ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

世界共同体憲章試案(連載第17回)

2019-11-29 | 〆世界共同体憲章試案

〈表決〉

【第60条】

1.平和理事会の理事領域圏及び副理事領域圏は、一個の投票権を有する。

2.平和理事会の決定は、理事領域圏の三分の二以上かつ副理事領域圏の過半数の賛成投票によって行われる。

3.緊急性の高い案件に関する平和理事会の決定は、理事領域圏及び副理事領域圏を通じた過半数の賛成投票によって行われる。この場合における緊急性の有無に関する判断は、理事領域圏の三分の二以上によって決する。

4.紛争案件において、紛争当事者と認定された領域圏は、その紛争に関する平和理事会の決定に際しては棄権しなければならない。紛争当事者の認定については、第2項の規定を適用する。

5.手続事項に関する平和理事会の決定は、理事領域圏及び副理事領域圏を通じた三分の二以上の賛成投票によって行われる。

[注釈]
 平和理事会では、理事・副理事を問わず、構成領域圏は対等に一個の投票権を持つが、その決定に関しては、原則として理事領域圏に優位性が与えられる。例外は、緊急性の高い案件と手続事項に関する案件である。

〈手続〉

【第61条】

1.平和理事会は、随時任務を行うことができるように組織する。そのために、理事領域圏及び副理事領域圏は、この理事会の所在地に常に代表者を置かなければならない。

2.平和理事会は、必要に応じて会議を開く。その招集は、総会または汎域圏全権代表者会議もしくは理事領域圏の一つがこれを行う。

3.平和理事会は、その所在地で会合することが困難な場合は、その任務の遂行を最も容易にすると認める所在地以外の場所で、会議を開くことができる。その決定については、前条第3項の規定を適用する。

[注釈] 
 平和理事会は、世界共同体の常設機関ではあるが、恒久平和の保障機関として、問題発生に応じて随時任務を行うアドホックな機動的活動体制を取る。そのために他の理事会とは異なる手続規定を持つ。

【第62条】

1.平和理事会は、理事領域圏の中から、抽選により議長を選出する。その他の手続規則は、理事会がこれを採択する。

2.平和理事会は、その任務の遂行に必要と認める補助機関を設けることができる。

[注釈]
 特記なし。

【第63条】

1.平和理事会の理事領域圏または副理事領域圏でない世界共同体構成領域圏は、平和理事会に付託された問題について、理事会がこの領域圏の利害に特に影響があると認めるときはいつでも、この問題の討議に投票権なしで参加することができる。

2.平和理事会の理事領域圏もしくは副理事領域圏または世界共同体に包摂されていない統治主体が、平和理事会の審議中の紛争の当事者であるときは、この紛争に関する討議に投票権なしで参加するように勧誘されなければならない。平和理事会は、世界共同体に包摂されていない統治主体の参加のために公正な条件を定める。

[注釈] 
 平和理事会の理事/副理事領域圏または世界共同体に包摂されていない統治主体が紛争主体である場合における平和理事会へのオブザーバー参加に関する規定である。

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世界共同体憲章試案(連載第16回)

2019-11-28 | 〆世界共同体憲章試案

第11章 平和理事会

〈構成〉

【第56条】

1.平和理事会は、世界共同体構成領域圏の中から総会で抽選された15の理事領域圏及び同数の副理事領域圏で構成する。

2.理事領域圏及び副理事領域圏は、いずれも二年の任期で抽選される。退任する理事領域圏及び副理事領域圏は、引き続いて再選される資格はない。ただし、理事領域圏が引き続いて副理事領域圏に、または副理事領域圏が引き続いて理事領域圏に選出される場合は、この限りでない。

3.理事会の理事領域圏及び副理事領域圏は、一人の代表を有する。

4.直轄自治圏は、直轄自治圏特別代表またはその代理者をもって理事会の代表者とする。この場合、第2項の規定は適用しない。

[注釈] 
 世界共同体平和理事会は、国際連合安全保障理事会のように、常任理事(国)を固定するのではなく、理事領域圏と副理事領域圏を二年ごとに総会で抽選するローテーション制である。これにより、国連のような大国による寡頭的支配を防ぐ趣旨からである。

〈任務及び権限〉

【第57条】

1.平和理事会は、旧主権国家の軍備を廃止して恒久平和を確立するため、別に定める条約に基づき、旧主権国家を法的に継承する構成領域圏の軍備廃止計画の策定を援助し、その実行を監督する権限を有する。

2.核兵器を含む大量破壊兵器の廃絶については、別に定める条約に基づき、理事会が直接にこれを実施する。その目的のために、理事会は、常設下部機関として、大量破壊兵器廃絶委員会を設置する。

[注釈] 
 平和理事会の最大の任務は、前章に定められた恒久平和の保障という点にある。その中核は、旧主権国家の軍備廃止であり、そのための条約に基づく軍備廃止計画とその実行の監督は、平和理事会の最大任務となる。特に、最大の焦点となる核兵器を含む大量破壊兵器の廃絶は、平和理事会が下部機関を通じて直接にこれを実施する。

【第58条】

1.前条第1項の権限を行使するに当たっては、理事会は、世界共同体の目的及び原則に従って行動しなければならない。そのために理事会に与えられる特定の権限は、この憲章でこれを定める。

2.理事会は、年次報告を、また、必要があるときは特別報告を総会に審議のため提出しなければならない。

3.理事会は、汎域圏全権代表者会議の要請があったときは、その活動に関して、随時報告しなければならない。

[注釈]
 平和理事会は、恒久平和を保障する全責任機関として、構成領域圏に代わって行動する権利を持つ。その活動は、総会や全権代表者会議に対して、所定の方式に従って報告される。

【第59条】

世界共同体構成領域圏及びその民衆は、平和理事会の決定をこの憲章に従って無条件に受諾し、かつ迅速に履行する義務を負う。

[注釈] 
 恒久平和保障機関としての平和理事会の性格にかんがみ、その決定は構成領域圏とその民衆すべてに及び、無条件の受諾・履行の義務を負う。

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近代革命の社会力学(連載第45回)

2019-11-26 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(4)反動的軍事介入から崩壊へ
 独裁化の危険をクーデター手段により排除して再編されたバタヴィア共和国執政府は、間もなく二つの脅威にさらされた。一つは、反革命派列強の英国及びロシアによる侵攻である。
 1799年8月に開始されたこの作戦は、英露から見ればフランス革命と一体的なバタヴィア共和国を打倒すべく、旧支配層オラニエ家支持の反乱を起こさせることを狙ったものであった。
 英露連合軍は当初、有利に作戦を進めたが、仏蘭連合軍の反撃にあい、2万人近戦死者を出して撤収した。とはいえ、バタヴィア側も7000人の死者を出し、多くの艦船を喪失した損害は、生まれたばかりの小さな共和国にとって大きな痛手であった。
 もう一つの、かつ致命的な脅威はナポレオンであった。英露のバタヴィア侵攻作戦終了直前の99年11月、ブリュメール18日のクーデターで政権を奪取していたナポレオンは、周辺諸国を傀儡化するうえで障害となりかねないバタヴィアの民主的な1798年憲法には不満を抱いていた。そのため、憲法改正の圧力をかけ始める。
 バタヴィア執政府は、英露の侵攻を撃退するうえで恩恵のあったナポレオンに対して抵抗するだけの力はなく、ナポレオンの意向に沿った憲法修正を試みたが、これに対しては、98年憲法を擁護する勢力からの強い抵抗があった。ここで、バタヴィア駐留フランス軍司令官オジェロー将軍がクーデターで介入し、反対派を拘束・排除する非常手段に出た。
 こうしたフランスの軍事介入下で、1801年10月に憲法修正案が国民投票にかけられた。この投票では、棄権を賛成票とみなして集計するという強引な操作により、修正案は90パーセント近い賛成多数で承認されたものとされた。
 こうして成立した1801年修正憲法は、立法権の制限と今や国家評議会に改称された行政府の権限増強というまさにナポレオン流の権威主義的な指向性を持ったもので、1798年憲法からの明らかな後退を示していた。
 このような結果をもたらしたフランスの軍事介入は、フランスのブリュメール18日クーデターに相応する反動クーデターの性格を持ち、フランス革命同様、これ以降のバタヴィア共和国は終焉に向かうプロセスをたどった。1805年には、ナポレオン派のベテラン政治家ルトガー・シンメルぺニンクが大宰相に任命された。
 大宰相とは、旧ネーデルラント連邦共和国時代に実質的な連邦首相格だった古い官職で、革命により廃止されていたところ、ナポレオンがバタヴィアへの干渉を強める目的から復活させたうえ、操りやすい守旧派の人物を据えたものであった。こうした露骨な内政干渉に対し、バタヴィア側にはもはや抵抗する手段は何もなかった。
 これにより、18世紀オランダ革命は事実上、終焉したと言える。すでに1804年に皇帝に即位して帝政を開始していたナポレオンは、征服した欧州各国に親族を君主に据えた傀儡国家を作出しようとしていたが、バタヴィアにも同様の措置を適用した。1806年に実弟ルイを君主とするホラント王国を立て、10年には完全にフランスに併合したのである。
 ナポレオン帝政の崩壊後には、ウィーン体制下、オラニエ家が完全な君主として復権し、以後、共和制は復活することなく、今日まで立憲君主国として存続していく。
 このように革命によって成立した共和国が短期間で挫折し、改めて立憲君主国として純化されるという経緯をたどったプロセスは、17世紀の清教徒革命後のイングランドと重なるところがある。

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近代革命の社会力学(連載第44回)

2019-11-25 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(3)憲法党争
 18世紀オランダ革命の特徴は、同時並行的に進展していたフランス革命のような劇的な展開よりも、主として連邦派と集権派の理論闘争が軸となっていたことである。もちろん、それは純然たる学術論争ではなく、党派的な対立をベースとした党争の形態を取っていた。
 とはいえ、フランス革命のように、各党派の象徴となるような突出した人物は見当たらず、党派が集団指導的に運営されていたことも、一つの特徴である。これは、元来、ネーデルラントが連邦共和制であり、全国会議のような合議システムも確立されていたことと関係していただろう。
 党争は、まず憲法の制定をめぐる綱引きとして現れた。1796年に招集された第一回国民議会では、オランダ革命における「旧体制」に相当する連邦制を護持しようとする保守派に対し、民主的な集権国家の樹立を構想する集権派が急進野党的な立場で対抗した。
 第一回国民議会では、保守的な連邦派が優位にあり、連邦国家の枠組みを残した形の憲法案が提示、承認されたが、1797年の国民投票では大差で否決されてしまった。これを受けて、改めて選挙により招集された第二回国民議会では、連邦派が辛うじて過半数を保持する状況であった。
 フランスでも、フリュクティドール18日のクーデターで急進派が権力を掌握する状況を追い風として、オランダの集権派は勢いを増し、独自の憲法案を提示した。新たに着任したフランス大使シャルル‐フランソワ・ドラクロワ(画家ドラクロワの父)も、集権派支持を鮮明にして、オランダ革命に干渉した。
 膠着状態の中、業を煮やした集権派は、フランスの支援の下、1798年1月、クーデターを起こして政権を掌握、連邦派議員を追放するとともに、各州の統治機関を廃止したのである。その結果、フランス革命の総裁政府に似た執政府が設置され、この体制下で、集権派の構想に沿った新憲法が国民投票で承認された。
 このようにして、オランダ初の民主的な近代憲法が成立する運びとなったのであるが、ピーテル・フレーデに率いられた執政府自体は民主的とは言い難く、権威主義的な傾向を強め、草の根の政治クラブの排除や、ドラクロワ大使の干渉による反革命派のパージなど、フランス革命のプロセスに近似する状況となった。
 このような独裁に続く路線は、オランダ革命では受け入れられなかった。そこで、反フリーデ派が98年6月に改めてクーデターを起こし、フリーデを追放した。このクーデターは反動的ではなく、執政府体制は維持しつつ、メンバー構成を替えただけであった。
 これにより、憲法党争にもいちおうの決着がつき、1798年憲法が施行されていく。以後、旧連邦制は解体され、1801年の反動クーデターを契機にナポレオンの介入によってオランダ革命が終息し、君主制に移行した後も、集権国家体制には変化がなかった。

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貨幣経済史黒書(連載第29回)

2019-11-24 | 〆貨幣経済史黒書

File28:日本のバブル経済崩壊

 日本経済の昭和/平成バブル景気は1986年頃に開始され、87年の「ブラックマンデー」をも跳ね返し、元号が替わった平成初年度の89年に最高潮を迎えたと見られているが、世界の過去におけるバブル現象と同じく、実体経済と乖離したバブル現象が長続きすることはなかった。
 90年3月に土地投機の過熱を懸念した旧大蔵省が土地融資関連の抑制という対処に、日本銀行の金融引き締めが相乗作用して、信用収縮が急激に生じたため、恐慌に近い状態が招来されたが、真の恐慌とはならず、むしろ長期不況への序章となった。
 90年10月にはまず先行して株価の下落が始まり、次いで翌年には地価の下落が続くというように、バブルを象徴する株式と土地という二大投機対象の価値下落が明瞭となった。現実の展開として、株価の急激な暴落は起きなかったため、バブル崩壊の日付を明確にできないことが昭和/平成バブル「崩壊」の特徴であるが、おおむね1992年夏までにはバブルの終焉が認識された。
 景気循環という観点で見ると、93年にいったん持ち直しているが、昭和/平成バブル崩壊は緩慢に始まり、さらにその余波が10年という長期スパンで遷延したことから、世上「失われた10年」と呼ばれたり、もっと悲劇的に「第二の敗戦」と呼ばれたりもした。
 実際、この間、株式と土地だけで総計1500兆円近い価値が失われたと推計されているから、まさに「失われた10年」であったが、元来バブルは実体経済を離れた蜃気楼現象なのであるから、蜃気楼が消失し、本来の実体経済に見合った姿に是正されるリバウンド現象ととらえれば、そう不可解でもない。
 ただ、日本の昭和/平成バブル景気は、あまりにも規模が大きく、それに参入したのも法人企業からバブル期の所得増によりゆとりの生じた個人に至るまで国民の多数に及んだため、リバウンドの衝撃もいっそう大きかったということに特徴があった。国民的規模で陥った「貨幣錯覚」への反動とも言える。
 しかし、それだけにとどまらず、「第二の敗戦」とまで呼ばれたのは、むしろバブル崩壊そのものよりも、その余波が大きく、かつ長かったせいでもある。とりわけ、資本主義経済の総設計師でもある銀行、さらには個人・法人を通じた投資及び企業の資金調達の司令塔でもある証券会社の破綻が続いたことの影響は甚大であった。
 銀行は、バブル期に担保価値に見合わない融資や持続性のない事業への融資を展開し、バブル景気を演出した影の戦犯的地位にあったが、バブルが崩壊すると、それらの放漫融資の代償は巨額の不良債権として残された。この時期に生じた銀行の不良債権総額は200兆円、損失処理に伴う純損失総額でも100兆円に達すると推計されている。
 銀行の経営破綻がメインバンクの喪失として融資先企業の連鎖的破綻を招くことは必然であるが、破綻を免れた銀行も一転して貸しはがしや貸し渋りといった厳格融資・返済方針に転換するから、それによっても、事業維持に不可欠な他人資本を喪失した融資先企業は経営破綻する。90年代後半のバブル崩壊処理期には、こうした銀行由来の企業倒産も相次いだ。
 ちなみに、この時期に経営破綻した有力金融機関としては、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、個人向けの住宅ローンを手掛けた住宅金融専門会社がある。また、法人営業に注力していた大手証券会社の山一證券が損失補填などの不公正な顧客救済措置で生じた債務を簿外に隠蔽していた不正会計問題を機に廃業に追い込まれたことも、衝撃を与えた。
 こうした一連の混乱に対応するため、多くの関係諸法令が改廃され、行政官庁の大規模な再編も実施されたのが、90年代後半から2000年代初頭にかけてのことである。また時をほぼ同じくした冷戦終結・ソ連解体とその影響を受けての国内政界再編といった政治動向も含め、この時期にはたしかに敗戦後の時代状況に匹敵する激変があったと言えるかもしれない。
 バブル崩壊余波としての「失われた10年」は、2002年には収束したと見られているが、その処理策として断行された「構造改革」は、高度成長期の「所得倍増」政策とは異なり、労働市場の規制緩和や富裕層減税を通じて所得格差を助長し、日本経済を市場競争主義的に再編しようとする政策的企てであり、このことが、間もなく直面する世界大不況において悲劇を生むことになる。

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続・持続可能的計画経済論(連載第8回)

2019-11-22 | 〆続・持続可能的計画経済論

第1部 持続可能的計画経済の諸原理

第2章 計画化の基準原理

(1)総説  
 本章では、持続可能的計画経済に基づく具体的な計画化を実施するに当たっての基準となる諸原理について、見ていくことにする。この計画化の基準原理とは、個々の経済計画を策定するうえで適用される経済技術の基礎となるべきものである。
 その点、前章(4)で取り上げた三つの計画経済モデルに再度立ち返ってみると、最初の均衡計画経済モデルにあっては、需要と供給の均衡ということが計画化における最大の基準原理となる。ある意味では、計画経済論の出発点である。
 資本主義市場経済では、需要と供給の関係は市場におけるランダムで気まぐれな当事者間の取引に委ねられるから、恒常的に不安定である一方、意図的な価格操作のような策略によって市場が操縦される危険も常につきまとう。そのため、経済運営は本質的に不安定で、需給バランスの崩れから恐慌や不況のような事象は避けられない。
 そうした欠陥にかんがみ、計画経済では、需給関係を適切に調節するべく、事前の計画化がなされる。ここで基準原理となるのは、「物財バランス」という概念である。物財バランスとは、各計画年次において、生産目標として設定される生産量(価値量)とそれに必要な投入量とを均衡させることをいい、まさに計画経済における需給調節の中核となる概念である。
 このようなバランス調整原理は、実際のところ、資本主義経済における個別企業の生産計画においても適用されているものであるが、計画経済にあっては、経済計画が施行される領域全体において適用する点に違いがあると言える。
 ちなみに、第二の開発計画経済モデルにおいては、物財バランス原理を基層原理としながら、毎次経済計画を通じた経済発展の度合を計る「発展テンポ」が付加的な基準原理として設定されていた。これは、低開発状態から出発し、資本主義に追いつき追い越すことを至上命題とした旧ソ連型の計画経済モデルに特有の基準原理であるが、いつしか物財バランスよりも、拡大再生産が優先原理と化していった。
 これに対して、ここでの主題である持続可能性計画経済が前提とする第三の環境計画経済モデルにあっては、「環境バランス」が付加される。これは、地球環境の負荷許容量に応じて、物財バランスを調節する原理であり、まさに生態学的な持続可能性を保証する中核原理となるものである。
 その意味では、この原理は単なる「付加」原理にとどまらず、上述の物財バランスに優先されるべき根本原理と言っても過言ではない。反面、環境バランスを押しやりかねない発展テンポのような原理は、環境計画経済モデルにあっては、もはや適用されない。
 ところで、物財バランスにせよ、環境バランスにせよ、それらの原理の厳密な適用に当たっては、数理モデルの構築が不可欠である。中でも、線形計画法の応用である。その点、今日におけるスーパーコンピュータ、さらに人工知能の発達は、そうした計画化数理モデルの構築にとっては追い風となる状況と言えるだろう。
 一方、需給調節に関わる物財バランスの適用に当たっては、人間不在の机上計画に陥る可能性もある数理モデルのみならず、具体的な生身の人間の経済的な意思決定のあり方を合理的に予測するための行動科学原理の導入も必定である。

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近代革命の社会力学(連載第43回)

2019-11-20 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(2)国民議会の設置まで
 バタヴィア共和国の樹立を担った旧ネーデルラントの革命派は、元来は愛国派を名乗っていた。かれらはネーデルラント統領ウィレム5世の治世下、より民主的な共和制を樹立すべく、保守的なオラニエ家の支配体制に対して、1785年以降、各地で勢力を伸ばした。
 かれらが「愛国派」と称されるのは、ウィレム5世の下、当時新興の帝国として台頭していたイングランドの攻勢を受けて海外の拠点を次々と喪失していく状況に対する強い懸念を代表しているのが、かれらだったからである。
 しかし、愛国派はウィレム5世が頼ったプロイセン軍による弾圧作戦によりいったん掃討され、多くはフランスへ亡命していた。かれらはフランス革命を実地体験し、大いに共鳴した。そして、フランス革命軍の侵攻に合わせて帰国し、フランス革命政権の庇護下に革命を起こしたのであった。
 このような経緯からも、18世紀オランダ革命は18世紀フランス革命と相即不離の関係にあるわけだが、フランス革命とは異なり、世襲制とはいえ、いちおう共和制が定着していたオランダでは、君主制から共和制への移行という革命課題は前面に出ることがなかった。
 もっとも、先代のウィレム4世の頃より次第に全州統領による事実上の君主制に向かいつつあったが、国家の最高機関は全国会議(蘭:Staten-Generaal)と呼ばれる合議制の統治機関が担っていた。これはフランスの全国三部会に類似した機関と言えるが、フランスのような明確な三階級構造は存在しなかったので、ある程度近代的な議会制度に近い構制であった。
 そのため、当初は、革命派も、この旧制度をそのまま流用する形で革命指導機関と位置づけた。しかし、元来七つの州による連邦国家であるため、革命派もそれぞれの州ごと、さらには州内の都市ごとにまとまりがちであり、草の根レベルでより民主的な統治機関の創設を求める動きが強まる。
 その結果、草の根レベルで対抗権力的な民衆組織が数多く現れ、全国会議の権威が低下、形骸化する可能性が生じた。このような状況で、革命派指導部は、全国会議を廃し、新たに国民議会を創設することとした。この機関は、議会といっても立法権のみならず、行政権も兼ね備える総合的機関であり、フランス革命の国民公会をモデルとしたものと思われる。
 このような新制に対しては保守派からの反発があり、いくつかの地域では武力鎮圧も見られたが、保守派の反乱が全国化することはなく、1796年3月、第一回国民議会が招集された。ここまでの革命初期段階はわずか一年余り、ほとんど流血もなく進んだ点は特筆される。

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近代革命の社会力学(連載第42回)

2019-11-18 | 〆近代革命の社会力学

四ノ二 18世紀オランダ革命

(1)概観
 フランス革命戦争からナポレオン戦争にかけて、フランス軍は兵站基地への利用目的で、周辺諸国を侵略・占領したが、フランス軍の支援と影響下に、フランス革命に共鳴する各国共和派が蜂起し、フランス革命の理念に沿った共和国を建国する動きが生じた。
 その結果、30近いミニ共和国がフランス周辺に樹立された。この動きは、表面上はフランス革命を契機とする連続革命のように見えるが、実態としてほとんどはフランスの衛星国もしくは傀儡国(いわゆる姉妹共和国)に終始しており、独自の革命とはみなし難いものであった。
 ただ、1795年に今日のオランダの原型となるネーデルラント連邦共和国で起きた革命とその結果誕生したバタヴィア共和国はいささか例外的である。
 そもそも、ネーデルラントは、16世紀末、それまで宗主国であったスペインによるプロテスタント弾圧への抗議として北部七州が独立して成立した連邦共和制国家であった。連邦共和制という点では、アメリカ合衆国に先行するが、ネーデルラントではオラニエ‐ナッサウ家が元首たる統領を世襲する準君主制の政体が採られていた。
 当初は州ごとに置かれた統領は専制支配者ではなかったが、その権限は大きく、最大州ホラント州統領のウィレム4世以降、オラニエ本家が全州の統領を兼ね、専制君主化の兆しが見えていた。そうした中、オラニエ家支配への不満が鬱積、反乱も起きていた。
 不穏な情勢下、フランス軍の侵攻を奇貨として、フランス軍の支援を受けつつ革命派が決起したのであった。その結果、オラニエ家の統領を追放し、君主制的共和制という旧体制を廃し、非世襲型の共和国が成立した。これがいわゆるバタヴィア共和国であった。
 この共和国は、統領世襲制のみならず、七州の連合という分権的な体制をも廃して、フランスにならった集権体制を目指した点でも革命的ではあったが、従来の連邦制を維持しようとする勢力との主導権争いというフランス革命では見られない固有の対立軸が現れることになった。
 こうしたバタヴィア共和国も、通常は「姉妹共和国」の一つとみなされることが多いが、フランスからは一定自立して共和政を運営した点で、他の「姉妹共和国」にはない独自性を示したことから、これをフランス革命とは別途、「18世紀オランダ革命」と位置付けることができる。 
 とはいえ、バタヴィア共和国においても、フランス革命の転変するプロセスからの影響は避けられず、かつ上述したような集権派と連邦派の対立も加わり、クーデターが相次ぐ政情不安が恒常化した。
 最終的には、オランダを傀儡化したいナポレオンの干渉を受け、まさに傀儡総督が任命された1805年にバタヴィア共和国は事実上崩壊し、翌年にはナポレオンの実弟ルイを君主とするホラント王国として、正式にナポレオン帝政に編入されていった。

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貨幣経済史黒書(連載第28回)

2019-11-17 | 〆貨幣経済史黒書

File27:1987年「ブラックマンデー」

 1929年に始まる大恐慌以来、株式市場の崩壊現象は半世紀以上発生していなかった。その要因として、アメリカをはじめ、主要な株式市場を擁する諸国の証券規制政策が進展し、監督行政もそれなりに整備されていったことが挙げられる。そうして大恐慌の記憶も消えかけていき、20世紀も残り十数年となった1987年に、再び株式市場の崩落が起きた。
 こたびの崩落の発端は、アジアの香港市場であった。香港は当時まだ英国植民地の地位にあり、証券市場も十分に整備されていない中、デリバティブのような複雑な金融商品の実験場のような状況にあった。その香港市場で10月19日の月曜日、最初の兆候的な暴落が発生した。
 これはローカル市場単体での問題にとどまらず、世界の金融中心となって久しいニューヨーク証券市場に波及し、ダウ平均株価の終値が22.6パーセントという下落率を示した。この数字は、大恐慌当当時の下落率12.8パーセントを倍近くも上回る史上最高の下落率であった。
 これを契機として、雪崩を打つように、日本をはじめとするアジア各国から欧州、さらには南太平洋のニュージーランドにまで暴落が波及し、いわゆる世界同時株安現象を引き起こした。時差の関係上、火曜日が発生日となったニュージーランドへの経済的打撃は特に大きかった。
 1929年とは異なり、この時代になると、すでに資本主義がアジアやオセアニアを含めた全世界にグローバルな拡散を見せ始めており、グローバル化なる用語はまだ普及していなかったとはいえ、ローカルな市場の崩壊が全世界的な波及を見せるドミノ現象の始まりであったと言える。
 市場の近代化が進む中で、なぜ1929年の再来のような事象が発生したかについては、アメリカの財政政策など人為的な要素があり、様々な分析がなされてきたが、技術的な問題として、コンピュータによる自動取引の普及やデリバティブのような複雑化金融商品の開発など、近代化が進展したがゆえの市場制御の困難さという皮肉な要因も隠されていた。
 元来、貨幣の流通を技術的に精密に制御することは困難なのであるが、複雑な金融商品の形で貨幣が不可視的な「商品」に化体されて瞬時に流通するようになれば、その制御はいっそう困難になる。このことを、世界は20年後に再び思い知ることになる。
 いずれにせよ、このような突然の大暴落は忘れかけていた1929年を思い起こさせたため、識者らは大恐慌の再発を予測、懸念した。これは過去の経験則以外に頼るもののない資本主義経済学にあって、予防的な意味でいささか大袈裟な予測を出したものだろうが、幸いにしてブラックマンデーは大恐慌を招来しなかった。
 株価は史上最高下落率という異常事態ながら、全体として、懸念されていたような恐慌には至らず、実体経済への損害が起こらなかったのは、各国金融当局の協調体制など、緊急的なグローバル化対応が当時かなり整備されてきていたことが作用したと考えられる。
 ちなみに、この時点ですでにバブル経済の膨張が始まっていた日本では、翌日に株価が反発を示して急騰、その後もオイルショック以来の金融緩和政策の継続でバブルがさらに助長されていき、1988年に暴落分を相殺して、89年には前回見たような史上最高値を更新していったのである。
 このような短期間での回復―というより、ブラックマンデーを奇貨としてバブルに突き進んだと言っても過言ではないだろう―は、日本経済に過剰な自信を与え、ひいてはバブル現象への警戒心を薄れさせ、数年後のバブル崩壊という形で、恐慌的なしっぺ返しを受けることになるのであるが、この件については次回にまわすことにしたい。

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世界共同体憲章試案(連載第15回)

2019-11-15 | 〆世界共同体憲章試案

第10章 恒久平和

〈非戦〉

【第54条】

世界共同体に結集する民衆は、いかなる名目または理由もしくは形態によるものであるかを問わず、およそ戦争及び戦争に準ずる武力の行使または武力による威嚇を人類の生存及び地球の持続可能性を脅かす歴史的な悪習とみなし、永久にこれを行なわない。

[注釈]  
 恒久平和に関する原則的な宣言である。ここで宣言されているのは、消極的な戦争放棄ではなく、戦争否定すなわち非戦である。
 戦争放棄は、戦争という選択肢を残しつつも、あえてそれを放棄するという限りで、なお戦争というカードへの未練を残した消極的な規定であるが、非戦はより積極的に、戦争という行為そのものを自己破壊・地球環境破壊の歴史的な悪習とみなし、およそ実行しないという強い含意がある。  
 本条における非戦の主体は、世界共同体に結集する民衆総体である。ここで否定される戦争は、名目も理由も問わないから、侵略戦争はもちろん、自衛戦争も含まれ、形態としても内戦・外戦いずれも含まれる。

〈軍備廃絶〉

【第55条】

1.世界共同体構成領域圏は、前条の目的を達するため、兵器または軍隊もしくはその他の名目を問わず、いかなる軍備も保持してはならない。

2.この憲章が発効した時点でなお軍備を保持している構成領域圏は、別に定める条約の規定に従い、すみやかに軍備廃絶を推進するものとする。

3.世界共同体が認定した独立宗教自治圏域については、その独立性を保持するために必要にして最小限度の武装組織を保有するか、または世界共同体平和維持巡視隊に防衛任務を委託するかを選択することができる。

[注釈]  
 前条の非戦条項を現実的・物理的に担保するための軍備廃絶条項である。廃絶対象は、兵器(通常兵器を含むあらゆる兵器)のような物的軍備と軍隊のような人的軍備のすべてである。さらに、別の名目を掲げていても、実質上軍備とみなされる装備や組織も禁止対象となる。  
 とはいえ、軍備の廃絶には相応の時間を要するため、世界共同体憲章とは別途、条約(軍備廃絶条約)を締結し、憲章が発効した時点でなお軍備を保持している構成領域圏の軍備廃絶プロセスを法的にも保障する必要がある。  
 ただし、バチカンに代表されるような独立宗教自治圏域(第23章)は世界共同体憲章の適用外であるから、必要最小限度の武装組織を独自に保有するか、世界共同体の常設平和維持組織である平和維持巡視隊に防衛任務を委託するかの選択権を持つ。もちろん、完全非武装を選択することもできる。

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近代革命の社会力学(連載第41回)

2019-11-13 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(6)余波としての周辺革命・二次革命  
 第一次欧州連続革命は、1820年のスペイン立憲革命に始まり、ポルトガル立憲革命・内戦をはさみ、30年のフランス七月革命をもって終了すると一応言えるが、フランス七月革命の成功は、その後、いくつかの周辺国における革命を呼び起こした。これらの周辺革命も、広い意味では連続革命の余波とみなすことができる。
 その点、1820年から30年までの中間期に当たる1825年12月に帝政ロシアで発生したいわゆるデカブリストの乱は、必ずしも第一次欧州連続革命と連動するものではなく、ロシア独自の動向であり、しかも未然革命的段階で鎮圧されたが、立憲派将校が主体となった点、スペイン立憲革命との共通性もあり、間接的には連続革命の余波に数え得るだろう。  
 シャルボンヌリー党が重要な役割を果たしたフランス七月革命は、本家イタリアのカルボナリ党を再び触発し、息を吹き返したカルボナリ党は31年から翌年にかけて中部イタリアで蜂起した。しかし、またしてもオーストリア軍の介入を受け、失敗に終わった。  
 このカルボナリ党第二次革命の失敗は党の最終的な解体契機となったが、党員の中からは後にイタリア統一運動の指導者として名を残すことになるジュゼッペ・マッツィーニが輩出した。彼はイタリア統一を目的とする新団体「青年イタリア」を結成し、多くの旧カルボネリ党員を吸収した。
 一方、1830年8月には、当時ネーデルラント連合王国(オランダ)の南部地域(南ネーデルラント)の中心都市ブリュッセルで民衆蜂起が発生した。この民衆蜂起は立憲革命というよりは、ベルギー独立革命としての性格が強かった。南ネーデルラントはカトリックが優勢な地域であり、プロテスタント優勢の連合王国からの分離独立を宿願としていたからである。  
 この動きに対し、連合王国は武力鎮圧を図るも失敗し、ウィーン体制下の同盟諸国もベルギー独立を黙認するに至った。こうして独立したベルギーでは、当時の自由主義的な立憲君主制の範例となる先進的な憲法が成立したため、結果的には立憲革命としての意義を持つことにもなった。  
 このベルギー独立革命の反響は中東欧にも広がり、当時帝政ロシアの支配下にあったポーランド‐リトアニアで、1830年11月蜂起を誘発した。これは、士官学校生の決起を契機に、社会各層が参加するロシアからの独立革命に発展したものである。  
 この革命は、ポーランドのベテラン貴族政治家アダム・チャルトリスキを首班とする臨時国民政府の樹立を導き、いったんは成功したかに見えたが、当時、フランス七月革命やベルギー独立革命に武力干渉する構えすら見せていた帝政ロシアがポーランド独立を容赦するはずもなく、徹底した武力鎮圧で臨んだ。  
 その結果、翌年31年にかけてポーランド‐ロシア戦争が勃発するが、ポーランドはロシアの軍事力の前に敗北し、革命は失敗に終わった。この後、チャルトリスキを含め、大量のポーランド人がフランスへ亡命した。  
 さらに、フランスでも1832年6月に共和主義者の蜂起があった。これは七月革命で成立したルイ‐フィリップ王政のブルジョワ指向に対して不満を強めた共和主義勢力が、第二次革命を目指して蜂起したものであった。  
 その中心となったのはもはやシャルボンヌリー党ではなく、人権協会のような新興の共和主義団体であった。この団体はその名称にもかかわらず、シャルボンヌリー党を衣替えした後継団体のような地位にあり、思想的には18世紀フランス革命のジャコバン派の流れも汲んでいた。
 しかし、ルイ‐フィリップ王政の成立からまだ二年という時期での第二次蜂起は尚早であり、革命的な規模に拡大することなく暴動化し、政府側の武力鎮圧をもって収束した。この時期には、民衆も新たな動乱よりは安定を望んでいたのである。  
 こうして、第一次欧州連続革命はフランス七月革命とベルギー独立革命を除き、すべて未遂に終わった。その要因としては、革命を成功させるに当たり求心力のある理念を備えた革命遂行組織が未発達であったこと、一方では、オーストリアとロシアの軍事力に支えられたウィーン会議体制の反革命的作用が依然強力だったことが想定できる。

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近代革命の社会力学(連載第40回)

2019-11-12 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(5)1830年フランス七月革命  
 イタリアに発祥した立憲革命結社カルボナリ党は、イタリアでの革命がいずれも短命に終わった後、フランスへ移転し、フランス版のシャルボンヌリー党として活動を続けるのであるが、フランスでは復権したブルボン朝の支配力が強く、革命の機運は容易に訪れなかった。  
 時のルイ18世は反動の象徴とみなされるが、復活ブルボン王制の基本法となった1814年憲章は、絶対主義と18世紀フランス革命とのぎこちない妥協の産物と言えるものであった。すなわち、国王が全権を掌握する旧体制の構造を基本としつつ、立法権は議会と共同行使するとされるなど、立憲君主制に半傾斜した内容であった。
 実際、ルイ18世は革命の再発を防ぐ狙いからも専制君主としては振る舞わず、常に受動的な政治姿勢を取ったため、18世の治世は保守的とはいえ、相対的に安定していたと言える。この安定性を確信犯的に壊したのは、継嗣なく死去した18世から王位を継いだ王弟シャルル10世であった。  
 シャルルは兄よりいっそう保守的な絶対君主制の信奉者であった。実のところ、フランス革命後から反革命を煽動し、ブルボン朝復活運動を主導していた黒幕こそシャルルであった。満を持して王座に就いたシャルルは、元来、妥協的な1814年憲章が憲法としての強い効力を有しないことを利用して、議会軽視の反動政治を展開し初めたのである。  
 ここに至り、18世紀フランス革命は根底から否定され、全き振り出しに戻る恐れが生じた。決定的となったのは、1830年5月、自由主義派が増加した議会の解散・総選挙に踏み切った結果、かえって自由主義派の勝利に終わったことに対し、恐慌を来たしたシャルルが議会の強制解散を軸とする事実上の戒厳措置に出たことである。  
 このいわゆる七月勅令には、定期刊行物の廃刊や選挙法改悪による選挙権の制限的縮小も盛り込まれ、18世紀フランス革命前のアンシャン・レジームへの逆行が顕著であり、言わばシャルル10世による「反革命宣言」であった。  
 これに反発したパリの民衆は7月27日、およそ40年ぶりに蜂起した。この時代になると、労働者や学生といった新しい平民階級も増加しており、前回の民衆の顔ぶれとは異なり、より戦略的になっていた。29日までにテュイルリー宮殿、ルーブル宮殿の主要宮殿が革命勢力に占拠されるに至り、シャルルは勅令を撤回するが、革命のうねりを止めることはできなかった。  
 ここで再び引っ張り出されたのが、40年前のフランス革命初期のリーダーだったラファイエットである。彼は革命の急進化により失墜した後は引退状態にあり、すでに70歳を越えていたが、再び国民軍司令官として革命の顔となった。  
 しかし、今度の革命は、共和制の樹立ではなく、イギリスへ亡命したシャルルに代わり、ブルボン分家に当たるオルレアン家のルイ‐フィリップが新国王に担ぎ出され、王朝交代の線で収束した。その結果、1830年憲章により、立憲君主制が確立された。
 この七月立憲革命は、1820年に始まった第一次欧州連続革命が、フランスにおいて10年のタイムラグをもって遅効的に波及したものと理解することができる。実際、シャルボンヌリー党も革命勢力に加わって重要な役割を果たし、新政権にも参加している。  
 他方で、フランス革命という観点から見れば、共和制まで進まず、立憲君主制の線で収束した七月革命は、18世紀フランス革命をもう一度やり直し、初期の立憲革命段階まで巻き戻して停止したようなものであった。
 そのうえで、ルイ‐フィリップ王政下では、七月革命の後衛にあったブルジョワジーが社会の主役となり、産業革命を主導していく。その結果、命がけで革命の最前線を担った労働者階級は脇に追いやられ、不満を鬱積させていった。
 シャルボンヌリー党も、立憲革命の成功により当面の目的を果たし、自然消滅していった。満足できない急進派は改めて共和主義運動を立ち上げ、これが新興の労働者運動や社会主義運動とも交差しながら、やがて新たな共和革命を誘発する潜勢力となる。

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近代革命の社会力学(連載第39回)

2019-11-11 | 〆近代革命の社会力学

六 第一次欧州連続革命

(4)イタリア・カルボナリ党革命  
 1820年1月のスペイン立憲革命は、イタリアにも飛び火した。特にシチリア・ブルボン朝(ボルボーネ朝)が支配していたナポリ王国である。ここでもスペインと同様、ナポレオンの支配からナポリを奪回したボルボーネ家がシチリアと併せた両シチリア王国を再建し、絶対王政の確立へ向かっていた。
 両シチリア王国初代の国王となったのはボルボン朝スペイン王カルロス3世の三男フェルディナンドであった。フェルディナンドはある程度開明的ではあったが、それは啓蒙専制君主的な「開明」であり、本質的には絶対君主制の支持者であった。  
 一方、この頃、南イタリアではカルボナリ党が急速に勢力を増していた。かれらはナポレオンの義弟としてナポリ王に擁立されながらナポレオンと対立したジョアシャン・ミュラ(ナポリ王ジョアッキーノ1世)によって利用庇護されるという奇遇によって、勢力を拡大したのであった。
 そのミュラもナポレオン帝政崩壊後に王位を剥奪され、フェルディナンドが復位したわけだが、彼はカルボナリ党に対抗するため、アウトローをかき集めた暴力団組織(カルデラリ)を結成してカルボナリ党の壊滅を狙った。
 しかし、このような半端な弾圧策はカルボナリ党をかえって勢いづかせた。特にナポリ王国軍内にカルボナリ党が浸透していた状況下、スペインの立憲革命に触発されたナポリ軍のカルボナリ党将校らが反乱を起こし、時の王フェルディナンド4世に対し、自由主義的な憲法の発布を強制することに成功した。  
 シチリアでも呼応する反乱が起きたが、ここでは革命そのものよりシチリアの分離独立を求める力が強く働いたことが裏目となり、軍内の反独立派によって間もなく鎮圧され、革命は未遂に終わった。両シチリア王国領土が本土ナポリと言語・文化的に相違のあるシチリア島にまたがっていたことが、革命の統一に水を差す結果となったと言える。  
 さらに、イタリアでは翌1821年、サルデーニャ島を支配するサルデーニャ王国の本土側領地トリノでも、カルボナリ党の革命が発生した。サルデーニャ王家はブルボン系ではなく、南仏サヴォワ地方の古い領主に出自するサヴォイア家であったが、その統治はやはり絶対主義的であった。
 革命はいったん成功し、自由主義的な憲法が制定され、絶対主義を展開していた国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世は退位、革命政権との交渉に当たったサヴォイア分家出身のカルロ・アルベルトを摂政に迎えつつ、王弟カルロ・フェリーチェが新たに即位した。  
 こうして南イタリアで革命が成功していくことに脅威を感じたのは、北イタリアを支配するオーストリアであった。従来、オーストリアは南イタリアの諸王家にもハプスブルク家出身の妃を送り込み、姻戚関係を結ぶことで、南イタリアにも強い影響力を及ぼしてきたからである。  
 オーストリアはウィーン体制下の五国同盟(英・露・墺・普・仏)を招集して武力鎮圧方針を決定、これに基づき、1821年3月から4月にかけて南イタリアに侵攻し、ナポリとピエモンテを制圧、革命政府を打倒したのである。  
 こうして、南イタリアにおけるカルボナリ党革命はいずれも短命に終わった。しかも、ローマ教皇ピウス7世のカルボナリ党糾弾声明が発せられるに至り、カルボナリ党は本拠をフランスに移したため、これ以降はフランス版カルボナリ党であるシャルボンヌリー党が活動の中心となる。

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世界共同体憲章試案(連載第14回)

2019-11-09 | 〆世界共同体憲章試案

〈世界天然資源機関〉

【第49条】

1.世界天然資源機関は、地球上における鉱物資源の保存、開発及び利用を統一的かつ包括的に行なう専門機関である。

2.世界天然資源機関は、執行理事会及び事務局によって運営される。

3.事務局長は、世界経済計画機関の上級評議員を常に兼任する。

[注釈]  
 世界共同体による共同管理下に置かれる天然資源のうち、石油や石炭のような燃料ともなる鉱物資源の管理を行なう実務機関が、世界天然資源機関である。生産活動の燃料や材料を担う鉱物資源の管理は世界経済計画においても土台となることから、世界天然資源機関事務局長は世界経済計画会議の意思決定機関である上級評議会のメンバーを常任で兼任する。

【第50条】

1.世界天然資源機関は、石油資源の生態学的に持続可能な管理を担うため、下部機関として、石油資源委員会を設置する。

2.石油資源委員会は、石油エネルギーへの依存率を低めるため、油田開発の調整を行なうことを主要任務とする。

[注釈]  
 生態学的な持続可能性を維持するうえで、石油エネルギー依存を脱却することは世界共同体の存在理由の一つであるゆえに、世界全体での統一的な油田管理に特化する下部機関として、石油資源委員会が設置される。この委員会は、単に油田開発を行なうのではなく、むしろ油田開発を抑制するために、全世界規模で油田開発の調整を行なうことを主任務とする。

〈世界水資源調整機関〉

【第51条】

世界水資源調整機関は、世界における水資源の持続可能性を確保するため、流域領域圏の共同管理機関の活動をあらゆる可能な方法で支援する。

[注釈]  
 水資源も一個の天然資源ではあるが、埋蔵資源とは性質が異なるため、世界天然資源機関の管轄からは外し、独立した専門機関が設置される。この機関は、現地で水資源の流域領域圏で構成する共同管理機関の活動を支援することを目的とする調整機関である。支援の方法としては、技術支援のほか、対立の調停といった物理的及び非物理的方法の一切である。

〈世界生物多様性機関〉

【第52条】

1.世界生物多様性機関は、世界における遺伝資源の多様性を確保するための行動計画を実施する専門機関である。

2.世界生物多様性機関は、前項の行動計画を実施するため、各領域圏または汎域圏の専門機関と連携する。

[注釈]  
 野生動植物の保護に象徴される生物多様性の確保は、野生動植物が生息する領域圏または当該領域圏を包摂する汎域圏がその最前線となるが、世界生物多様性機関はそうした地域的な活動を束ねる統括機関の位置づけとなる。

〈連携関係〉

【第53条】

世界天然資源機関及び世界水資源調整機関並びに世界生物多様性機関は、その活動に当たって、相互に連携しなければならず、そのために合同協議会を常設する。

[注釈]  
 これら三機関の活動は、広義の天然資源の生態学的に持続可能な管理として相互に密接に関連し合っているため、合同協議会を常設して、常に連携して活動する。

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世界共同体憲章試案(連載第13回)

2019-11-08 | 〆世界共同体憲章試案

第9章 天然資源の民際管理

〈諸原則〉

【第45条】

土壌資源及び遺伝資源を除く地球上の天然資源は、本質的に地球人類の共有に属し、その保存、開発及び利用は世界共同体の責任において、かつ生態学的に持続可能な方法によってこれを行なう。

[注釈]  
 広義の天然資源には、土、水、鉱物などの無生物資源と動植物のような遺伝資源(生物資源)の二系統があるが、そのうち、無生物資源については、これを本質的に地球人類の共有とする原則規定である。その点で、天然資源に対する国家主権という伝統的な原則の転換となる。この転換により、天然資源をめぐる紛争を防止し、有限な天然資源の持続可能な民際管理を可能とする趣旨である。

【第46条】

前条の天然資源が埋蔵されている構成領域圏は、各種天然資源の保存、開発及び利用に関して、世界共同体と協働する権利及び義務を有する。

[注釈] 
 天然資源が埋蔵されている領域圏も、その天然資源の保存、開発及び利用に関して何の権利も持たないわけではなく、世界共同体と協働することができ、かつそれは義務でもある。具体的には、後に見るように、各埋蔵領域圏は世界天然資源機関の常任オブザーバーを務め、かつ現地での掘削事業体の運営に関わることができる。

【第47条】
水資源は、世界共同体の調整的な管理の下、各流域領域圏が共同管理機関を通じて、公平かつ生態学的に持続可能な方法によって管理しなければならない。

[注釈]  
 無生物資源の中でも、全生物にとって死活的な枢要性を持つ水資源に関しては、各地の水資源(その多くは大河川)流域領域圏で構成する共同管理機関を通じて、公平かつ生態学的に持続可能な方法でこれを管理することによって、水資源をめぐる紛争や枯渇を防止する趣旨である。

【第48条】

1.土壌資源及び遺伝資源は、何者にも属しない。ただし、世界共同体及び構成領域圏は、その管理下にある土壌資源及び遺伝資源について、生物多様性の維持の観点から、生態学的に持続可能な方法によって管理しなければならない。

2.世界共同体は、前項但し書きに規定する構成領域圏による管理について、監督的にこれに関与する。

[注釈]  
 まさに自然そのものとして不可分の関係にある土壌資源及び遺伝資源は、何者にも属しない無主物とする原則規定である。従って、世界共同体も構成領域圏も土壌資源及び遺伝資源に対する専属権を主張できない。
 とはいえ、土壌資源及び遺伝資源の管理は、土壌を有し、各種動植物が生息する構成領域圏(直轄圏の場合は世界共同体)の管理権限に委ねられる。しかし、それは白紙委任ではなく、世界共同体は、そうした構成領域圏による適切な遺伝資源管理を監督する権限を留保される。

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