第六章 グレコ‐ロマン奴隷制
古代ローマの解放奴隷
古代ローマの奴隷制の特徴として、奴隷主が奴隷の個別的な解放に比較的好意的であったことが挙げられる。その傾向は、スパルタクスらの第三次奴隷大反乱の後には、さらに強まった。
元来、古代ローマの解放奴隷には市民権が与えられ、投票権も保障された点で、古代ギリシャのそれとは異なっていた。経済的な面でも、奴隷の財産所有が認められるようになり、解放奴隷には土地所有権も保障されたことから、解放後、裕福になることもできた。
ただし、解放奴隷は解放後も元主人との関係が続き、元主人を庇護者(パトロヌス)とするクリエンテスと呼ばれる古代ローマ独特の社会的関係性を築くのが通例であった。クリエンテスは奴隷のような一方的従属関係にあるのではなく、パトロヌスに奉仕することにより、見返りに経済的・社会的な便宜を図ってもらう「持ちつ持たれつ」の関係である。
クリエンテスはそのすべてが解放奴隷であったわけではないが、クリエンテスを多く持てば持つほど有力者とみなされ、また貴族の重要な義務である戦時の兵力動員に際しても兵力となるクリエンテスが多いほど有利であったローマ貴族にとって、奴隷を解放することは手っ取り早いクリエンテス培養手段であった。
一方で、気前の良すぎる奴隷解放により古代ローマの社会経済基盤である奴隷制が崩壊しないよう奴隷主は奴隷を解放するに当たり、解放税を納税する義務が課せられていたが、奴隷の供給が停滞した帝政期になると、奴隷を購入するより、解放奴隷をクリエンテスとして奉仕させるほうが貴族階級にとっても有益となったことから、奴隷解放が促進されたと見られる。
解放奴隷たちは社会組織の面でも、農場の奴隷監督者や役所の中間管理職、あるいは剣闘の興行主といった中間層を形成し、奴隷制が弱化していく帝政期以後には解放奴隷階層は社会の維持に不可欠の要素となっていた。
解放は、奴隷にとっては階級上昇の重要なステップであった。中でも4代クラウディウス帝時代には解放奴隷が高級官僚ポストに多数登用され、中でも財務長官となったマルクス・アントニウス・パッラスは国庫を預かり、事実上の宰相格として宮廷でも絶大の権限を持つに至った。
またローマに編入された征服地エジプト属州は皇帝私領にして食糧供給地帯というその特殊な地位から、長官職には皇帝に近い解放奴隷を充てることが慣例とされていた。
ちなみに、後期ストア派哲学者として名高いエピクテトスも解放奴隷であり、彼は14代ハドリアヌス帝と親しく交わり、その思想はハドリアヌスを継いだ哲人皇帝マルクス・アウレリウス帝にも影響を及ぼした。
とはいえ、古代ローマの解放奴隷は自由民の地位にとどまり、元老院議員をはじめ、公選公職や神官といった高位職に就く資格はなく、また将軍となり軍閥を形成することもできなかったから、イスラーム圏のマムルーク朝のように解放奴隷から支配層にまでのし上がる下克上の可能性は開かれていなかった。*例外として、内乱期の193年に五人の皇帝が次々と擁立された「五皇帝の年」における最初の皇帝となったペルティナクス帝は父が解放奴隷出自であった。また3世紀に専制君主政を創始したディオクレティアヌス帝も解放奴隷出自との説があるが、定かではない。
パッラスのように官僚として重きをなす道も―彼自身、5代ネロ帝により処刑―、ハドリアヌス帝が官僚制度を整備するに当たり、解放奴隷が官僚として政治参与する余地を狭めたことで、閉ざされることとなった。