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「女」の世界歴史・総目次

2016-09-29 | 〆「女」の世界歴史

本連載は終了致しました。下記総目次より(一部記事以外は系列ブログへのリンク)、全記事をご覧いただけます。

 

序論 ページ1

第Ⅰ部 長い閉塞の時代

〈序説〉 ページ2

第一章 古代国家と女性

(1)古代文明圏と女権
 ①古代メソポタミアの女権
 ページ3
 ②古代エジプトの女王たち ページ4
 ③ヌビアの女王たち ページ5

(2)古代ギリシャ・ローマの女権 
 ①古代ギリシャの女性排除 ページ6
 ②巫女の宗教‐政治 ページ7
 ③ローマ帝国の女性実力者たち ページ8
 ④女装皇帝の悲劇 
 ⑤ビザンツ帝国の女帝たち ページ9

(3)古代東アジアの女権
 ①中国の女権忌避 ページ10
 ②唯一女帝・武則天
 ③
中国の宦官制度 ページ11
 ④朝鮮の例外女王 ページ12
 ⑤古代日本の女権 ページ13
 ⑥奈良朝「女帝の時代」 ページ14

第二章 女性の暗黒時代

(1)女権抑圧体制の諸相
 ①キリスト教と女性 ページ15
 ②ゲルマン王権とサリカ法典 ページ16
 ③イスラーム教と女性 ページ17
 ④女性スルターンの受難 ページ18
 ⑤儒教諸国家と女権 ページ19
 ⑥両義化される「男色」 ページ20

(2)女傑の政治介入
 ①娼婦マロツィアと聖女オリガ ページ21
 ②二人のメディシス女傑 ページ22
 ③オスマン帝国の「女人政治」 ページ23
 ④武家政権の女性権勢家たち ページ24
 ⑤朝鮮王朝の女性権勢家たち ページ25

(3)封建制と女の戦争
 ①英国王妃たちの内戦〈1〉 ページ26
 ②英国王妃たちの内戦〈2〉 ページ27
 ③戦国日本の女性城主たち ページ28
 ④トスカーナ女伯の戦い ページ29
 ⑤女性戦士ジャンヌ・ダルク ページ30

第Ⅱ部 黎明の時代

〈序説〉 ページ31

第三章 女帝の時代

(1)近世帝国と女帝
 ①イサベル1世とレコンキスタ ページ32
 ②テューダー朝の姉妹女王 ページ33
 ③スウェーデン女王クリスティーナ ページ34

(2)マレーの女性君主たち ページ35

(3)ロシアの女帝時代 ページ36

(4)二人の啓蒙専制女帝 ページ37

第四章 近代化と女権

(1)市民革命と女性 ページ38

(2)産業革命と女性 ページ39

(3)近代化と女性権力者
 ①ヴィクトリアとイサベル ページ40
 ②マダガスカルの近代女王たち ページ41
 ③西太后と明成皇后 ページ42

(4)アジア近代化と女性
 ①明治維新と女性 ページ43
 ②辛亥革命と女性 ページ44
 ③トルコ革命と女性 ページ45

(5)同性愛の近代的抑圧 ページ46

第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代

〈序説〉 ページ47

第五章 女性参政権から同性婚まで

(1)女性参政権運動 ページ48

(2)社会主義革命と女性 ページ49

(3)オランダの「女王の世紀」 ページ50

(4)選挙政治と女性執権者 
 ①パイオニアたち ページ51
 ②南アジア女性政治と受難 ページ52
 ③ポスト冷戦と女性執権者 ページ53
 ④女性政治のグローバル化 ページ54

(5)反女権と女性反動 ページ55

(6)同性婚運動と反動 ページ56

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「女」の世界歴史(連載最終回)

2016-09-27 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(6)同性婚運動と反動

 近代的な女権拡大運動は近代的な自我の観念と個人の自由の拡大を求める思潮に発していたが、それは同時に、同性愛者の権利拡大にも影響を及ぼしている。前近代までの同性愛は、日本の衆道に象徴されるように、ある種の性文化・性慣習であり、そもそも「同性愛者」というような観念も意識も存在していなかった。
 自身の性的指向を自己のアイデンティティーとして意識する「同性愛者」が誕生するのは、近代的な自我の観念の誕生に多くを負っている。おそらくその先駆者は、ドイツ人のカール・ハインリヒ・ウルリヒスである。
 以前も見たように、19世紀末のドイツ帝国では、同性愛行為を犯罪として取り締まる保守的な政策が採られており、同性愛者は法的に抑圧されていたが、そうした中で、一介の裁判所職員だったウルリヒスは自身の同性愛が露見したことで解雇されたのを機に、初めて公然とカミングアウトした自覚的な同性愛者として、同性愛者の権利擁護のための執筆活動を開始する。
 折りしも、オーストリア‐ハンガリーのジャーナリスト・人権活動家であったカール‐マリア・カートベニが「ホモセクシュアル」の用語を発案し、性的指向性という概念が正面から論議されるようになった。これにより、同性愛は単なる風俗文化から、人権問題に移行していく。
 しかしウルリヒスらの活動は、当時の時代状況で実を結ぶことはなく、ドイツではナチス政権下で、同性愛者の殺戮が断行される。そこまで極端な迫害を経験しなかった諸国でも、同性愛者はアンダーグラウンドの存在に貶められ、逼塞しながらも、独自の生活コミュニティーを形成するようになる。
 再び同性愛者の権利問題に光が当たるのは、遠く1970年代の米国においてである。その先駆者は、ウルリヒスよりおよそ100年後に生まれたハーヴェイ・バーナード・ミルクであった。彼はアメリカで最大のゲイ・コミュニティーを擁する街となっていたサンフランシスコでカメラ店を営みながら市のゲイ・コミュニティーのリーダー的存在となり、77年、サンフランシスコ市会議員に当選する。
 市会議員としてのミルクは、市の同性愛政策の推進などの先駆的な取り組みを主導するが、78年、前市議の暴漢の手で暗殺されてしまう。犯人が陪審裁判で比較的軽い刑に処せられたことを機に、サンフランシスコのゲイ・コミュニティーで抗議行動が巻き起こり、暴動に発展したことは全世界的な注目を集めた。
 ミルク自身はパートナーと暮らしていたが、彼の時代のテーマは同性愛を理由とする解雇の禁止といった差別からの自由であり、同性愛者同士の婚姻―同性婚―の問題には手が届いていなかった。同性婚の問題へ飛ぶ前に、同性愛者は1980年代からのエイズ(後天性免疫不全症候群)禍にさらされる。エイズは同性愛者特有の感染症ではないが、男性同性愛者が性行為を通じて感染しやすく、有効な薬剤が開発される以前の90年代にかけて、少なからぬ著名人のエイズ関連死が続いた。
 エイズと同性愛を結びつける新たな偏見と差別の時代を越えて同性婚要求運動が隆起するのは、2001年にオランダが世界で初めて同性婚を容認して以降である。18世紀には当時最も激しい同性愛者迫害を経験したオランダであるが、1987年には歴史上迫害・弾圧の犠牲となったすべての同性愛者を追悼する世界初の同性愛記念碑が建立される国となっていた。
 宗教保守勢力の強い米国では04年、時のブッシュ政権が同性婚を禁止する憲法修正を提起したことをめぐり激しい論争を招いたが、10年以上に及ぶ論争と運動の末、2015年、連邦最高裁で同性愛者の婚姻の権利が承認されることとなった。
 この間、欧州を中心に同性婚を認める諸国は確実に増加しており、09年、アイスランドでは世界で初めて同性愛者を公言する女性のヨハンナ・シグルザルドッティルが首相に就任したほか、ルクセンブルクは2013年以降、グザヴィエ・ベッテル首相とエティエンヌ・シュナイダー副首相がともに男性同性愛者という世界初の国となった(追記:シュナイダー副首相は2020年に辞職)
 こうした一方で、宗教的・道徳的な観点からの同性婚反対行動、また保守的な中東・アフリカ、ロシアを中心に反同性愛を政策的に鮮明にする諸国もあり、女権におけると同様、ここでも権利の伸張とそれに対する反動の相克が見られる。
 注目すべきは、同性婚運動では女性同性愛者の推進力が大きいことである。伝統的なフェミニズムでは異性愛の既婚女性がその推進力となっていたのに対し、同性婚運動では従来、ほとんど不可視の存在であった女性同性愛者が可視的な存在として登場している。このことは、翻ってフェミニズムにも新たな刺激を与えるであろう。
 同時に、従来の女権闘争では攻守の対立関係に立ちがちだった両性が同性婚への権利という共通の権利を求めて共闘するという新たな潮流をも作り出している。その先行きは定かでないが、女性参政権をほぼ達成し終えた「女」の世界歴史は、新たな段階を迎えようとしているように見える。(連載終了)

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「女」の世界歴史(連載第55回)

2016-09-26 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(5)反女権と女性反動

 2000年代以降の女権の急速な伸張は、それに対する反動も引き起こしている。そうした反女権の急先鋒はイスラーム圏にある。とりわけ近年、中東・アフリカ地域を中心に猛威を振るっているイスラーム過激勢力である。
 先例としては、アフガニスタンで1996年から2001年にかけて政権を握ったターリバーンがある。ターリバーン政権は特異なコーラン解釈に基づき、体系的な女性抑圧政策を断行した。ターリバーン政権下の女性たちは肌を全面的に覆う民族衣装を強制された上、事実上禁足状態に置かれ、勉学や勤労の機会も奪われたのである。
 ターリバーンが9・11事件後、多国籍軍による攻撃を受け、崩壊した後も、隣国に出現したパキスタン・ターリバーン運動なる組織が2012年、女子の教育を受ける権利を訴えていた少女ブロガーのマララ・ユスフザイ(14年度ノーベル平和賞受賞者)を銃撃する暗殺未遂事件を起こしている。
 女性抑圧は2014年以降、イラクとシリアの一部を事実上占領統治するイスラーム国にも見られるが、その支配地域ではより粗野な形で、組織的レイプや女性の強制結婚、性奴隷化が公然と行なわれていることが報告されている。また西アフリカのナイジェリアで西洋式教育の排除を最大理念に掲げるボコ・ハラムを名乗る集団は、女子教育を敵視し、2014年には女子校に乱入、数百人の生徒を拉致拘束する事件を起こした。
 こうした反女性テロと呼ぶべき女性に対する人道犯罪は、各地のイスラーム過激勢力にとってその男権主義的な主義主張を表明する一個の戦略として意図的に遂行されているものと見られる。

 このような反女権の動きとは別途、女性自身の保守反動化という現象も見られる。女性の保守化現象を現代史の中で先駆的に示しているのは、欧州初の女性首相となった英国のマーガレット・サッチャーである。まさに保守党党首として左派の労働党から政権を奪還した彼女は、「鉄の女」とも称される時に強権的とすら言える指導力で10年以上にわたり英国を保守回帰させ、その後、米国や日本にも影響が及ぶ「新保守主義」潮流の代表者となった。
 近年の欧州では、女性の保守化がさらに進み、フランスの極右政党国民戦線党首のマリーヌ・ルペンやデンマークにおける同種政党国民党の創設者にして国会議長ピア・クラスゴー、ノルウェーの右派政党進歩党党首シーヴ・イェンセンなどの右翼的な女性政治家が続々と出現している。
 ちなみに、英国では2016年のEU離脱国民投票の後、史上二人目となる女性首相としてテリーザ・メイが就任したが、彼女も保守党員であり、前職の内務大臣時代には移民制限策や強硬な治安対策で鳴らし、「氷の女王」の異名も取る人物である。
 女権の伸張が限定的な日本でも、女性大臣・都道府県知事の増加現象が見られるが、その大半は保守系政治家であり、かつ女性の立場からフェミニズムに反対し、ジェンダー差別の撤廃に消極的な者すら見受けられる。
 このような女性の反動化現象は、実のところ、女権の弱さないしは抑圧と表裏一体のものである。現状では、多くの諸国で女性が選挙政治を通じて立身出世するには、男性有力政治家の側近者となって後押しを得る以外の方法は困難である。
 そのようなパトロニッジ関係を利用して権力を得た女性は、男性陣の中の「紅一点」的な存在者としてその地位を保証されていることから、競争相手の女性同輩の増加には警戒的とならざるを得ない。そのためにフェミニズムに反対し、むしろ男性優位社会の存続をすら望むのである。
 さらに言えば、女性の社会的解放が進展しない諸国においては、女性全般がジェンダー平等の実現に無関心ないしは消極的であり、その点に関しては男性と共犯関係に立っている。すなわち、女性自身が自立よりも男性の庇護を望んでいるのである。
 世界の女性たちがさらに覚醒し、従来以上に洗練された手法をもって男性をも巻き込んだ反男権主義闘争を展開し、女権を続伸させていくならば、より解放された形で女性が世界歴史の自立的な主役として登場する時代が切り拓かれるであろう。

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「女」の世界歴史(連載第54回)

2016-09-20 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(4)選挙政治と女性執権者

④女性政治のグローバル化
 ポスト冷戦時代は選挙政治の時代でもあり、東西の独裁体制の崩壊と「民主化」に伴い選挙政治がグローバルに拡大した。その結果として、選挙政治を通じて誕生する非世襲型の女性執権者も増加している。特に前回取り上げた三人の女性執権者が相次いで登場した2005‐06年頃を境に、女性執権者の爆発的と表現してもよい増加傾向が見られる。
 全般に保守的で男性優位性の強い最後の秘境となっていた東アジア地域でも、2013年、韓国に朴槿恵大統領が誕生し(韓国憲法上権限の限られた首相は06年、盧武鉉政権下の韓明淑が初)、これにより、世界をアジア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、オセアニアの六大地域に分けた場合、現時点で女性執権者が出ていない地域はもはや存在しない状況である。
 とはいえ、各地域の内部においては、女性執権者を出していない国はなお少なからず残されている。東アジアでは日本が不名誉な代表例である。とはいえ、都道府県知事のレベルでは、2000年代以降、大阪と東京の両中核都府で女性知事が誕生するなど、遅々としながらも変化の兆しは見えている。
 アジアのイスラーム圏は男尊女卑習慣が根強い地域であり、実際、中東湾岸諸国を中心に、女性の政治参加自体が制約されている諸国が残されている。ただし、パキスタンで1988年にベナジール・ブットがイスラーム圏初の女性首相となったほか、インドネシアでも2001年にスカルノ初代大統領の娘メガワティ・スカルノプトゥリが副大統領から昇格の形で初の女性大統領に就任している。
 また、共和制200年の歴史上、意外にもいまだ女性大統領はおろか、女性大統領選指名候補者さえも出してこなかったアメリカ合衆国でも、初めてヒラリー・クリントンが民主党指名候補者に選出され、史上初の女性大統領の座を窺おうとしている(執筆時現在)。
 最も多くの女性執権者を出している欧州でも、南欧はほぼ未開拓地である。フランスでは、大統領と権限を分け合う首相には91年、ミッテラン政権下でエディト・クレッソンが初の女性として就いたが、女性大統領はいまだ出ていない。また、「女王の世紀」を経験したオランダでは、その反面としてか、政治の実権を持つ女性首相がいまだ出ていない。
 一方、女性執権者を複数出している国はいまだ少ないのが現状である。その点、南欧の小国サンマリーノでは、議会が選出する六か月任期の執政官二名が共同元首となる独特の輪番制を採るため、女性執政官がたびたび出ている点で際立っている。

 こうした選挙政治を通じた女性執権者の誕生は、選挙政治の主要舞台となる国会における女性議員数に必ずしも条件づけられているわけではないが、近年は女性議員枠の割当制(クウォータ制)がグローバルなトレンドであり、これにより議会の女性化現象も起きている。
 その点で注目されるのはアフリカの小国ルワンダである。この国では2008年の総選挙の結果、世界で初めて女性国会議員が多数派となる男女逆転現象を経験し、その後も女性議員ランキングのトップを維持している。
 この背景事情としては、90年代に起きた大虐殺の結果、男性の多くが犠牲となり、未亡人や娘たちが残され、結果として国家再建が女性の手に託されたという切実な事情も寄与しているが、同時に憲法上クウォータ制も導入している。
 しかし、これは稀有の例であり、女性国会議員比率の世界平均は依然として20パーセント程度にとどまる。つまり、諸国の国会は平均して8割を男性が占拠していることになる。このことは、ますます資本主義上部構造との結びつきを強めている議会制度が、政治の最大顧客である資本企業における男性優位状況と歩調を合わせていることを示しているだろう。
 それは世界の資本主義巨頭アメリカ合衆国で企業の女性役員比率と女性国会議員比率がほぼ20パーセント程度で釣り合っていることにも象徴されている。ちなみに、日本はそれぞれ3パーセントと10パーセント程度である(いずれの数値も先進国標準を大きく下回る)。つまり、選挙政治においては、資本の女性化と議会の女性化はほぼ同期しており、資本企業経営への女性の参加が女性議員の増加を後押しする関係に立つと言える。

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「女」の世界歴史(連載第53回)

2016-09-19 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(4)選挙政治と女性執権者

③ポスト冷戦と女性政治
 第二次大戦後の女性参政権保障の世界的な流れの中で、選挙政治を通じた女性執権者は徐々に増加していったとはいえ、冷戦期は第三次世界大戦の危険もある緊張状態の中、依然として男性執権者の姿が目立ち、女性執権者は一部に限られていた。
 その状況が大きく変わるのは、冷戦終結後である。ここでは、そうしたポスト冷戦時代を体現し、しかも今日における女性政治のグローバルな拡散にも寄与した三地域・三人の女性執権者を見てみたい。

 一人は、2005年にドイツ首相に就任したアンゲラ・メルケルである。統一ドイツ首相としては第二代となるメルケルは社会主義の旧東独出身であるが、このような経歴自体が冷戦の最前線でもあった東西ドイツ分断の終焉を象徴している。
 東独時代のメルケルは模範的な体制派科学者だったが、東独末期の民主化運動の中で若手運動家として台頭し、ドイツ再統一前に旧西独保守系政党キリスト教民主党(CDU)に入党、連邦議会に進出した。
 彼女は当時のコール首相側近として、90年代から閣僚を経験したうえ、大敗下野した野党時代のCDU党首に就任し、05年総選挙で勝利、保守的なドイツで旧東独も含め史上初の女性首相に就任したのである。東独出身者としても、統一後、最大の成功者でもある。
 その後、メルケルは現時点まで10年以上にわたり、首相として長期政権を維持し、EU統合後、欧州の中核国として重要性を増したドイツの舵取りを担っている。

 二人目は2006年に南米チリの大統領に選出されたミチェル・バチェレである。バチェレの経歴もまた、ポスト冷戦を象徴している。
 バチェレは1970年代から左派のチリ社会党員として政治活動に参加していたが、73年の軍事クーデターで親米反共軍事政権が樹立されると、弾圧に遭い、拘束・拷問を受けた。しかし間もなく出国が認められ、オーストラリア、続いて旧東独に亡命した。
 79年の帰国後は医師となる一方、冷戦終結とほぼ時を同じくして軍政も終結した1990年まで民主化運動に取り組み、90年代半ばには社会党政権下で閣僚を経験する。その後、05年の大統領選で当選、チリ史上初の女性大統領となった。南米では史上三人目ながら、大統領経験者の妻という立場にない女性としては、南米初の女性元首である。
 このこと自体、男性崇拝的なマチズモの風潮が強いラテンアメリカでは画期的だったが、バチェレ政権は閣僚人事でも男女同数基準を採用するなど、「紅一点」にとどまらないジェンダー平等を追求している。
 チリ憲法上、大統領は連続任期を禁止されているため、バチェレはいったん2010年をもって任期満了退任したが、13年大統領選に再出馬し再選、14年以降二度目の大統領を務めている。

 三人目は、バチェレと同じ06年、西アフリカの小国ライベリアの大統領に選出されたエレン・ジョンソン・サーリーフである。サーリーフは、アフリカ大陸全体において、民主的な選挙で選出された史上初の女性国家元首である。
 彼女はすでに1970年代に財務大臣を務めるなど、男性優位の強いアフリカでは数少ない女性政治家としてのキャリアを早くから歩んでいたが、その経歴は1980年の軍事クーデター後、親米軍事政権により投獄されたことで中断を余儀なくされた。
 釈放後は海外に出て金融機関や国連機関で働き、開発専門家としてキャリアを積むが、この間、祖国は冷戦終結により米国から見捨てられた独裁政権が崩壊し、凄惨な内戦に陥っていた。サーリーフは97年、内戦下の祖国に戻り、大統領選挙に出馬するも落選、05年に二度目の挑戦で大統領に当選した。
 以来、今日まで二期にわたり、内戦で荒廃疲弊した国家の再建に当たり、成功を収めてきた。11年にはノーベル平和賞を共同受賞している。ちなみに、この年の平和賞は史上初めて女性ばかり三人の共同受賞となった。

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「女」の世界歴史(連載第52回)

2016-09-14 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(4)選挙政治と女性執権者

②南アジア女性政治と受難
 全般に南アジアにおける女性の地位はいまだ高いと言えず、女性への抑圧的慣習も根強く残るが、一方で不思議なことに、この地域はかねており有力な女性政治家を輩出してきており、女性政治の現象的な広がりが見られる。
 ただし、彼女らは例外なく、大統領や首相経験を持つ有力な男性政治家の未亡人ないしは娘という立場にあり、これはこの地域におけるブルジョワ縁故政治を反映しているものと考えられる。同時に、この地域では政治的な殺人、テロリズムが歴史的に絶えず、夫や父、あるいは女性政治家本人も犠牲となる受難が付いて回っていることも、大きな特徴である。

 前回も言及したように、世界初の女性首相セイロン(現スリランカ)のシリマヴォ・バンダラナイケは、夫で第四代首相だったソロモン・バンダラナイケを継承する形で、夫が創設したセイロンの有力左派政党・自由党の総裁から首相となった。
 彼女は、60年代、70年代、さらに90年代と断続的に三次、通算16年にわたり首相を務めている。この首相在任年数は、現時点では女性首相として世界最長記録である(ただし、連続在任年数では、1980年から95年にかけてカリブ海のドミニカ国首相を務めたユージェニア・チャールズが最長)。その間、第二次政権時の72年に共和制移行、国名をスリランカと改めている。
 バンダラナイケの娘チャンドリカ・クマーラトゥンガも1994年から2005年にかけてスリランカ大統領を務めたが、この間、94年から2000年までは母が三度目の首相を務めており、娘大統領―母首相という世界的にも例のない母娘政治となった。
 またクマーラトゥンガも、自由党の有力政治家だった夫ヴィジャヤ・クマーラトゥンガを暗殺で失った未亡人であり、自身も大統領在任中の99年にタミル人過激派組織による暗殺未遂事件に遭い、右目を失明する受難を体験している。
 次いで、南アジア最大国インドにも、66年から二次、通算14年にわたり首相を務めたインディラ・ガンジー首相が出ている。彼女はバンダラナイケに続く世界史上二人目の女性首相でもあった。
 ガンジーはインド独立運動指導者で、初代首相ネルーの娘であり、インドの最大政党国民会議派総裁として台頭し、64年のネルー死去を受け、後継者として政界に出て首相に就任した。ガンジーは社会主義的な政策でインドの自立的近代化を進める一方、その強権的な政治手法は自らの墓穴を掘った。
 75年に非常事態宣言を発して野党を弾圧したことが裏目となり、77年の総選挙で惨敗、政権を喪失したのは政治生命の危機で済んだが、80年の総選挙で返り咲いた第二次政権中の84年、インドの少数宗派シク教過激派に対する強硬軍事作戦で多数の犠牲を出したことは、恨みを募らせたシク教徒の警護官による自らの暗殺を招いた。
 ちなみに、後継首相として84年から89年まで首相を務めた息子のラジーヴも、首相退任後の91年にスリランカのタミル人過激派の手で暗殺され、親子ともに暗殺という悲劇的な受難となった。
 一方、隣国パキスタンでは、88年にイスラーム世界初の女性首相となったベナズィル・ブットが出ている。彼女は77年の軍事クーデター後に政治的な意図で処刑されたズルフィカール・アリー・ブット元首相の娘である。
 ブットは80年代末から90年代半ばにかけて二次、通算5年近く首相を務めたが、軍部やイスラーム保守勢力の妨害により十分に手腕を発揮することはできなかった。また自身や親族の汚職疑惑も絶えず、二度とも汚職を理由として解任される不名誉な終わり方をしている。最終的に、政権返り咲きを目指し、選挙運動を展開していた2007年、イスラーム過激派によるとされるテロにより暗殺された。
 71年にパキスタンから独立したバングラデシュでは、90年代以降、二人の女性政治家をリーダーとする二大政党の抗争が続いている。一人は75年に暗殺された初代大統領ムジブル・ラフマンの娘シェイク・ハシナ、もう一人は81年に暗殺された第七代大統領ジアウル・ラフマンの未亡人カレダ・ジアである。
 ハシナは父が属した最大左派政党人民連盟を率い、一方のジアは、75年クーデター後に台頭した軍人の夫が人民連盟に対抗して創設に関わった右派政党バングラデシュ民族主義党を率いている。ただ、両党の差異は見かけほど明確ではなく、その抗争は多分にしてハシナとジアの亡父と亡夫の政治的対抗関係が遺恨的に続いているものである。
 91年以降、ジアとハシナが交互に首相を務め合うつばぜり合いは、2007年、軍部の実質的なクーデター介入によりいったん中断した。暫定政権を経て、08年に実施された総選挙ではハシナ率いる人民連盟が圧勝、14年総選挙も主要野党のボイコットにより圧勝し、ハシナ政権は長期化・権威主義化の兆しを見せている。

 なお、共和制に移行したネパールでも2015年、ビドヤ・デビ・バンダリがネパール史上初の女性大統領(第二代)となった。彼女はネパールの有力政党ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派(統一共産党)の初代書記長で、93年に謀殺の疑いも囁かれる自動車事故で死亡したマダン・クマール・バンダリの未亡人である。
 また地政学上は南アジアに属しないが、旧英領インドの一部で、バングラデシュに接するミャンマーでも、独立の前年1947年に暗殺された「ビルマ独立の父」アウンサンの娘アウンサンスーチーが長年の反軍政闘争を経て、2016年、実質的な最高執権者と目される国家顧問に就任した。

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「女」の世界歴史(連載第51回)

2016-09-13 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(4)選挙政治と女性執権者

①パイオニアたち
 女性参政権は、第一次世界大戦の前後から欧州を中心に解禁される諸国が続いたが、世界的に見れば、まだモードとは言い難かった。特に議員をはじめとする公職に就任する被選挙権に関しては制限が強く、選挙を通じた非世襲の女性執権者となると、欧州でも戦前には存在しなかった。
 そうした中、世界初の非世襲女性執権者はシベリアから現れた。1921年から44年までの短期間だけソ連を後ろ盾に存続したテュルク系遊牧民の小国トゥヴァ人民共和国で、40年から44年まで国家元首に相当する国家小会議幹部会議長を務めたヘルテク・アンチマア‐トカである。
 ただし、彼女はスターリン主義者で同国の事実上の独裁者であった夫サルチャク・トカの権力を背景としていたが、彼女自身も第二次大戦中、積極的にソ連との協力関係を築き、44年のソ連への併合を夫と共に主導した。結果的にトゥヴァ最後の元首となったトカは、1970年代、南米アルゼンチンにイサベル・ペロン大統領が誕生するまで、史上唯一の非世襲型女性国家元首だったのである。
 第二次大戦は民主主義陣営の勝利という側面を持ったことから、女性参政権拡大の大きな契機となった。戦後には日本をはじめとするアジアや中南米など保守的な地域でも女性参政権が続々と認められていく。
 そうした国の一つアルゼンチンでは、ファシズムの性格を持つペロン政権が47年以降、女性参政権を認めたが、男性崇拝的なマチズモの傾向の強いラテンアメリカで女性国家元首の誕生は容易でなかった。74年にイサベル・ペロンが大統領に就いたのは、夫フアン・ペロンの妻にして副大統領という地位にあったからである。
 カリスマ的な独裁者であり、前年の選挙で大統領に返り咲いたばかりの夫の急死を受けて大統領に昇格したにすぎない彼女は、執権者としての力量には欠け、人権抑圧に走る一方で、石油ショックによる経済低迷と過激勢力のテロの激化に対処できないまま、76年の軍事クーデターで政権を追われた。イサベルは2000年代になって、在任中の人権侵害を遡って追及される立場に置かれるが、世界初の女性大統領というパイオニアとしては歴史に名を残している。
 正式の選挙を経た初の女性大統領は、1980年、欧州の小国アイスランドに誕生したヴィグディス・フィンボガドゥティルである。アイスランド大統領は儀礼的・象徴的な存在であるが、国民の直接選挙で選ばれるため、フィンボガドゥティルが史上初の女性民選元首と目されている。フィンボガドゥティルは96年に退任するまで連続四選、通算16年にわたって大統領職を務めた。この在任期間は、現時点では女性大統領として最長である。

 一方、女性参政権の拡大は、国家元首ではないが、政治行政の実権を持つ政府の長たる首相に就く女性も誕生させた。その点、世界初の女性首相は1960年に就任した南アジアの島国セイロン(現スリランカ)のシリマヴォ・バンダラナイケである。
 ただし、彼女は夫で第四代首相を務めたソロモン・バンダラナイケが59年に暗殺されたことを受け、未亡人として夫を継承したものであり、南アジアに特有のブルジョワ縁故政治を反映している。その意味で特有の現象でもあるため、改めて次項で取り上げ直すことにする。
 そうした縁故的な背景を持たない初の女性首相は、イスラエルのゴルダ・メイアであった。ウクライナ生まれのユダヤ人として、若くしてシオニスト運動に身を投じたメイアはイスラエル建国にも関与し、48年のイスラエル独立宣言では24人の署名者の1人(女性署名者は2人)に名を連ねた。
 彼女は建国初期から左派の国会議員となり、閣僚を歴任した末に、69年に労働党政権の首相に選出される。74年までの在任中は、ミュンヘン五輪選手村を襲撃したパレスチナ過激派のテロで多数のイスラエル人選手らが殺害された事件や第四次中東戦争などの困難に見舞われた。
 勝利はしたものの、アラブ側の奇襲作戦を防げなかった第四次中東戦争での準備不足が論議される中、高齢のゴルダは74年に退任したが、現在までイスラエル唯一、かつ中東全体でも93年にトルコでタンス・チルレル首相が就任するまでは唯一の女性首相として、パイオニアの位置を保っている。
 ところで、女性参政権の保障が世界でも先行していた欧州での女性首相の誕生は意外に遅く―旧ユーゴスラビアの連邦構成共和国クロアチアで67年‐69年に首相を務めたサヴカ・ダブチェヴィッチ‐クチャルを除けば―、主権国家の首相としては、1979年に就任した英国のマーガレット・サッチャーが初例である。
 意志の強さから、メイアとともに「鉄の女」の異名を持つサッチャーは政治的座標軸上はメイアと異なる右派に属し、英国政治を保守回帰させる「革命」を演出した。その政治理念や手法に関しては、後に改めて取り上げることにする。

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「女」の世界歴史(連載第50回)

2016-09-12 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(3)オランダの「女王の世紀」

 オランダでは、19世紀末から21世紀初頭にかけて、実に三代123年(1890年~2013年)にわたって女王が続き、その間、20世紀の100年間は全面的に女王一色であった。これは、世界史上も稀有のことである。
 オランダの「女王の世紀」を作り出した三代女王の最初を飾ったのは、ウィルヘルミナであった。その即位の経緯と生母エンマの摂政期のことは以前見たとおりであるが(拙稿参照)、10歳で即位したウィルヘルミナ女王の治世は世紀をまたいで1948年まで、58年にも及んだ。
 二つの大戦を経験したこの時代は、オランダにとって激動の時代であった。国内的には、エンマ摂政時代に立憲君主制が強化され、議院内閣制の仕組みが整備されていく民主的発展の時代でもあった。第一次世界大戦後の1919年には女性参政権も実現している。
 政治の実権はますます首相が握るようになると、戦間期の経済発展の恩恵も受け、ウィルヘルミナの関心はビジネスや投資に向けられた結果、女王は女性として最初の億万長者となった。
 第二次大戦時にドイツの侵攻・占領を受け、イギリスへ亡命を強いられると、女王は5年の間、亡命政府をまとめて反ナチスの立場で解放に注力した。45年の解放、本国帰還後は最大の植民地インドネシアの独立戦争が待ち受けていたが、その渦中の48年、ウィルヘルミナは戴冠50周年を期して、娘のユリアナに譲位し、引退した。ユリアナ王女が後継者となったのは、死産や流産を繰り返した女王にとって、唯一存命する子がユリアナだったからにすぎない。
 こうして、戦後の復興と脱植民地主義、欧州における中堅国家への道を歩む新生オランダの象徴はユリアナ女王に託されることになるが、彼女の治世はたびたび宮廷スキャンダルに見舞われた。
 その初期には、三女の眼病の治療のために招聘された心霊療法師ホフマンスが女王側近として寵愛されるに至り、宮廷・政府を二分する騒動となった。中期には、長女ベアトリクス(後の女王)のドイツ出身の夫クラウスが元ナチス国防軍とヒトラーユーゲントのメンバーだったことがナチスの占領を経験したオランダ国民を憤激させ、暴動にまで発展した。
 晩年には女王自身の王配ベルンハルトが米ロッキード社から賄賂を受け取っていた疑惑が浮上し、ベルンハルトは公職辞任に追い込まれたが、こうした数々のスキャンダルにもかかわらず、「陛下」より「夫人」と呼ばれることを好んだ庶民的なユリアナ女王の人気は衰えず、1980年に退位するまで30年以上、君臨し続けた。
 ユリアナには男子がなかったことから、結果的にベアトリクスが継承し、三代連続の女王となった。その即位に際しては左派の暴動が起こる波乱があったが、ベアトリクスも30年以上にわたって現代オランダの象徴としての役割を果たし、2013年に長男ウィレム‐アレクサンダーに譲位、引退した。
 これにより、オランダでは1890年以来123年ぶりの男王の即位となったのだが、ベアトリクス女王在位中の1983年の憲法改正により、オランダ王位は性別不問の長子継承原則に変更されたため、次期国王はウィレム‐アレクサンダーの長女カタリナ‐アマリア王太子であり、再び女王の即位が予定されている。

補説:男女平等君主制
 オランダの「女王の世紀」は、たまたまオランダ王家に男子が誕生しない傾向が長く続いたことの結果であり、王位継承が性別不問の長子優先となったのは、本文に示したとおり、1983年のことにすぎない。
 この点、欧州君主制においては、1979年のスウェーデンを皮切りに、王位継承を長子優先制とする動きが広がり、オランダ、ノルウェー、ベルギー、デンマークと続いている。英国でも、2013年の法改正により、2011年10月28日以降に出生した王族については、長子優先制とされることになった。
 こうした制度変更は、王位継承にも両性平等の原則を適用する動きと見ることができる。これは近世以降、欧州各国で女王の輩出が続いてきた先例を踏まえつつ、ますます儀礼的・象徴的な制度となった君主制を現代に適応化・延命しようとする最後の努力と言えるかもしれない。

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「女」の世界歴史(連載第49回)

2016-09-06 | 〆「女」の世界歴史

第五章 女性参政権から同性婚まで

(2)社会主義革命と女性
 初期の女性参政権運動が隆盛化した時期は、社会主義運動が隆盛化した時期ともほぼ重なっている。全般に有識化しつつあった中産階級女性の政治参加意識に基づく参政権運動と、労働運動から発展した社会主義運動の間にはギャップがあった。
 その点、英国における闘争的な女性参政権運動家パンクハーストが当時英国の代表的な社会主義政党であった独立労働党に入党して活動したのは例外的なことと言えた。ただ、彼女もロシア革命後、ボリシェヴィズムへの反発から社会主義運動を離れ、一転して保守党に入党している。
 社会主義運動にあっては、元来男性主導性が強い労働運動の伝統を反映して、男性中心主義の色彩が濃厚であった。実際、パンクハーストも当初は独立労働党の支部から性別を理由に入党を拒否されたことがあった。
 このようにブルジョワ女性運動とプロレタリア社会主義運動のギャップは大きいとはいえ、両者は明らかに交差しており、社会主義運動は女性参政権を後押しする役割を果たしていた。実際、歴史上初の社会主義革命を実現したロシアでは、革命の年1917年に女性参政権も実現している。
 そうは言っても、歴史的な社会主義運動において、女性の姿はまれで、少なくとも20世紀初頭前後の社会主義運動は男権主義的革命運動だったと規定しても過言ではないだろう。そうした中、当時の社会主義運動の二大拠点であったドイツとロシアには「紅一点」的な女性活動家が存在した。
 一人はドイツの社会主義者ローザ・ルクセンブルクである。ローザは当時ロシア領ポーランド生まれのユダヤ人で、スイス留学を経てドイツ市民権を取得し、ドイツ最大の社会主義政党であったドイツ社会民主党で活動した。
 政治経済学者でもあったローザの本領は理論面にあり、当初は現実妥協的な修正主義の、後にはロシアのレーニンをはじめとするボリシェヴィズムに対する強力な批判者となった。革命家としては、社民党から分離結成したスパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の共同指導者としてドイツ革命に蜂起したが、反動化した社民党政府の弾圧により殺害される運命をたどった。
 もう一人はレーニンの妻ナジェージダ・クループスカヤである。ローザと同世代の彼女もロシア領ポーランドに生まれたロシア人で、レーニンとは革命前から苦楽を共にした同志的伴侶の関係であった。
 教師出身のクループスカヤは10月革命後、ボリシェヴィキ政権の教育副大臣に相当する職に任命され、革命体制初期の教育制度の設計や後に体制エリート育成の柱となる少年団(ピオネール)の組織化などで手腕を発揮した。しかし、彼女にしても、正式の大臣格で遇されることはなく、夫レーニン没後に後継者として台頭してきたスターリンからは冷遇され、大粛清の犠牲はさすがに免れたものの、スターリン独裁体制が固まる中、急死した。
 ちなみに、ロシアではアレクサンドラ・コロンタイの名も見落とせない。元来、穏健なメンシェヴィキ出身の彼女は、革命前にボリシェヴィキに転向し、10月革命後は保健人民委員(保健大臣相当)に抜擢された。これは女性大臣の世界初例と目されている。
 コロンタイは社会主義フェミニズムの理論家でもあり、実務者としてはロシア共産党中央委女性局を設立し、女性政策の立案にも当たった。しかしレーニンと対立したため、間もなく外交官に降格転官され、スターリンの大粛清は乗り切ったものの、党中央から排除されたまま引退した。
 結局、ロシア革命後のソ連共産党体制は、党女性局を廃止した男権主義的なスターリンの指導下で、男性中心主義に染められていき、有力な女性政治家の姿はほとんど見られなかったが、コロンタイの初期の貢献もあり、女性の労働参加は奨励され、女性の社会進出全般は進んでいく。
 ところで、これら社会主義運動・革命家女性たちはほぼ中・上流階級の出自であったが、例外的にスペイン共産党の指導者となるドロレス・イバルリは鉱山労働者家庭の出自で、お針子や女中も経験したプロレタリアートであった。
 彼女はスペイン共産党創設に関わった古参幹部で、スペイン内戦では情宣者としても反ファシスト・共和派を鼓舞する役割を果たした。内戦終了後、フランコ独裁時代は長期の亡命生活を強いられるが、この間、1942年から60年までスペイン共産党書記長の座にあった。
 イバルリは一貫した親ソ派として教条主義的な態度を保ったことでソ連の評価を後ろ盾としていた面もあるが、当時ソ連をはじめ各国共産党指導者が男性陣で固められていた中では、稀有の女性指導者であった。

補説:戦前日本の女性社会主義運動
 社会主義運動はもちろん、女性の政治運動そのものが徹底的に抑圧されていた戦前日本で、九津見房子、山川菊枝、伊藤野枝ら女性社会主義者が独自に結成した赤瀾会(せきらんかい)の活動は、「紅一点」にとどまらない女性独自の社会主義運動としてユニークなものであったと言える。
 赤瀾会の結成は大正デモクラシーのリベラルな気風の反映ではあったが、あくまでも体制の許容枠内での「デモクラシー」にすぎなかった当時、目に付きすぎた女性グループには当初から当局の弾圧が加わり、結局、自然消滅に向かわざるを得ない運命にあった。

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「女」の世界歴史(連載第48回)

2016-09-05 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代

第五章 女性参政権から同性婚まで

(1)女性参政権運動
 20世紀以降の女権の伸長を促進したのは、女性参政権運動であった。といっても、その発祥と経過、進展状況は諸国によって大きく異なり、本来は個別に論ずべきこととであるが、ここでは20世紀初頭前後における初期の状況に絞ってみることにする。
 以前にも触れたとおり、女権運動は女性の労働参加が早くから進んだ米国で盛んとなり、19世紀半ば頃から女性参政権運動が組織的に開始されていく。その結果、1869年、ワイオミング準州で全米初の女性参政権(選挙権のみ)が認められた。これを皮切りに、北部では州(準州)のレベルで女性参政権が認められていく。しかし、保守的な南部諸州では進展せず、全米(連邦)レベルでの女性参政権も1920年を待つ必要があった。
 国政レベルで初めて女性参政権を認めたのは1893年のニュージーランドと紹介されることもあるが、当時のニュージーランドはまだ英国領であり、自治領でさえなかった。むしろ、ニュージーランドに先立って1901年に英国自治領となったオーストラリアを嚆矢と見るほうが妥当であろう。
 連邦国家オーストラリアでも、米国と同様、19世紀末から連邦形成前の各植民地(州)のレベルで女性参政権がまず認められ、その延長上に連邦レベルでも認められることとなった。結果、オーストラリアは発足時から女性参政権が保障される稀有の国となった。ただし、当初は先住民(アボリジニ)の選挙権を排除する人種差別的な法制であり、先住民を含めた完全な両性平等選挙権の保障は1962年を待たねばならなった。
 ちなみに、完全な独立国家で初めて女性参政権を実現したのは1913年の北欧ノルウェーであった。元来リベラルな風土のノルウェーでは、19世紀末の男子普通選挙制実現から10年余りでの女性参政権の達成である。
 ニュージーランドやオーストラリア、ノルウェーの女性参政権運動は穏健・非暴力的な方法で実現されたが、議会制度発祥地英国における女性参政権運動はいささか様相を異にした。ここでは、エメリン・パンクハーストが主導する「過激な」運動が展開されたからである。
 中産階級生まれのパンクハーストは女性運動家だった母親の影響から14歳にして女性参政権運動に身を投じた。彼女が先行の穏健な女性参政権協会全国連合に対抗する形で立ち上げた女性社会政治同盟は極めて行動主義的で、その活動手法は打ちこわしや警察襲撃、ハンストなどの「過激」なものであった。そのため、パンクハーストとその共闘者であった娘たちはたびたび検挙された。
 しかし、第一次世界大戦が勃発すると、パンクハースト親子は過激手法の停止を宣言、積極的な戦争協力を展開した。こうした順応主義と当初の闘争主義のいずれが功を奏したのかについては議論の余地があるが、英国では1918年に導入された制限的な普通選挙制度において、30歳以上限定で女性に初めて参政権が認められた。完全な女性参政権の達成はそれから10年後の1928年、パンクハーストの死から数週間後のことである。
 パンクハースト流闘争主義は、むしろ海を越えて米国の運動を触発していた。米国における全米女性参政権運動のリーダー、アリス・ポールはホワイトハウス前でのピケやハンストなどの直接行動を展開し、当時、女性参政権に否定的だったウィルソン政権と厳しく対峙、自身も投獄された。
 結局、戦争協力を展開したより穏健な女性運動の後押しもあり、ウィルソン大統領はその立場を変え、「戦時措置」(ウィルソン)としての女性参政権を認める憲法修正に踏み切ったのである。英国よりも8年早い女性参政権の実現であった。

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「女」の世界歴史(連載第47回)

2016-08-30 | 〆「女」の世界歴史

第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代

〈序説〉
 近代的な女権の黎明期をくぐり抜けた先に女権の伸張期が現れるのは自然の成り行きであったが、その原動力となったのは20世紀を通じて世界に広がったフェミニズム思想とその主要な実践場となった女性参政権運動とであった。
 女性参政権運動は19世紀以降、英国からアジア方面にも拡散していく議会制度の整備とも一体的な動きであった。考えてみれば、古代ギリシャの直接民主制では女性の参政が排除されていたのが、民主制としてはより後退的な間接民主制に属する議会制度において初めて女性の参政が解禁されていったのは、簡単な投票を通じた間接的な政治参加にすぎないゆえという消極的事情もあった。
 反面、自らが議員その他の公職者に就くための被選挙権に関しては法律上保障されても、すぐに女性議員・公職者が増加するというわけにいかなかった。被選挙権の実質的な保障がある程度進んできたのは、せいぜい20世紀最後の四半世紀以降のことである。
 過去、40年ほどの間に、女性の社会的地位がなお相対的に低いアジアやアフリカ地域でも、女性議員・公職者は増加傾向にあり、女性の国家元首もしくは執権者も続々と誕生している。それによって、選挙政治の進展の中で、新たな歴史を作る主役となる女性たちも出てきている。
 こうした女性参政の拡大は、社会経済的な面での女権の伸長を後押ししてきた。この面でも男女間での賃金格差や昇進格差の問題はなお積み残されているが、資本企業組織における女性管理職・役員の増加は否定できない趨勢となっている。こうした資本の女性化と権力の女性化との新たな結びつきという事象も考察対象となろう。
 一方、女権の伸長にはほぼ一世紀の周回遅れで、同性愛者―広くは性的少数者―の権利にも進展が見られる。20世紀後半から同性愛者解放運動も強力に組織されるようになり、その一つの成果として、今世紀に入って同性婚の解禁に動く諸国も続いている。
 こうした権利の全般的な伸長に対しては、それに対する反動としての抑圧も見られる。反フェミニズムやホモフォビア(同性愛嫌悪)に向かう動きである。こうした動きの中心点は保守的なイスラーム運動に見られるが、非イスラーム圏でも超保守的な運動には共通して見られる傾向である。
 近代をくぐり抜けて、ポスト近代の新たな歴史を作りつつある現代を大まかに捉えれば、女権と男権のせめぎ合いの時代であり、伸張と抑圧が拮抗する新たな抗争の時代を迎えていると言えるかもしれない。
 その先にどのような未来があるかは、本連載の課題を超えた問いである。本連載最終の「第Ⅲ部 伸張と抑圧の時代」はそうした未来へ向けていまだ現在進行中の時代を扱うことから、唯一つの章のみで完結する。

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「女」の世界歴史(連載第46回)

2016-08-29 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(5)同性愛の近代的抑圧
 近世以前の同性愛は相当公然と容認されていた中国を除けば、洋の東西を問わず、罪悪視されつつも慣習的に容認されるという両義的な形で存在していたが、近世になると法制度・法治国家の整備に伴い、同性愛行為が性犯罪として法的な処罰対象とされるようになってきた。
 その際、キリスト‐イスラーム教の世界では、聖書にも登場する道徳的に退廃した街ソドムに由来するソドミー(アラビア語ではリワート)という犯罪概念が当てられた。この概念は同性愛行為そのものよりも広く「不自然」とみなされる性的行為全般を指す。ここでの「自然/不自然」の判断基準は、神が祝福する男女間の生殖に関わるかどうかに置かれていたから、生殖に関わらない同性間の性行為が「不自然」と認識されることは当然であった。
 ところで、ソドミー罪を厳格に適用するなら、女性間の同性愛行為も処罰対象に含まれ得るはずのところ、女性の同性愛行為が処罰された例は少なく、事実上黙認されていたと見られる。その理由は定かでないが、女性間の同性愛はある意味で同性同志の深い友情の延長として捉えることも可能だからかもしれない。
 こうした啓典宗教の影響による同性愛行為の取り締まりは、歴史的に同性愛に寛容だった中国にも及び、清朝は17世紀に処罰規定を導入している。その経緯は必ずしも明確でないが、前代の明末以来、来朝した宣教師を通じてキリスト教的価値観の影響を受けたことが考えられる。
 また近世までは「男色」の文化が半ば公然と存在していた日本でも、近代化によりキリスト教的価値観が流入すると、その影響からソドミー罪の概念も移入され、明治5年には「鶏姦罪」が規定されたが、これは後の本格的な刑法典には継承されず、日本では同性愛行為を直接に罰する規定は以後も存在しない。ただし、そのことは「男色文化」が従来どおり維持されたことを意味せず、「男色」は前近代の悪弊とみなされ、道徳的には同性愛を罪悪視する価値観が社会に広く定着していったことに変わりはない。
 ソドミー罪の取り締まりがフランス革命前の欧州で最も厳格だったのは、第二回無総督時代と呼ばれる18世紀前半のオランダであった。そのすべてが同性愛者とは限らないが、1730年には200人を越える男性が訴追され、60人近くが死刑判決を受けた。オランダは元来、自由主義的であったが、この時代は指導者を欠き、大衆のモラルパニックが起きやすかったと見られる。
 フランスでは18世紀のブルジョワ革命を機にソドミー罪は廃止されたが、同性愛行為が一切自由化されたわけではなく、欧州全体では比較的リベラルながらも、「社会道徳に反する罪」など別の名目で処罰されることは続けられた。ただし、フランス革命におけるソドミー罪廃止自体の影響は広く大陸ヨーロッパ諸国に及び、1858年には、イスラーム系ながらトルコでも西欧化改革(タンジマート)の一環として、同性愛行為の非処罰化が行なわれている。
 フランス革命の影響が直接には及ばなかったイギリスでは、ヘンリー8世が16世紀に制定した旧法が「個人に対する犯罪法」という近代的な法律に姿を変えつつ、同性愛行為が処罰され続けた。その最も著名な犠牲者は、劇作家のオスカー・ワイルドであった。彼は1895年、愛人男性の父親と法的トラブルを起こしたことをきっかけに同性愛行為で刑事訴追を受け、2年間収監される憂き目を見たのだった。
 また保守的なドイツでは、1871年のドイツ帝国創設時に制定された刑法典に男性同性愛行為を処罰する規定(175条)が置かれた。これに対し、97年、医師で性科学の草分けでもあるマグヌス・ヒルシュフェルトを中心とする「科学的人道主義委員会」が設立され、科学的な見地から同性愛者の権利を擁護し、175条の撤廃を求める運動を展開した。
 この運動は近代的な同性愛者解放運動の先駆けと目され、啓発的な役割は果たしたものの、内外の多くの知識人の署名も集めた同性愛処罰規定撤廃という最大の目的は達成されないまま、反同性愛の立場を採ったナチスの政権獲得により、解散に追い込まれた。
 ちなみに、初期のナチスは突撃隊幕僚長として政権獲得にも貢献したエルンスト・レームという公然たる同性愛者の幹部を擁していたが、ヒトラーと対立した彼は間もなく粛清されてしまった。ナチスドイツでは同性愛者は社会的逸脱者として厳罰・抹殺の対象とされ、多くの犠牲者を出すことになった。
 ナチスドイツにおける同性愛者の受難は同性愛処罰政策の極点であったが、欧州でも同性愛処罰は次第に緩和されつつも、おおむね20世紀半ば頃までは継続されていくのである。かくて、近代は女性の権利に関しては新たな道が拓かれる黎明期となったが、同じことは同性愛者には起きなかったのである。

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「女」の世界歴史(連載第45回)

2016-08-24 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

③トルコ革命と女性
 オスマン・トルコでは16‐17世紀に後宮が政治を主導する「女人政治の時代」を経験したが、基本的には他のイスラーム諸国同様、女性全体の地位は低い状態に置かれていた。しかし、晩期の西欧化改革(タンジマート)は、結果的に近代的な女性運動を惹起した。
 とはいえ、本格的な女性運動が組織されるのは、体制末期に青年トルコ人運動が興った時であった。1908年に設立されたオスマン女性福祉機構がそれである。立憲革命に結実した青年トルコ人運動も主要メンバーは男性が占めていたが、幾人か女性の姿もあった。
 その代表的な人物としては、オスマン帝国初の女性小説家と目され、かつフェミニストでもあったファトマ・アリエ・トプズ、共和革命後にトルコ史上初の女性政党を設立するジャーナリストのネジヘ・ムヒッディン、小説家で女権運動家もあったハリデ・エディブ・アドゥヴァルなどがいる。
 特にアドゥヴァルは第一次世界大戦での敗戦後、英国やギリシャによる占領への抵抗を呼びかける扇動者として活躍、続く対ギリシャ戦争ではレジスタンス軍の下士官として参戦さえした。23年の共和革命にも参画したが、独立戦争以来の同志でもあった初代大統領ケマル・アタチュルクとは対立し、亡命を強いられた。
 アドゥヴァルとは全く違うタイプの女性戦士として、農民出身のハトゥ・チュルパンがいる。彼女も独立戦争で兵士として活躍し、その功績を知ったアタチュルクの推薦により、革命後、35年の選挙で当選した18人の女性国会議員の一人となった。また、戦争未亡人のカラ・ファトマも公式に民兵隊を率いて独立戦争を戦い、当時女性としては異例の中尉にまで昇進した。
 このようにトルコ独立戦争及びその延長的な共和革命には、少数ながら女性戦士の姿も見られ、また戦士ではないが、トルコ史上初の女性医師となったサフィエ・アリも独立戦争で兵士らの治療に活躍している。
 こうして、トルコの近代化がイスラーム世界と言わず、アジア全体でも例外的に女性の地位向上を後押ししたのも、一つには徹底した近代主義者としてのアタチュルクの姿勢が影響していたかもしれない。
 アタチュルクは、革命後、一夫多妻慣習の廃止、離婚や相続における男女平等などの近代化を実行し、さらに1930年には地方で、34年には国政での女性参政権を認めるなど、女性の地位向上も近代化プログラムの柱としていた。
 ちなみに1923年から25年までの間、アタチュルクの妻で共和革命後、初代のファーストレディとなったラティフェ・ウッシャキはパリとロンドンで教育を受けたトルコにおける近代的な女性法律家の草分けであると同時に、近代的なファーストレディとして公の場にもヴェールを脱いで姿を見せるなど、近代的女性の範を演じた。
 なお、短い結婚生活のため、実子のなかったアタチュルクは多くの養子を取ったが、そのほとんどが養女であり、その中には世界初の女性戦闘機パイロットとなったサビハ・ギョクチェンがいる。また、別の養女アフェト・イナンは指導的な歴史学者となった。このように、アタチュルクは政策としてのみならず、自ら女子を養子として育成する試みを行なうほど、女子教育に関心が高かったようである。
 しかし、こうした革命初期の女性の地位向上は多分にしてアタチュルクの個人的な改革姿勢に負っていた要素が強く、かつ保守的なものであったため、先のムヒッディンが設立したフェミニスト政党は合法性を認められなかった。
 結局、革命後も、トルコにおける女性の法的権利と現実の社会的地位のギャップは容易に埋まることはなく、実際、女性国会議員数も35年の選挙時をピークに減少し、やがて一桁台に落ち込んでいくのである。

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「女」の世界歴史(連載第44回)

2016-08-23 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女権

②辛亥革命と女性
 日本の明治維新からおよそ半世紀置いて中国で勃発した辛亥革命も極めて男性主導性の強いものであったが、そうした中で異彩を放つ女性革命家が秋瑾である。
 清朝官吏の一族に生まれた秋瑾は、さる豪商子息との結婚に失敗し、単身日本へ留学した。当時の日本は孫文をリーダーとする中国革命派の海外拠点であり、秋瑾も孫文の中国同盟会に入会し、革命運動に身を投ずることとなる。
 ところが、清朝の要請を受けた明治政府による革命派取締りが厳しくなると、秋瑾は最強硬派として帰国・革命準備を主張する。しかし帰国後間もなく、武装蜂起に失敗し、清朝の鎮圧作戦により拘束、即決処刑された。そのため、4年後の辛亥革命を見ることはなかったが、すぐれた詩人でもあった彼女の死は反響を呼び、半ば伝説化される形でその後の革命運動を促進する役割を果たしたと言われる。
 31歳で刑死した秋瑾の活動期間は短かったが、女性啓発雑誌『中国女報』を創刊し、文筆を通じて女性解放にも寄与した点で、彼女は中国における近代的フェミニズムの先覚者でもあった。
 辛亥革命あるいはそこに至る革命運動の過程で秋瑾以外に目立つ女性の姿は見えず、辛亥革命成就後も、女性の権利に関して大きな成果は見られなかった。そうした中、孫文の三番目の妻宋慶齢とその二人の姉妹―いわゆる宋家三姉妹―は、それぞれ革命政府要人の妻となり、政治にも関与する新しい近代中国女性として歴史に残っている。
 三姉妹の父宋嘉樹は宣教師から実業家に転じ、新興民族資本・浙江財閥の創始者の一人となり、孫文の支援者でもあった。三姉妹は父の方針によりいずれもアメリカ留学を経験し、当地で近代教育を受けた第一世代の中国人女性たちであった。
 三姉妹のうち、後に国民政府行政院長(首相)を務める孔祥熙の妻となった靄齢は政治活動より教育・慈善活動に従事したが、真ん中の慶齢は孫文の秘書から妻となり、孫文の晩年を支えた。彼女は孫文没後、孫文が創設した国民党の幹部となった。一番下の美齢は孫文の後、国民党指導者として台頭する蒋介石の妻となり、やはり国民党幹部として強い影響力を持った。
 こうして三姉妹は、やがて始まる抗日戦争を国民党側で経験するが、三姉妹の歩みはその前後から食い違っていく。特に孫文未亡人として孫文の考えを尊重し、共産党との協力関係を主張する慶齢は蒋介石の反共クーデターに強く反対し、国共合作に奔走するが、美齢は蒋介石夫人としてぶれることなく、一貫して夫の代弁者であり続けたのである。
 結果、戦後の歩みは三者三様となる。夫とともにいち早く渡米した靄齢に対し、容共派として国共内戦後も大陸に残った慶齢は孫文未亡人としての名声を背景に、国家副主席から事実上の元首格である全人代常務委員長代行まで務め上げた。
 一方、共産党に敗れ、夫の蒋介石とともに台湾に渡った美齢は台湾総統となった夫を支えるファーストレディとして積極的に活動した。夫の死後は主としてアメリカに在住し、台湾民主化の過程で次第に影響力を喪失する中、100歳を越える長寿を全うし、2003年にアメリカで死去した。
 このように清末の新興財閥から出て、辛亥革命・抗日戦争・国共内戦を越えて生きた宗家三姉妹は、それぞれの仕方で中国近代史の女性証人と言える存在であった。

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「女」の世界歴史(連載第43回)

2016-08-22 | 〆「女」の世界歴史

第四章 近代化と女権

(4)アジア近代化と女性

①明治維新と女性
 アジア近代化の先駆けともなった日本の明治維新の知られざる特徴は、徹頭徹尾男性陣によって実行されたということである。それほどに維新側で女性の姿は見えない。むしろ、女性の姿は会津戦争を会津藩側で戦った婦女隊の女性たちや、同じく会津藩側で戦い、後に同志社創立者・新島襄の妻となる山本八重のように、旧体制保守の側で見られた。
 このことは、封建的な幕藩体制の中でも武士階級の女性たちは差別されつつもそれなりに自己の「居場所」を見出していたため、浪人のような形で体制からはみ出す者もいた男性に比べ、ある意味では旧体制の保守に利害を持っていたことを示している。
 明治維新の主役となったのは、旧幕藩体制下では閉塞させられる立場にあった西日本外様藩の下級青年武士たちであった。かれらが維新成就後には「明治の元勲」として権勢を張ることになるわけだが、彼らの多くは正妻のほかに妾を持ち、その点では一夫多妻の旧大名と変わりなかった。
 とはいえ、明治維新では女性の通行の自由を妨げていた関所の撤廃や、多分にして形だけとはいえ芸娼妓解放令などの部分的な女性解放も実現したほか、黒田清隆のように女子教育の意義を認め、女子留学生の米国派遣を計らう要人もいた。
 この時に派遣された五人の女子のうち、二人は病気等の理由で脱落したが、津田梅子、山川捨松、永井繁子の三人は米国で学び、帰国した後、それぞれの仕方で近代的女子教育に携わる先覚者となった。
 こうした体制内化された近代女性とは別途、反体制的な自由民権運動に参加する女性も現れた。その先駆けは高知県で女性参政権を主張した楠瀬喜多かもしれない。
 彼女は維新前、土佐藩士の妻だったが、夫との死別後、納税者たる戸主となったのに県の区会議員選挙で女性に投票を認めないのは不当だとし、一人で請願を続けた結果、政府が1880年の区町村会法で各区町村会に選挙規則制定権を認めたことで、彼女の区では女性(戸主のみ)の投票権が認められることになった。
 これは地方の一地区とはいえ、当時は世界的にも画期的な女性参政権の実現であったが、政府はわずか4年後の84年、一転して区町村会の選挙規則制定権を廃止し、女性参政権も否定されたため、この先駆的な女性参政権の実験は短命に終わった。しかし参政権運動から自由民権運動に身を投じた喜多自身は明治を越えて大正時代まで長寿を保ち、「民権ばあさん」の異名を取ることとなった。
 喜多より若い世代からは、より本格的な民権運動家女性も出現する。後に衆議院議長ともなる中島信行の妻・中島湘煙(岸田俊子)は夫も幹部を務めた自由党の同伴者となり、女権拡大の論陣を張る演説家として活動した。
 彼女の演説に触発され、民権運動家となったのが福田英子であった。彼女は明治政府の民権運動弾圧の中、朝鮮の開化派と組んで朝鮮の地で立憲革命を起こすことを計画した大阪事件に連座して投獄されるなど、闘士的な一面があった。
 大阪事件から5年後の1890年、明治政府は集会及政社法を公布して、女性が政治集会や結社に参加することを含め、女性の政治活動を全面的に禁止し、女性に対する政治的抑圧を強化した。この施策は、政府が女性の政治的覚醒を恐れていたことを示している。
 こうした女性抑圧策の一方、日清・日露戦争で従軍看護婦として尽力した功績から非皇族女性として初の受勲者となった新島八重や、幕末の尊皇攘夷運動家で、義和団事件の前線視察をきっかけに女性の戦争協力組織となる愛国婦人会を設立し、やはり受勲者となった奥村五百子のように、富国強兵策に協力する形で地位を認められる女性も現れるのである。

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