ブラジルのリオデジャネイロで開催されていた「国連持続可能的開発会議」(リオ+20)がほぼ無内容のうちに終幕したことは、ちょうど20年前、同じリオで開催された「国連環境開発会議」(地球環境サミット)から華々しく打ち出された「持続可能性」テーゼの終幕をも意味する。
会議で謳われた「環境保護と経済成長の両立」(グリーン経済)なるお題目は、生態学的持続可能性を資本主義的成長の前に譲歩させることにほかならない。
それは言いすぎだと思われるかもしれない。しかし持続可能性と資本主義は本質的に水と油の関係なのである。
元来資本主義は資本蓄積を自己目的とする「量の経済」であるから、生産量に歯止めをかけられたり、コストのかかる生産方法を強制されたりするような規制は、どんな名目があろうともお断りなのだ。温室効果ガス削減義務を定める京都議定書も宙に浮き、議定書に名誉ある京都の名を刻んだ日本も延長に消極的であることはそのことの現れである。
また「量の経済」は当然に「高エネルギー経済」でもあるから、原子力発電のような効率的発電手段も本質的に手放せない。世界に衝撃を与えたフクシマ大事故の後であるにもかかわらず、リオ+20でも「脱原発」はテーマにならなかったゆえんである。
ちょうどリオ+20の直前にメキシコで開催されたG20の首脳宣言でも「持続可能な成長」が謳われたが、ここで言う「持続可能」とは資本主義的経済成長の持続性、すなわち正確には「持続的経済成長」のことを言っている。こういう発想では当然、「量の経済」の象徴的指標であるGDPに代わり、持続可能性を盛り込んだ新たな経済指標も提起できるはずはない。
「持続可能性」テーゼを真に実現するには、「量の経済」から「質の経済」への弁証法的転換が必須である。それは資本主義的生産様式そのものを見直すことである。
昨今、「エコロジー」について語る人々は多いが、その大半は無邪気に持続可能性と資本主義の両立可能性を信じている。そういう人たちは持続可能性をめぐる国際会議の低調・失敗を政治家や企業家の怠慢といった主観的要因で説明したがる。しかし問題の根本は生産様式という客観的要因にあることを、リオからリオへ一巡した今、ここで再認識したい。