不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

ザ・コミュニスト

連載論文&時評ブログ 

農民の世界歴史(連載第11回)

2016-10-31 | 〆農民の世界歴史

第3章 中国の農民反乱史

(3)貧農出自王朝・明

 佃戸制は宋の時代―女真系金による華北征服後の南宋を含む―を通じて確立されていったが、南宋時代には、奴婢を使役する一種の国営農場―官田―も現れ、搾取労働により相当の生産性を上げるまでになっていた。
 宋・金を相次いで打倒して中国大陸を制覇したモンゴル系の元は、こうした南宋時代の制度をほぼ踏襲する保守的な政策を志向した。結果として、江南は引き続き、米作地帯として繁栄を享受し得たのだった。
 皮肉にも、このことが元にとっては命取りとなる。元末の混乱の中で、漢人の農民反乱が勃発する。この反乱の性格はやや複雑で、その精神基盤となっていたのは南宋時代に発祥する仏教系宗教結社白蓮教であった。
 この宗教結社は元代には危険視され、抑圧されていたが、元末の混乱の中で江南を地盤に急速に勢力を広げ、反元レジスタンス勢力として成長していった。その主力は農民だったことから、紅巾の乱は農民反乱の性格を持つが、最終的に元の打倒・駆逐という革命に至った点では漢人による民族運動という歴史的意義も帯びている。
 この乱の渦中、紅巾軍部将として台頭してきたのが朱元璋、後の明初代皇帝・洪武帝である。彼は今日の安徽省の貧農出自と言われており、その点では漢の建国者劉邦に比すべき人物である。ただ、劉邦の出自は貧農ではなく、ある程度の資産を持つ中農と見られるのに対し、朱元璋は貧農出自で、若い頃は托鉢僧として極貧生活をしていたとされる。
 このような出自から立身して持続的な王朝を建てたのは世界史的にも異例であり、近代セルビアの二つの王朝が類例として見られる程度である。ただ、これらはみな先住民族によるレジスタンスを背景としている点で共通している。
 そうした貧農出自王朝としての明は、その来歴や史上初の江南地盤王朝という性格からも、歴代中国王朝の中で最も重農主義的な政策を志向した。
 とはいえ、洪武帝は佃戸を抱える大地主を弾圧するポーズは見せたものの、大土地所有‐佃戸制に根本的なメスを入れることは避けた。そして財政基盤を固める目的から、人口調査に基づき新たな村落組織・里甲制を導入し、これを単位に厳正な租税台帳・土地台帳に基づいて徴税する収奪体制を整備した。
 結果として、明中期以降になるとかえって大土地所有制が拡大し、寄生的な不在地主制も発達する一方、佃戸に転落し、地主による小作料収奪に苦しむ農民も増えていった。農民たちは団結して、小作料軽減に立ち上がるようになる(抗租運動)。
 また当初穀物の物納を基本とする重農主義的な税制が16世紀、ラテンアメリカや日本からの銀の流入を背景に、銀納を基本とする新型税制一条鞭法に変更されると、農民も金銭収入が必要となり、その生活は一変した。
 16世紀後半は明にとって衰退の世紀であり、貧農出自王朝も14代万歴帝の時代になると宮廷生活は驕奢化し、財政濫費に陥っていた。他方、抗租運動も拡大・激化していく。そうした中、17世紀前半、中部の陝西で発生した旱魃を契機とする農民反乱が全土に拡大する。
 この反乱の渦中、かつての朱元璋同様に部将として台頭したのが李自成であった。彼が組織した農民反乱軍は後の太平天国のように「均田」「免糧(税)」をスローガンに規律をもって行動したため、反乱は革命の様相を呈した。そして、ついに明を滅ぼし、新たに順を建て、自ら初代皇帝に即位しようとした。
 しかしここまでであり、李自成は第二の朱元璋たり得なかった。軍規の急激な弛緩も問題だったが、東北部で急速に実力をつけた女真系後金(後の清)の侵攻に抗し切れなかったからである。とはいえ、農民革命によって成立した王朝・明が農民革命によって終焉したのは、歴史の皮肉であった。

コメント

お手盛り任期延長

2016-10-26 | 時評

自民党総裁任期が、三年二期から三期まで延長されるという。二年二期の時代も長かったことを考えれば、総裁任期の大幅な延長である。明確な根拠があってのことなら一政党の内部問題であるが、今般の党則改訂は、どう見ても安倍首相の在任期間を憲政史上最長期化するためのお手盛りの観が濃厚である。

誠実な党則改正なら、次期総裁からの適用となるはずのところ、すでに二期目の現総裁に遡及適用して、安倍首相の在任を九年にまで一挙延長との思惑が見え透いている。口実として、日本と同様に議院内閣制を採る外国の例が持ち出されているが、むしろここで参照すべきは海外の独裁体制の事例だろう。

今回、首相自らは沈黙を保ち、周辺から任期延長論を提起させ、あっという間に実現させてしまった。このようなお手盛り手法での執権任期延長は、しばしば独裁化の手段として海外でも駆使されてきた政略である。最近では、固辞のポーズを取りながら、延長に延長を重ねて25年以上大統領の座にあるカザフスタンのナザルバエフ大統領が知られる。

今、自民党がかつての中道保守的な包括政党からファッショ的な性向を秘めた一極的な反動右派政党へと変貌してきている中での総裁任期延長である。当初取り沙汰されていた任期制限撤廃は当面退けられた模様だが、三期目が満了する頃に改めて任期制限撤廃、安倍無期限総裁=総理が誕生する可能性も完全には否定できない。

その点、かつてポルトガルで首相の座にとどまったままファシスト独裁政権をほぼ終身間40年近く維持したサラザールも想起すべき先例となる。それにしても、どういうわけか、今般のお手盛り総裁任期延長を批判的に論評する向きは少ない。そういう言論鈍化もまたファッショ独裁化の危険兆候と見なければならない。

コメント

農民の世界歴史(連載第10回)

2016-10-25 | 〆農民の世界歴史

第3章 中国の農民反乱史

(2)佃戸制の出現

 黄巾の乱を経て滅亡した漢帝国の後、黄巾軍を一部吸収した三国時代の魏は屯田制で戦乱により荒れた農地の回復を図り、魏を継承した西晋では占田・課田制と呼ばれる田地の再配分政策も施行されたが、いずれも半端な策であり、持続的な効果はなかった。
 大土地所有制に対する大きな改革策は、北方遊牧民に出自する鮮卑系北魏の均田制において実現された。均田制は、文字どおりに取れば、田地を均等に配分する制度であるが、基本的に軍事国家であった北魏の均田制は兵役としての府兵制とセット化された軍事的制度であった。
 しかも、これは既成の大土地所有制を根本的に否定するものではなく、大土地所有制を一定制約しつつ、それと並存するものであり、かつての限田制とは異質のものであった。一方で、前漢を打倒して一時的に新を建てた王莽が断行したある種社会主義的な土地の国有化(王田制)とも異なり、限定的な相続も認める緩やかな土地の公有化であった。
 そうした不徹底さは、均田制がある程度の成功を収めたゆえんであったかもしれない。均田制は、北魏を継承する北朝系の隋の時代に整備され、続く唐の時代に律令制的な土地制度として完成された。しかし、制度の不徹底さは制度解体への道も用意していた。
 唐中期になると、兵役負担の重さや天災による耕作不能などの事情から、逃亡農民が増加し、耕作地の兼併による再版的な大土地所有が出現し、逃亡農民を迎え入れつつ大土地に囲い込むケースも急増した。
 当局はこれに対する限田策のような抜本的対策は講じず、むしろ均田制を事実上放棄して、銭納を原則とする両税法を導入したことで、均田制による限定的な改革効果も消滅することになった。結局、唐の権力も大土地所有制の力には勝てなかったのであった。
 両税法施行下で形成された新たな農村では、土地所有者たる主戸と小作人たる客戸の階層化が進んだ。納税義務を負う主戸も資産額に応じて等級化がなされたが、客戸は納税義務を負わない反面、従属的な立場に置かれ、五代十国時代を経て成立した宋の時代には佃戸と呼ばれ、下層階級化されるようになる。
 佃戸に対して、富裕な上級主戸は地主として勢力を持つことから形勢戸と呼ばれ、宋時代にはこの階層から官僚を輩出した形勢戸を特にと呼ぶようになる。他方、佃戸の地位は地域により差異があったようであるが、逃亡が許されず、土地に拘束されて小作料を負担した限りでは農奴に等しいものであった。
 結局、前近代中国では様々な農地改革の試みが挫折した結果、このような佃戸制が広く定着していくことになった。しかし、皮肉なことに、このような制度下で、農業技術の進化もあり、特に江南地方における米の生産力が増大し、江南は中国最大の米どころに成長する。江南地方の発展は、やがてこの地方を地盤とする中国初の全国王朝である明の成立を用意したであろう。

コメント

農民の世界歴史(連載第9回)

2016-10-24 | 〆農民の世界歴史

第二部 農民反乱の時代

第3章 中国の農民反乱史

(1)歴史的動因としての農民反乱

 農民階級は歴史上とてつもなく長い闘争を続けてきた。その主要な形態は一揆的な反乱であった。その点、自給自足農民は反乱しない。自己完結的な自給自足が成り立っている限り、反乱する必要がないからである。
 農民反乱は、皮肉なことに、農業生産力が向上して農民が階級的に分岐し、かつ社会上層による農民搾取のシステムが構築されたことにより、発生するようになった。そうした農民搾取のシステムは、これまた皮肉なことに、「文明的」な社会であればあるほど精緻に構築されていった。
 そのため、農民反乱の頻度やその期間には地域的な差異が大きいが、歴史上は中国における農民反乱が頻度・期間の点で最長である。それは中国史のほぼすべてと言ってよいほどであって、以前の連載『世界歴史鳥瞰』でも触れたとおり、中国史においては、農民反乱が歴史的な動因となっている。
 記録に残る限り最初の大規模な農民反乱は、秦末に起きた陳勝・呉広の乱と見られる。もっとも、秦を短期間で滅亡させたこの乱は陳勝・呉広という農民出身兵士に率いられた軍事反乱の性格が強かったが、中国では戦国時代から諸侯が農民を兵士として動員するシステムが構築されていた。
 秦もそうしたシステムを継承していたわけだが、この反乱自体は全く単純な動機から起きた。すなわち、秦法では兵士の配置遅れは死罪とされていたところ、辺境警備のため動員された陳勝・呉広らは大雨にあい、遅延が確実となったため、死刑を免れるため、反乱に出たのである。
 すでに始皇帝は亡く、無能な二代目皇帝の下で弱体化していたこともあり、反乱は簡単に成功し、首謀者陳勝は一時王に即位し、国号張楚を称した。これは通常、正式の中国王朝に数えられることはないが、中国史上初の農民出自王朝の成立であった。
 しかし陳勝に統治能力はなく、秦残党勢力の反撃にもあい、張楚はあえなく崩壊する。しかし、陳勝らの始めた反乱はすでに対秦レジスタンスの様相を呈していた。そうした中、反乱軍の武将から身を起こしたのが、漢帝国の建国者となる劉邦であった。
 劉邦の生家は農家であったが、三男の劉邦自身は農業をせず、反乱に参加する前は任侠的な無頼生活を送っていたとされる。とはいえ、出自階級から言えば農民出身であり、劉邦の子孫が皇帝を継ぎ、前後400年に及んだ漢帝国は農民出自王朝であった。
 だからといって、漢帝国が農民を特に厚遇したわけではないが、7代武帝時代の財政再建策では農民より大商人への増税を図ったことには、農本主義への傾斜も見て取れる。しかし、膨張主義的な武帝時代の軍事行動の増発の結果、徴兵された自作農の農地放棄と富裕層による土地の取得を通じた大土地所有制の出現という古代ローマと類似した問題が立ち現れた。
 12代哀帝の時には大土地所有を制限する限田策を試みたが、予想どおり既得権益層の強い反発を受け、失敗に終わった点も古代ローマの土地改革の軌跡と似ている。漢時代の大土地所有者であった地方豪族の多くは富農の成り上がり組であったが、こうした社会構造にも農民出自王朝としての性格が滲み出ているかもしれない。
 これら地方豪族の力を背景に漢帝国を再生して成立した後漢の時代、地方豪族らは官僚として中央に進出し、既得権益を防衛したため、土地改革が進む余地はなくなった。地方豪族の農地は一種の荘園と化し、小作人や農場労働者など従属的な下層農民の階層分化を促進した。豪族勢力はまた、中央で増長してきた宦官勢力と激しく対立し、民衆の困窮をよそに権力闘争を繰り広げた。
 そうした中、後漢末には張角が創始した太平道なる道教系宗教集団に影響された農民反乱・黄巾の乱が勃発し、漢の衰退を促進した。このように農民反乱が宗教的に鼓舞される構図はこれ以降、中国史の特色となる。

コメント

農民の世界歴史(連載補遺)

2016-10-24 | 〆農民の世界歴史

第2章ノ2 イスラーム世界における農民

 砂漠の民アラブ人が創始したイスラーム世界は元来、遊牧民の世界である。遊牧という生活様式は、農業の延長的営為である牧畜が可動式に発展した後発の生活様式と考えられている。どのような経緯によってか砂漠地帯に進出したセム系民族のアラブ人は、先駆的な遊牧民の一つである。
 かれらもオアシスで農耕をしないわけではなかったが、イスラーム教団の征服活動によって広がった非砂漠地帯での農業は被征服民の隷従的な任務であった。特に大穀倉地帯を擁するエジプトがイスラーム世界に入ってくると、この地の被支配層に組み込まれた農民たちは支配層のアラブ人とは区別され、フェッラーと呼ばれた。
 フェッラーは西欧の農奴とは異なり、被征服者として重税を負担させられながらも自由農民であった。イスラーム世界では西欧のような形態の農奴制が成立することはなかった。フェッラーにはハラージュと呼ばれる一種の地租が課せられ、初期には負担に苦しみ逃亡する者もあった。
 しかし、アッバース朝はハラージュをアラブ人土地所有者にも課す平等課税制度を確立したため、中近世西欧や日本で頻発する農民反乱はイスラーム世界では見られなかった。もっとも、アッバース朝下、イラク南部のメソポタミア文明故地では有力者が保有する私領地で、東アフリカ沿岸地域から連行した黒人奴隷ザンジュを使役したプランテーションが大々的に営まれた。
 ザンジュの待遇は劣悪だったため、869年、一人のアラブ人革命家に煽動されたザンジュの大規模な反乱が勃発した。これはアッバース朝弱体化の隙をついて革命に発展し、10年以上にわたり、複数の都市を占拠して一種の地方革命政権を樹立した。しかし、これは農民反乱というより、奴隷反乱であった。
 農奴制が成立しないことは、イスラーム勢力がイベリア半島を支配し、ヨーロッパ侵出を窺うようになった時代も同様であった。この時代のアンダルシア地方は8世紀から13世紀にかけてのイスラームの黄金時代と呼ばれる一時代におけるアラブ世界における農業革命の中心地ともなった。
 この農業革命の土台は、水資源が限局された乾燥地帯でも農業生産力を確保するペルシャの地下用水技術(カナート)の導入にあったと考えられている。その点では、イスラーム勢力によるペルシャの征服が画期点となったのだろう。
 ちなみに、アンダルシアは多数のすぐれた農学者を輩出しており、彼らの研究成果を基にした集大成が、イスラーム時代の12世紀セビリアの農学者イブン・アルアッワームが著した全35巻にも及ぶその名も『農書』である。

コメント

農民の世界歴史(連載第8回)

2016-10-19 | 〆農民の世界歴史

第2章 古代ギリシャ/ローマにおける農民

(3)古代ローマ〈2〉

 前回見たとおり、古代ローマの大土地所有制ラティフンディアに対しては、カエサルの時代になって、ようやくメスが入ったのではあるが、カエサル自身の暗殺という不慮もあり、カエサルの名にちなんで「ユリウス法」とも呼ばれた農地改革法の効果は徹底されなかった。
 ただ、同法が成果を出そうと出すまいと、帝政時代に入ったローマでラティフンディアはその存立基盤を喪失する運命にあった。ラティフンディアを支えていた奴隷労働力が高騰し始めたのだ。
 その要因は、皮肉にも帝政ローマが主導する覇権的世界秩序が安定し―いわゆるパクス・ロマーナ(ローマの平和)―、戦争が減発したことにあった。奴隷は通常、征服戦争によって獲得した地域から供給されてきたため、征服戦争が減少すれば、奴隷も減少する結果となる。
 こうして奴隷の減少が奴隷市場の高騰を招き、さすがの富裕層も十分な奴隷を買い入れることができなくなった。そこで、大土地所有者らは奴隷に代えて無産者などを小作人として使用するシステムを編み出した。コロヌスと呼ばれたこれら小作人は奴隷とは異なり、人格を認められ、一定の財産権及び相続権も保障された自由人であり、地代の納付を義務付けられた一種の労働者であった。
 コロヌスを使用した新たな農場がコロナートゥスであるが、これは国有地の占有を基礎に成り立っていたラティフンディアと比べ、より私有制の色が濃く、一種の貴族荘園であった。
 いわゆる五賢帝によるパクス・ロマーナの時代が終わり、帝政ローマが内政の混乱により動揺し始めた3世紀以後になると、コロナートゥスは土地制度の面から帝国の解体を促進する要因となっていく。
 4世紀のコンスタンティヌス帝は東方のコンスタンティノポリスに遷都して帝国の東西分裂の契機を作ったが、土地制度面でもコロヌスの逃亡を禁ずる法律を制定したことで、コロナートゥスは帝国の分裂を促進した。
 これが直ちに西洋中世の封建制に連続したという見方には飛躍があろうが、これにより、大土地所有者は衰退していく帝国の支配を脱して、ある種の農場領主として自立化し始める一方、土地に束縛されたコロヌスらは農奴のような存在と化していった。ある意味では、ローマにおける、さらには後の西ヨーロッパにおける階級としての農民はこの時に誕生したと言えるかもしれない。
 しかし、東西分裂・西ローマ帝国滅亡後もコンスタンティノポリスを首都に生き延びた東ローマ帝国では、コロナートゥス型の荘園とともに、やがてはそれに代わって小土地所有農民で構成する村落が出現し、また時折農民出自の皇帝さえも輩出するが、この件は続く第二部で取り上げる。

コメント

農民の世界歴史(連載第7回)

2016-10-18 | 〆農民の世界歴史

第2章 古代ギリシャ/ローマにおける農民

(2)古代ローマ〈1〉

 元来、小さな都市国家だったローマは小規模な家族農を中心とする後進的な農業国であったが、同時代のギリシャやカルタゴから取り入れた農業技術を使って革新していった。共和政時代後期の第二次ポエニ戦争以後は、農業経営にも変革が起きた。
 同戦争には多くの農民が兵士として長期間徴兵されたことから、農民は農地を富裕な貴族に売却することを余儀なくされた。さらに戦後、ローマが支配領域を拡大していく中、属州ではいったん国有地として取得された土地が貴族に貸与されたが、それらの借地はしだいに借主の貴族によって事実上侵奪・所有されるようになる。
 このようにして、ラティフンディアと呼ばれる大土地所有制が形成されていった。大土地といっても、如上のような経緯から、当初は各地に分散した小土地の集積として総面積で「大土地」が形成されていったものであるが、富裕な貴族は周辺土地の借り上げや買い占めによって名実共に大土地所有者となり得た。
 これらラティフンディアで農業労働に従事したのは、奴隷であった。ローマ支配領域の急速な拡大に伴い、奴隷労働力は量的にも増大しており、結局ラティフンディアの農場主となれるかどうかは、奴隷購買力にかかっていた。
 共和政時代の政治家カトの農書『農業論』は、こうしたラティフンディア経営の秘訣を論じた教科書として、後世にもしばしば参照された。一方、農業をあらゆる職業中最良のものと称賛した文人政治家キケロが推奨する農業は、ローマ初期の家族農への回帰を夢見る風であるが、これはすでに理想郷であった。
 ラティフンディア経営は、奴隷労働力の供給が円滑な限りは、低コストの効率的な食糧生産を可能とし、ローマの農業生産力の向上に貢献したのである。他方で、土地を喪失した零細農民は没落し、都市の無産市民としてプロレタリア化した。
 このようにして、近代の先取りのようなローマ型階級社会が形成されていくが、根本的な改革は進まなかった。共和政末期の改革者グラックス兄弟の改革プログラムの核心は、大土地所有の制限と土地の再分配という農地改革にあったが、この種の革命的プログラムの常として既得権益層の強い反発に直面し、改革は挫折した。
 その後のローマは、グラックス改革の志を継ぐ勢力と抵抗勢力の間での抗争が100年近くにわたり続く混乱の時代を迎えるが、最後に対立を止揚したカエサルがグラックス改革に沿った農地法を制定、ようやく問題に一定の区切りがついた。
 この農地改革はいわゆる三頭政治期に行なわれたが、それはやがて来るカエサル独裁体制の前触れであった。ローマは改革の実現と引き換えに、それまでのある程度民主的な共和政から権威主義的な帝政への体制転換を経験しなければならなかったのだ。

コメント

農民の世界歴史(連載第6回)

2016-10-17 | 〆農民の世界歴史

第2章 古代ギリシャ/ローマにおける農民

(1)古代ギリシャ

 多くの先行古代文明圏と異なり、大河川に支えられた肥沃な土地が存在しない環境下で発祥し、農業のイメージと結びつきにくい古代ギリシャであるが、実際のところ、古代ギリシャ人口の8割は農業に従事していたのだった。
 ギリシャ農業は乾燥した夏と湿潤な冬の二季に特徴付けられた地中海性気候を利用した穀物栽培やオリーブ栽培を基本とする乾燥農業であったが、土地の狭隘さと不毛さに常に悩まされていた。
 もっとも、農業の構造は古代ギリシャの基礎的な政治単位である都市国家ごとの成り立ちや環境条件により差異があったが、ここでは対照的な二大ポリスであるアテナイとスパルタの場合を取り上げるにとどめる。
 軍事的征服によって成立した高度な軍国であったスパルタの場合、身分制が厳格であり、第一身分のスパルタ市民は政治・軍事に専従し、その所有地は最下層の隷属民ヘイロータイを使役して耕作させた。ヘイロータイは征服されたスパルタ先住者の子孫と見られるが、完全な奴隷とは区別されたある種の農奴であった。
 実は、軍国体制が確立されたのも、スパルタが征服した隣国メッセニアの住民をヘイロータイに落として厳しく搾取したことに対し、メッセニアのヘイロータイがたびたび反乱を起こしたことに対する治安維持策という意味もあったのだった。
 こうして都市国家としては比較的広大な領土を擁する農業国となり得たスパルタに対して、元来土地がやせ、農業貧国であったアテナイでは早くから貴族による土地集中制が成立し―おそらく土地所有者の富農が貴族階級化したのだろう―、土地所有者と農民の階級分裂が進んだ。農民の中には債務を負い、当時の慣習であった債務奴隷に身を落とす者も続出した。
 紀元前6世紀初頭の「ソロンの改革」の柱の一つであった債務奴隷の禁止には農民の救済策の意義もあった。同時に土地の再分配を進め、所有土地の生産高に応じた新たな身分制度を作り出した。スパルタでは伝説的な立法者リュクルゴスにより大土地所有はすでに制限されていたが、前述のとおり、耕作は隷属民の任務であった。
 しかし、アテナイでもスパルタでも、紀元前4世紀頃から再び土地の少数寡占化が進行していく。この大土地所有制過程はポリスの衰退期とも一致している。とはいえ、もともと狭い都市国家では「大土地」といっても物理的限界があり、最大でも30ヘクタールほどのもので、古代ローマにおけるような文字どおりの大土地所有制が発達する余地はなかった。
 こうした農地の狭隘さは、ギリシャ人が地中海各地に植民都市を形成していった要因の一つでもあった。そのことは同時に、古代ギリシャが統一国家にまとまらず、かえってポリスを形成しなかった「遅れた」ギリシャ人のマケドニア王国に事実上併合されていく要因ともなった。

コメント

農民の世界歴史(連載第5回)

2016-10-12 | 〆農民の世界歴史

第1章 古代文明圏における農民

(3)メソアメリカ文明圏及びアンデス文明圏

 中米のメソアメリカ文明圏は、紀元前1000年代頃に今日のメキシコ湾岸に開かれたオルメカ文明を嚆矢とし、メキシコを中心とする中米各地に発祥した類文明の総体であるが、初発のオルメカ文明は洪水を引き起こす河川流域の肥沃な土地で農耕を基盤に形成された点で、いわゆる四大文明圏と類似している。
 オルメカ文明が紀元前後に衰退すると、これ以降のメソアメリカ諸文明は、メキシコの高地へ遷移していったが、いずれもオルメカ文明の諸要素が継承されていることが多い。そのすべてをここで検討することはできないが、最も長く続いたマヤ文明は統一王権にまとまらず、都市国家型の文明を維持した点で、メソポタミアのシュメール都市文明に似ている。
 マヤ文明の都市国家は階層化されており、平民の大多数は農民だったと見られる。かれらは段々畑や湿地の盛り土を利用して支配階級向け及び自給用の作物を栽培し、戦時には兵士として動員されたようである。
 メソアメリカ文明圏には最後まで統一王権は成立せず、常に複数の文明が並存したが、15世紀前半、メキシコ中央高原に建設されたアステカは帝国的な覇権を持った。アステカ帝国は皇帝を頂点とする極めて階級的な軍国体制であった。
 ただ、農民人口は全体の2割程度と推定されており、大半は兵士や職人、商人であった。それでも物資的土台となる第一次生産を支えられたのは、チナンパと呼ばれる沼地の水草で作った水上畑を利用した独特の灌漑農業が高い生産性を誇ったためと考えられる。

 一方、南米のアンデス文明圏は、急峻なアンデス中央高地に開花した独異な山岳文明圏であり、地理的に比較的近いメソアメリカ文明圏を含め、他の文明圏が基盤とした穀物栽培でなく、イモ類を中心とした塊茎類の栽培を物資的基盤として発展した点に特徴がある。
 その初発は、紀元前3000年頃まで遡るというペルーのノルテ・チコ文化と見られる。その後は、メソアメリカ文明圏と同様、周辺地域で類文明の継起的な発生が続くが、アンデス文明圏がメソアメリカ文明圏と異なったのは、インカ帝国という統一国家に収斂されていったことである。
 インカ帝国も厳しい階級社会であり、人口の大多数を占める農民は重い賦役や兵役を負担する従属的存在であった。かれらはアンデス文明圏の共通的な慣習制度であるアイユと呼ばれる親族共同体に属し、各アイユは自立的な生活単位であるとともに、集団的に土地を保有した。ちなみに、マルクスは『資本論』の中で時折アイユを引き合いに出している。

 メソアメリカ文明圏及びアンデス文明圏は、言わば「持続的古代文明圏」と呼ぶべき古代的な文明圏として、他の文明圏からは隔絶された環境下で16世紀まで長期にわたり持続したのであるが、同世紀、侵略してきたスペインによって順次征服され滅亡、スペイン化された両文明圏の故地はラテンアメリカと称されるようになる。
 以後、両文明圏の担い手であった先住民たちは、スペイン支配下で奴隷的に使役される存在に落とされ、人口も激減する。先住民がいなくなった農地はスペイン人の大土地所有制となり、これが近現代まで継承され、ラテンアメリカ社会を揺るがす農地改革問題の焦点となるが、これについては第三部で扱う。

コメント

農民の世界歴史(連載第4回)

2016-10-11 | 〆農民の世界歴史

 第1章 古代文明圏における農民

(2)エジプト文明圏及び黄河文明圏

 古代エジプトは、西アジアとも接続し、農耕に関してもその影響を受け、ナイル河流域の肥沃な土地で灌漑農業を発達させた。しかし、その発展方向は相当に異なっていた。
 エジプトでは当初、ナイル上下流域に多数の農耕共同体が形成されていたが、氾濫性の強いナイル河の治水と灌漑を集中的に進める上では、多岐に分かれた共同体は不便であることから、共同事業を進めるための統一が必要とされた。
 その要請から、まず紀元前3000年代中頃に上下流域が各二つの王国にまとまるが、やがて上エジプトが下エジプトを併合する形で、統一エジプト王朝を樹立する。こうして、エジプトでは各農耕共同体が都市国家に発展するのではなく、統一王朝へと止揚されていったのであった。
 このような治水・灌漑技術を基盤とする王朝は、後半で見る中国とも共通性を持つ。エジプト統一王朝における農民は当初、その大半が農奴であった。その点で、エジプトはヨーロッパに先駆けて農奴制を組織した体制であると言える。
 王国形成の経緯からも、農業は当局の中央管理下に置かれ、水利監督官によるナイル河の厳正な水位計測に基づく収穫予測に基づき、収穫管理と徴税、非常備蓄も行なわれるなど、計画経済的な要素を帯びた計画農業が実施されていた。
 しかし、土地はその大半を国王から封じられた貴族が所有するある種の封建制の原型であったが、土地と貴族身分は必ずしも世襲的ではなく、国王の地位や王統と同様、変動しやすく、安定的に確立された封建制とは言えなかった。そのため、エジプト純正王朝としては後期となる新王国時代になると、農奴制も崩れ、自作農や契約農(農場労働者)も増加していった。
 その後、ギリシャ系のプトレマイオス朝は異民族支配体制として、産業の王室独占政策を敷き、農民も「王の農民」とみなして、搾取するようになった。重税への不満は農民の逃亡を頻発させ、ひいては王国の物質的土台の衰退を促進した。

 一方、中国大陸の黄河文明圏もやはり氾濫性の強い黄河流域に開かれた農耕共同体を基盤にしつつ、都市国家ではなく、統一王国にまとめられていく点で古代エジプトと似ている。伝承上最初の黄河統一王朝は夏であるとされてきたが、近年、夏朝の実在性を証明し得る遺跡が発見されている。
 夏朝の創始者とされるのが禹であるが、禹の最も知られた業績が治水事業であることは偶然ではなく、黄河文明圏の成り立ちを物語っている。禹は伝説的な王であるが、近年、紀元前2000年頃と見られる黄河大洪水の痕跡が見つかり、伝承上の夏王朝創始年とも重なる。
 おそらくその頃、大洪水からの復旧・復興事業を大規模に進めるうえで、統一王権の必要性が生じ、従来の流域共同体を束ねる存在として、禹に相当するような土木指導者が出現し、統一王国が建設されていったものと考えられる。
 その後、実在性が証明できる統一王朝として殷商が現れ、次いでこれを打倒して周が成立する。この時代の農民の地位について詳細は不明であるが、古代エジプトとは異なり、古代中国では農奴制は成立しなかったようである。
 それどころか、周の時代には井田制と呼ばれる一種の土地共有制が存在したとされる。これは、田を井の字型に九等分したうえ、その一区画は八家族共有の公田とし、その余の八区画は各家族の私田とするという制度である。
 もっとも、この制度は伝承性が強く、史実としての検証は困難であるが、少なくとも、農奴制に近い後の佃戸制のような搾取制度の出現は遠く唐末のことであり、古代中国では自立農が多かった。
 自立農は戦国時代、兵士として諸侯によって動員され、中核的な戦力となった。これにより、農民=兵士の力量が増していくことは、やがて農民反乱が歴史の動因となる中国史を形作ることになったであろう。

コメント

農民の世界歴史(連載第3回)

2016-10-10 | 〆農民の世界歴史

第1章 古代文明圏における農民

(1)メソポタミア文明圏及びインダス文明圏

 現時点では、人類史上いち早く農耕を開始したのは西アジアであったとされる。前回触れた現シリア領内のテル・アブ・フレイラ遺跡はその最古例の標準遺跡とされてきたが、近年イスラエルで2万年以上前に遡るという農耕遺跡が発見され、農耕史の見直しが行なわれる可能性がある。
 年代や正確な地点はともかく、西アジアが農耕の初発地であることに変わりない。特にメソポタミア文明圏はそうした農耕の土台の上に開花した最古の文明圏である。
 その出発点は、ティグリス及びユーフラテス河間の沖積平野で開花した紀元前5000年代に始まるウバイド文化と呼ばれる高度な農耕文化であった。当初は運頼みの天水農業からスタートしたウバイド文化人たちは、間もなく灌漑農業技術を開発し、農業生産力を飛躍的に増大させた。この頃より、農民は専従の階層として分化し始めていた。
 こうしたウバイド期を経て、メソポタミア都市文明が形成されていく。その担い手は民族系統不明のシュメール人であるが、おそらくかれらの祖先はウバイド文化人であり、農耕民から出た都市文明人であったと考えられる。シュメール人は、おそらくは前代のウバイド文化から継承・発展させた灌漑農業を高度に展開し、運河から引水した畑で、麦や豆類を中心に多岐にわたる作物を栽培するとともに、家畜の飼育も行なっていた。
 シュメール人の特徴は統一王朝を形成せず、複数の都市国家ごとに抗争する歴史を繰り返したことである。それぞれの都市国家は階層化されていたが、シュメール都市国家は農奴制を持たなかったようであり、シュメール社会の階層秩序は比較的水平なものだったと考えられる。ただし、シュメール最後のウル王朝期になると、支配層と農民層の階級分裂は相当に進行しており、古代王朝的な様相を呈するようになっていたと見られる。

 一方、インド亜大陸のインダス河流域にメソポタミアより遅れて紀元前2000年代中頃に開花したインダス文明圏も、統一王朝の存在が確認されず、流域都市国家が興亡する都市文明であった。この文明圏に関しては担い手民族を含め、いまだ謎が多いが、埋葬方法の社会的格差がさほど見られないことなどから、シュメール都市国家と同様、比較的水平な階層秩序を保持していたと考えられている。
 農民たちは、夏と冬の季節変化に応じた農業を展開し、モンスーン季のインダス河の氾濫を利用した氾濫農耕と初歩的な灌漑農業を組み合わせていたと考えられるが、灌漑技術はシュメール都市国家ほどに発達していなかったようである。
 インダス文明圏に関して注目されてきたのは、比較的短期間での滅亡要因である。かつて信じられたアーリア人征服説は年代の齟齬から近年では否定され、むしろ気候変動説が有力化している。特に、この地域に特徴的な夏季モンスーンの巨大化によるインダス河の大氾濫が想定されている。
 先述したように、インダス文明圏では灌漑技術の発達が不十分であり、こうした気候変動による大氾濫に耐えることはできず、農民たちは流域から周辺部へ集団移動し、都市国家の基盤が崩壊したと考えられるところである。
 第一次生産を支える農民の逃亡流出は、農産物の広域輸出入ができなかった時代においては、一つの文明圏の崩壊にも直結する大問題であった。そこから、農民の逃亡を許さず、土地にくくりつけて使役する農奴制のような新たな農民支配制度が創案されていったであろう。

コメント

農民の世界歴史(連載第2回)

2016-10-04 | 〆農民の世界歴史

第一部 農民階級の誕生

序章 最初の階級分裂

 農耕の創始と農民の誕生とは一致しない。農耕の開始がいつどこでか?という問いはここでの主題ではないので立ち入らないが、その答えの如何にかかわらず、農耕が創始された当初、農耕は共同体成員全員が従事する共同作業だったと考えられるからである。
 そのことの裏付けとしては、現時点では世界最古級の農耕遺跡と見られる現シリア領内のテル・アブ・フレイラ遺跡(推定1万年前)では、発見された人骨にほぼ共通して重労働の痕跡が見られることが挙げられる。
 ある意味では、原初の農耕共同体においては全員が農民だったとも言えるが、全員が農民ということは農耕に専従する階級として農民はまだ誕生していなかったことを意味している。おそらく先史農耕時代は、それ以前の狩猟採集生活様式がまだ並存しており、農耕は植物採集から派生した新しい共同生産活動であったと考えられる。
 人々をそうした新たな生活様式の開始に赴かせた要因は、気候変動にあったようである。すなわち、上記遺跡を含む北半球高緯度地帯では、従前の氷河期の終焉後、温暖化を経て、再度寒冷期に入り、寒冷乾燥化により野生の食用植物が不足したため、採集から栽培へと移行せざるを得なかったというのである。
 さしあたり農耕は世界各地で相互に関連なく継起的に発祥したと理解するとして、おそらくどの地域においても、人間が観念的に思念して農耕を開始したのではなく、環境的な要因によって採集が困難になったことで、必要に迫られて開始したものと考えられる。
 そういう偶発的な発祥であれば、農耕に専従する農民という階級も存在しなかったのは当然であるが、農耕が拡大し、農‐業として一個の産業化されるにつれ、生産力も向上し、共同体に食糧ストック―ある種の現物資本―が蓄積される。
 そうなると、共同体内に重労働の農作業を他人に強いて自らは管理的な任務に従事する人間が立ち現れる。たいていは共同体の長老級人物であろう。長老らは次第に世襲の管理者階級となったかもしれない。かれらの指揮下で農業に専従する者が農民として固定された。人類史上最初の階級分裂である。
 残念ながら、先史農耕遺跡からそうした最初の階級分裂の痕跡を明確に裏付けることはできないようだが、農耕が発達した各地域が後に高度な文明圏へと発展し歴史に登場した時には、すでに農民は従属階級化されていた。
 ただ、各文明圏における農民の地位や生活状況には特色が見られるので、続く第1章では代表的な各古代文明圏における農民の実像を可能な限りで再現してみることにする。

コメント

農民の世界歴史(連載第1回)

2016-10-03 | 〆農民の世界歴史

序論

 現代は、ポスト工業化・情報化の時代とも言われる。しかし、それは世界の趨勢の一部しか見ていない偏った把握であり、最も古い基層産業である農業の存在を忘れている。実際、世界の人口構造上、都市人口が農村人口を超えたのはようやく2007年のことにすぎない。国別に見れば、現在でも農村人口が圧倒的多数を占めている国も少なからず存在する。
 農耕はそれが創始されて以降、人類の間で絶えたことはなく、連綿と続けられている。もっとも、昨今は、植物の工場栽培技術も開発されてきており、将来的には多くの農作物が野外でなく、工場で栽培され、農業の担い手は農民から栽培工場の労働者に取って代わるのかもしれない。しかし、さしあたりそこまで先走ってはいない。
 世界全体としては農民は推計で10億人と、なお大きな階層として足場を保っている。農民は農耕が一つの産業となり、農業専従者が農民として分化して以来、極めて長い歴史を刻んできた大階層であるが、農民が歴史の中で主役となることは稀で、せいぜい脇役にとどまることが多かった。
 しかし、仔細に見れば、農民は世界中で、様々な形で歴史を動かす原動力となってきており、その存在は無視できない。ただ、主役の王侯貴族や武将、職業政治家らに目を奪われがちな通常の歴史叙述においては、農民はせいぜい反乱分子として言及される程度である。本連載は、そうした趣向に背を向け、農民を歴史の重要な裏方として俯瞰し直す世界歴史叙述の試みである。正式のサブタイトルとはしないが、あえて付すなら、「オラたちの世界歴史」である。
 ところで、筆者は先般『「女」の世界歴史』なる連載を終えたところであるが、これも、通常の歴史叙述では脇役扱いされがちな女性(及び同性愛者)に焦点を当てて世界歴史をとらえ直す試みであった。当連載もそれに続き、今度は農民に焦点を当てた歴史のとらえ直しの試みと言ってよいものである。
 世界の農業従事者の比率は1970年末にはすでに50パーセントを割り込んでおり、全体として農民の減少傾向は否定できないが、歴史上農民は世界人口の大半を占めており、筆者を含め、元をただせば農民の末裔である人がほとんどである。
 その意味では、比較的近年に至るまで、「民衆≒農民」という構造が維持されていた。よって、農民の歴史もほぼイコール民衆の歴史なのであって、人口のほんのわずかな割合しか占めていない王侯貴族や武将、職業政治家らにばかりとらわれた歴史叙述はごく部分的なものでしかないとも言えるであろう。
 同時に、農業は自然に対して直接に働きかける生産活動であるので、天候を含めた環境による影響を直接に受ける産業であり、農業に従事する農民の生活も環境に左右される。従って、農民の歴史は同時に環境の歴史でもある。筆者の力量の限界から、当連載では環境史を確実に踏まえた叙述は期待できないが、可能な限りで、環境史も参酌した叙述を心がけてみたいと思う。

コメント

高度成長の夢よ、もう一度?

2016-10-02 | 時評

政府が2020年東京五輪に続き、2025年大阪万博の誘致にも乗り出すのだという。これはまさに1964年東京五輪―1970年大阪万博という高度成長期の懐かしい昭和の歴史をもう一度なぞりたいというはかない支配層総体の願望の現れである。

すでに開催が決定している第二次東京五輪でさえ、誘致運動当時の予算見積もりは「コンパクト五輪」を謳った内外への宣伝用過少数値であり、実際にはその数倍の見積もりに膨張して問題化しているところである。

“都民ファースト”ポピュリスト知事の豪腕をもってどうにか圧縮に成功したとしても、全体で兆の単位に達することは避けられそうにない。そのうえ、西でも第二次大阪万博誘致で巨費を投ずるのは客観的に見て愚策と思われるが、高度成長の夢をもう一度見たい支配層にとっては決してそうではないらしい。

しかし、歴史上高度成長を二度経験した国はない。人間と同じで、経済の成長期も一回きりのものである。その厳然たる法則性を直視する勇気がなく、悪あがきしたがるのは、敗戦・降伏を最後の最後まで認めなかった旧軍国勢力と似ている。

軍事大国を断念させられ、戦後は経済大国に衣替えしたものの、ひたすら規模の拡大を欲望する支配層の基本的な精神構造は不変のままであるので、潔く大国の看板を降ろす勇気が出せないのだろう。

しかし、線香花火的な経済効果を狙って大祝祭イベントに巨費を投ずるのでなく、公費を市民の暮らしの充実のために振り向けるのは、成長期をとうに過ぎ、成熟期―という名の老化期―に入った国にとっては理にかなった政策転換である。

ちなみに大阪万博のテーマは「人類の健康・長寿への挑戦」だそうだが、「人類の健康・長寿への挑戦」のためには、維持管理に難儀する箱物を将来に残し、社会サービスを切り詰める一層の緊縮財政を強いるだけの五輪や万博には手を出さず、公的な社会サービスの充実に注力することがさしあたり最も近道である。

残念ながら、そのことを理解したくない夢見心地の政官財“エリート”たちを信奉し、踊らされ、さぁ五輪だ・次は万博だと浮かれている国民の暮らしの行く末は限りなく暗い。生活崩壊という敗戦さながらの苦境が訪れる前に覚醒されんことを。

コメント