第3章 中国の農民反乱史
(3)貧農出自王朝・明
佃戸制は宋の時代―女真系金による華北征服後の南宋を含む―を通じて確立されていったが、南宋時代には、奴婢を使役する一種の国営農場―官田―も現れ、搾取労働により相当の生産性を上げるまでになっていた。
宋・金を相次いで打倒して中国大陸を制覇したモンゴル系の元は、こうした南宋時代の制度をほぼ踏襲する保守的な政策を志向した。結果として、江南は引き続き、米作地帯として繁栄を享受し得たのだった。
皮肉にも、このことが元にとっては命取りとなる。元末の混乱の中で、漢人の農民反乱が勃発する。この反乱の性格はやや複雑で、その精神基盤となっていたのは南宋時代に発祥する仏教系宗教結社白蓮教であった。
この宗教結社は元代には危険視され、抑圧されていたが、元末の混乱の中で江南を地盤に急速に勢力を広げ、反元レジスタンス勢力として成長していった。その主力は農民だったことから、紅巾の乱は農民反乱の性格を持つが、最終的に元の打倒・駆逐という革命に至った点では漢人による民族運動という歴史的意義も帯びている。
この乱の渦中、紅巾軍部将として台頭してきたのが朱元璋、後の明初代皇帝・洪武帝である。彼は今日の安徽省の貧農出自と言われており、その点では漢の建国者劉邦に比すべき人物である。ただ、劉邦の出自は貧農ではなく、ある程度の資産を持つ中農と見られるのに対し、朱元璋は貧農出自で、若い頃は托鉢僧として極貧生活をしていたとされる。
このような出自から立身して持続的な王朝を建てたのは世界史的にも異例であり、近代セルビアの二つの王朝が類例として見られる程度である。ただ、これらはみな先住民族によるレジスタンスを背景としている点で共通している。
そうした貧農出自王朝としての明は、その来歴や史上初の江南地盤王朝という性格からも、歴代中国王朝の中で最も重農主義的な政策を志向した。
とはいえ、洪武帝は佃戸を抱える大地主を弾圧するポーズは見せたものの、大土地所有‐佃戸制に根本的なメスを入れることは避けた。そして財政基盤を固める目的から、人口調査に基づき新たな村落組織・里甲制を導入し、これを単位に厳正な租税台帳・土地台帳に基づいて徴税する収奪体制を整備した。
結果として、明中期以降になるとかえって大土地所有制が拡大し、寄生的な不在地主制も発達する一方、佃戸に転落し、地主による小作料収奪に苦しむ農民も増えていった。農民たちは団結して、小作料軽減に立ち上がるようになる(抗租運動)。
また当初穀物の物納を基本とする重農主義的な税制が16世紀、ラテンアメリカや日本からの銀の流入を背景に、銀納を基本とする新型税制一条鞭法に変更されると、農民も金銭収入が必要となり、その生活は一変した。
16世紀後半は明にとって衰退の世紀であり、貧農出自王朝も14代万歴帝の時代になると宮廷生活は驕奢化し、財政濫費に陥っていた。他方、抗租運動も拡大・激化していく。そうした中、17世紀前半、中部の陝西で発生した旱魃を契機とする農民反乱が全土に拡大する。
この反乱の渦中、かつての朱元璋同様に部将として台頭したのが李自成であった。彼が組織した農民反乱軍は後の太平天国のように「均田」「免糧(税)」をスローガンに規律をもって行動したため、反乱は革命の様相を呈した。そして、ついに明を滅ぼし、新たに順を建て、自ら初代皇帝に即位しようとした。
しかしここまでであり、李自成は第二の朱元璋たり得なかった。軍規の急激な弛緩も問題だったが、東北部で急速に実力をつけた女真系後金(後の清)の侵攻に抗し切れなかったからである。とはいえ、農民革命によって成立した王朝・明が農民革命によって終焉したのは、歴史の皮肉であった。