ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

「敵基地反撃論」の真剣度

2022-04-30 | 時評

ロシアのウクライナ侵攻を契機に、与党筋から「敵基地攻撃論」が再び浮上してきている。ロシア問題を利用した便乗的議論だという批判もあるが、ミサイル発射を常態化している北朝鮮、ある意味において北朝鮮化してしまったロシアを近隣に持つとなれば、国防政策の見直し論は自然で、必ずしも「便乗」とは言い切れまい。

しかし、文字通りに敵基地攻撃を認めれば、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定めた憲法9条に抵触するので、与党は「敵基地反撃」と言い換えて、憲法をすり抜けようとしているようである。

戦後日本の国防政策は「自衛隊」に始まり、「必要最小限の武力」、「周辺事態」、「武力攻撃事態」等々、憲法9条と同居させるためのオブラートに包まれた言葉使いで成り立ってきたが、ここにもう一つのオブラート「反撃」が加わろうとしているようである。しかし、今度のオブラートは出来が良くなく、穴が開いているように見える。

元来の「敵基地攻撃論」とは、敵からの攻撃が迫っている状況下で、その攻撃の出どころとなる敵基地を先制攻撃して敵の攻撃を未然に阻止するという趣意のはずであるから、それを「反撃」と言い換えても、オブラートとしては穴が開いていて、中身が漏れ出してしまう。

文字通りの「反撃」とは、敵の第一撃を受けたうえで、それに対する反対攻撃を意味するはずであるから、第一撃は抑止できない。せいぜい、第二撃以上を抑止する自衛権行使としての「反撃」―連続攻撃を阻止するためには意味があるかもしれない―である。

もしも、第一撃自体を抑止するための武力行使ならば、それは先制的自衛行動となる。しかし、先制的自衛とはある種の開き直りの論であって、自衛の名による先制攻撃そのものである。このような行動が憲法9条に反することは間違いない。

結局のところ、憲法9条とどうにか同居できるのは、如上の第二撃以上を抑止するための反撃のみであろう。しかし、その場合、第二撃以上の出どころとなる敵基地を正確に特定できるかどうかという問題が残る。

もしその特定を誤り、無関係の基地その他の施設に「反撃」するなら、それは相手方にとっては誤爆では済まず、日本による事実上の宣戦布告と受け取られるであろう。そうなれば、まさに9条が禁ずる戦争への突入である。論者らがそうした真剣な認識を持っていないならば、まさに便乗的議論であるとの批判が的中することになろう。

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近代革命の社会力学(連載第419回)

2022-04-29 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(2)立憲専制君主制と抵抗運動の閉塞
 前回触れたように、1960年から1990年まで続いたネパールの専制君主制は、1951年立憲革命に対する国王主導による反革命反動として構築されたものであった。シャハ王家としては、ラナ宰相家から革命後に取り戻した権力を今度は民主派に奪われることを恐れてのことである。
 新たな専制君主制は、形式的には憲法に基づく立憲体制ではあったが、国王に権限を集中する専制主義によって立憲主義が大きく制約される構造になっていた。それを象徴するのが、1962年に憲法上導入されたパンチャーヤト制である。
 パンチャーヤトとは村落の五人の長老で構成される会議体を意味し、インドを含む南アジア伝統の慣習的制度であるが、ネパール専制君主制下では、西欧式議会制に代わる独自の会議制度の名称に流用された。
 それは政党活動の禁止を前提に、末端の行政単位(市町村相当)レベルのパンチャーヤト議員のみ直接選挙で選出するが、中間行政単位のパンチャーヤト議員は末端行政単位パンチャーヤトが選出し、国のパンチャーヤト議員は中間行政単位のパンチャーヤトによる選出及び国王による勅任とする複選制の会議体制度であった。
 他方、議院内閣制は採用されず、国王は首相や他の閣僚、さらに地方知事を任免する大権を保持したため、中央・地方の行政をパンチャーヤトが統制することはできず、国王が一手に掌握した。全体として、パンチャーヤトは国王主導の国家運営の輔弼的な役割しか果たさないように仕組まれており、民主主義を著しく制約する制度であったことは間違いない。
 これに対し、1951年立憲革命の中心勢力でもあったネパール会議派は非暴力抵抗運動を展開するが、政党活動を禁止された中では、十分な力量を発揮することはできなかった。1979年には反体制的な学生運動が隆起したをことを契機に、翌年、パンチャーヤト制度の存廃をめぐる国民投票が実施されたが、僅差で存続賛成の結果となり、廃止はなされなかった。
 総じて、1980年代までの抵抗運動は、禁圧下で地下活動ないし在外活動を強いられてきた政党や学生・知識人主導であり、民衆的な広がりに欠けたために低調であり、何らかの外部環境の変化によらなければ、展望が開けない閉塞状況にあったと言える。

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近代革命の社会力学(連載第418回)

2022-04-28 | 〆近代革命の社会力学

五十九 ネパール民主化革命

(1)概観
 冷戦終結をもたらした中・東欧/モンゴルの連続革命からソヴィエト連邦解体に至る体制変動の過程は社会主義圏以外の体制にも少なからぬ影響を及ぼしたのであったが、その一つにネパールの守旧的な専制君主制を変革した1990年の民主化革命がある。
 ネパールで19世紀半ば頃から100年以上にわたって、形骸化された君主制(シャハ王朝)の下、宰相職の世襲による独裁統治を続けてきたラナ家専制体制を打倒した1951年の立憲革命の結果、シャハ王家が権力を取り戻した。
 しかし、ラナ体制残党の保守派とより一層の民主化を求める急進派の対立が続く中、この事実上の王政復古を兼ねた立憲革命の当事者でもあったトリブバン国王が1955年に死去した後、跡を継いだマヘンドラ国王の治下、1959年に実施されたネパール初の総選挙では、立憲革命の立役者であったネパール会議派が圧勝した。
 当時のネパール会議派は最も改革志向の政党であり、同党主導の内閣に対し、再び権力を失うことを恐れたマヘンドラ国王は1960年、強権を発動して憲法を停止、議会も解散して、首相をはじめとする改革派政治家を大量拘束した。
 この国王による自己クーデターによって、ネパールは専制君主制に回帰することになった。国王主導で制定された新憲法では、国王が大権を保持したうえ、政党活動は禁止され、議会制度に代わる複選制のパンチャーヤト制(後述)が制定された。
 この新体制はマヘンドラ国王から次代のビレンドラ国王に引き継がれるが、1990年に再び民主化運動が隆起、国王側が譲歩する形で、同年11月に、複数政党制を基本とする議会制度の復活を柱とする新憲法が制定された。
 この1990年革命は君主制そのものを廃止するには至らなかったが、民主化という点では不徹底に終わった1951年の立憲革命に対して、明確な民主化革命であり、その担い手としてネパール会議派を中心に、学生や知識人も加わった民衆革命であった。
 それとともに、共産党が革命の担い手の一角を占めたことも特徴である。この点は、脱社会主義革命を通じて共産党支配体制が打破されていった同時期の世界の趨勢とは対照的であり、実際、これを機にネパール共産党、中でも毛沢東主義派が21世紀にかけて大きく台頭していくことになる。
 このように、ネパールで共産党が台頭した背景には同国の半封建的な農村社会構造があるが、1990年の民主化革命ではこうした社会経済上の構造的課題は留保され、さしあたりは立憲君主制の枠内でのブルジョワ民主主義の創出という次元にとどまった。

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近代革命の社会力学(連載第417回)

2022-04-26 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(5)ザイール=コンゴ救国革命

〈5‐1〉反共独裁体制の破綻
 旧ベルギー領コンゴは1960年にコンゴ共和国として独立したが、その直後、南部のカタンガ州の分離独立宣言を契機に、動乱が勃発した。このカタンガ独立の影には、銅を中心とする天然資源に富むカタンガの支配継続を狙った旧宗主国ベルギーの思惑が隠されていた。
 このいわゆるコンゴ動乱は当連載の主題から外れるので、その経緯等については割愛するが、動乱は当時の冷戦最盛期の国際情勢の影響をじかに受け、新生コンゴの指導者であったパトリス・ルムンバがソ連に接近したのに対し、カタンガの指導者モイーズ・チョンベをベルギーや米国が支援する代理戦の構図となった。
 そうした混乱の中、二度の軍事クーデターを通じて政治的な実力者にのし上がった軍人出自のジョゼフ‐デジレ・モブトゥは、1965年の第二次クーデター後、大統領の座に就いた。
 反共主義者であるモブトゥは米国をはじめ西側諸国の援助のもと、一党支配の独裁体制を構築することで動乱を収拾したが、その実態はアフリカ諸国でも最もファシズムの色濃い個人崇拝型かつ公私混同の独裁者であった。1997年まで32年間に及んだモブトゥ体制の特質については、別の拙稿に譲る。
 この長期の独裁体制が破綻に向かう契機は、やはり冷戦終結である。その経緯はソマリアのバーレ独裁体制と近似しており、米国が用済みとなったアフリカの独裁的同盟諸国への援助を打ち切ったことで、モブトゥ体制も動揺し始めた。モブトゥは1990年にやむなく複数政党制を受け入れるが、大統領の座は明け渡さなかった。
 そうした中、従来は徹底して抑圧されてきた反体制運動が蠕動を始め、90年代半ば過ぎには内戦状態に入る。実のところ、モブトゥは余命いくばくもない癌を患っており、体力的な面でも限界に達しつつあり、体制は急速に破綻に向かっていた。

〈5‐2〉地政学的革命と新たな内戦
 1996年以降の内戦状態の中、反体制運動は革命の機を窺うようになるが、その中核となったのは、コンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)であった。これを率いたロラン・カビラは元ルムンバの支持者であったが、ルムンバが処刑された後は、マルクス主義革命家として活動した。
 一時期は、キューバ革命の立役者の一人、チェ・ゲバラの支援も受けたが、酒色に溺れる怠惰なカビラを見限ったゲバラが去ると、カビラらはコンゴ東部の山岳地帯に政府の支配が及ばない小さな革命解放区を立ち上げ、中国の支援を受けつつ、金の密輸で富を蓄積していたと見られる。
 この革命解放区は1988年までに解散、カビラも一時姿を消すが、死亡説もあった彼が再び現れたのは1996年10月、ザイールの革命組織としてAFDLが結成された時のことである。この勢力が急速に実力をつけた決定的動因は、隣国ルワンダでの救国革命であった。
 前回も見たとおり、ルワンダでは大虐殺を契機に、虐殺の犠牲者民族であったトゥツィ族系の救国革命が成功していたが、革命後、虐殺の実行部隊であった民兵組織(インテラハムウェ)を含むフトゥ族がザイールへ逃げ込み、反革命組織を結成して、反攻の機を窺っていた。
 これをモブトゥ政権が支援することを恐れたルワンダの新政権は、ザイール国内のトゥツィ族(バニャムレンゲ)を中心とする反体制組織を立ち上げさせた。カビラがこれに参加し、議長に就いた経緯は不明であるが、如上の解放区時代にルワンダ救国革命を担ったルワンダ愛国戦線のカガメらの知己を得ていた可能性がある。
 いずれにせよ、AFDLの立ち上げにはルワンダが密接に関わっており、そこにルワンダ愛国戦線の発祥地でもあり、支援国でもあったウガンダが側面支援的に関わっている。さらに、もう一つの隣国であるアンゴラも、自国の反政府組織を支援していたモブトゥ政権を打倒するべく、参加してきた。
 こうして、周辺諸国共同の支援態勢を整備したAFDLは1997年以降、首都キンシャサへの進撃を開始、同年5月には首都を落とし、モブトゥはモロッコへ亡命した。こうして、ザイールの救国革命は周辺諸国の思惑が直接に反映された地政学的な革命という特質を強く帯びることとなった。
 革命後、AFDL議長のカビラが大統領に就任し、国名もコンゴ(民主共和国)に戻し、モブトゥ体制との決別をアピールしたものの、すぐに独裁化し、政府の腐敗も始まったことで、「第二のモブトゥ」と批判されるようになった。
 同時に、カビラが革命に際して支援を受けたルワンダやウガンダの影響を排除しようとしたことで、両国との関係が悪化、さらにAFDLの中核であったバニャムレンゲの排除も図ったことに反発したバニャムレンゲの蜂起を契機に、1998年以降、ルワンダとウガンダが支援する反政府組織との間で新たな内戦が勃発した。
 この内戦は周辺8か国を巻き込む形で、2001年にカビラ大統領が護衛官の手で暗殺された事件をはさみ2003年まで継続し、戦後08年までの混乱期を含めれば、推計500万人を超す死者を出した。これは、近代アフリカ史上はもちろん、第二次大戦後の世界でも最悪規模の戦争であった。まさに地政学的革命が招いた惨事とも言える。
 カビラの体制は暗殺事件後、長男でAFDLのゲリラ兵から新生コンゴ軍参謀総長となっていた当時29歳のジョゼフに世襲され、彼が以後、任期満了を過ぎて2019年まで大統領を務めることで維持されたうえ、同国初の野党への平和的な政権交代が実現したが、紛争は終焉していない。

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近代革命の社会力学(連載第416回)

2022-04-25 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(4)ルワンダ救国革命
 ルワンダでは、1961年、多数派民族フトゥ主体による共和革命により、少数派民族トゥツィの王制が倒されて以来、フトゥ族による統治が続いていたが、1973年の軍事クーデターで政権を握ったフトゥ系ハビャリマナ大統領の独裁統治下で、一定の民族融和が進んでいた。
 一方、共和革命後、フトゥ優位体制下での迫害を避けたトゥツィ族は、隣国ウガンダに逃れ、ウガンダの難民キャンプである種の難民コミュニティーを形成していた。かれらは必然的に1980年代のウガンダ内戦にも巻き込まれるが、そうした中で、ヨウェリ・ムセヴェニが指導するウガンダの革命組織・国民抵抗軍(NRA)に身を投じて活動するトゥツィの集団が出現した。
 かれらは1986年のウガンダ革命にも参画し、新たなムセヴェニ政権の高官となった者もあった。一方で、1979年に知識人トゥツィ難民を中心に結成されていた国民統一ルワンダ人同盟が1987年にルワンダ愛国戦線(RPF)に改称、武装革命運動に着手した。
 RPFは1990年10月、ルワンダ領内へ進撃して、北部地域を制圧、以後、ルワンダ政府軍との間で内戦に入るが、93年にはハビャリマナ政権との間で和平が成立した。
 この一時的な平和状態は、翌年、ハビャリマナ大統領が同様の民族構成を持つ隣国ブルンディのンタリャミラ大統領(フトゥ系)とともに搭乗していた航空機が撃墜され、両大統領が死亡した事件によって破られた。
 この暗殺事件の真相は不明であり、RPF犯行説とフトゥ強硬派軍部犯行説の両説が存在するが、いずれにせよ、この事件を最大限に利用したのは、フトゥ強硬派であった。近年の調査研究によると、かれらはあたかもナチスのホロコーストのように、極めて計画的・組織的にトゥツィ絶滅政策を立案・実行した(詳しくは拙稿参照)。
 こうして最大推計で100万人(国民の約20パーセント)が犠牲となったルワンダ大虐殺は1990年代を代表する人道犯罪となったが、同時に、この惨事が新たな革命の契機ともなる。1994年7月、RPFが攻勢を強め、ルワンダ全土を制圧したからである。
 これによって、トゥツィ主体のRPFが政権勢力として新体制を樹立した。これは、大虐殺の犠牲者側であるトゥツィが反転攻勢に出て正義を取り戻したことを意味しており、革命史上の稀有な事例である。
 このようなことが可能となった要因として、トゥツィ族は長い迫害の時代の中、上述したようにウガンダで難民コミュニティーを形成しており、RPFも虐殺を免れた在ウガンダのトゥツィ・コミュニティーを基盤としていたこと、大虐殺を実行したフトゥ勢力が政治的には十分組織化されておらず、ハビャリマナ独裁体制が終焉した後の権力空白期にあったことが大きいと考えられる。
 RPF政権の実質的な指導者はポール・カガメであり、彼は94年の救国革命後、副大統領を経て2000年に大統領に就任、以後、現在まで長期政権を維持し、カガメ政権下でルワンダは目覚ましい復興を遂げたと評されている。
 現在では独裁化傾向が指摘されるカガメ政権であるが、少数民族系の政権がこれほど長期的に安定を維持しているのは、多数派フトゥも自らが引き起こした大虐殺の結果に衝撃を受け、ある種の政治的なアパシー状態に陥ったことがあるだろう。
 こうして、ルワンダ救国革命は1990年代におけるアフリカ諸国革命の中では最も成功を収めることとなったが、虐殺の動因でもあった民族主義的な「フトゥ・パワー」が民主化運動のような形を取って再覚醒する可能性もあり、将来の新たな政変の可能性も排除することはできない。

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続・持続可能的計画経済論(連載第30回)

2022-04-24 | 〆続・持続可能的計画経済論

第3部 持続可能的計画経済への移行過程

第6章 経済移行計画

(1)総説
 これまで貨幣経済によらない持続可能的な計画経済の詳細を見てきたが、実のところ、最大の難関はそうした計画経済の運営それ自体よりも、貨幣経済を廃して持続可能的計画経済システムに移行する過程にある。
 貨幣経済システムは、従来、資本主義か社会主義かを問わず、当然の前提とされてきたため、人類は貨幣経済そのものを廃止するという経験をまだ持ったことがない。そのため、いかに円滑に貨幣経済を廃止するかということは、まさに人類未踏の課題となる。
 もっとも、貨幣経済の枠組み内で、一つの経済システムを別の経済システムに変更するということであれば、社会主義革命後の社会主義計画経済化の過程、逆に脱社会主義革命後の市場経済化の過程において、いずれも20世紀に少なからぬ諸国が経験している。
 これらのシステム変更はいずれも貨幣経済の枠組み内でのものにすぎないにもかかわらず、その過程では相当な社会経済的混乱と大衆の経済的な困窮をもたらしたことが記憶されている。まして、当然の前提となってきた貨幣経済そのものを廃止するとなれば、どれだけの混乱を生じるかが懸念されても不思議はない。
 古代における貨幣制度の創始から起算するなら、おそらく数千年にわたって連綿と続けられてきた経済システムの変革に踏み込むのであるから、これがまさに人類史的な大変革となることはたしかである。
 そのため、貨幣経済の廃止を理念的に肯定しても、それへの移行プロセスの困難さを考慮すれば反対せざるを得ないという考えもあり得るところである。実際、社会主義革命後のロシアでも、最も急進的な理論家は貨幣経済の廃止を構想したが、それは革命政権の経済政策とはならず、計画経済システムがひとまず完成した後も貨幣経済は存置されたのである。
 そこで、理念にとどまらない現実の経済政策として、貨幣経済を廃止に伴う混乱を可能な限り最小限に抑制しつつ、持続可能的な計画経済システムへ移行するためには、そうした移行過程をそのものを計画化する必要がある。これを「経済移行計画」と呼ぶことにする。言わば、経済移行の工程表である。
 この経済移行計画は経済計画そのものではないが、経済移行の年次的なプロセスを明示的に示すことによって、移行過程にありがちな社会経済の混乱を最小限に抑制することを目的とする一種の規範的な綱領である。

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近代革命の社会力学(連載第415回)

2022-04-22 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(3)ソマリア救国未完革命
 エチオピア救国革命とほぼ同時並行で勃発したのが、隣国ソマリアでの救国革命である。ソマリアは、1969年の社会主義革命以来、バーレ大統領による実質的な軍事独裁体制が続いていたが、エチオピアとの戦争以来、親ソから親米に鞍替えして政権を維持していたことは以前に見たとおりである。
 そうした立場変更に伴い、マルクス‐レーニン主義の標榜も形骸化し、実態として伝統の氏族縁故政治がはびこるようになっていた。総力戦となった対エチオピア戦争の敗北後は、経済的にも畜産の不振やインフレーションの亢進、さらに冷戦終結後は用済みとなったことで、米国からの援助も打ち切られ、ソマリアは急速に破綻国家へと向かった。
 そうした中、非道な弾圧を強めるバーレ体制に対し、不平氏族を中心とする反体制運動が次々と立ち上がった。とりわけ大集団であるハウィエ氏族が創設した統一ソマリ会議(USC)は、オガデン戦争の英雄ながらバーレ政権に冷遇され、体制を離脱したモハメド・ファッラ・アイディード将軍に率いられ、戦術的にも長けており、1989年の結成から間もない1990年末には首都モガディシオに進撃し、政権は崩壊、バーレはナイジェリアへ亡命した。
 この体制崩壊はエチオピアよりも数か月早く、これがエチオピアでの救国革命への波及的な動因となった可能性はあるが、ソマリアでは革命が早期に収束することがなかった点で、エチオピアとは対照的に、遷延した革命となった。
 その要因として、首都を落としたUSC内部で、軍事部門を率いるアイディードと文民の有力幹部で91年1月に一方的に大統領就任を宣言したアリ・マフディ・ムハンマドの間の激しい主導権争いが生じ、革命政権を樹立できなかったことがある。
 この無政府状態をもたらした対立は、国連や米国を巻き込んで、96年にアイディードが対立勢力との戦闘で負傷し、死亡するまで続き、その間、93年10月には米軍とアイディード派民兵の戦闘で米軍兵士19人が死亡する事態となった。国連が新機軸として打ち出した重武装の平和執行部隊も武力衝突を助長しただけの逆効果に終わった。
 最終的に、アイディードを継いだ子息フセインとアリ・マフディ・ムハンマドの和解を経て、2000年に暫定国民政府が樹立されたことで、長い革命過程はひとまず収束したと言えるが、この間に軍閥化した他の氏族集団はそれぞれの支配地域で事実上分離独立しており、ソマリアは四分五裂した状態となっていた。
 皮肉なことに、ソマリアは人口の大半をソマリ族が占める比較的に単民族的構成でありながら、同族内の氏族(さらにその支族)間の対立が激しいことが救国革命に際しても糾合を困難にし、かえって分裂を助長したのであった。
 この分裂は2012年に正式の連邦政府が樹立されても解消されておらず、統一国家が完全に再構されたとは言えない。それは、一方で海賊集団やイスラーム過激勢力が割拠する温床を形成し、1990年に発したソマリア救国革命は、30年以上を経ても、なお未完の状態にあると言わざるを得ない。

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近代革命の社会力学(連載第414回)

2022-04-21 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(2)エチオピア救国/エリトリア独立革命

〈2‐1〉多民族糾合革命
 エチオピアでは、1974年社会主義革命以来、メンギストゥ軍事独裁政権が80年代を通じて継続していた。しかし、そうした見かけの安定の影では内戦状態にあった。その中心は、帝政時代から、人口構成上第二位のアムハラ人の支配に対して抵抗してきた少数民族ティグライ人と紅海に面した東部エリトリア州の分離独立運動である。
 メンギストゥは自身の少数民族出自を活かした民族協和に成功せず、アムハラ支配は革命後も不変であった。そのため、ティグライ人とエリトリア人はそれぞれが人民解放戦線を結成して革命後も活動を継続した。
 中でもティグライ人民解放戦線は、80年代の飢餓を結果したメンギストゥの強制移住政策の失政を通じて活動を強化し、飢餓民の大行進や人道援助活動などの平和的な方法も活用しつつ、80年代後半には根拠地のティグライ州の相当部分を占領、解放区化した。
 転機は1988年、ティグライ人民解放戦線に加え、エチオピア最大民族オロモ人のオロモ人民民主機構、さらに支配民族アムハラ人の反体制派が結成したアムハラ民族民主運動、エチオピア南部の諸部族で構成する南エチオピア人民民主戦線という各反体制武装勢力が合同して、エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)を結成したことである。
 この組織の特徴は、構成組織が民族別に形成されており、通常なら分裂が避け難いところ、単一の革命組織として束ねられ、多民族糾合組織となったことである。加えて、エリトリア人民解放戦線が共闘関係を結び、いっそう多民族糾合の革命運動に進展した。
 もう一つの特徴として、EPRDFがマルクス‐レーニン主義を標榜したことである。これは中核となったティグライ人民解放戦線、さらに共闘関係のエリトリア人民解放戦線もマルクス‐レーニン主義を標榜していたことが大きい。
 結果として、ともにマルクス主義の政権と革命勢力が対峙する稀有の構図となった。この特質は、全般にマルクス主義が低調だったアフリカ諸国にあって、エチオピアではマルクス主義がいかに風靡していたかを示している。
 一方、メンギストゥは、ソ連の指導により1984年に独裁政党として労働者党を結成し、文民政権の体裁を整えようとしたが、1990年以降、ソ連のゴルバチョフ改革の一環で、ソ連からの援助が打ち切られた。89年には、ソマリアとのオガデン戦争以来駐留していたキューバ軍も撤退した。
 とはいえ、当時20万以上の総兵力を擁したエチオピア軍であったが、ソ連とキューバの支援を失い、軍の士気も低下する中、政権は急速に弱体化し、1991年2月以降、攻勢に出たEPRDFが5月に首都アディスアベバを制圧、メンギストゥはジンバブウェに亡命、革命は成功した。
 EPRDFはそのまま一党支配型の政権勢力となり、ティグライ人民解放戦線出身のメレス・ゼナウィ首相のもと、マルクス‐レーニン主義を離れ、中国の社会主義市場経済にも似た開発独裁的な手法で、経済成長を遂げた。
 こうして多民族糾合革の結果としての新連邦体制が革命後30年近くも持続したのも稀有のことであったが、2019年に、オロモ人出自のアビイ・アハメド首相のもと、EPRDFが繫栄党として統合されると、ティグライ人民解放戦線はこれに参加せず、野党化したことで、多民族糾合体制が初めて破綻した。
 政権離脱したティグライ人民解放戦線はさらに根拠地のティグライ州で分離独立運動を展開、連邦政府軍との内戦に発展し、同州は深刻な人道危機に陥った。この件は革命の範疇を離れ現在進行中の事態であるので、ここでは立ち入らない。

〈2‐2〉エリトリアの独立
 イタリアのムッソリーニ時代のエチオピア侵攻後、植民地支配下に置かれ、第二次大戦後は国際連合決議により、エチオピアとの連邦体制を強いられたエリトリアはエチオピアのティグライ人とも近縁なティグリニャ人が最大民族を構成し、抑圧的なエチオピア支配に対する独立運動が帝政時代以来展開されてきた。
 その中心は1970年にそれまでの解放組織エリトリア解放戦線から分派して結成されたエリトリア人民解放戦線であるが、80年代末にはエチオピア側のEPRDFと協力して、1991年の革命に参加した。
 この共闘関係は政府軍に比して武力で劣るEPRDFを助け、メンギストゥ政権打倒で功績を挙げたことから、エチオピア救国革命はエリトリア独立含みのものとなった。そのため、エチオピア革命後、旧エチオピア軍が駆逐されたエリトリア州をエリトリア人民解放戦線が制圧し、独立革命に進展した。
 その後、米国が仲介する和平協議を経て、1993年の住民投票で独立が承認され、エリトリアは正式に独立国となった。これにより、エチオピアは紅海へのアクセスを喪失し、内陸国となった。独立エリトリアは90年代末にエチオピアと国境紛争に陥るも、和平が成立し、以後は関係が修復された。
 人民解放戦線は革命後、独裁政党となり、マルクス主義を離れた翼賛的民族主義政党・民主主義と正義のための人民戦線に改称した後、独立以来のイサイアス・アフェウェルキ大統領による個人崇拝型のファッショ体制に転化拙稿参照)、エチオピアとは対照的に国際的にも孤立した状況にある。
 エリトリア人民解放戦線はエチオピアのEPRDFのような多民族糾合組織でなかったこと、地政学的に複雑な「アフリカの角」に位置するエリトリアは、エチオピアやスーダンなどの大国に囲まれつつ、革命によって勝ち取った宿願の独立を維持していくためにも一元的な政治指導への要請が強いことが、個人独裁化への力学をもたらしたものと言える。

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近代革命の社会力学(連載第413回)

2022-04-18 | 〆近代革命の社会力学

五十八 アフリカ諸国革命Ⅳ

(1)概観
 サハラ以南アフリカ地域では、1990年代に第四次の革命潮流が見られた。この潮流に含まれるのは、エチオピア、ソマリア、ルワンダ、ザイール(現コンゴ民主共和国)における各革命であり、数的には多くないが、アフリカ大陸における親ソ及び親米の代表的な諸国において長期支配体制を崩壊させた革命であり、アフリカの地政学を変容させることになった。
 この潮流は、冷戦終結とソ連邦解体革命による余波の一部である。実際、エチオピアは親ソ、ザイ―ルは親米のそれぞれ要となる大国であり、この両体制の長期独裁体制が革命で崩壊したことは、まさに冷戦構造の解体と連動している。なお、国境紛争を抱えるエチオピアとの対抗上、親ソから親米に転向したソマリアの独裁体制の崩壊も、同様の力学に属する。
 これらといささか趣を異にするのは、ルワンダの革命であるが、これはルワンダにおける長年の民族対立に起因するジェノサイドという90年代を代表する人道的惨事を機に、ジェノサイドの被害者側民族を主体とする反体制武装勢力が反転攻勢に出て革命に成功し、正義を取り戻すという稀有の革命であった。
 もっとも、このルワンダ革命はザイール革命と連動しており、ルワンダ革命を担った武装勢力はザイール革命を担った武装勢力と共闘し、両勢力は交錯している。そのため、間接的にはルワンダ革命も冷戦終結後の力学を反映していると言える。
 これら四つの革命すべてに共通するのは、かつてアフリカ諸国革命でしばしば見られた急進的青年将校が主導するクーデター型の革命ではなく、いずれも在野の武装革命勢力が内戦に勝利した戦争型の革命であったことである。これは民衆蜂起による民衆革命とも異なり、背後に民族紛争が絡むアフリカ特有の事象である。
 それとともに、いずれも長期独裁体制の下で、あるいはルワンダのようにジェノサイドという非人道的事態によって社会が全般的な破綻に陥った状況を救い、国家再建を目指す「救国革命」という性格を帯びていたことも特徴的である。
 それぞれの革命の帰結は異なるが、政権党となった革命勢力により最も安定した体制が再構されたルワンダに対し、ソマリアは全面的な無政府・内戦状態から国家の分裂に至り、テロリズムの温床ともなるなど、最も苦境に置かれたまま今日に及び、修復が困難な情勢にある。その中間に、民族紛争・内戦を抱えつつも長期安定体制が続くエチオピアとコンゴがある。

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比較:影の警察国家(連載第59回)

2022-04-17 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐1‐0:国家=地方警察の複合構成

 日本の警察機構において物量的に最大のものが警察庁を頂点とする都道府県警察であるが、これは概観でも触れた通り、頭部が国、胴体は都道府県というスフィンクスのような奇な複合組織となっている。
 このような組織構造となった背景として、戦後改革がある。占領軍主導による戦後改革では戦前の警察国家の象徴だった内務省警保局を司令塔とする集権的な国家警察の解体が目指され、代わって、アメリカ的な自治体警察(市町警察)に転換されるとともに、自治体警察が設置されない地域を管轄する国家警察として国家地方警察が設置された。
 これは国と自治体の二元的な警察制度であったが、自治体には警察を維持する財政力が不足していた一方で、国家地方警察本部は公安警備分野では事実上自治体警察より優位にあったことなどから、占領終了後の1954年の警察法制定を機に再度全面改正され、現行のスフィンクス型警察制度に移行した経緯がある。
 その際、戦前の純粋な国家警察の復活ではなく、折衷的な国家=地方警察制度となったのは、新憲法上地方自治制度が導入され、都道府県が限定的ながら自治権を有することとなったのに合わせ、警察制度も限定的に都道府県に分散するという方向性が採用されたためであった。
 これによって、人事上も大多数の警察官は都道府県の地方公務員とされつつ、警視正以上の上級幹部警察官は地方警務官なる身分を持つ国家公務員とされ、まさに都道府県警察の首脳部は国が押さえる形となった。
 さらに複雑なことには、警察監督機関として警察庁を管理する国家公安委員会、各都道府県警察を管理する都道府県公安委員会が相似的に設置されているが、この制度は警察の民主的運営と中立的管理のためとして、アメリカの自治体警察に見られる警察管理委員会制度を模倣したものとされる。
 しかし、国家公安委員長は国務大臣をもって充てられるうえに、その他の公安委員も政権に近い有識者から内閣総理大臣によって政治任命されるため、警察の民主的運営と中立的管理という本来の趣旨は形骸化している。
 国家公安委員会による地方警務官の任命に同意権を持つ都道府県公安委員会も知事の任命制であるため、同様に形骸化するとともに、如上地方警務官の任命に際して不同意とする例はないため、その点でも形骸化している。

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比較:影の警察国家(連載第58回)

2022-04-17 | 〆比較:影の警察国家

Ⅴ 日本―折衷的集権型警察国家

1‐0:国の集中的警察機構

 日本の警察機構は、国に集中していることが特徴である。その点ではフランスの警察制度に近似しているが、フランスのような純粋の国家警察は存在せず、警察庁を統括実務機関とする分散的な都道府県警察制度がその中核にある。
 こうした警察庁‐都道府県警察の系統とは別途、警察庁の附属機関として、天皇及び皇后、皇太子その他の皇族の護衛、皇居及び御所の警衛に当たる特別警察として皇宮警察本部が設置され、一種の近衛警察となっている。
 さらに、法務省系の警察機関として、国内保安機関として政治警察機能を持つ法務省外局の公安調査庁、近年内部部局から独立して準警察機能を高める出入国在留管理庁があるほか、刑務所その他刑事拘禁施設内での警察権を持つ刑務官を統括する法務省矯正局も限定的に警察機関の性格を持っている。
  また、防衛省系の警察機関として、防衛機密の保持を任務とする自衛隊情報保全隊は防諜組織ながら市民活動の監視にも及ぶ限りで機能的な公安警察機能を持つ。なお、自衛隊内の警察活動に専従する陸海空各自衛隊の警務隊は軍隊の憲兵隊に相応するが、自衛隊が軍隊ではないとされる限りにおいて国の警察機関の一つに数えることもできる。
 さらに、国土交通省系の警察機関として海上保安庁がある。海上保安庁は海の警察機関であるとともに、接続水域や排他的経済水域でも活動することから、陸の国境線を持たない日本では、海上保安庁が非軍事的な国境警備隊の役割を担っている。
 また、厚生労働省系の特別警察機関として、麻薬取締部がある。これは名称通り、麻薬捜査を主任務とする捜査機関であり、中央組織を持たず、厚生労働省の地方支分部局である地方厚生局または地方厚生支局に設置される形で、分散的に配置されている。
  同じく厚生労働省系の特別警察機関として、労働基準監督署は労働関係法令違反の捜査を行う労働警察の役割を持っている。この場合、労働基準監督官が司法警察職員として活動する。
 以上の他にも、農林水産省系の警察機関として、水産庁には違法操業などの漁業取締りに当たる漁業監督官が所属し、林野庁には違法伐採等の森林関係犯罪の取締りに当たる森林官を擁する限りで、両庁は警察機関としての機能を有する。
 また経済産業省系の警察機関として、鉱山保安監督に当たる鉱務監督官を擁する限りで、同省地方支分部局である鉱山保安監督部も警察機関として機能する。
 如上の国レベルの警察諸機関は体系的というより、日本の行政の特徴である縦割り構造に組み込まれる形で所管官庁ごとに組織されているが、基本的に警察庁、法務省、防衛省、国土交通省の各系統が主要なものである。

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近代革命の社会力学(連載第412回)

2022-04-15 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(9)革命の帰結

〈9‐1〉独裁制と独占資本の出現
 1991年のソ連邦解体革命は共産党独裁体制を終わらせたが、その最終的な帰結は芳しいものとはならなかった。各々独立した15の構成共和国の多くで民主主義が成熟することはなく、また北欧型の福祉国家へ移行することもなく、新たな形態の独裁制と独占資本が出現したからである。
 例外として、独立革命によっていち早くソ連邦を離脱したバルト三国では西欧型の議会制が定着し、ブルジョワ民主主義のもとで安定した体制に転換されて、北欧との結びつきも強めている。中でも最小のエストニアは電子投票システムの導入など先端的な情報技術立国として成功を収めた。
 また、モルドバでも比較的安定した議会制が定着したが、バルト三国では共産党が非合法化された中、興味深いことに、ここでは共産党が議会政党として生き延び、選挙を通じて改めて政権党となったことさえある点で異例である。
 それ以外の11か国では民主主義は定着せず、旧共産党幹部がすみやかに政権を掌握し、独裁化する例が多く見られた。中でも、ベラルーシと中央アジア諸国でそれが顕著である。同時に、旧国営企業群が市場経済化改革の中で政商的な独占資本として再編され、独占資本と独裁制の二本立て社会編制が形成されていった。
 そうした中で、グルジア(現ジョージア)とキルギスでは、2000年代に旧共産党系独裁政権を打倒する民衆革命を通じて一定民主化された新体制が樹立されたが、政情不安はその後も続いた。
 ウクライナでは議会制が定着はしたものの、地政学上親ロシア派と親欧州派、さらに独立後台頭したウクライナ民族派の鼎立関係が激化し、2010年代には民衆革命により親ロシア派政権が打倒された。
 しかし、それは親ロシア派の反発を招き、ロシア系の多いクリミアの分離・ロシア併合やロシア系少数派を抱える東部地域での分離独立運動など、国の存亡に関わる動乱を惹起し、旧ソ連時代の産業基盤を擁しながら、経済的にも欧州最貧状況に陥った。

〈9‐2〉ロシアの社会再編
 旧ソ連邦中枢国ロシアの社会再編については、ソ連体制を産出した1917年ロシア革命に照らしつつ、これを取り出して論じる意義がある。
 革命後、単立国家となったロシアでは、ソ連邦解体革命の立役者でもあったエリツィン大統領の下で、急激な市場経済化改革が断行されることとなった。
 その過程で、旧国営企業幹部や若手共産党員などが時に不正な手段によって払い下げられた国有資産を取得し、急速に財閥が形成された。この新興財閥(オリガルヒ)は一種の政商として政権とのコネクションを利用しながら急成長し、資本主義の形成に寄与した。
 このような過程は、1917年の社会主義革命を起点に見れば、それ以前の帝政ロシア時代に相当な発達を見せていた独占資本主義の復刻であり、再版独占資本主義と言うべき反革命反動事象であった。それは、政権との癒着による構造的汚職の要因ともなった。
 一方、政治的上部構造の面では、エリツィン大統領自身、1999年の任期途中での辞任表明演説で認めたように、民主主義の樹立には成功しなかった。
 その要因として、共産党出自のエリツィン自身の権威主義的体質とともに、ソ連時代の抑圧的社会統制の要であった国家保安委員会(KGB)の清算がされず、単に二つの他名称機関に分割されるにとどまったことがある。
 その点では、旧東ドイツのカウンターパートであった国家保安省(シュタージ)をはじめ、脱社会主義革命の後、同種機関が完全に解体され、機密文書の開示や密告者の究明などがなされた諸国とは対照的であった。
 これは、議事堂砲撃にまで至った議会勢力との熾烈な対立やチェチェン戦争対応、さらに自身に向けられた汚職疑惑の封印のためにも、エリツィン政権が旧KGBを中心とした旧治安機関出身者を活用する必要があったためである。中でも後任に抜擢したウラジーミル・プーチンはその筆頭者である。
 その結果、ロシアでは、さしあたり形式的には直接選挙に基づく大統領制と議会制が定着したものの、その枠組みのもとで、プーチンを中心に旧治安機関閥(シロヴィキ)が支配する翼賛的政治体制に再編されていった。
 結局のところ、70年余り続いたソ連体制はロシアを含む旧ソ連地域に遺産として残される経済的平等主義も政治的民主主義も持ち合わせておらず、かえって転形して新たな独裁制と独占資本を産み出す母体となったと総括するほかはない。

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近代革命の社会力学(連載第411回)

2022-04-14 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(8)革命の余波②:国際的
 革命的なソ連邦解体は、30年以上を経た現在まで及ぶ国際的にも長期波動的な余波をもたらした。最も大きなものは、東西冷戦構造の完全な解体である。冷戦の終結はすでにベルリンの壁の打壊を契機に、米ソ両首脳により1989年末には宣言されていたが、これは政治的な声明の性格が強く、この時点ではソ連邦はまだ存続することが予定されていた。
 しかし、1991年12月を境に、単一の主権国家としてのソ連邦は存在しなくなり、ソ連を盟主とする東側陣営というものも消滅した。結果的に米国一極集中状態となったことで、世界の構造も変容した。90年代の米国は 第二次大戦に続き、冷戦にも勝利したとの前提で、「唯一の超大国」なる新たな自己規定に酔いしれた。
 一方、東側陣営にあっては、すでに中・東欧の親ソ社会主義圏は連続革命によって続々と脱社会主義化に向かっていく中、東側陣営の軍事的要であったワルシャワ条約機構もソ連邦解体に先立って1991年7月には解散していたが、ソ連はアジア・アフリカからカリブ海に及ぶ広い範囲に多くの衛星国・同盟国を従えており、好条件で経済・軍事援助も行っていたところ、これらの諸国は突然、後ろ盾と援助を失うこととなった。
 そうした第三世界諸国の中でもアフガニスタン、ベトナム、北朝鮮、キューバ、エチオピアはそれぞれが属する地域における親ソ中核国としてソ連の世界戦略上も重視されていたが、これら諸国は、それぞれの仕方で体制崩壊や路線変更、自立化を余儀なくされた。
 これら親ソ中核諸国のうち、ソ連が内戦支援のため介入戦争を続けたアフガニスタンの社会主義体制は1989年のソ連軍全面撤退を経て、ソ連邦解体後の1992年には内戦に敗れ、崩壊した。エチオピア社会主義政権に対しては1990年の段階ですでにソ連の援助が打ち切られ、ソ連邦解体に先立つ1991年5月に反体制武装勢力による革命により体制崩壊した。
 一方、まさにソ連が生みの親とも言える北朝鮮では建国者・金日成の強固な個人崇拝体制が確立されており、国内的な体制維持は既定的であったが、ソ連の核の傘を失った防衛上の不安から自立的な核兵器開発に走り、1994年には核兵器拡散防止条約を脱退したことで、米国が一時的に北朝鮮核施設の空爆も検討するという危機に発展した。
 こうした直接的な余波に加え、アフリカではソ連体制を範とする一党支配体制(そのすべてが親ソであったわけではない)が林立していたところ、ソ連邦解体に前後して、複数政党制へ移行するドミノ倒し的な動きが連続した。これらの体制転換の多くは革命ではなく、独裁的長期執権者による反対勢力への(しばしば形ばかりの)譲歩策として行われたが、間接的にはソ連邦解体の余波現象に含まれる。
 より一層間接的な余波として、世界の共産党組織の在り方にも大きな影響を及ぼした。それまで世界中に拡散していた共産党の多くが綱領としてきたマルクス‐レーニン主義を転換し、民主的社会主義等の中和化路線に転換し、イタリア共産党のように議会政治に馴致していたユーロコミュニズム系の党でさえも、ブルジョワ民主主義への合流により、消滅していった。
 また、中国共産党は引き続きマルクス‐レーニン主義を綱領としながらも、従前から推進していた「改革開放」を拡大し、1993年には「社会主義市場経済」テーゼを憲法上も承認し、実質的に資本主義との合流を目指したが、これもソ連邦解体の間接的余波と言える。
 間接的余波の中でもユニークなものとして、日本におけるいわゆる55年体制の終焉も挙げることができる。これは日本共産党とソ連共産党の絶縁状態という特殊事情から、共産主義政党ではない日本社会党をソ連が支持していた中、それまで野党第一党として一定の対抗力を保持していた社会党もその存在理由が揺らぎ、90年代の政界再編力学の中で、事実上解体(少数政党・社会民主党に退縮)されていった。
 総じて、社会思想の面でも、憲法上「共産主義への道における法則にかなった段階」たる「発達した社会主義社会」1977年憲法前文と自己規定していたソ連邦がついに到達せず終わった共産主義は失効したものとみなされ、少なくともメインストリームにおいてはそもそも思考されなくなるという効果も生んだ。一つの範例的な体制の終焉が人間の集団的な思考枠組みの変容をももたらすという例証である。

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近代革命の社会力学(連載第410回)

2022-04-12 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(7)チェチェン独立革命とその挫折
 ソ連邦解体革命の対内的な余波事象の中でも、チェチェン人による分離独立運動は独立革命としての性格を持ち、ロシアとの間で二度の戦争に発展するなど、最も大きな動乱を引き起こした点で、特筆する意義がある。
 コーカサス地方のイスラ―ム系先住民族であるチェチェン人は、18世紀以降、帝政ロシアの攻勢に抵抗し、19世紀には近縁の周辺民族と共に神権制のイマーム国家を形成したが、1859年には時のイマーム・シャミールがロシアに投降し、ロシアの支配下に置かれた。
 ロシア十月革命後、ソ連邦が形成されると、近縁のイング―シ人とともに名目的なチェチェン・イングーシ自治ソヴィエト社会主義共和国として包括されたが、第二次大戦中に少数民族の裏切りを警戒したスターリンの強制移住政策により共和国は廃され、住民は中央アジア・シベリア送りとなった。
 その後、スターリン死去を受けた脱スターリン化改革により、チェチェン・イングーシ自治共和国が再構成された。とはいえ、この共和国もまた名目上の自治国家に過ぎず、実質はソ連邦構成共和国たるロシアの一部であった。そのような状況で、1990年代の連邦解体過程を迎えることになる。
 ゴルバチョフ政権が推進していた新連邦条約では、チェチェン・イングーシを改めてソヴィエト連合に加盟する主権国家として認める予定であったところ、91年8月の保守派クーデターを機に新連邦条約も棚上げとなった。
 クーデターが失敗した翌月の91年9月、独立を明確に目指す野党組織として結成されていたチェチェン人民全国会議が決起し、チェチェン‐イングーシ最高会議その他主要施設を制圧し、革命に成功した。そのうえで、同年11月、チェチェンの古い地名イチケリアを冠したチェチェン‐イチケリア共和国の成立が宣言された。
 この革命過程を主導したのは、初代大統領に選出されたジョハル・ドゥダエフであった。彼は元ソ連邦空軍少将で、少数民族出自としては異例のエリート将校であったところ、最後の任地エストニアで独立阻止のためソ連軍が命じた議会封鎖を拒否したことで、エストニア独立にも寄与した。この体験に触発されて、軍を退役、帰郷した後、自ら独立運動家となった。
 ドゥダエフは91年の保守派クーデターに際してはいち早くエリツィンら抵抗勢力を支持したが、単立国家となったロシアは枢要な石油パイプライン・ルートが通るチェチェンの独立は容赦しなかった。そこで、エリツィン政権は、94年2月以降、ロシア軍を投入し、チェチェン‐イチケリア共和国を打倒する軍事作戦を展開した。
 こうした始まった第一次チェチェン戦争でロシア軍はチェチェン側のゲリラ戦に苦戦するも、96年にドゥダエフを戦闘中暗殺することに成功し、97年には平和条約の締結を実現した。
 しかし、独立戦争を通じて台頭し、イスラーム首長国の樹立を企てるイスラーム過激派によるとされるロシア国内のテロを理由に、99年、ロシア軍が再び進撃、第二次チェチェン戦争となる。
 今次は長期戦とならず、ロシア軍は2000年5月までにチェチェンを制圧し、親ロシア傀儡政府を樹立したが、その後も、チェチェン過激派による対ロシア・テロ活動が2010年代初頭まで続き、多くの犠牲者を出した。
 対するロシアはドゥダエフ以降も、チェチェン・イチケリア共和国大統領を名乗る独立運動の歴代指導者全員を暗殺する徹底した弾圧作戦で臨み、力で抑え込むことにひとまず成功したため、チェチェン独立革命は二次に及ぶ凄惨な戦争で最大推計15万人を超える民間死者を出して挫折する結果に終わった。
 その点、ロシア側では、第二次チェチェン戦争の勝利は健康不安のエリツィンから首相、続いて大統領代行に抜擢されたウラジーミル・プーチンの最初にして最大の功績とみなされ、その後のプーチン長期支配体制のステップともなった。

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近代革命の社会力学(連載第409回)

2022-04-11 | 〆近代革命の社会力学

五十七 ソヴィエト連邦解体革命

(6)革命の余波①:対内的
 ソ連邦の急激な革命的解体は、独立した15の共和国の内部、さらには共和国間にも重大な余波をもたらした。その最大のものは、ソ連体制が共産党独裁支配とマルクス‐レーニン主義のイデオロギーにより抑圧していた民族主義を解き放ったことである。
 そもそも15の構成共和国がそれぞれ完全に独立したこと自体が民族主義の表出でもあったが、70年近いソ連の歴史の過程で多くのロシア人がロシア以外の共和国にも移住・定住していたことから、独立後、それら移住ロシア人は各国の「少数民族」として劣勢に置かれた。
 このことはバルト三国のようにソ連邦解体革命で先陣を切ったところでは先鋭な民族問題を生じ、エストニアとラトビアでは偏狭な民族主義イデオロギーから、ロシア系住民に国籍を与えない強硬策を採り、大量の無国籍者を生む結果となった。
 一方、ウクライナでは、独立後に台頭してきたウクライナ民族派に親ロシア派が対抗する構図が出現し、両者間での熾烈な政争が最終的に親ロシア派を敗北させる民衆革命を惹起し、ロシア系住民の多い東部を拠点とする親ロシア派の分離独立運動による長期内戦をもたらした。―その延長線上に現在進行中のロシアによるウクライナ侵攻がある。
 また、独立した共和国間で深刻な国境紛争を生じた事例として、アゼルバイジャンとアルメニアの国境地域ナゴルノ‐カラバフをめぐる紛争がある。ナゴルノ‐カラバフにはアルメニア系住民が多いが、アゼルバイジャンが領有権を主張して国境紛争に発展し、1990年代の戦争では最大推計で3万人が死亡する惨事となった。
 他方、各構成共和国内部でも少数民族が複雑なモザイク状に主権なき名目上の自治共和国を形成して編入されていたことが多く、それら地域がソ連邦解体革命に前後して次々と独立宣言を発する事態となった。
 中でも、コーカサス地方のチェチェン人はロシアに対して独立革命を起こし、90年代以降、二度にわたる独立戦争を経験するが、最終的にロシアの圧倒的な武力の前に敗北し、独立は果たせなかった。この件については次節で取り出して扱う。
 その他、グルジア(現ジョージア)でも南オセチアの少数民族オセット人が自治を剥奪されたことに反発し、蜂起した。この地域はロシアに隣接するため、ロシアとの事実上の国境紛争も兼ね、2000年代には南オセチアを支持するロシアとの間で戦争にも発展した。
 ジョージアでは、南オセチアに加えてもう一つ、少数民族アブハズ人のアブハジアでも分離独立運動が発生し、同じく国境を接するロシアを巻き込む紛争となり、ロシアの保護占領下にある南オセチアと並行的な形で、事実上の分離独立状態にある。
 さらに、民族問題とは位相を異にするが、タジキスタンでは無神論のソ連体制下で長らく抑圧されてきたイスラーム復興勢力が旧共産党勢力に対して武装蜂起し、1992年から97年にかけて、ロシアも巻き込み、最大推計で10万人が犠牲となる凄惨な内戦に進展、その過程ではイスラーム系少数民族の殺戮も行われた。
 こうした大小様々な旧ソ連邦領内での武力紛争は、ソ連体制が民族問題を本質的には何ら解決しておらず、ロシア革命により清算したはずの帝政ロシアの遺産でもある帝国主義的な膨張政策を別の形で実質的に継承していた事実を露呈したものと言える。

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