等な征服行為であるが、征服を存在理由とする軍隊にこうした秘められた征服行為が随伴しがちなのは自然なことである。性犯罪と慰安婦のような性奴隷制の違いは、制度化されたものかどうかの形態差にすぎない。

兵士を性暴力から遠ざけるために内部での教育・統制を徹底するというようなありふれた“対策”は効果がないし、橋下が推奨した―この点については発言を撤回した―“風俗”の利用という奇策によっても解決しない。他方、橋下が必要性を認識する―この点については発言を一部修正した―慰安婦制度も性暴力の亜類型としての性搾取の制度化であるから、真の解決策ではあり得ない。 

その点、現存自衛隊が性暴力/性搾取と比較的に無縁であり続けていられるのは、自衛隊が征服を目的とする軍隊ではないことによる。もし自衛隊が軍隊に「昇格」すれば、再び性暴力/性搾取が何らかの形で発現してくるだろう。その意味からしても、自衛隊の「国防軍」化は決して賢策ではない。

[追記]
それにしても、橋下発言は、その後の発言者自身による発言の撤回・修正にもかかわらず、彼の弁護士・政治家としての資質―わけても「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」(弁護士法第1条第1項)弁護士としてのそれ!―を疑わせるものと言わざるを得ないが、この国の司法試験及び公職選挙は彼を弁護士及び政治家として紛れもなく認証したのである。このことは、その恩恵に浴した橋下自身が当然にも強く信奉する試験や選挙のような「競争」的選抜法が、職業的資質の確かさを保証するものではないことを証明してくれている。

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戦後日本史(連載第5回)

2013-05-23 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔四〕冷戦と占領理念の転回

 1947年、いわゆる東西冷戦が幕を開けると、連合国の占領=革命も重大な転機を迎える。言わば占領第二期である。
 米国はソ連と接する日本を対ソ連との関係で「反共の砦」として再構築する地政学上の必要性に直面した。結果、占領=革命の理念も反共的な転回を見せる。
 その最初の徴候は労働運動の抑圧に現れる。占領政策の重要な柱の一つであった労組の助長は公務員の労組結成の自由化を実現し、官公労組を戦後労働運動の主役に押し上げようとしていた。その最初の高揚が47年2月1日に予定されていたゼネストであった。しかしGHQは2・1ゼネストを禁止する命令を発し、封じ込めを図ったのである。
 それでも、同年4月の総選挙では戦後合法化された旧無産政党を結集した日本社会党が第一党に躍進し、同党委員長・片山哲を首班とする史上初の社会党系内閣(中道保守系政党との連立)を成立させた。
 この出来事はまさに占領=革命の一つの政治的所産と言えたが、一方で片山内閣は賃金抑制と大量解雇を容認する企業整理を後押しし、これに対する労組の地域闘争が活発化すると、これを「山猫スト」とみなして厳罰で臨む姿勢を鮮明にするなど、この史上最初にして最後となる社会党主導の左派政権は転回し始めた占領=革命の理念に強く制約されていた。
 結局、片山内閣はほとんど唯一の「社会主義的」な政策であった炭鉱国家管理政策をめぐる政権内の混乱などから48年3月に総辞職し、連立与党の一つであった中道保守政党・民主党の芦田均総裁を首班とする内閣に交代した。
 この芦田内閣の下、GHQの意向を受けた政令をもって公務員の争議権が禁止され、同内閣が48年10月に疑獄事件を機に総辞職した後、政権に返り咲いた保守系・吉田茂を首班とする第二次吉田内閣の下で国家公務員法が正式に改定され、公務員の労働基本権を厳しく制限する現行制度の骨格が定まる。
 職業外交官出身の吉田は以後、52年の占領終了をまたいで54年まで首相の座を維持するが、その間、彼は占領当局の反共政策を体現し、その忠実な代理人として次章で見る数々のいわゆる「逆コース」施策を独特の強いリーダーシップを駆使して推進していくことになる。
 占領当局=GHQ内部においても主導権の交替が起きていた。当初、社民主義的な諸改革を主導していたのはGHQでも左派色の強い幕僚部民政局であったが、冷戦開始後は反共・保守色の強い諜報担当の参謀第二部(G2)が主導権を握るようになっていた。
 G2からすると、民政局の面々は「レッド」(共産主義者)とは言わないまでも、「ピンク」(容共主義者)と映っており、日本を共産化という危険な方向へ誘導しかねないことを憂慮していたのだった。
 49年に入ると、下山事件・三鷹事件・松山事件と、いずれも当時大量解雇の嵐の中、最も戦闘的な労組として台頭しつつあった国鉄労組に関わる謀略事件が立て続けに発生する。
 これら三事件の真相は―三鷹事件のように主犯とされた者の死刑判決が確定したケースも含め―今なお不明であるが、今日ではいずれも国鉄労組の切り崩しを狙った政治謀略事件であった疑いが濃厚となっており、こうした謀略事件の背後にG2の関与があったものと見られる。
 これに先立つ48年における財政均衡政策を中心とする経済安定九原則とそれに基づくドッジライン、翌年の大企業減税を柱とするシャウプ勧告は民間企業・行政機関双方での人員整理を強い、大量の失業者を産み出すことになったが、これに対する官民労働者層の抵抗が強まると、占領当局とその意を受けた日本政府は力による抑圧で応じたのである。
 こうした冷戦開始以後の占領=革命の理念的転回はしかし、当初の理念と完全に断絶されたものではなく、その一つの必然的な転回方向であった。
 前にも指摘したように、占領=革命はワイマール体制を産み出した1919年ドイツ革命と同様に、リベラルなブルジョワ民主主義革命の域を出るものではなかったから、労働運動が占領当局の許容限度を超えて隆起した時、折からの冷戦の開始という国政情勢の変化にも後押しされて、資本制護持のための抑圧政策へと容易に転回していったのである。

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戦後日本史(連載第4回)

2013-05-22 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔三〕占領=革命の理念〈2〉

 連合国の占領は、前回見たように内容上は社会民主主義的なブルジョワ革命の性格を持っていたが、主権の所在の変更が実現されたことで形式上も革命的性格を帯びるに至った。すなわち天皇主権から国民主権への転換である。
 占領当局は先の「五大改革指令」とは別途、政体に関しても46年2月のGHQ改憲案(いわゆるマッカーサー草案)の形で、国民主権・象徴天皇制を明示した。
 この草案は、当初占領当局の示唆を受けて日本側が独自に作成した改憲案(いわゆる松本私案)の中で明治憲法上の天皇主権の大原則を維持しようとしていたことをGHQが不満とし、事実上日本側のこうした保守的な態度を拒否して、明確に政体の変更を要求したものにほかならなかった。
 これはポ宣言受諾の時から「国体」の護持に固執していた日本支配層にとっては受け入れ難いことであって、マッカーサー草案に対しては国民主権の原則を極力骨抜きにするような修正文言を加えて抵抗を示したものの、結局草案の線で妥協が成立したのであった。
 このような経緯から窺える占領当局の政治的理念は、ブルジョワ民主主義の表現である国民主権論にあったと言える。逆言すれば、より革命的な人民主権ないし民衆主権の理念は否認されており、天皇に代わる新たな主権者は無産階級ないし草の根民衆ではなく、ブルジョワ市民階級であることが含意されていた。
 一方、天皇制の存廃をめぐる占領当局の考え方は当初定まっていなかったようであるが、結局ストレートに天皇制廃止・共和制移行へ突き進むことに伴う政治的な混乱を恐れ、天皇制の枠組み自体はこれを温存しつつ、その実質を変更する方針で固まっていく。
 その結果、天皇制護持だけは譲れない日本側との妥協が成立し、象徴天皇制に落ち着くわけであるが、この制度は結局のところ、西欧的な立憲君主制の相応物であった。
 しかし、君主の権能が憲法上厳格に制約されながらも、なお一定の政治的権能を留保する国家元首の地位を保持していることが多い西欧立憲君主制とも異なり、新憲法に現れた天皇は一切の政治的権能を有しない純粋に象徴的な存在とされ、君主=国家元首としても明示されないという点で、西欧立憲君主制よりもいっそう徹底した名目君主制の一形態である点に特質がある。
 こうした点を見ると、国民主権に立脚した象徴天皇制とは限りなく共和制に近いブルジョワ民主主義の特殊な産物であり、ここに占領=革命のブルジョワ的な政治理念が深く埋め込まれていると言えるであろう。

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戦後日本史(連載第3回)

2013-05-21 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔二〕占領=革命の理念〈1〉

 連合国の占領政策が革命的な内容を持つことが明らかになってきたのは、1945年10月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって発せられたいわゆる「五大改革指令」においてであった。
 その内容は(1)婦人の解放、(2)労働組合の助長、(3)教育の自由主義化、(4)圧制的諸制度の撤廃、(5)経済の民主化の五点であるが、中心を成すのは「経済の民主化」である。
 具体的には「所得並びに生産及商工業の諸手段の所有の普遍的分配を齎す[もたらす]が如き方法の発達に依り,独占的産業支配が改善せらるるやう日本の経済機構を民主主義化する」とされたが、これはいわゆる社会民主主義を示唆する命題である。つまりは、資本主義的経済構造は本質的にこれを温存しつつ、独占・寡占資本には一定のメスを入れるとともに、二番目の標語にあるように、労働基本権の保障を通じ、それまで粗野なままであった労使関係を改革して労働者の地位の向上と生活改善を図るというものである。
 こうした社民主義のテーゼが連合国、なかんずく米国から提示されたのは、当時の米国がニューディール政策(以下、ND政策という)を導入した民主党のローズベルト政権を継承するトルーマン政権の下にあったことと無関係ではない。
 ND政策は西欧生まれの社民主義の米国的な文脈における再解釈とも言うべきものであって、当時の米支配層は日本民主化を企画するに当たって、このND路線の適用を念頭に置いていたのである。
 さしあたり占領当局が優先課題としたのは、農地改革と財閥解体であった。このうち前者の農地改革は全般に不徹底に終わる占領=革命の諸政策の中では比較的徹底しており、その効果が永続したプログラムであった。
 その内容はもちろん農地国有化ではなく、大地主所有に係る農地の小作農への分配と小規模自作農の育成という典型的にブルジョワ的な、しかし大多数の農民の要望に合致するものであった。これにより戦前期日本農業の特徴であった寄生地主制は解体され、農民のプチブル中産階級化が実現し、かれらはやがてブルジョワ保守支配の最も基盤的な支持層となっていくのである。
 二番目の財閥解体は反対に、占領=革命の不徹底さの象徴であった。占領当局は持株会社の禁止を軸とした独占禁止政策を主導し、戦前の主要15財閥の解体を図るが、財閥の中核を成す大銀行は温存したため、大銀行を核とする「企業系列」の形態を経て、半世紀後の「金融ビッグバン」に際し、大銀行を中心とした財閥の再興につながっていく。
 一方、労働基本権の保障、特に労働組合活動の自由化はこの時期の大きな施策である、その効果は今日まで持続しているものの、占領当局は当然ながら労組に基盤を置いていたわけではなく、あくまでも「経済の民主化」と関連付けられた政策プログラムの一環としての労働組合の育成策を主導したにすぎなかった。
 とはいえ、労働基本権は新憲法にも明文を持って書き込まれ、当時のブルジョワ憲法としては最も充実した社会権条項を持つ新憲法は、起草過程で大いに参照されたアメリカ合衆国憲法とも異なる社会民主主義色の濃厚なブルジョワ・リベラル憲法に仕上がっていった。
 そうした憲法に基づく新体制は、戦前ドイツのワイマール体制に類似しており、新憲法体制は―共和制ではなかったものの―日本版ワイマール体制と呼んでもよさそうな実質を有していた。
 従って、そこにはドイツのワイマール体制と同様の限界が認められた。すなわち所詮それは下部構造の部分的手直しと上部構造の改革にとどまるブルジョワ革命の域を出ないものであった。ただ、ワイマール体制とも異なり、占領=革命ではもう一つ、カント的な恒久平和論が反映された交戦権放棄と軍備廃止というラディカルな変革が目指されたことは特筆に値する。
 こうして、戦後の占領は言葉の厳密な意味での「革命」ではなかったけれども、内容上は外国の介入による「横からの革命」と言うべき変革を画したのである。

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戦後日本史(連載第2回)

2013-05-15 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序章 占領=革命:1945‐49

〔一〕占領=革命の開始

 1945年8月14日、ポツダム宣言(以下、「ポ宣言」と略す)の受諾により大日本帝国は事実上崩壊した。その体制を産み出した明治維新から起算すると一世紀は持続せず、およそ80年の命脈であった。
 現在の日本からはなかなか想像もつかないことであるが、大日本帝国は戦争にはめっぽう強かった。明治時代における二つの大戦、日清・日露両戦争での勝利に続き、大正時代の第一次世界大戦も側面参加にとどまったとはいえ、勝ち組に身を置き、戦争景気と戦間期における経済成長・高度資本蓄積のきっかけを掴んだ。
 ところが、第二次世界大戦では過去の戦争政策での成功体験ゆえの過信からか、無謀な戦略のために初の敗戦を喫した。それも人類史上初の原爆投下という手痛い破壊を伴う木っ端微塵の敗北であった。
 ポ宣言の受諾により主権もいったん没収され、米国を筆頭とする連合国の占領を受け入れなければならなかった。その結果、45年以降占領下での諸改革が開始される。本連載ではこうした連合国による占領を一種の革命ととらえるところから出発する。実際、占領下での憲法改正を伴う改革は、ゆうに革命と呼んでよい内容を伴っていた。
 特に焦点の憲法改正では天皇主権から国民主権への変更が実現された。この点で、明治憲法から昭和憲法への変移は通常の意味での「改憲」ではなく、旧憲法の廃棄と新憲法の制定という革命的なプロセスであった。そこで、明治憲法体制から昭和憲法体制への変革を画したポ宣言の受諾を一種の革命とみなそうという「8月革命説」という理論が、当時の有力な憲法学者であった宮沢俊義によって提唱された。
 だがこれは法学的なロジックにすぎず、ロジックとしても8月14日に革命が起きたと仮定するのは適切でない。ポ宣言は、日本に対して軍国主義勢力の排除と民主主義傾向の復活を要求してはいるが、体制変革については黙しており、ポ宣言受諾の時点では、どこまで体制の根幹にメスを入れられるか不明であった。天皇主権の変更にとどまらず、社会経済構造にまで及ぶ連合国側の根本的な体制変革の意思が明確になるのは、翌46年に入ってからのことであった。
 それまでまだ法的には存続していた大日本帝国の支配層主流は部分的な憲法改正と政策変更程度の手直しで容赦され、再出発できると高をくくっていたのだった。ただ、ポ宣言の受諾までに時間がかかり、その間に原爆投下を許したのは、戦前からの官僚主義的な「決められない政治」のゆえばかりではなく、「決められない理由」もあった。
 実際、ポ宣言の内容解釈をめぐり、体制変更の趣旨を含むのかどうかについての不安が支配層内部にあったことは事実である。すでに革命的介入の予感がしていた。実際、ポ宣言は間もなく開始される、支配層にとっては受け入れ難い占領=革命の序曲であった。

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戦後日本史(連載第1回)

2013-05-14 | 〆戦後日本史―「逆走」の70年―

序論

 1945年8月14日(ポツダム宣言受諾日)を起点とする戦後日本も70歳の古希に近づかんとしており、この歳月を「歴史」として振り返ることは不自然ではないだろう。
 もっとも、「歴史」と言った場合、少なくとも現時点から遡って四半世紀くらい過去までが厳密な意味での「歴史」となるのだろうが、本連載ではいわゆる同時代史に属する直近過去も含めて「歴史」とみなすことにする。
 そうした意味での戦後日本の歴史を、本連載は「逆走」というキーワードでとらえ返す。すなわち戦後日本はおおむね1950年(昭和25年)を起点として、あたかも高速道路をひたすらバックしていく車のように逆走を続けてきたと理解するのである。
 この点、つとに日本現代史の領域では、自衛隊の創設をはじめ、1950年代に次々と打たれた「戦後改革」の成果を反故にするような逆行的な「改革」を指して「逆コース」と呼ぶことが行われきたが、そうした「逆コース」は決して1950年代に固有の現象ではなくして、1950年を一応の起点としつつ、現時点に至るまで60年余りにわたって続いていることなのである。
 そうした「逆走」という視座で改めて戦後日本史の全体を振り返ってみると、その間の様々な事象の意味が読み解けるのではないか、というのが管見である。
 では、この二世代余りにわたる歴史的スパンを持つ「逆走」の行き先はどこなのであろうか。念のため予め述べておくと、それはしばしば想起される戦時中の軍国体制への回帰ではない。
 かの軍国体制はあくまでも20世紀前半における帝国主義的国際秩序の所産であって、世界の構造が大きく変化した現在あるいはその延長としての近未来にはもはや成立し難いものである。
 さしあたり現在の「逆走」の到達点は軍国体制そのものではなく、軍国体制を産み出す土壌ともなった権威主義的な国家社会体制ということになろう。それは天皇を戴く垂直的・権威的な社会管理体制であって、自由より秩序を、理性よりも心情を重視する保守的な社会体制である。
 戦後、連合国軍(実質は米国)の占領下で実行された諸改革は、こうした体制にかなり深くメスを入れるものではあったが、そこには理念的・方法的な限界が否めなかったことに加え、日本支配層はそうした外科手術的な改革を極力回避し、回避し難い場合でも極力抵抗して骨抜きにし、旧体制の実質を温存しようと努めたのである。
 そういう旧体制護持・回帰の意思は、実は今日に至るまで日本の政・財・官・学支配層に一貫した意思なのであって、それが60年にわたり世代をまたぐ「逆走」の理念的核となってきた。
 一方で、戦後の日本は「逆走」の開始と期を同じくして資本主義的経済成長を開始し、1970年代半ばまでに米国に次ぐ規模の生産力―大差はあれど―を誇る資本主義経済大国にのし上がった。
 こうした下部構造の「発展」もまた「逆走」の過程で生じた現象であって、結局のところ、戦後日本の「発展」とは単純に前進的な発展ではなく、後方へ向けてのねじれ発展という複雑かつ独異なものであったのである。

*****

 このような「逆走」はもちろん何の抵抗も受けずに粛々と進められたわけではなく、その開始の時点から強い抵抗に直面した。本文でも見ていくように、「逆走」は1960年以降、20年以上にわたりスピードダウンを余儀なくされたのである。
 しかし、おおむね1980年代半ば以降になると「逆走」に対する社会の抵抗力が目に見えて弱化し、むしろ多数派国民はこうした「逆走」を積極的に推進しようとする政権に喝采し、長期にわたって支持するようにさえなる。
 そこには、二度の石油ショックを経て1970年代後半以降日本経済が下降期に入り、生活苦が忍び寄る中で、日本支配層が「逆走」に「改革」の衣を着せて宣伝するようになったことが、有権者大衆に経済再生への幻惑を抱かせるようになったことが大きく関わっていると見られる。
 しかし、そればかりでなく、元来主流的な日本人の中に、濃淡の差はあれ、権威主義的な国家社会体制に対して親和的な価値観が根強く存在しており、それが1970年代後半以降の経済的下降の中で、再現前されてきているように見える。
 これを社会心理学的に掘り下げていけば、「権威主義的パーソナリティ」の問題に及ぶかもしれない。「権威主義的パーソナリティ」とは、強者の権威に対する無条件的な服従を受け入れるような社会的性格を指すが、主流的な日本人は上下関係を当然とし、上命下服を自然に受け入れる傾向性を保持している。こうした国民性は当然にも、権威主義的国家社会体制に対して親和的である。
 それはともかくとしても、本稿執筆時点では「逆走」を阻止できるような対抗勢力はほぼ皆無と言ってよい状況にある。従って、「逆走」を有効に食い止め、少なくともスピードダウンさせる手立ては存在しないというのが筆者の結論となる。
 そうすると、もう間もなくすれば「逆走」はその到達点、すなわち権威主義的な国家社会体制への回帰に行き着くだろう。その場合に懸念されることは、その体制は再び暴走を来たさないかどうかである。権威主義体制は批判を封殺するため、チェックが効かなくなり、暴走しがちだからである。
 この点、再び暴走して軍国体制が再現前するという悪夢の可能性を排除できることは、先に述べたとおりである。だからと言って安心し切れるわけではない。それではどんな事態が考えられるかについては、終章で現時点において看取され得る限りでの予兆を指摘したい。
 いずれにせよ、戦後世代が人口の大半を占めるに至った現在、戦後日本史は筆者を含めたほとんどの日本人にとっては〈自分史〉とも重なり合っている。従って、戦後世代はこの間の「逆走」の結果から逃れることはできないのである。
 そこで、「逆走」の歴史をどう受け止め、その流れに抗うか、それとも流れに乗るのか、一人ひとりが態度決定を迫られているのが現時点である。

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天皇の誕生(連載最終回)

2013-05-05 | 〆天皇の誕生―日本古代史異論―

エピローグ

 本連載では「国、皆王を称し、世世統を伝う」(『後漢書』倭国伝)という状況の中、朝鮮半島の加耶にルーツを持つ勢力が九州を経由して畿内に建てた一地域王権が、やがて百済系渡来人勢力に簒奪された後、曲折を経て全国的王朝に発展し、天皇制という独自の君主制を確立するまでのプロセスを順次追ってきた。
 最後に改めて総整理の意味を込め、天皇制確立までのプロセスをやや図式化して示してみることにしたい。


[一]地域王権時代(4世紀中頃‐477年頃)

 遅くとも4世紀前葉に九州北部へ渡来してきた加耶系移住民が東遷して畿内の在地諸勢力を糾合して建てた地域王権の時代。王権の構造は氏族連合体的なもので、王権は弱かった。
 この王朝は4世紀末から百済と修好するようになるが、5世紀に入ると高句麗対策の思惑から百済によって侯国化され、その統制を受けるようになった。461年には百済王弟・昆支が総督格で派遣されてくる。

[二]昆支朝創始・発展期(477年頃‐571年)

 475年、高句麗の侵攻を受けて百済王都・漢城が陥落した後の477年頃、昆支が本国百済の関与と支持基盤の河内閥(主として百済系渡来人勢力)の支援の下、クーデターで畿内王権の王位に就き、新王朝を開く(昆支朝)。倭国王昆支は「武」名義で中国の南朝宋に遣使した。
 昆支朝の王号は「大王」(和訓はオオキミ)で、旧加耶系王権時代の氏族連合体構造はいったん揚棄され、王権が強化された。昆支大王(応神天皇)の後、男弟大王(継体天皇)、クーデター(辛亥の変)を経て獲加多支鹵大王(欽明天皇)と三代約90年に及んだ王朝創始・発展期には支配領域が大幅に拡大され、部民制を軸とする大王中心の中央・地方支配体制が整備された。

[三]昆支朝衰退期(571年‐593年)

 昆支朝全盛期を作った王朝三代目・獲加多支鹵大王の40年に及ぶ治世の後、その皇子らの代になると、弱体かつ短命な大王が続き、獲加多支鹵大王代に百済から伝来した仏教の扱いをめぐって政権内で崇仏派と排仏派の抗争が発生し、王権の基盤が揺らぐ。
 そうした中で、昆支大王が百済から呼び寄せた豪族・木刕満致を祖とする崇仏派の蘇我氏の実権が強まり、王朝史上初の大王暗殺に発展、昆支朝は危機に陥る。

[四]蘇我朝時代(593年‐645年)

 崇峻大王を暗殺した蘇我馬子が自ら大王に即位して以来、孫の入鹿に至るまで蘇我氏が大王家として支配した時代。ただし、馬子は獲加多支鹵大王の娘で姪に当たる豊御食炊屋姫(正史上の推古天皇)との共治体制を取り、馬子の最有力後継者・善徳(正史上の聖徳太子)の没後、後継争いに勝利した蝦夷は大王位に就かず、全権大臣にとどまったので、単独で大王位に就いたのは孫の入鹿のみである。
 明確な簒奪王朝であった蘇我朝の王号は従来からの「大王」に加え、「天足彦」(馬子)、「君大朗」(入鹿)など一定せず、本格的な「蘇我王朝」はついに完成しなかったが、全盛期の馬子大王時代には仏教を国教とし、大陸中国(隋)との「対等」外交を樹立し、大陸的な冠位制度を導入するなど、永続的な効果を持った政策も展開された革新の時を画した。

[五]昆支朝復権期(645年‐671年)

 昆支朝正統王家のメンバーとその支持勢力が、強権的な暴君であった蘇我入鹿大王とその父・蝦夷を暗殺した乙巳の変を経て、軽皇子が大王に即位し(孝徳天皇)、昆支朝を復活させた(後昆支朝)。
 後昆支朝は二度と王権を簒奪されないため、強力な大王至上制の確立を目指し、部民制解体・公民制への移行、氏族特権の剥奪、律令制の導入などを打ち出した。また、君号として従来の「大王」よりも超越的な「天皇」(和訓はスメラミコト)を案出した。
 この昆支朝復権期の途中で、王朝ルーツであった百済が唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、倭によるレジスタンス支援も虚しく、百済は最終的に滅亡した。これを受けて、百済ルーツを離れた独自の国作りが目指され、天智天皇時代には新国号「日本」が用いられるようになった。

[六]天皇制確立期(672年‐701年)

 天智天皇死去後の後継者争いであった壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇后で後継者となった持統天皇によって、天皇の地位がイデオロギー的にも制度的にもいっそう強化され、「天皇制」として確立された時期。
 天皇は神の化身たる現御神となり、持統天皇の指導により天皇を中心とする国定の歴史・神話が創造された。持統時代には都城と律令も整備され、701年の大宝律令施行を経て、権威主義的な天皇制律令国家が姿を現した。


 このようにして誕生した律令の衣を纏った天皇は、やがてその制度的確立に尽力した藤原氏(その祖は4世紀初頭頃の加耶系渡来人)の摂関政治によって実権を奪われた後、上皇院政という形での短い復権期を経て、臣籍降下された皇族出身の武家平氏と源氏に相次いで実権を奪われる。
 その後、700年近くに及んだ武家支配下の長い斜陽の時代を耐え、明治維新による王政復古と近代憲法に根拠づけられた「近代的神権天皇制」という変則的な形での復権、そしてその体制下での帝国主義的君主を経て、敗戦に伴う政治的権能なき象徴天皇への転化と、時代ごとに役割・機能を変えつつ、天皇はなおも存在し続けている。
 このことを“連綿”と表現するならば、それは本家が完全に亡びた百済王家の分家が1500年以上にわたって倭国大王家→日本天皇家に姿を変えて“連綿”と続いていることを意味することになる。天皇家は姓を持たない日本で唯一の一族であるが、もし天皇家が姓を持つとすれば、それは旧百済王家と同じ「扶余」もしくは中国風一字名で「余」である。
 こうした天皇の誕生をめぐる歴史的深相を、日本人は、また韓国・朝鮮人はいかに受け止め得るであろうか━。これは本連載の主題を超えた「民族」という概念に関わる大きな問いかけである。(連載終了)

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実りある改憲論議を

2013-05-03 | 時評

今年の66回目の憲法記念日は例年とは異なる意味を帯びている。昨年末の総選挙の結果、衆議院ではすでに改憲派議席数が改憲発議に必要な三分の二を超えた。世論上も改憲賛成派がじわじわと増えており、来る参院選でも自民党圧勝の公算は高い。

そうすれば、安倍内閣が改憲の突破口として狙う憲法96条の改憲発議の要件を緩和するまでもなく、国会による改憲発議はいよいよ現実のものとなるだろう。現時点はもはや改憲前夜と言ってもよい。一方で、改憲反対論もなお根強い。

従来の日本の改憲論議の不幸は、今なお旧大日本帝国憲法(明治憲法)を範とし、改憲という名の憲法廃棄を主張するブルジョワ保守・反動勢力と、憲法テクストを一字一句とも変更してはならないとする絶対護憲派ブルジョワ・リベラル勢力の争いに終始してきたことにある。

しかし本来の改憲とは憲法廃棄ではなく、憲法の基本原理を発展・強化する方向での新条項の追加または文言の修正のことである。憲法の基本原理とは、国民主権・平和主義・基本的人権である。この三本柱の発展・強化、そのための改憲に道を開くのが96条である。

改憲派の中にも、96条の前に改正すべき憲法の内容を議論せよという主張が見られるが、内容はすでに憲法に書き込まれてある。あとはそれをいかに発展・強化するかだ。そういう観点からの実りある論議を望む。

ちなみに現状では蛇足になるが、仮に憲法廃棄を主張するなら、明治憲法への逆戻りではなく、所詮ブルジョワ憲法の域を出ない現行憲法を未来へ向けて乗り超えていくような方向での新憲法の制定を提起する方がオーソドックスである。

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