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近代革命の社会力学(連載第150回)

2020-09-30 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(4)第一次世界大戦から独立革命へ
 前回見たように、1906年のデンシャワイ事件は地方での偶発的な出来事とはいえ、イギリス支配下の近代エジプトにおける大きな転機となる。ムスタファ・カミルの創始した民族運動は、翌年、ワタニ党として政党化された。もっとも、同党は反英的であったが、革命的ではなく、基本的に立憲君主制を支持する穏健な政党として自己規定していた。
 とはいえ、1910年には、ワタニ党員が親英的とみなされた時のブトロス・ガリ首相を暗殺する大事件を起こすなど、ナショナリズムの先鋭化が進む中、第一次世界大戦を迎える。
 イギリスは、大戦渦中、エジプトに戒厳令を敷き、正式に保護領とすることを宣言した。これにより、エジプトは名目上のオスマン帝国領を脱し、名実ともにイギリスのものとなったが、それは戦時下で大量のエジプト人を生産動員、徴兵動員する狙いと結びついていた。
 こうしたイギリスの帝国主義むき出しのやり方は、それまで知識人層主導だった民族運動を階級横断的なものへと拡大させる契機となった。それに加え、大戦を通じて浮上してきた民族自決の原則も、エジプト人に独立への希求を強めることとなった。
 そうした中で、新たなナショナリズムの波動が生じてきた。ワタニ党は、創設者カミルが結党直後に急死したのに続き、カミルの跡を継いだ盟友モハンマド・ファリードも1919年に死去する不幸に見舞われ、とみに党勢が衰えていた。代わって台頭してきたのは、サアド・ザグルールが創設したワフド党である。
 ザグルールも、カミルと同様、近代法律家であり、イギリス支配下で教育相や法相も歴任した熟練政治家でもあった。党名のワフドは「代表」を意味するように、この党はナショナリストを統合し、エジプト人の代表組織となることを初めから志向していた。
 そうした政略の下、ワフド党はイギリスによるエジプト支配の終了とパリ講和会議にエジプト人代表団も出席させることを要求した。これに対し、イギリスは1919年3月、ザグルールらを逮捕し、マルタ島へ流刑に処する抑圧策に出た。
 これは、かつてのウラービ運動への対処を踏襲したものであるが、今度は成功しなかった。ウラービ運動当時とは異なり、皮肉にもイギリス支配下で教育やメディアが発達していたこともあり、エジプト社会各層が大同し、独立を求めるデモ行動が発生していたからである。それは、当時まだ新しい抗議手法であった市民的不服従の方法によっていた。
 ちなみに、ザグルールの妻サフィヤは、夫の流刑中、党を預かり、女性グループを組織してデモに参加するなど、イスラーム圏で活動が制約されがちな女性の革命参加の中心となった。
 ザグルールの流刑は、こうした社会総体の抗議行動を先鋭化させ、デモやゼネストから暴動にも発展していった。これに対し、イギリスは武力弾圧で応じつつ、ザグルールを釈放した。その結果、ワフド党代表団はパリ講和会議出席を果たすも、民族自決を列強植民地には適用しない連合国の方針に阻まれ、会議を通じて独立を勝ち取ることはできなかった。
 しかし、ワフド党は粘り強く運動を続け、イギリス当局はザグルール再逮捕・再流刑で抑圧を図るも、エジプト民衆の抗議行動を阻止することはできなかった。最終的に、1922年、イギリスはエジプト(スーダン領域を含む)におけるイギリス権益の護持を条件に、独立を認めたのである。
 この交渉はまだ流刑中だったザグルールとの協議を通じて進められ、ザグルールも翌23年になって釈放された。交渉成立までザグルールを釈放しなかったのはイギリス有利に事を進める狙いであり、実際、条件付き独立という妥協を引き出したのであった。
 こうして、ひとまず括弧つきながら、エジプトの「独立」はワフド党の運動と民衆革命の微妙な結合の中で達成されたことになる。一方、イギリスも譲歩せざるを得なかったのは、戦勝国側とはいえ、総力戦となり、国力を消耗する中、ウラービ運動当時のように軍事的な手段によりエジプト支配を完全な形で維持するだけの余力がなかったという事情による。

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近代革命の社会力学(連載第149回)

2020-09-28 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(3)ナショナリズムの再興まで
 「ウラービ運動」がイギリスの軍事介入によって挫折すると、イギリスのエジプト支配がかえって強まり、エジプトはムハンマド・アリー朝を傀儡化した実質上の植民地と化す。この間、イギリスから派遣されてきたイブリン・ベアリング総領事が、1907年まで事実上のエジプト統治者として支配した。
 結果として、エジプトにおけるナショナリズムの動きは、閉塞を余儀なくされた。一方、当時、エジプト支配下に置かれ、財政難に対処するべく、重税による収奪が強化されていたスーダンでは、逆の動きが見られた。
 ここでは、1881年以降、船大工の家に生まれたヌビア人の宗教指導者ムハンマド・アフマドが、イスラーム神秘思想に基づき、「マフディ(救世主)」を称し、エジプトからの武装解放運動に乗り出していた。
 マフディ軍団はゲリラ戦に長けており、イギリスの支援を受けたエジプト軍を破ったばかりか、1885年に中国の太平天国の乱の鎮圧で活躍したゴードン将軍に率いられたイギリス軍をも撃破し、スーダンに独自のイスラーム国家を樹立することに成功した。
 このスーダンにおけるマフディ国家樹立も、ある種の独立革命とみなすことができるものではあるが、その基本は厳格なコーラン解釈とジハード(聖戦)思想に基づくイスラーム原理主義体制であり、近代革命の系譜からは外れる反動的な性格が強いものではあったが、遠く20世紀後半のイラン革命の先駆けとも言える側面はあった。
 ムハンマド・アフマドは体制樹立後間もなく病死し、跡目は彼の有力な腹心の一人で、アラブ系遊牧民バッガーラ人のアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが継ぐ。そのため、これ以降のマフディ国家は、アラブ系主導の体制となる。
 アブダッラーヒ治下でさらに13年持続したマフディー国家は最終的に1898年、名将キッチナー将軍を擁し、エジプトを介したスーダン再征服を企てた英国に敗れ、崩壊した。翌1899年以降、スーダンは英国とエジプトの共同統治という形で、実質上は英国植民地の状態に置かれることとなった。
 ともあれ、10年以上にわたり事実上の独立を維持したマフディ国家は、エジプト側には直接の影響を及ぼさなかった。これは、同じイスラーム系とはいえ、ムハンマド・アリ―朝下で西洋近代化が進展していたエジプトでは、イスラーム原理主義的な思想が支配的となる素地がなかったためである。
 対照的に、エジプトでは、フランスで教育を受けた近代法律家ムスタファ・カミルが1895年以降、穏健な近代的民族運動を立ち上げた。この運動は都市ブルジョワ階級や時のエジプト君主アッバース・ヒルミー2世からも支持された。
 そうした中、1906年、鳩猟をめぐる英軍兵士と地元村民の間に起きた流血事件で英軍兵士を殺害した地元村民が死刑を含む厳罰に処せられたデンシャワイ事件は、英当局の苛烈さを印象付け、反英感情を高めた。結果として、翌年、イブリング総領事が本国帰還し、四半世紀近くに及んだイブリング支配を終わらせる契機ともなった。
 この事件はカミルの民族運動をより政治的なものに変え、1907年には正式にワタニ党(民族党)として旗揚げした。この党はエジプトにおける最初の近代政党であると同時に、第一次世界大戦前のエジプト民族運動のセンターとして象徴的な役割を果たすことになる。

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比較:影の警察国家(連載第15回)

2020-09-26 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐5:内務省系警察集合体

 諸国では警察を所管する中央官庁であることが多い内務省であるが、アメリカ合衆国内務省は、諸国の例と異なり、主として連邦管理下の土地に係る連邦省庁として構制されている。そのため、土地管理総局が主要部局であるが、関連上、公園管理や野生動植物保護、先住民行政等にも及ぶ総合官庁である。
 しかし、単なる事務官庁ではなく、内務省の主要部局や下部機関には各々分掌する分野で警察権を付与された法執行部門が配されており、全体として、内務省系の警察集合体を形成している。
 まず中心部局である土地管理総局(Bureau of Land Management:BLM)には、法執行・保安部が付属しており、ここには、現場の法執行に当たる武装レンジャー隊員と連邦土地関連法規違反事案の捜査・立件に当たる特別捜査官が配されている。言わば、「連邦土地警察」である。
 また国立公園管理庁の下には、合衆国公園警察(United States Park Police)がある。公園警察は初代ワシントン大統領が任命した公園監視官に由来する歴史の古い警察であり、現行態勢で発足したのも1919年と、100年以上の歴史を持つ。
 公園警察の要員は600人余と決して大規模ではないが、まさに警察としての階級や組織を持ち、海上にも及ぶ広大な国立公園内の治安警備に当たる任務から、海上部隊や航空部隊、さらには重武装のSWATチームまで擁する本格的な警察組織である。
 さらに、合衆国魚類野生生物庁(United States Fish and Wildlife Service)は、その名のとおり、野生動植物保護を専門とするが、内部に小規模ながら法執行部を擁し、野生動植物保護に関連する連邦法規違反事案を摘発する任務を持つ。
 インディアン事務総局(Bureau of Indian Affairs :BIA) は、1824年の設立以来、先住民の管理統制機関として機能してきた歴史の古い機関であり、現在では全米の先住民居留地の管理を担っている。中でも、司法業務部は居留地における治安・司法・矯正全般の管理部局であり、その重要な任務として、居留地内の警察組織の運営がある。

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比較:影の警察国家(連載第14回)

2020-09-25 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐4‐2:機能的政治警察機関の増強②

 アメリカにおける機能的政治警察機関の第二のグループとして、諜報機関がある。諜報機関は元来、情報工作活動が任務であり、犯罪の取り締まりを任務とする警察機関とは明確な一線を画してきた。しかし、この原則も9.11事件を機に大きく変化し、諜報機関が対テロ対策にも手を広げたことで、諜報機関の政治警察化が生じている。
 アメリカの諜報機関は、それ自体も多重的に林立しており、全体の統一が取りにくい欠陥があったところ、2004年の制度改革により、国家諜報長官職が新設され、同長官が分散する諜報機関を束ねる体制が構築された。
 それら諜報機関群の中でも、伝統的には1947年設立の中央諜報庁(Central Intelligence Agency:CIA)が、まさに中心的な役割を担ってきた。CIAはどの連邦省庁にも属さず、大統領が議長を務める国家安全保障会議が直轄する特殊機関である。
 CIAは法律により国内での工作活動を禁じられているが、ベトナム戦争の時代には、ジョンソン政権下、反戦運動へのソ連の浸透を調査する名目で国内での監視活動に乗り出し、これが次のニクソン政権下で、より広範な市民運動などへの監視活動にまで拡大されていった。これは、CIAが事実上の政治警察と化した最初の契機である。
 9.11事件とイラク戦争の時代になると、当時のブッシュ政権が諜報機関としてのCIAを軽視する一方で、テロ容疑者を海外の秘密施設に拘禁し、拷問を伴う尋問によりテロ組織の情報を引き出すという秘密作戦をCIAに課した。
 こうした作戦にはFBIも技術協力していたとされ、まさにCIAが法執行機関と連携しつつ、被疑者の拘束と尋問にも関与し、名実ともに政治警察と化した画期であった。
 ちなみに、拷問を伴う尋問は国防総省系の諜報機関である国防諜報庁(Defense Intelligence Agency:DIA)によっても用いられていたことが判明している。DIAは本来、軍事情報の収集・保全を目的に1961年にケネディ政権が設置した諜報機関であるが、イラク戦争に関連して権限を拡大し、CIAと同様の手法で尋問に関与していた。
 こうした拷問を伴う尋問やそれに使用される秘密施設については、2009年、オバマ大統領が就任早々に大統領令をもって禁止したが、法律上は禁止されておらず、オバマ大統領令でも、キューバ租借地上のグアンタナモ基地内の収容所だけは閉鎖されなかった。
 アメリカの諜報活動の大半は如上のDIAをはじめ、国防総省系の諜報機関が担っているが、中でも1952年設立の国家安全保障庁(National Security Agency:NSA)は、アメリカの連邦機関中でも機密性が最も強い機関の一つである。
 NSAは、人間のスパイを使ったヒューミント活動を主とするCIAに対し、電子機器を駆使したシギント活動を主とする点に特徴がある。そのため、盗聴や電子メールの盗取などの際どい手法を用いる。特にブッシュ政権下での法改正により、裁判所の令状に基づかない海外の電話・電子メールなどの盗聴・盗取が可能となったことで、権限が飛躍的に拡大された。
 こうした状況下で、2013年、NSAが米電話会社の通話記録を毎日大量収集し、大手IT企業各社の協力の下、米国市民のみならず、外国大使館や代表部、欧州連合、国連本部から外国首脳に至るまで盗聴・監視していたことが、元契約職員エドワード・スノーデンにより内部告発された。こうした活動は、NSAが諜報機関の枠を超え、国際的な規模で秘密警察と化していることを示している。
 こうした活動の根拠となっている外国諜報監視法は元来、ニクソン大統領が再選のために野党・民主党本部を盗聴させたウォーターゲート疑獄を機に、諜報活動を規制するために制定された法であったが、これが9.11事件、イラク戦争以後は、かえって諜報機関の権限を拡大する治安法規として機能していることが窺える。
 こうした法の変質は、テロ対策名目で多数の治安関連法規を一括して改正し、法執行機関や諜報機関の権限を拡大した米国愛国者法と通称される包括改正法(テロリズムの防圧のために適確な手段を提供することによりアメリカを統合し強化するための2001年法)の一環でもあり、これが影の警察国家化を法的な面で根拠づけている。
 なお、愛国者法は、上記のスノーデン告発を受けて、オバマ政権下の2015年、米国自由法の制定により大きく修正され、NSAによる大量の通話記録の収集は許されなくなり、また通信会社が保存する記録を取得するには裁判所の令状を要するなど、令状規制も強化されることになった。

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近代革命の社会力学(連載第148回)

2020-09-23 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(2)ウラービ運動とその挫折
 エジプトでは、1919年に始まる独立‐立憲革命に遡ること約40年の1881年‐82年、アフマド・ウラービ大佐に率いられた立憲未遂革命があった。軍内人事の平等要求に始まったこの革命は短期で挫折したが、エジプトにおける最初の立憲運動として、長期的な視野で見れば、1919年革命の遠い萌芽と言えるものであった。その意味で、ここから記述を始める。
 指導者の名を取り、「ウラービ運動」(または「ウラービ革命」)とも呼ばれるように、この立憲蜂起の主役はウラービであった。彼はムハンマド・アリー朝下で組織された近代エジプト軍のエリート将校で、開明的な第4代君主サイード・パシャと第5代イスマイール・パシャの代に、アラブ系としては異例の昇進を果たした。
 しかし、債権国として内政干渉にも及ぶようになっていたイギリスとフランスの策動によりイスマイールが廃位され、息子のタウフィーク・パシャが第6代君主となると、再びトルコ系優遇策が復活したことから、特に軍内では人事への不満がたまっていた。
 加えて、1870年代には、財政難から軍の大規模なリストラと縮小も断行された。そうした中で、アラブ系軍人のリーダーとなっていたウラービ大佐は、1881年1月、軍内人事の平等を求める嘆願書を提出した。しかし、当局は彼に反逆容疑をかけて逮捕した。これに対し、彼の配下の兵士らが決起してウラービを救出したうえ、宮殿を包囲し、ウラービの支持者による政権樹立を要求した。
 これを機に、翌年の2月にかけて、ウラービ派とタウフィークの間で攻防が続くが、この間にウラービの要求は次第に広がり、単なる軍内人事問題から、より広い立憲政治の確立、さらにイギリスやフランスの内政干渉の排除といった政治問題に及んでいた。
 このように、ウラービ運動は一気に立憲運動へと展開するのであるが、その背景には、この頃、ようやくエジプト人というまとまりでの民族意識が芽生え始め、彼の運動はアラブ系兵士から公務員、商店主、改革派宗教指導者といった幅広い階級に支持されたことがあった。
 1882年2月には、タウフィークの譲歩により、ウラービ大佐が実質的な宰相格の軍務大臣に任命され、事実上の「ウラービ内閣」が発足したが、ここに至って君主制廃止の構えをすら見せ始めたウラービに脅威を抱いたタウフィークと、ウラービが借款を破棄することを警戒する英仏の利害が一致して、イギリスの軍事介入を招いたのであった。
 82年9月、アレクサンドリアに上陸したイギリス軍は、貧弱なエジプト軍を難なく破って首都カイロに進撃、制圧し、ウラービ政権を崩壊させた。ウラービは逮捕され、死刑判決を受けるも、減刑され、セイロン島(現スリランカ)に流刑となった。
 こうして、ウラービ運動はイギリスの圧倒的軍事力の前に挫折したが、その要因として、彼の運動が政治的に十分組織されていなかったことがある。実際のところ、彼は1879年に民族主義政党を組織していたのだが、自身が軍籍を保っていたことや、議会制度の欠如のゆえ、政党としては発展しなかった。そして、遠くセイロンに流されたウラービ自身も、忘れられた存在となった。

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近代革命の社会力学(連載第147回)

2020-09-21 | 〆近代革命の社会力学

二十 エジプト独立‐立憲革命

(1)概観
 近代革命の歴史において、エジプトは興味深い事例を提供している。この国では、1881‐82年の失敗に終わった立憲革命に始まり、世紀をまたぎ、1919年‐23年の独立‐立憲革命、さらに1952年の共和革命と、おおむね30年乃至40年という間隔を置きながら、革命が段階的に進展していくという経過をたどった。
 エジプトも包含されるアフリカ大陸は、20世紀初頭までに、東部のエチオピアと西部のライベリア(誤称リベリア)を例外として、全域が西欧列強各国に分割され、植民地ないしはそれに準じた保護国名目で西欧に従属する状態になっていた。エジプトも例外ではなかったが、ここでは、奇妙な二重支配の状況下にあった。
 エジプトは16世紀以来、オスマン帝国の版図に入っていたが、ナポレオンによるエジプト遠征・占領が失敗に終わった後、帝国から派遣されてきたアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーがエジプト総督となり、オスマン帝国から事実上独立した王朝を形成した。
 ムハンマド・アリーはある種の啓蒙専制君主であり、事実上のエジプト君主の権限において、エジプトの近代化を強力に推進し、その政策は彼の子孫である歴代君主にも継承された。
 しかし、フランス軍を撃退する際にオスマン帝国に支援介入したイギリスの宗主的影響力、さらにはスエズ運河建設に寄与したフランスの経済的支配力も強まり、英仏の内政干渉が構造化されていった。
 一方、ムハンマド・アリー朝下でも、形式上はオスマン帝国版図であったため、トルコ人が優遇され、先住のアラブ人が劣遇される構造は変わらず、このことへのアラブ人の不満を背景に、アラブ系職業軍人であったアフマド・ウラービ大佐に指導された立憲蜂起が発生した。
 この蜂起はイギリスの軍事介入によって鎮圧され、イギリスはこれ以降、ムハンマド・アリー朝を統制する形で、エジプトを間接支配するようになる。こうして、形式上はオスマン帝国版図ながら、イギリスが実質支配するという変則的な二重の外国支配体制が成立する。
 このような複雑な状況を脱するには、やはり第一次世界大戦による地政学上の構造変化を利用しなければならなかった。大戦渦中、形式上の宗主国オスマン・トルコと争うことになったイギリスはエジプトを保護国化したが、このことはかえって大戦後、エジプト人のナショナリズムを刺激し、独立・立憲革命への道を整備したのである。
 もっとも、1919年‐23年の革命は共和革命まで進展せず、ムハンマド・アリー朝自体はなお温存されたため、エジプトにおける共和革命は第二次世界大戦を越えた1952年を待たねばならなかったし、ムハンマド・アリー朝を介したイギリスの影響力を完全に排除するのも、同様に共和革命後まで持ち越しであった。

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貨幣経済史黒書(連載第38回)

2020-09-20 | 〆貨幣経済史黒書

File37:投資の陥穽事件簿

 “Money begets money.”(貨幣は貨幣を産む)とも言われるように、貨幣は利殖によって殖やすことが可能である。利殖を目的とする投資という行為は、融資と並び、貨幣経済において古くから重要な機能を果たしている。しかし、そこには大小様々な罠が潜んでもいる。
 中でも、俗に「ねずみ講」(無限連鎖講)と呼ばれる利殖スキームは、その俗称のとおり、会員組織を立ち上げ、金銭を支払って加入した人が、さらに二人以上の加入者を紹介し、その結果、出費額を超える金銭を後で配当金として受け取ることを繰り返すことで、多産のねずみの如くに利殖していく仕組みである。
 まさしく貨幣が貨幣を産むこのようなスキームが原理どおりに運用されていくなら、無限に会員が増殖することにより、配当金も累積していくはずであるが、会員が無限に増えることはそもそもあり得ず、いずれかの時点で破綻し、会員組織を立ち上げた原初会員あるいはグループだけが配当金を懐に入れる結果となる。
 このような利殖スキームの発祥地は、やはり貨幣経済の王国アメリカと見られ、ピラミッド状の会員組織の形態から、かの国では「ピラミッド・スキーム」と呼ばれている。
 このようなスキームはある種の投資詐欺であり、大がかりな組織が破綻したときには、社会問題となる。その点、日本では1970年代の天下一家の会事件が最大規模である。1980年に破綻したこの事件では、被害者数100万人超、被害額2000億円近くに上り、無限連鎖講を禁ずる法律が制定される契機ともなった。
 創立者の内村健一は所得税法違反で有罪判決を受けたが、詐欺罪に問われることはなく、総額でも70億円余りにとどまった配当の完了は破綻から25年を経た2005年まで要している。
 さらに、ねずみ講が政治的な騒擾をさえ招いた異例として、1997年に破綻した東欧アルバニアにおけるねずみ講事件がある。この時代のアルバニアは革命により社会主義体制から資本主義体制へと急激に移行する過程で、事実上政府黙認のねずみ講会社が多数現れた。
 それは武器の密輸等の闇取引による利益を配当原資とし、地下経済ともリンクした大がかりなねずみ講スキームであり、国民の三人に一人が参加するという国民総ぐるみのねずみ講という異例の狂奔が発生した。
 しかし、このような国民総ねずみ講は、当然ながら数年で破綻し、多くの国民が被害を被った。これを契機に、政府のねずみ講加担に怒った市民の抗議行動が暴動に発展し、治安部隊との衝突で数千人の死者を出す事態となった。
 日本とアルバニアという時代も場所も離れた二つのねずみ講事件は、いずれも資本主義経済の発展期ないし創成期におけるマネー・ブームを背景に、庶民が少額の手元資金を元手に利殖しようという欲望を募らせたことに付け込まれたという点で共通性がある。
 ねずみ講はピラミッド状の階層的な会員システムによって運用されるが、これに対して、会員システムによらず個別に募集した出資金を運用せずに、新規の出資者から集めた資金を在来の出資者に配当金として回すようなスキームもある。これは、繁栄の1920年代アメリカでこうしたスキームによる詐欺を働いたチャールズ・ポンジにちなんで、「ポンジ・スキーム」と呼ばれる。
 しかし、ポンジを超えるポンジ・スキームで長年にわたり詐欺を働いていた人物が、バーナード・マドフである。NASDAQの創設に寄与し、NASDAQ会長を務めたこともあるこの人物は、1960年代から投資運用会社を経営し、著名人や内外の有力金融機関をさえ顧客に抱えていたが、その内実は10%を上回る高利回りを謳って投資家から資金を集めながら、実際には市場で運用せずに投資家への配当に回すだけの典型的なポンジ・スキームであった。
 この事件は、サブプライム危機、リーマンショックの際に、顧客から出資金の償還を請求されたことで発覚したのであるが、被害金額は650億ドル(約7兆4000億円)とも言われ、米国史上最大規模の詐欺事件に数えられている。
 これらの事件はその規模の大きさゆえに名を残しているが、より小規模な投資詐欺事件は枚挙にいとまがない。そして、すべてに共通するのは、被害額の弁償はほとんど、あるいは一部しかなされないということである。なぜなら、各スキームが破綻した時には、運営者の手持資金も底をついているからである。

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比較:影の警察国家(連載第13回)

2020-09-18 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐4‐1:機能的政治警察機関の増強①

 建国以来「自由」を国是としてきたアメリカ合衆国には、ナチスドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)やソ連のKGB(国家保安委員会)のように、政治的抑圧を主目的とする政治警察に正面から分類できる連邦機関は存在していない。
 しかし、機能的に政治警察として稼働する連邦機関群は見られ、これら機関は9.11事件以来、テロ対策が政権をまたいだ新たな国是となるにつれ、権限を増強し、影の警察国家の形成に大きく寄与していることも事実である。
 そうした機能的政治警察機関のグループに含まれる連邦機関も、連邦警察集合体の各系統ごとに、司法省系と国土保安省系、国防総省系、その他系に分岐している。
 司法省系のものとしては、連邦捜査総局(FBI)の部門である国家保安部(National Security Branch:NSB)が中核機関である。この部門が現行態勢で発足したのは、まさに9.11事件を受けた2005年のことであるが、前身部門は、ロシア革命後、主として共産主義者摘発のために設置された過激派対策課に遡る。
 この部署は、その後、幾度も改廃と改称を繰り返した後、FBI生みの親であるエドガー・フーバー長官の「独裁」時代には、総合諜報課(General Intelligence Division)として、歴代大統領にさえも睨みを利かせたフーバー長官の個人的な懐刀ともなり、まさに政治警察として機能した。
 しかし、フーバーの死後、FBIによる不法な情報収集活動などの権力乱用が明るみに出て、組織は再編されたが、廃止とはならず、90年代には防諜担当の諜報課(Intelligence Division)と政治警察相当の国家保安課(National Security Division)に分割された末、防諜任務を取り込む形で後者を増強して現在態勢に再編されている。
 司法省系以外の機能的政治警察で比較的知られていないものとして、外交を担当する国務省に属する合衆国外交保安庁(United States Diplomatic Security Service:DSS)がある。これは国務省が管轄する連邦警察機関であり、直接には国務省外交保安総局(Bureau of Diplomatic Security )に属する。
 現行態勢で発足したのは1983年におけるベイルートでの米大使館及び海兵隊兵舎爆破事件を受けた1985年のことだが、その前身は第一次世界大戦時の1916年に設置された秘密諜報総局(Bureau of Secret Intelligence)に遡る。この機関は、第二次世界大戦を機に中央諜報庁(CIA)が創設されるまでは、アメリカにおける主要な対外防諜機関として機能した。
 しかし、その役割をCIAに譲ってからは、国務省所属の警察機関として特化され、外交官の身辺警護、在外公館の警備、在外米国人の保護、各国外交安全保障情報の収集と防諜、対テロ対策、旅券・査証発給を中心とする外務行政に関連する連邦犯罪の捜査等を総合的に所掌する、言わば「外交警察」として特化された。
 2500人以上の要員を擁し、外交官の警護や在外公館の警備といった警備警察の機能とともに、国外での情報収集・防諜、旅券・査証犯罪や国際テロの捜査権限を広範に併せ持つ点で、DSSは如上のNSB以上に強力な機能的政治警察機関とも言える。実際、DSSの特別捜査官は、外務職員としての身分と捜査官としての身分を併せ持つ特権的存在である。
 かくして、現行態勢下におけるDSSは、防諜分野で一部権限が重複しながらも、対内的な機能的政治警察(国内公安警察)たる如上のNSBに対して、対外的な機能的政治警察(外事警察)の役割を担う機能的政治警察の両輪を構成していると言える。

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近代革命の社会力学(連載第146回)

2020-09-15 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(4)ソヴィエト共和国の挫折と反革命
  ハンガリー・ソヴィエト共和国の革命統治評議会議長には社会民主党幹部のガルバイ・シャンドルが就いたが、彼は表の顔にすぎず、指導的な実権は外交人民委員(外相)に就任したクン・ベーラが握っていた。
 クンがあえて外務担当職に就きつつ、実質的な指導者となったことには理由があった。それはソ連のレーニン政権と密接な連絡関係を保つことである。実際、レーニンはクン政権を衛星国家として扱っており、その第一歩として社会民主党を政権から排除するよう指示している。
 ハンガリーのソヴィエト革命は、前回見たように、社民党と共産党の合併をベースに成功したにもかかわらず、クンはレーニンの指示に従い、表の顔役のガルバイを除く社民党出身の政権要人を次々と追放し、独裁体制を固めた。
 このようにして展開されたクンのソヴィエト共和国の基本は、ボリシェヴィキからの引き写しとしての「プロレタリアート独裁」であったが、権力基盤の弱さを補うため、徹底した抑圧政策が敷かれた。そのために、「レーニン少年隊」なる青少年民兵組織を使った「赤色テロ」が断行された。
 こうした粗野な強権統治の一方、ルカーチ・ジェルジュのような哲学者を教育人民委員(教育相)に起用して、普通教育の整備や労働者大学、文化施設の民衆開放などの民主的教育・文化政策も追求した。
 経済政策の柱は産業の国営化や農地の国有化であったが、そのプロセスはロシア革命よりも急激であった。そのような急進政策を可能とした要因として、ハンガリーには大規模な反革命勢力が存在せず、内戦に陥らなかったことがある。
 国防に関しては独立革命後に喪失した領土の回復が大きな課題であり、ここに政権の命運がかかっていた。とはいえ、ソヴィエト共和国がにわか仕立てで組織した赤軍はまだ弱体であった。
 そのため、まずはドイツとの交通路を遮断していた北部の新生国家チェコスロヴァキアへの攻勢をかけた。ハンガリー以上に軍が弱体なチェコスロヴァキアへ向けたこの作戦は成功し、スロヴァキアの領域に傀儡国家としてスロヴァキア・ソヴィエト共和国を樹立させた。
 続いて、東部トランシルヴァニアのルーマニア占領軍を駆逐するべく、赤軍を差し向けたが、弱体なチェコスロヴァキア軍と異なり、ルーマニア軍には太刀打ちできなかった。期待されたソ連からの軍事的支援は、ソ連側の内戦により得られなかった。
 その結果、ハンガリー赤軍は1919年7月末までには敗北し、8月以降、進撃攻勢に出たルーマニア軍により首都ブダペストを占領され、ソヴィエト共和国はあっけなく転覆されたのである。クンは亡命し、ソヴィエト共和国は5か月に満たない命脈に終わった。
 一方、保守派の立場からルーマニア軍の占領に抵抗したのは、二重帝国時代の海軍軍人ホルティ・ミクロ―シュであった。彼はにわかにハンガリー国民軍を組織し、ルーマニア占領軍と対峙した。これに対して、ソヴィエト政権を打倒して一応目的を達したルーマニアは不戦撤退し、その後にブダペストを制圧した国民軍により、共産主義者を排除する白色テロが断行された。
 最終的には、1920年の国民投票の結果、共和制を廃して立憲君主制へ移行したが、ハプスブルグ王家の復活に反対する大戦連合国やルーマニアの干渉により、君主不在の君主制という変則体制の下、ホルティが「摂政」という地位で権威主義独裁政治を展開することとなった。
 かくして、ハンガリーのソヴィエト革命は前年のフィンランド未遂革命のような内発的な反革命ではなく、外国からの侵略によって挫折させられるという経過をたどった。いずれも、自力で革命体制を維持できる段階に達していなかったからであった。

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近代革命の社会力学(連載第145回)

2020-09-14 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(3)ハンガリー共産党とソヴィエト革命
 独立革命の結果成立した第一共和国が内外政策ともに行き詰まる中、ハンガリーでは共産党が急伸していた。ハンガリーの共産党は、ロシアやドイツのそれとは異なり、社会民主主義政党からの分派ではなく、先行の社会民主主義政党とは別個独自に成立したことを特徴とした。
 ハンガリー共産党は、オーストリア革命渦中の1918年11月、モスクワで結党された外国生まれの党という点でも特異であった。結党の中心にいたのは、ジャーナリストのクン・ベーラであった。
 クンは二重帝国時代の帝国軍に従軍し、ロシアで捕虜となった際、革命を現地で体験する中でボリシェヴキに感化され、最初期のロシア内戦にも参加した人物である。彼はモスクワでハンガリー共産党を結党し、独立革命後のハンガリーに帰国して本格的に活動を開始した。
 レーニン的なカリスマ性と組織力、それにジャーナリストとしての筆力も備えたクンの指導により、外国生まれのマイナー政党にすぎなかった共産党は、たちまちブーム的な急伸を見せたのだった。
 クンは、機関誌を通じて当時のカーロイ政権やその最大支持基盤となっていた穏健派の社会民主党を労働者階級の敵と見立たて、攻撃した。これに対し、カーロイ政権は当初、共産党を危険視し、党員の検挙と機関誌の発禁、党本部の閉鎖という弾圧措置で応じたが、この強権策は裏目に出て大衆の反発を招いたため、すぐに緩和した。しかし、この融和策は自らの政治生命を縮めた。
 この頃、社民党内には共産党が浸透しており、多数の党員が共産党に傾斜していた。そうした状況下で、党指導部は水面下でクンら獄中の共産党と連絡し、連立政権の形成を目指した。これに対し、クンはさらに進んで両党の合同を提案し、ここにある種の密約が成立した。
 一方、カーロイ大統領としては、共産党を排除しつつ、70万党員を抱える社民党単独の内閣を発足させて急場をしのごうとの考えで、首相の退陣を発表した。このタイミングを利用する形で、1919年3月21日、社民党と共産党は決起し、新たにハンガリー・ソヴィエト共和国の樹立を宣言、同時に、両党が合併してハンガリー社会主義者党を結党することも発表された。
 これにより、カーロイ大統領は辞職し、社会主義者党単独での革命統治評議会が発足した。この政変は独立革命に続くソヴィエト革命と言えるもので、新たな正式国名・ハンガリー社会主義連邦ソビエト共和国は、明らかにソ連との密接な連携・同盟関係を意識したものであった。
 こうして、ハンガリーでは第一段階の独立革命から半年もしないうちに第二段階の社会主義革命へと急転したのであるが、このような経過は、カーロイ政権の脆弱さに加え、共産党指導者クンの個人的なカリスマ性に依存しており、実際のところ、革命の土台は未成熟のまま、早すぎた革命であった。

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続・持続可能的計画経済論(連載第20回)

2020-09-13 | 〆続・持続可能的計画経済論

第2部 持続可能的経済計画の過程

第4章 計画化の時間的・空間的枠組み

(1)総説
 計画経済全般について言えることであるが、計画経済の過程には、時間と空間二つの次元がある。時間的次元とは、具体的な計画の及ぶ時間的範囲である。その点、旧ソ連型の経済計画では5か年を標準としていたが、持続可能的計画経済では3か年を標準とする。
 このような計画化の時間的枠組を何年と定めるかについて絶対的な定式はないが、持続可能的計画経済の時間的枠組みを3か年と比較的短期に設定するのは、地球環境の状態という可変的な自然現象の予測を前提とするため、3年を越える中長期的な計画化よりも、比較的短期的な計画化のほうが適していると考えられるからである。
 この計画化の時間的枠組みは、一度決定されれば、原則的に以後も踏襲され、各次計画ごとに変えられるものではない。仮に3か年の時間的枠組みをより長期に変更するのであれば、それは相応の合理的な根拠に基づき、実行されなければならない。(逆に、3か年未満の短期に変更すると、計画化の時間的枠組みとしては窮屈になり、事実上計画としての意義を失う恐れがある。)
 なお、計画期間の経過中に、地球環境予測の修正や予期していなかった災害の発生等により、各次計画の内容を一部変更することは、計画化の時間的枠組みの修正とは異なり、適宜認められる。
 以上に対して、計画化の空間的枠組みとは、どの圏域で経済計画が策定されるかという問題である。計画化の地理的範囲と言い換えることもできる。その点、旧ソ連型経済計画は一つの主権国家を空間的枠組みとしていたが、持続可能的経済計画は世界共同体‐領域圏‐領域圏内広域圏という三つの空間に重層的に及ぶ。
 この三つの空間的枠組みは完全に対等ではなく、世界共同体における世界経済計画が地球全域をカバーする上限枠(=キャップ)としての役割を持ち、その範囲内での割り当て枠(=クウォータ)として領域圏経済計画が機能する。
 領域圏内広域圏の経済計画は専ら消費に関わる計画であり、領域圏経済計画の消費部門としての意義を持つ。これは旧ソ連における計画経済の改革策として試行された「計画の地方分権化」とは異なり、そもそもの計画化の構造として組み込まれた機能的分化である。

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比較:影の警察国家(連載第12回)

2020-09-11 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐3:国防総省の警察機能

 アメリカの連邦警察集合体の中核は前回まで見てきた司法省と国土保安省の所管機関に集中しているが、国防総省が所管する軍内警察機関もかなり大規模かつ強力である。
 軍内警察機関と言えば、軍隊内の法秩序の維持や警備などに当たる伝統的な憲兵隊があり、アメリカ軍においても、名称は各々若干異なるが、陸・海・空軍と海兵隊、さらに戦時下で軍として活動する沿岸警備隊それぞれの軍種ごとに憲兵組織が置かれている。
 しかし、アメリカの特色は、こうした憲兵組織に加えて、陸・海・空軍それぞれに独自の犯罪捜査機関が置かれていることである。これらも名称は各々異なるが、基本的には同等の性格を持つ機関である。
 中でも最も大規模かつ歴史が古いのは、1948年発足の合衆国空軍特別捜査局(U.S. Air Force Office of Special Investigations:AFOSI)であり、およそ3000人の要員を擁する。任務は空軍内の犯罪捜査であるが、特に空軍絡みの経済犯罪の捜査に重点を置いていることが特徴である。また、近年は、防衛サイバー犯罪センター部を運営し、防衛絡みのサイバー犯罪の取り締まりの中核機関となっている。
 これに次ぐ規模を持つのが、海軍犯罪捜査庁(Naval Criminal Investigative Service:NCIS)である。前身組織は19世紀の設立ながら、現行組織での発足は1992年と新しいが、約2500人の職員を擁し、そのうち1200人余りが特別捜査官である。しかも、大半の職員が文民の身分を持つ準文民機関であるという点で、事実上は海軍から独立した警察機関とも言える。
 NCISの任務は海軍及び独自捜査機関を持たない海兵隊に関わる連邦犯罪の捜査と海軍関連施設の警備に限定されるが、その範囲内ならば、連邦法違反事案を広く管轄し、全世界で捜査活動を展開する権限を持つ。そうした点では、FBIをはじめとする連邦の文民捜査機関に匹敵する役割を持つ。
 1971年に発足した合衆国陸軍犯罪捜査司令部(United States Army Criminal Investigation Division Command:USACIDC))は、如上の二機関よりもやや小規模である。権限の点でも、USACIDCは陸軍内の軍法違反及び重大な連邦法違反事案の捜査を担当するが、直接に立件することなく、捜査結果を他の適切な部署へ送致する調整的な役割に限定されている。
 なお、国防総省系機関として、国家安全保障庁(NSA)のような諜報機関も、対テロ対策の拡大に伴い、公安警察に近い機能を果たすようになっているが、これについては、節を改めて後述する。

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近代革命の社会力学(連載第144回)

2020-09-09 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(2)独立革命:アスター革命
 ハンガリー革命の第一段階を成す独立革命は、オーストリア‐ハンガリー帝国の解体過程の決定的な一幕を成す事象であった。ほぼ同時に、帝国支配下にあったチェコスロヴァキアも独立宣言をしているが、ハンガリーは同君連合の主要な相方でもあったから、ハンガリーの離脱は帝国の崩壊を決定づけたのだった。
 この独立革命は、1918年10月25日に結成された国民評議会(以下、単に評議会という)をベースとして実行された。評議会は、ハンガリー社会民主党に、リベラルな貴族カーロイ・ミハーイ伯爵のグループ、さらにブルジョワ急進派の三党派の連合として成立した。
 評議会は、当面の要求事項として、即時終戦と帝国からの独立に加え、少数派の権利、農地改革、言論・集会の自由、普通選挙制度など12項目を提示したが、これはおおむねブルジョワ民主主義のマニフェストと言ってよかった。
 評議会はたちまちハンガリー市民の支持を受け、抗議デモに進展した。10月31日、復員したハンガリー軍の兵士の参加も得たデモ隊が首都ブダペストの主要庁舎を占拠したことで、革命は頂点に達した。
 ハンガリー王を兼ねる皇帝カール1世は、カーロイ伯爵を首相に任命し、鎮静化を図った。そして、11月13日には、カールがオーストリアに続き、ハンガリー統治からも手を引くことを声明したのを受け、16日にハンガリー人民共和国(第一共和国)が成立、カーロイが臨時大統領に就任した。
 この独立革命の渦中では、保守派のイシュトヴァーン元首相が暗殺されており、文字通りの無血革命とはいかなかったが、ほぼ無血のうちに成功した。デモ隊が帽子にさし、革命のシンボルとなったアスターの花にちなみ、「アスター革命」と美称されることにも、そうした含意がある。
 こうして成立したハンガリー第一共和国であるが、直ちに難題に直面した。特に、アメリカのウィルソン大統領の要求に応じて、二重帝国時代の王立ハンガリー軍を武装解除し、完全な丸腰状態となっていたため、トランシルヴァニア地方の併合を狙う隣国ルーマニアの侵攻や、同時期に独立したばかりのチェコスロヴァキアによる北部占領に対抗できず、革命前の領域の75パーセントを喪失するありさまであった。
 このような亡国危機の状況は、当然にも経済の崩壊を招いた。とりわけ、北部を新生チェコスロヴァキアによって切り取られたことで、ドイツからの石炭輸入が停止し、冬の燃料の欠乏を来したほか、道路網の寸断は産業の機能停止を結果した。
 貴族出自のカーロイは平和主義者であったが、内外政策ともに実務的な手腕に欠けており、転換期のハンガリーを率いるには力不足であった。他方で、退位を明言しないままスイスに出国したカール1世は、ハンガリー国王としての復帰を狙っており、第一共和国の行方は極度に流動的であった。

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近代革命の社会力学(連載第143回)

2020-09-07 | 〆近代革命の社会力学

十九ノ二 ハンガリー革命

(1)概観
 1918‐19年のハンガリー革命は、同君連合の二重帝国を形成していたオーストリア‐ハンガリー帝国が解体していく過程で、共時的に発生したものであるので、前回まで見たオーストリア革命と密接に連関しており、オーストリア革命の副産物と言える事象である。しかし、同時にオーストリア革命とは異なる経過もたどっており、固有の事象でもあるという微妙な関係にある。
 ハンガリー革命がオーストリア革命と異なった点として、明確な二段階的経過をたどったことがある。すなわち、第一段階は二重帝国からの離脱・独立を導いた独立革命であり、引き続いて、共産党による二次革命が継起する。
 このような経過をたどった要因として、オーストリアでは弱小集団にすぎなかった共産党がハンガリーでは強力だったことがある。特に、その指導者クン・ベーラがロシアのレーニンを思わせるカリスマ性を有していたことが共産党の台頭を促した。
 他方、第一段階の独立革命を主導したのは、オーストリアとは異なり、社会民主党とリベラル貴族、ブルジョワ急進派の連合勢力であったが、独立革命の結果、成立したハンガリー第一共和国は国際的な承認が得られなかったうえ、指導者となったカーロイ・ミハーイには転換期の指導力が欠けていた。
 その結果として、共産党が支持を伸ばし、あっけなく二次革命が成功するが、その結果、成立したハンガリー・ソヴィエト共和国は、レーニンのボリシェヴィキ体制を範としていながら、内戦中だったレーニン政権からは同盟と援助を得られなかった。
 このことは、二重帝国解体の過程で独立したチェコスロヴァキアや、革命に乗じてルーマニア系住民の多い東部トランシルヴァニア地方を占領していた隣国ルーマニアとの間で国境紛争が先鋭化し、複雑な情勢下に置かれていたハンガリー・ソヴィエト共和国の命運を左右し、最終的に、ルーマニアの侵攻・軍事介入によって転覆される結果に終わった。
 このように、革命体制が内戦に忙殺されるボリシェヴィキに見捨てられた経過は、前年のフィンランド未遂革命で現れたフィンランド社会主義労働者共和国と同様である。ただ、フィンランドでは国内の反革命勢力の反撃力が強く、労働者共和国は実効支配自体を確立できずに終わったのに対し、ハンガリーのソヴィエト共和国は5か月に満たないながらも、実効支配を示したのであった。

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比較:影の警察国家(連載第11回)

2020-09-05 | 〆比較:影の警察国家

Ⅰ アメリカ―分権型多重警察国家

1‐2‐4:沿岸警備隊と運輸保安庁

 国土保安省系の連邦警察機関の中でも公共交通の保安に関わるものとして、合衆国沿岸警備隊(United States Coast Guard)と運輸保安庁(Transportation Security Administration)がある。
 沿岸警備隊は、言わば海の警察であり、公海及び合衆国の管轄が及ぶ水域上、水面下及び上空における連邦法の執行又はその支援を最大任務とする組織である。
 この組織は警察機関であるとともに、戦時には海軍に編入されて軍としても機能する二重の性格を持つ特殊な機関である。そのために、組織は軍に準じた階級制のもとに統制されている。さらに、装備に関しても、軍に準じている。
 元来は税関監視艇部を前身とすることから、財務省の下にあったが、海上警察として発展するにつれ、運輸省の創設とともに運輸省管轄に移管され、さらに国土保安省の新設に伴い、同省に再移管されるという転々を経ている。
 国土保安省系の機関となってからは、海上におけるテロリズム対策が重要な任務となり、海上保安部隊や海上治即応部隊など、重装備の特殊部隊を擁するようになり、軍隊化がいっそう進行している。これも、警察の準軍事化という大きな流れの一環と言えるであろう。
 一方、運輸保安庁は国土保安省の設置に伴って新設された全く新しい機関である。その任務は海上交通を除く公共交通全般の監督・保安にある総合的な機関であるが、中でも9.11事件で課題となった空港警備を含む航空保安業務が最大の中心を占める。
 アメリカにおける航空保安業務は、従来から存在した機内警察業務を担う航空保安官を除けば、基本的に航空会社が独自に、または協調的に行うことが伝統であったが、9.11事件がこの伝統を大きく変えさせた。その結果、言わば空の警察として、運輸保安庁が新設されることとなったのである。
 これに伴い、前出の航空保安官も3000人規模まで大幅に増員されたうえ、その統括機関としての連邦航空保安官局も運輸保安庁の管轄下に移され、同庁の中心的な法執行部門となった。
 こうして、公共交通に関わる保安業務全般が運輸省から国土保安省へ移管されたことは、単なる技術的な行政改革・省庁再編を越えた影の警察国家化の一つの兆表である。

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