政府は29日、福島第一原発事故で汚染された土壌等の廃棄物(除染の対象となった汚染土壌等)の中間貯蔵施設を福島県内に設置し、およそ30年にわたり貯蔵する方針を決めた(最終処理は県外)。
しかし、中間貯蔵・最終処理、さらには前段階たる仮置きの一部も、東京電力管内、それも首都圏で引き受けるのが社会的に公平である。なぜか。
まず、何よりも、福島の原発は福島県ではなく、東電管内、それも最も電力需要の大きな首都圏に電力を供給していたからである。これまで30年以上にわたって福島の原発の恩恵にあずかってきた地域が今度は負担を引き受ける番である。
一方で、福島県は自らが電力供給を受けていなかった原発の大事故によって、生活を破壊され、各地を転々とする膨大な災害難民を出し、すでに十分すぎるほど負担を強いられてきた。このうえ、汚染廃棄物の貯蔵を一世代30年にもわたって負担しなければならないいわれはない。
ここで、福島県や県内の原発立地自治体はいわゆる「原発マネー」の恩恵をこうむってきたからには、事故の事後処理も県内で行うべきだという意見があるかもしれない。しかし、「原発マネー」はあくまでも原発の付随的利益にすぎず、その本質的利益としての電力供給はもっぱら東電管内が享受してきたことに変わりはない。
もちろん、首都圏住民で中間貯蔵施設の誘致を歓迎する人は一人もいないだろう。しかし、このようなものを単に「迷惑施設」とみるべきではない。それは従来、原発を維持してき、さらに今後も維持していくならば、万一の原発事故に伴う必然的な負担として甘受しなければならないことである。享受はしたいが負担はしたくないというのはムシの良すぎる理屈だ。
この期に及んでもなお原発の必需性を訴え、「脱原発は日本のとるべき道でない」とする意見広告を出したグループもある。そうした見解に立つ人々の多くは、電力需要の大きな首都圏の在住者であろう。それならば、なおのこと、率先して負担を引き受けるべきである。
どうしてもそういう負担には耐えられないというならば、原発とはきっぱり縁を切ることだ。ただし、その場合も多数の原発閉鎖に伴って生じる大量の放射性廃棄物の貯蔵方法と場所という大問題が生じるのであるが。
従来、便利で効率的で環境負荷も少ないと宣伝され、教えられてきた原子力という発電手段は、人間と人間が属する生態系に対してかくも甚大な負荷を課するものなのだと痛感させられる。