ザ・コミュニスト

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良心的裁判役拒否(連載第2回)

2011-08-27 | 〆良心的裁判役拒否

理論編:裁判員制度の仕掛けを見抜く

第1章 「裁判役」という課役

(1)「犯罪との戦い」への召集
 はしがきで、裁判役には兵役と等しい性格があると述べました。まず冒頭からこのことを検証してみます。
 このように断ずる根拠をひとことで言えば、裁判員制度は「犯罪との戦い(war on crime)」という法イデオロギーに基づいているからです。このことは同制度の制定の経緯と基本構造がはっきりと示しています。
 まず制定の経緯から見ると、裁判員制度とは元来、1999年6月に政府が設置した「司法制度改革審議会」(以下、単に「審議会」という)が2001年6月に当時の小泉内閣に提出した意見書の提言に基づいて創設されたものですが、同意見書では制度設計の基本方針として、初めから対象事件を「国民の関心が高く社会的にも影響が大きな法定刑の重い重大事件」と限定していたのです。
 「法定刑の重い重大事件」と言えば、死刑存置国の日本の場合、死刑を法定刑に持つ罪が筆頭に来ることは明らかです。加えて、死刑に次ぐ無期懲役刑か少なくとも長期の有期懲役刑が科せられるような重大事件が対象となり、結局、その大半は故意による生命侵害犯を中心としたいわゆる凶悪事件が占めることになります。
 このように、裁判員制度が初めから重大事件に対応するための特殊な制度として構想されたのは、当時の日本の政治・経済状況と深く関わっています。
 実は1999年に発足した先の審議会は、その前年に当時の与党・自由民主党が発表した『二十一世紀の司法の確かな指針』と題する報告に基づいて設置された機関ですが、同報告では21世紀に向けた新たな司法改革戦略の視座として、「司法は、安全な国民生活の確保と公正で円滑な経済活動という国家の基礎を支え、活力ある社会を維持するための基盤をなす」と規定していました。
 このテーゼ前半の「安全な国民生活の確保」というレトリックは、言い換えれば司法を「犯罪との戦い」の拠点とすることを示唆しているのです。
 どうして当時の与党・自民党がそんなことを言い出したかと言えば、90年代末という時期はちょうど90年代半ばに起きたオウム真理教教団による一連の凶悪事件、特に日本の「安全神話」を崩壊させたと言われた二つの化学テロ事件(松本及び東京地下鉄サリン事件)の衝撃がまだ冷めやらぬ時期であったことに加え、経済的にもいわゆる「失われた十年」の只中で失業率の急激な悪化の一方で、凶悪犯罪の増加という負の現象が顕著化した時期に当たっていたためと考えられます。
 そういう不穏な情勢の中で、当時の与党・政府が社会体制の引き締めを図るため、司法を拠点とした「犯罪との戦い」を発動しようと考えたことは容易にみてとれます。
 ただ、それがなぜ自民党報告では一言もされていなかった裁判員制度という形で結実したかについては法曹界の思惑も絡んだ複雑な事情があり、このことについては後で改めて取り上げることにします。
 ともかく、こうして「犯罪との戦い」という法イデオロギーに基づく司法戦略の要として立ち現れた裁判員制度は、その基本構造にもはっきりとその法イデオロギーが反映されているのです。
 実際、審議会が指示したとおり、同制度は(a)死刑又は無期の懲役若しくは禁錮に当たる罪に係る事件と(b)裁判所法第二十六条第二項第二号に掲げる罪(法定合議事件)であって、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪に係るものという二つの極めて限られたカテゴリーに整理された重罪事件にのみ適用されます。
 そして、「戦い」である以上、敵たる被告人の立場は考慮されません。この点、審議会の意見書がきっぱりと「裁判員制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって重要であり、裁判制度として重要である」と断じているとおり、先の二つのカテゴリーに該当する事件である限り、被告人はこの制度の適用を回避することは許されません。
 そのうえ、一般国民たる裁判員の時間的・精神的負担への配慮を口実に、裁判員裁判の審理は平均して数日程度の超短期が予定され、被告・弁護側の争う権利を極力制約するばかりか、一般国民の意識が反映された一審判決の尊重を口実に、上訴は極力棄却するという運用指針も最高裁から示されています。要するに、重大事件を迅速に処罰することを通じて犯罪を鎮圧するというまさに「戦争」の論理なのです。
 こうした刑事裁判の本則を大きく改変する制度にふさわしく、同制度は刑事裁判手続を定める一般法である刑事訴訟法ではなしに、完全に別立ての特例法「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」(以下、裁判員法という)で定められているため、裁判員裁判は重罪事件に特化した特別治安裁判のような性格を強く帯びているのです。
 こうした「犯罪との戦い」の司法的現場へあなたや私のような一般国民が召集され、最大で死刑を含む厳罰判決を下す任務を課せられるのが裁判員制度なのですから、それは単なる比喩でなしに「兵役」―司法的兵役―と呼んでもさしつかえないのではないでしょうか。

(2)憲法違反の裁判役
 ところで、日本国憲法にはこうした裁判役の根拠となるような条文は全く見当たらないのですが、果たして裁判役のように一律的な「国民の義務」が憲法上認められるのでしょうか。
 この点、憲法はその第三章「国民の権利及び義務」の中で、納税(30条)、子女教育(26条2項)、勤労(27条1項)という三つの義務を定めていることから、「国民の三大義務」と呼ばれることもあります。裁判役はこれに四つ目の義務を追加したことになりますが、そんなことが許されるかどうかは大きな憲法問題です。
 三大義務が定められている憲法第三章は俗に「人権カタログ」とも呼ばれ、そこでは憲法上保障される基本的人権の種類・内容とそれらをやむを得ず制約する場合の根拠が示されています。
 基本的人権を制約する際の根拠としては、12条や13条に定める一般条項的な「公共の福祉」と、三大義務のように一定の行為を強制する義務付けの二種があるわけですが、一般条項的な「公共の福祉」による制約とは異なり、義務付けの方は一定の行為を意に反しても一律的に強いるという点で基本的人権を拘束する度合いが高いため、憲法は許される義務を限定的に列挙したものと理解するべきではないでしょうか。
 そうだとすると、憲法は明示的に認めている三大義務以外の義務の勝手な追加を許さない趣旨だと読むべきことになり、裁判役のような制度はむしろ憲法18条後段で禁止される「意に反する苦役」として憲法に違反すると解すべきなのです。
 もっとも、裁判員制度を推進してきた国やこの制度を支持する人たちはそうは考えておらず、憲法上根拠のない国民の義務を勝手に創設することも許されており、裁判員の任務も「意に反する苦役」に当たらず、憲法に違反しないと理解しているのでしょうが、そう断ずる根拠は何なのでしょうか。
 (一種の「ウルトラ解釈」として、27条1項の「勤労の義務」に裁判役も含まれるという解釈もあり得ますが、しかし、同条項は始めに「勤労の権利」を前提とするので、納税や子女教育のように、義務違反に対して直接に罰則は科せられないことに注意すべきです。)
 そもそも制度設計の過程でも、こうした根本的な憲法問題自体、ほとんど検討された形跡が見当たらないのは不可解と言うほかありません。
 うがった見方であることを承知で言えば、「犯罪との戦い」の制度である裁判員制度は、憲法も棚上げした特例的な一種の戒厳制度であると理解すると、その超憲法的な出自にもうなづけるというものです。

〔追記〕
最高裁判所大法廷は本年11月16日、裁判員制度は憲法に違反すると主張した被告人の上告を棄却する判決で、同制度を合憲とする初の憲法判断を示しました(全員一致)。本来中立的な立場で、あらゆる国家制度の違憲審査を担う自らの職責に反し、裁判員制度のPRを積極的に行ってきた最高裁が今さら違憲判決など出さないであろうことは予測されていたことでした。 

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死刑廃止への招待(第2話)

2011-08-27 | 〆死刑廃止への招待

死刑制度は冤罪救済の最後の門である再審制度と本質的に両立しない

 従来から、死刑廃止の重要な論拠の一つとして「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかないことになる」ということが漠然と言われてきました。
 しかし、これに対して、死刑存置論の側から「冤罪の可能性一般は死刑に限らず刑罰全般についてまわることであるから、それだけでは死刑廃止の理由にならない」と反論されています。
 この反論は実はかみ合っていないのですが、かみ合わないのは「冤罪の場合に取り返しがつかない」という先の論拠に言葉足らずな面があるからです。つまり、ここで言う「取り返し」の意味が具体的に説明されていないのです。

 そもそも冤罪とは何かということについて法的定義はありませんが、下級審で誤って真犯人でない人に有罪判決が下されても、それが確定するまでは上級審で救済される可能性が残されていますから、真の冤罪は誤った有罪判決が確定してしまったところから始まると言えます。こうした場合に冤罪救済の最後の門として死活的に重要なのが、誤った確定有罪判決を事後的に覆して無罪を確定させるための再審制度です。
 再審制度はあらゆる受刑者に対して開かれており、もちろん無実を訴える死刑確定者も再審を請求することができます。ところが、死刑確定者には他の受刑者とは決定的に異なる困難が一つあります。すなわち、それは死刑の場合、ひとたび執行されれば受刑者は死んでしまうので、それこそ「取り返しがつかない」ということにほかなりません。
 この点、刑事訴訟法は「再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない。」と定めています(刑訴法442条本文)。なぜこんな規定があるかと言えば、再審請求の段階では有罪判決がすでに確定してしまっていることが前提であるため、無実を訴える当人が再審の請求をしたというだけでは刑の執行を当然に停止することはできないからです。
 このことは、懲役受刑者のように、刑の執行が刑務所内で本人存命の状態で行われる場合にはさほど問題を生じませんが、死刑の執行は即、死を意味しますから、再審の請求に刑の執行停止効がないと、再審請求後、裁判所の判断が出される前に執行された場合、冤罪救済のチャンスが永遠に失われてしまうわけです。
 このような不条理を想定して、実は先の刑訴法の条項には「但し、管轄裁判所に対応する検察庁の検察官は、再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる。」という但し書きが付いています。このため、従来、死刑確定者が再審請求を出すと、検察官がこの権限を行使して刑の執行を停止することが慣例となっているようです。
 しかし、これはあくまでも検察官の裁量による刑の執行停止ですから、1999年にはある死刑確定者が弁護士を通じて再審請求を出した直後に執行されてしまうという“事件”もありました。これはまさに不条理ですが、刑の執行停止が検察官の裁量である以上、再審請求直後の死刑執行も法には違反しないという二重の不条理があります。
 このような“事件”が起きた背景として、法務・検察当局では、かねて再審請求が死刑執行を回避するための方便として利用されているのではないかとの警戒心を持っていることがあるようです。そういう可能性も絶対にゼロとは言えないにせよ、死刑囚の再審請求を牽制する目的で見せしめ的に再審請求中の死刑執行を断行したのだとすれば、再審制度を無にするおそれのある不当な権力行使と言わねばなりません。
 ちなみに、無実を訴えている死刑囚に死刑が執行されてしまった後でも、遺族が本人の遺志を継いで再審を請求することもできますが(死後再審)、これは死後の名誉回復措置にすぎず、冤罪救済としての実質的意味を持ちません。

 以上、長々と説明しましたが、はじめに戻って「死刑は冤罪の場合に取り返しがつかない」ということの意味は明確になったと思います。
 ただ、そういう不条理が生じるのは先の刑訴法の規定が悪いのですから、死刑に限っては再審請求に刑の執行停止効を認める法改正をしてはどうかという提案もあり得るところです。
 たしかにそういう法改正がなされれば、先のような再審請求中の死刑執行という不条理はひとまず防ぐことができます。しかし、それだけで「取り返しがつかない」という問題が解消するわけではありません。
 再審を請求することができる場合というのは刑訴法で限定されており、中でも無実を訴えるにあたっては「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」と厳しく制限されています(刑訴法435条6号)。しかも、再審では請求人側に立証責任が課せられます。
 この「明白性」と「新規性」の二要件をクリアするのがどれほど大変なことか。わけても、死刑確定者が身柄を拘置されたまま、執行の恐怖におびえつつ、この二要件を満たす証拠を発見・提出するのは至難の業です。そのうえ、刑訴法は一度再審請求が棄却された場合、同一の理由での再請求を許さないため(刑訴法447条2項)、通常最終的に無罪を勝ち取るには、別の証拠を提出しつつ何度も再審請求を出してそのつど棄却され、数回目にしてようやく再審開始決定に漕ぎ着けるのです。再審がしばしば「開かずの門」と呼ばれ、慨嘆されてきたゆえんです。しかも、苦労の末に再審開始決定を勝ち取っても、今度は検察側が異議を申し立て、上級審で覆されてしまうことさえあります。
 従来、確定死刑判決が再審で逆転無罪となったケースは4件ありますが(免田〔めんだ〕事件、財田川〔さいたがわ〕事件、松山事件、島田事件)、いずれも複数回の再審請求を経ており、死刑確定から最終的に再審で無罪が確定するまでに30年前後もかかっているありさまです。
 本来からいけば、刑訴法上死刑執行は判決確定から6ヶ月以内に法務大臣の命令によって行うべきものとされていますが(475条1項及び2項本文)、この規定が実際上順守不能で守られたためしがないのは、もしこの規定を文字どおりに順守すれば、死刑囚の再審請求権を奪うに等しく、適正手続保障を定める憲法31条に違反する疑いも生じてくるからです。
 従って、先の刑訴法475条2項後段も但し書きを置いて、再審の請求がされその手続きが終了するまでの期間は6ヶ月の期間に算入しないと定めているほどです。この規定からすると、再審の請求があったときは死刑執行を停止すべきことが示唆されているとも読めるのですが、明確でなく、結局は裁量の問題になります。
 いずれにせよ、再審請求がたびたび棄却されると執行の可能性は高まってきます。先に紹介した再審請求直後の執行のケースでも、この死刑囚は過去六回の再審請求をすべて棄却されており、七回目の再審請求の直後に執行されているのですが、法務省ではそのようにたびたび同一の理由で再審請求が繰り返されていたことを執行の正当化理由として説明していたようです。
 しかし、史上初めて死刑判決が再審で無罪に確定した免田事件の免田栄さんも六回目の再審請求でようやく無罪を獲得していますから、六回や七回の繰り返しは珍しくもないのです。
 たとえ、再審請求に刑の執行停止効を認めたところで、再審請求が棄却されれば執行される可能性が復活する以上、死刑囚の再審請求権を守り通すには、結局死刑執行そのものを凍結してしまう以外にないのですが、これはもはや死刑制度の“死”を意味します。
 このように、死刑制度はいかにしても再審制度と根本的に両立しないものなのです。

 では、なぜ両制度は並び立たないのかということをもう一歩突っ込んで考えてみたいと思います。
 死刑とは受刑者を殺して二度と「取り返しがつかない」ようにする刑罰ですから、受刑者はその罪状とされる犯罪を犯した真犯人に絶対間違いないことが大前提となります。こうした絶対的な判断は、証拠に基づく判断とは異質のものです。なぜなら、証拠に基づく判断とは、法廷に提出された証拠による限り、被告人が犯人である蓋然性が高いという確率的・可謬的な判断にほかならないからです。
 それに対して、絶対的な判断は証拠よりもむしろ神や(しばしば神の化身ともされた)王のような無謬の絶対者の託宣なのです。実際、死刑が世界的にその全盛期にあった前近代以前の時代とは、神や王の名において裁判が行われていた時代でもあったわけです。「被告人を死刑に処す。」とは単なる司法判決にとどまらず、絶対に誤ることのない神や王の御意思であったのです。従って、それを事後的に覆す再審に付するようなこともあり得ませんでした。
 再審とは、確定判決を事後的に覆すものですから、それは確定判決といえども絶対的ではないということを前提としています。なぜ絶対的ではないかといえば、近代司法は証拠に基づく裁判を本質としているからです。証拠に基づく裁判とは、前述したように、確率的・可謬的な判断を要素としており、しかもそれは神や王ならぬ裁判官という間違いも犯し得る一介の職能―場合によっては陪審員とか裁判員といった素人―の下す判断にすぎないからです。
 一方で、死刑の全盛時代は自白がまさに「証拠の女王」として絶対的価値を与えられていた時代とも重なり、自白獲得のためには拷問も公式に許されていました。従って、死刑制度は自白偏重型の旧式な司法制度とも固く結ばれているのです。
 これに対して、近代司法においては、自白を絶対視せず、物証を重視し、自白も証拠の一つとして物証を含めた総合評価の一要素としかみなしません。従って、被告人が完全に自白し、起訴事実を全面的に認めている場合であっても、その自白は証拠の一つにすぎず、彼/彼女が絶対に犯人に間違いないという判断はしないわけです。
 実際、近年も法廷で全面的に起訴事実を認めて実刑判決を受け、刑務所で服役していた男性が出所後に真犯人の自白により無実と判明し、再審で無罪となった衝撃的事件が富山県下でありました。このケースは死刑でなく懲役刑相当の性犯罪であったため、男性は存命中に冤罪を晴らすことができたものの、もし死刑であったらすでに執行済みで彼はもはやこの世の人ではなかったわけです。
 ちなみに、日本ではこれまでのところ、死刑執行後に真犯人が出現するなどして冤罪が明らかになったケースは確認されていませんが、それは政府が過去の事例を遡って公式に調査し確認したことがないというだけのことで、非公式には、執行済みのケースで冤罪の可能性が指摘されてきたものがいくつか存在します。
 ともあれ、前近代の絶対主義的な司法の時代に花盛りであった死刑制度が証拠に基づく相対主義的な司法が確立された現代の再審制度と本質的に両立しないことは、こうして歴史的にも実証できることなのです。
 あえて単純化すれば、死刑を取るか再審を取るか、二つに一つなのです。現代に生きる私どもは後者を取ることをためらう必要はないように思われます。

 ちなみに、序文でも指摘した裁判員制度は法定刑に死刑を含む罪の裁判では原則として必ず適用されることとされています。しかも、裁判員が関与した一審判決は一般国民の意識が反映されていることを理由に、控訴審でも一審の判断を尊重するという運用指針が示されています。
 そうすると、この制度の下での死刑判決に対しては事実上、控訴(及び上告)を原則的に認めないに等しいことになります。そのような運用の違憲性という問題も生じてくると思いますが、それをさておいても、今後、死刑判決の誤りを正す道は事実上、再審に限られていくという事態も予想されますから、死刑判決と再審判決の矛盾はいよいよ露わになってくることでしょう。

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終わりの始まり

2011-08-22 | 時評

ドル安が止まらない。

今後一時的に持ち直すことはあり得ても、長期的に見れば、ドルの価値は1970年代から長期低落傾向にある。2008年の世界大不況(俗に言うリーマン・ショック)以来、米国債とともに凋落が加速しているだけのことだ。

これは要するに、資本主義総本山・米国の凋落を象徴している経済現象である。総本山の凋落はひいては資本主義全体の終わりの始まりを意味すると読むのが自然であろう。

いや、これからは中国だ、インドだ、ブラジルだ・・・という意見もある。たしかに、これらいわゆる新興諸国の資本主義的成長は目覚しい。けれども、新興国の正体は途上国。非常に不安定な土台の上に立ってアクロバット的体操を試みるに等しいことをやろうとしている。中国での新幹線事故はその小さな兆候であった。

こうした超短期での野心的な経済成長を狙った発展モデルはおおむね戦後日本の発展モデルの焼き直しであるから、基本的に日本と同様のプロセスを辿るだろう。その日本はといえば、1950乃至60年代にかけての「驚異の高度成長」を経て石油ショック不況を経験した1970年代半ば以降、30年以上かけてゆっくりと下り坂を転げている。新興諸国の成長にもいつか限界点が来ることは確実だ。

総体としてみれば、新興諸国の成長現象も、「資本主義の終わりの始まり」現象の渦中で咲いているあだ花と見ておいて損はない。

となると、そろそろ「資本主義の次」を考え始めてよい時期だろう。これについての筆者の管見は別ブログに連載した『共産論』で展開しているが、もちろん拙見だけが唯一の解答であるなどと言い立てるつもりはない。今は、百家争鳴的に多様な考えが出されるべき時だ。

ただ、ポイントは「計画経済の再発見」にあると思う。

現在の世界が当面する地球環境問題や食糧問題、さらに先進国でも表面化する貧困問題といった深刻な問題群を根本から解決するのに、「市場」という観念が役に立たないことはすでに明白であり、やはり必要な財・サービスを生態学的にも持続可能な方法で計画的に生産・分配するという計画経済の原理を練り上げ直す必要は否めないからである。

とりわけ、現在は生態学的持続可能性という課題が、計画経済を要請している。

この点については、欧州の緑の党をはじめ、エコロジストらの認識も甘いのではないか。かれらの多くは「環境にやさしい市場」を構築可能だと信じたがっているように見えるからだ。だが、現実がそれほど生やさしくはないことは、気候変動問題一つとってもはっきりしていないか。利潤蓄積を死活原理とする資本主義―それなくして資本主義は持続しない―に地球の姿は目に入るまい。

もちろん、計画経済といっても、評判の悪かった旧ソ連型の官僚的な計画経済モデルを博物館から引っ張り出してくる必要はない。もっと実効的で、人間の顔をした計画経済を新たに創案することである。

そういうことに寄与しようとする人々がもっと増えれば―現状、ほとんどいない?―真の「希望」も見えてくるだろう。「資本主義の終わりの始まり」を意識しないままに「希望」を説いても、それは「絶望」のもう一つの顔にすぎないのだから。

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死刑廃止への招待(第1話)

2011-08-20 | 〆死刑廃止への招待

たとえ凶悪犯罪者であろうとも、拷問や身体刑を科することが許されないならば、死刑を科することはそれ以上に許されないはずである

 死刑廃止論は長らく「人道」を旗印にしてきましたが、どうも大げさな感じがしなくもありません。「凶悪犯罪者といえども、生命を剥奪するのは人道に反する」というのがその典型的な人道論的論拠なのですが、これに対しては、死刑存置論側から、「凶悪な犯罪によって罪のない人の生命を奪った者に人道的配慮など必要ない」とか、果ては「凶悪犯罪者を擁護する死刑廃止論者はかれらの同類だ」などといった罵声も浴びせられてきました。
 たしかに、人道というような大風呂敷を広げるよりも、もう少し小さな包みを広げてみようと思います。それは、人間の身体性ということに関わります。

 今日、理性的な死刑存置論者であれば、たとえ最低の凶悪犯罪者であろうと、拷問や手足の切断、目潰し、去勢等々の身体刑にかけることは否定されることと思います。日本でも近世まで存在した拷問・身体刑は明治維新後に廃止され、日本国憲法36条でも「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」と明示されているところです。
 もっとも、警察署や刑務所での拷問の事実が時折発覚することはありますが、これは明白に憲法及び刑法にも違反する公務員犯罪に当たります。身体刑に至っては、100年以上の歴史を持つ現行刑法上全く法定されていませんし、超法規的に身体刑が行われたという話も耳にしたことがありません。
 こうして、日本では公式の制度としての拷問・身体刑は完全に姿を消して久しいわけです。要するに、公権力が罪を犯した人の身体を傷つけることは許されないというルールは、国内法としては早くから確立されていると言えます。
 この点、国際法のレベルで拷問・身体刑禁止に関わる国連条約として、「拷問及びその他の残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い又は刑罰を禁止する条約」が採択されたのはようやく1984年のことにすぎませんから(1987年発効)、拷問・身体刑の禁止に関して、日本は国際社会に先駆けて取り組んできたとも言えるのです。ところが、その日本が死刑については極めて頑強に維持しているのは、一つの矛盾ではないでしょうか。
 つまり、生命を侵害しない限度で身体を傷つける拷問・身体刑は許されないが、それを超えて生命を侵害する死刑は許されるという矛盾です。反対に、生命を侵害する死刑は許されないが、生命を侵害しない限度で身体を傷つける拷問・身体刑は許されるという論理ならば―賛成はできないものの―まだ理解はできます。
 このように、「犯罪者を殺すのはいいが、傷つけるのはいけない」というのは価値の転倒と言わざるを得ないのです。これを転倒とは思わない方はひょっとすると拷問・身体刑と死刑とは全く別個の処分であって比較の対象とはならないと考えているのかもしれません。
 しかし、それはいささか形式論にすぎます。主として被疑者を自白させるために行われる拷問はともかくとして、身体刑は刑罰として死刑と共通した性格を持っています。実際、人の身体を侵害することなしに死をもたらすことはできませんから、死刑は必ず身体刑を内包しています。
 例えば、日本における唯一の死刑執行方法である絞首は、受刑者をロープで吊り下げ、脊髄の損傷または気管の圧縮によって死に至らしめるものです。また、米国における死刑執行方法として主流を占める致死薬注射も、心肺停止を引き起こす致死薬を注射することによって受刑者を中毒死させるものですから、身体に針を刺す注射という手段を含め、やはり一種の身体刑を内包する死刑執行方法なのです。
 一方、手足の切断など本来の身体刑は生命を侵害しない限度で身体を傷つける刑罰ですが、身体を損傷するために、結果として出血多量や傷口からの細菌感染などにより受刑者が死亡してしまう危険を伴い、実際、今日でも身体刑を存置している諸国(主にイスラーム諸国)では身体刑受刑者の死亡例が跡を絶たないと言われています。
 このように、死刑は必然的に身体刑を内包し、身体刑は結果的に死刑に転化していくという意味で、両者は密接不可分の関係に立っているわけです。そう考えると、身体刑は許されないが死刑は許されるとの理屈はやはり逆立ちしており、身体刑が許されないならばそれ以上に死刑は許されないと考えるのが首尾一貫していると言えるのです。

 もっとも、身体刑は身体的苦痛が伴うのに対して、現代の死刑は執行方法が工夫されているためほとんど苦痛なしに瞬時的に死をもたらすことができるのだから、“人道的”とさえ言えるのではないか、との反問があるかもしれません。
 実際、薬物注射では初めに催眠剤を注射して眠らせておいたうえで致死薬の注射に入るため、ほとんど苦痛のない一種の“安楽死”だとさえ宣伝されています。日本の絞首刑にしても、特殊な装置にロープで吊り下げて瞬時的に死に至らしめるもので、単純に「首を絞める」のとは異なり、受刑者にはほとんど苦痛はないと説明されます。
 とはいえ、公式説明とは違い、実際には死刑執行の「失敗」により受刑者が苦しむ場合もあるとされ、米国ではそうした理由での違憲訴訟が相次いでいたのですが、合衆国最高裁判所は2008年の判決で改めて死刑の合憲性を確認しています。
 しかし、仮に瞬時的に死をもたらす全く無痛の死刑執行方法があり得るとして、それならば“人道的”なのでしょうか。もしその理屈が成り立つならば、身体刑でも無痛であれば許されるということになるでしょう。すると、例えば麻酔をしたうえで手足を切断するという方法によれば身体刑も許されるのでしょうか。
 この点、日本国憲法36条にいう「残虐な刑罰」とは、最高裁判所によれば「不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰」と定義されています。ここでは「苦痛」の存在を要件とする解釈が示されていますので、これを文字どおりにとると、先の例のように麻酔をしたうえで行われる手足の切断などは「残虐な刑罰」に当たらないことになってしまいそうです。
 憲法36条の技巧的な解釈論としてはそれでよいのかもしれませんが、同条の前提にある人間の身体の不可侵性というルールは、苦痛のあるなしにかかわらず、およそ公権力は人間の身体に直接手を下してはならないというルールです。それは今日、公権力行使の重要な限界を画する基本的人権に関わる準則として確立されています。
 従って、憲法解釈はともかくとして―納得はできませんが―、たとえ苦痛がゼロであっても身体刑は許されず、よって死刑も許されないと考えるのが筋だと思います。

 とはいえ、身体の不可侵性というようなルール自体が元来“きれいごと”にすぎず、凶悪犯罪者の身体など八つ裂きにでもしてやるがよい!というような声もどこかで通奏低音的に聞こえてくるような気がします。
 これは、ある意味で文明というパンドラの箱を開けようとすることです。人間の身体の不可侵性というルールは文明の進歩を示すものですが、そんな凶悪犯罪者のごとき人間の屑を擁護しようとする“文明”こそ間違っているのだという本音も社会には伏在しているのでしょう。
 実際、率直にも、今日まで身体刑も死刑も存続させている国があります。そうした国を反文明的と蔑むことは適切な態度ではないですし、死刑存置国を野蛮国呼ばわりすることも憚られます。ここにはやはり、後に扱う「文化」の問題が介在していることはたしかでしょう。従って、文明/非文明という二分法で単純に割り切ることは困難です。
 ともあれ、日本国憲法はまぎれもなく身体の不可侵性を志向しており、制度上も拷問・身体刑を認めない文明的な方向を目指してきたのですから、パンドラの箱は密閉されているのです。そうであれば、その延長的論理で死刑廃止を導くことも決して難しいことではないのではないでしょうか。

 従来、死刑廃止はとかく「生命の尊重」という理念から「人道」の問題としてとらえられてきました。死刑とは死を強制する、つまりは生命を剥奪する刑罰である以上、そうしたとらえ方も間違いではないのですが、生命を身体から分離してとらえるのはいささか観念論的でした。
 人間の生命活動は身体を物質的な土台として初めて成り立つものですから、生命の尊重の前提は人間の身体性の擁護でなければならないのです。そういう意味で、死刑廃止を人間の身体の不可侵性という視座から理由付けし直してみると新たな視界が広がっていくのではないでしょうか。

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良心的裁判役拒否(連載第1回)

2011-08-20 | 〆良心的裁判役拒否

はしがき

 本連載タイトル『良心的裁判役拒否』を正しくお読みいただけたでしょうか。難読漢字はありませんが、ポイントは「裁判役」。
 これを「さいばんやく」でなく、「さいばんえき」とお読みになれた方は相当な方でしょう。本連載をお読みになるまでもなく、すでにその内容をほぼ理解しておられる方だと思います。
 残念ながら、「さいばんやく」と読んでしまわれた方も、裁判員制度という新しい制度のことはご存じで、そのことが頭に浮かんだかもしれません。
 本連載はその裁判員制度を主題としていますが、ただ単に制度を批判することに主眼があるのではありません。そういう本・論稿ならすでにいくつも出ています。本連載は、裁判員制度の下で一般国民(有権者)に課せられるようになった新たな義務としての「裁判役」を自己の良心に従って拒否しようとするに際しての実践的なガイドとして企画されたものです。

 裁判員制度は、死刑が法定されている罪に係る事件を筆頭とする重大凶悪事件を中心に、くじで選ばれた一般国民が裁判官とともに審理・判決にのぞむ制度として2004年に制定され、5年間の周知期間を経て2009年5月より施行された新しい刑事司法制度です。
 本文でも詳しく見るように、この制度の下では、当局に勝手にくじで引き当てられた有権者は原則として裁判員としての役務を果たさなければならず、正当な理由なくして拒否すれば最大で10万円の過料(行政罰)の制裁が科せられます。
 こうした仕組みによって、日本国民は突如として新たに重罪裁判という課役を法的に負わされるようになったわけです。本連載ではこうした課役のことを「裁判役」と呼びます。
 「裁判役」を「さいばんえき」とお読みになれた方は、おそらく「兵役」という戦前の日本にもあり、現在でも多くの諸国に残されている軍事動員制度のこともご存じと思います。実際、「裁判役」は「兵役」に等しい性格を持っています。これは決して大げさな比喩ではなく、本文でも見るように本当にそうなのです。
 それだから、兵役と同様に、「良心的拒否」ということが問題となります。実際、制度施行前から、各種世論調査等でも「他人を裁きたくない」という理由で裁判員制度に否定的な意見は少なからず表出されていましたし、識者の間からも「隣人に隣人を裁かせる残酷な制度」という厳しい批判が出されていたところでした。
 こうした残酷さ―と言って悪ければ過酷さ―は、死刑制度を完全に存置したまま死刑判決にも裁判員を関与させる特異さによっていっそう助長されています。言わば、隣人をして隣人に対して死を命じさせる制度なのです。
 裁判員制度を推進してきた政府・法曹界は裁判員制度を、欧米に広く見られる一般市民による司法参加の制度である陪審制や参審制になぞらえて説明し、民主的な司法制度だとして正当化を図ってきました。しかし、これも本文で分析するように、裁判員制度と陪・参審制とは非なるものです。両者を意識的に混同させる論理は一種の詭弁なのです。
 本連載ではこうした詭弁を見破り、一般国民を司法資源として動員する「司法的兵役」の制度にほかならない裁判員制度を単に「批判する」のではなく、「拒否する」市民的戦略を探求していきます。
 もう始まってしまったのだからとあきらめたり、国家の強制的制度だからとひるんだりする必要はありません。自己の良心に従い、不正に手を貸すことを拒む良心的拒否は今日の世界では基本的人権の一つとして明確に位置づけられており、法的根拠も見出せるからです。ほんの少しの勇気があれば大丈夫です。

 本連載は、裁判員制度構想を知ったときから強い疑問を抱いた筆者が制度施行直前に書き上げ、某商業出版社に持ち込んでみたところ、(当然と言うべきか)にべもなく却下・返送されてきた原稿を再検討し、濃縮したうえで連載用に書き改めたものです。商業出版の道を閉ざされたことでかえって内容を凝縮的に深めるチャンスが与えられたことに感謝すべきなのでしょう。
 本連載が良心派市民の方々のお役に立てることを願っています。

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死刑廃止への招待(まえがき)

2011-08-13 | 〆死刑廃止への招待

 本連載は「死刑廃止への招待」と題されているように、死刑廃止を説得するのではなく、死刑制度は当然/やむを得ないと考える方々―おそらく日本国民の大部分―に、死刑廃止とはどんなことかしばし考えていただけるようご招待しようというもので、全体として不特定多数の方々への手紙のような形をとっています。
 
 近年、死刑存廃の議論はすでに出尽くしたとか、しょせん水かけ論争であるとか言われ、存廃の議論よりも死刑制度の運用実態を知ることの方が重要であるというような議論(死刑実態論)も見られるようになってきました。
 たしかに死刑存廃の論争には長い歴史があり、その主要な論拠は出尽くした観もありますが、そのわりに死刑廃止の意義は十分に理解されていないように見えます。そうした中で、存廃の議論を棚上げして死刑実態論へ移行しようというのは、結局死刑廃止を先送りする姿形を変えた新手の死刑存置論ではないかと疑われます。
 国際的に見ると、本文でも改めて取り上げるように、死刑廃止はすでに法(国際法)として確立されつつあり、あらゆる犯罪について死刑を廃止した国も90カ国を超えています。
 まだ死刑を存置している約60ほどの国の中でも、毎年死刑執行を継続していると見られる国は、日本を含め20数カ国にとどまると推定されています。
 日本も自ら加盟する国際連合(国連)から従来たびたび死刑廃止を勧告されてきていますが、政府は国民世論を楯に拒否し続けているばかりか、2007年以降国連総会でほぼ連年採択されている全世界における死刑執行停止を呼びかける決議にも反対票を投じ続けています。
 こうした国際環境と国内事情との著しい乖離の中、死刑廃止を検討することすら事実上タブーとされたまま、くじで選ばれた一般国民が裁判官とともに重罪事件を審理し、死刑判決にも直接に関与する裁判員制度が2009年度からスタートしました。
 この制度の下では、一般国民が自ら同胞に死刑を言い渡す“覚悟”が強調される一方で、死刑廃止については全く論外のこととされています。ここにはこの制度を通じて死刑という二文字を国民に改めて体で覚えさせようという隠された国策的狙いも透けて見えています。
 そんな状況の中で、本連載は単なる死刑存廃論でも、また近時流行の死刑実態論でもなく、「死刑廃止」について正面から考える機会を持っていただこうとの意図から企画されました。
 初めに述べたように、本連載は死刑廃止の説得の書ではないので、一方的に死刑廃止を情宣するのではなく、まず第1話から第6話で死刑廃止の積極的な理由を紹介・検討した後、第7話から第13話では死刑存置の側からの反問に応答するという形式で叙述していきます。そして、最後の第14話では実際に死刑廃止のプロセスはどうなっていくのか、あり得る道筋を具体的にお示しします。
 
 読者の皆様は本連載によって死刑廃止を説得される必要はありませんが、本連載を通じて死刑廃止について真剣に考える時間を持っていただけたならば、筆者としてはその目的を達成したことになります。
 なお、すでに死刑廃止の考えを固めている読者にとって本連載は釈迦に説法となるかもしれません。ただ、本連載では従来の死刑廃止論に内在していたある種の脆弱性を補うような試みにもいくつか挑戦していますので、そうした限りではご参考になる点もあろうかと思います。

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世界歴史鳥瞰(連載第2回)

2011-08-11 | 〆世界歴史鳥瞰

序論(続き)

三 物心複合史観

 鳥瞰的歴史観は世界歴史を平板な景色のように眺めるのでなく、文明化した人類の社会的活動の動態として把握するのであるが、その場合に歴史の動因を何に見るかということに関して一定の歴史哲学を持つのである。
 この点、半世紀前であれば、歴史の動因は物質的生産力にあり!と答えておけば「進歩的」と見えたのであるが、今日では「退歩的」と却下されかねない。たしかに今日、かかる唯物史観を公式的な形で信奉する人はほとんどいないであろう。しかし、ファッション感覚で時代遅れと却下するのでなく、唯物史観の問題点を内在的に批判しようとする試みは多くない。
 思うに、唯物史観の大きな問題点の一つは生産力発展の条件如何が十分究明されていないことである。実際、生産力発展の条件は何であろうか。
 これについてはいろいろの答えがあると思うが、最も明快なのは自然環境条件である。なかでも地理的条件は決定的である。例えば、農業も工業も山岳地帯や砂漠地帯では発達しない。それらは、基本的に平野部で発達する産業である。しかし砂漠地帯でも商業なら発達し得ることはアラビア半島や中央アジアの例が示している。一方、山岳地帯では交通・通信の限界から商業も発達せず小規模農牧業が主体となり、生産活動にとっては最も過酷な地理的条件である。その代わりにそうした環境下ではおおむね自給自足的な共同体が保存されやすいのである。
 こうした固定的な自然環境条件に加え、気候変動とか自然災害のような変動的ないし突発的な自然環境条件も複合的に作用するから、同じ平野部でも、例えば自然災害の多いところとそうでないところでは生産力の発達に格差が生じる。
 こういうわけで、唯物史観がどんなに努力しても世界中で普遍的に妥当するような経済発展法則などを抽出することはできず、むしろ一国内部での地域的な不均衡をも伴った不均等発展こそが「鉄則」でさえあるのである。そうであればこそ、古来人類は生産力の発展にとって不利な自国の条件を補完しようとよりよい条件を備える他国を侵略し領土化することを図ってきたのであった。
 唯物史観のもう一つの問題点は、自然環境条件によって制約された物質的生産力の発展それ自体は自然の恵みでない以上、いったい何によって促進されるのか、という生産力発展の究極的要因如何が十分解明されていないことである。
 これについてのここでの答えは「発明」によるというものである。ただし、ここで言う「発明」とは機械装置のような個々の物質的発明そのものというよりは、そうした個々の物質的発明の土台を成す効率的な生産方法の考案という精神的な「発明」のことである。
 例えば、産業革命を促進した動力を利用する各種機械はそれ以前に労働者を一箇所に集約して定型的な作業に当たらせるという新しい効率的な生産方法の「発明」を前提に、そうした作業をより効率化するための手段として発明されたものである。
 こうした精神的な「発明」はまた、政治制度のような純粋に精神的な所産の面にも及ぶのであって、例えば選挙された議員によって構成される議会制度は、その純粋型においては資本家を主体とするブルジョワ階級自身が政策決定を主導することを通じて生産様式を維持・発展させることに最もよく奉仕する政治制度として「発明」されたものである。
 こうした「発明」とはアイデアであり、精神であるから、「発明」に生産力発展の究極的要因を求めようとするならば、それはもはや単純な唯物史観の枠をはみ出すことになる。実際、「発明」という要素が生産力発展の究極的要因であるとすれば、物質的法則性ばかりでなく、偶然性とか幸運といった不確定的要素が歴史の動因として働く余地は大きいと考えられる。
 例えば、19世紀の英国、20世紀の米国が巨大な生産力の発展を示したことは、工業的発展の物質的土台となる良質な平野部を持つという自然的条件に加えて、それぞれの発展を促進する「発明」が偶然にもまたは幸運にも両国で重なったことによると考えられるのである。
 とはいえ、ここで唯物史観と完全に縁を切って改めて観念論的反動に走ろうとするわけではない。ここで言う「発明=精神」とは例えばヘーゲルの抽象的な「絶対精神」のようなものとは大いに異なり、もっと具体的に限定された物質的生産力の発展を促すアイデア、言わば物質的精神である。そういう精神の作用の結果として、物質的生産力の発展が歴史を動かしていくのであるが、それは決して一律的な法則に基づくわけではないのである。
 結局、始めに戻って鳥瞰的歴史観が前提とする歴史哲学とは、歴史の動因としてこれを物質的生産力の発展を促進する「発明=精神」に求める発明史観、より抽象化して換言すれば物心複合史観であるということになろう。

四 人類社会の前半史と後半史

 マルクスは資本主義的生産様式を備える近代ブルジョワ社会をもって人類社会前半史の最後の社会構成体とみなしていた。人類の歴史を現時点よりもっと未来の時点に立ってとらえ返すと、現在は人類社会前半史の最中にあり、マラソンにたとえればまだ中間地点にはさしかかっていないことになる。
 この現時点をも含む人類社会前半史もすでに数千年という時間を持っているが、この間の一貫した特徴は、富の追求・蓄積を自己目的とするような、従ってまた商業が導きの糸となるような物質文明を基層としてきたことである。そして、その到達点に資本主義的生産様式とそれを軸に成立するブルジョワ社会体制があるというわけだ。この体制はこれまでに「発明」された先行のどんな体制よりも富の効率的な蓄積に適している点において「最終的」なのである。
 他方、それと並行しながら、国家という政治的単位で人間の集団化を図ることが人類社会前半史のもう一つの特徴である。これも権力という―究極的には戦争によって担保された―無形的な財の獲得・強化を目指す点で、やはり物質文明に根ざしており、その到達点に主権を戴く今日の国民国家体制があるのである。
 このように、富/権力を最高価値とするような物質文明を基層に成り立つ人類社会の前半史とは、所有すること(having)の歴史であり、そこでは富であれ権力であれ、もっと所有すること(more-having)、すなわち贅沢が歴史の目的となるのである。一方で、所有の歴史は、所有をめぐる種々の権益争いに絡む戦争と殺戮の歴史でもある。
 そういうわけで、所有の歴史にあっては持てる者と持たざる者との階級分裂は不可避であり、時代や国・地域ごとの形態差はあれ、何らかの形で階級制は発現せざるを得ないのである。それとともに、戦争・殺戮の多発から、戦士としての男性の優位が確立され、社会の主導権を男性が掌握する男権支配制が立ち現れる反面、女性や半女性化された男性同性愛者の抑圧は不可避となる。
 こうして現在も進行中である人類社会前半史は、多様な不均衡発展を示しながらも、ほぼ共通して男権支配的階級制の歴史として進行してきたと言える。従って、それはまた反面として、男権支配的階級制との闘争の歴史ともならざるを得なかった。古代ギリシャ・ローマの身分闘争、中世ヨーロッパや東アジアの農民反乱・一揆、近世ヨーロッパのブルジョワ革命、近現代の労働運動・社会主義革命、民族解放・独立運動、人種差別撤廃運動、女性解放運動、同性愛者解放運動等々は、各々力点の置き所に違いはあれ、そうした反・男権支配的階級制闘争の系譜に位置づけることができるものである。
 こうして現在は、マルクスが指摘したとおり、人類社会前半史の最終形態たる資本主義社会の中でもすでに晩期に入っているわけであるが、そこを通過した人類社会の後半史とはいったいどのようなものになるのであろうか。
 この問いはもはや歴史を超えた未来学に属する問題であるから本来は本連載の対象外であるが、あえて禁を破って筆者のいささか希望的な観測も交えて予測するとすれば、人類社会後半史は所有の歴史に対して存在(being)の歴史となるであろう。それはもっと所有すること・贅沢ではなく、よりよく在ること(better-being)・充足が目的となるような歴史であり、従ってまた戦争と殺戮の歴史に代わって非戦と共生の歴史ともなるであろう。
 もっとも、そのような人類社会後半史にあっても人間社会を維持していくためには物質的生産活動は不可欠であるから、物質文明が完全に放棄されるようなことはあるまい。とはいえ、来たるべき新たな物質文明はもはや富の追求を第一義とするようなものではなくなるであろう。
 そのときにいかなる生産様式が「発明」されるか、ということに関しては歴史を主題とする本連載ではさしあたり空白として残しておかざるを得ない。

 

賢人は過去を、凡人は現在を、偉人は未来を語る。
不肖筆者

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当ブログについて

2011-08-10 | はじめに[初めての方はお目通しください]

〈全般〉

〇当ブログは、通常の日記形式のブログとは異なり、管理人(=筆者、以下同様)の連載論文と時評を掲載するブログです。「時評」を除き、各カテゴリーが連載論文のタイトルに当たります。

〇連載論文のテーマは、社会・経済、政治・法律から歴史に及びます。扱う時間軸は、未来・過去・現在を縦横にめぐります。

〇連載論文は通常、複数の論文をおおむね隔週または毎週1本から3本(一部に例外あり)の割合で同時並行的に掲載していきます。なお、カテゴリー(タイトル)横に〆のマークが付されたものは、連載が終了した論文です。

〇当ブログ開設以来、随時掲載してきた時評は2023年1月以降、原則として姉妹ブログである『ザ・コミュニスト+』に掲載します。ただし、特大級に重大な事変等または当ブログの主軸連載『共産論』に直接関連する事象が発生した際には、それにまつわる時評を当ブログ上にも重複して掲載する場合があります。(2023年10月10日改訂)

〇当ブログに掲載される論文・時評の内容は解説的ではなく、管理人自身の価値観・思想を直截に反映したものとなっております。従って、当ブログ上の記事(特に連載記事)を受験その他の目的で、参考書の代わりに利用されることはお奨めしません。また、当ブログに掲載される論文は学術論文ではありませんので、その内容に関して学術的な論争は想定しておりません。(2024年8月27日追加)

〇当ブログは思想的にセンシティブな内容を扱うことが多いため、思想や価値観の違いから当ブログの論調や個別の記事に反感を抱く恐れのある方々の継続的な閲覧は想定しておりません。そうした方々が偶発的に当ブログに行き当たることがありましても、以後はスキップしていただくことを要望します。また、当ブログと無関係なコンテンツのサイトや当ブログの内容に反感を抱く恐れのある方々が多く集まるサイトへのリンクもお断りしております。(2019年1月4日改訂)

〇当ブログ内には政治問題を扱う記事も含まれますが、管理人は、既存のいかなる政党その他の政治的・社会的団体とも関わりを持っておりませんので、当ブログ内の記事内容を特定の政党その他の政治的・社会的団体と結びつけて読解されることは望みません。(2022年7月4日追加)

〇ブログ開設10周年となる2021年8月10日付け時評におきましても、当ブログの執筆方針をより立ち入って明らかにしておりますので、ご笑覧ください。(2021年8月10日追加)

〈著作権に関して〉

〇当ブログ上の管理人(筆者)自身の著作物については法的著作権を放棄していますので、自身の著作権の侵害を理由とする法的な追及は致しませんが、当ブログ記事からの完全な流用ではなく、正しく咀嚼した形での利用を要望します。(2022年5月23日改定)

〇当ブログ上の管理人(筆者)自身の著作物に関して、著作権侵害の疑いを持った方は(現著者以外の第三者でも可)、必ず該当する記事のコメント欄にて(コメント欄が開放されていない記事については、便宜上この記事のコメント欄にて)、原著作物の著者名及び著作名称(ウェブサイトの場合はURLも付記)を挙げ、原著作物の該当部分と対照させつつ、具体的詳細にご指摘ください。ただし、goo blog開設者でない方は個別記事へのコメントを受け付けていないため、便宜上この記事のコメント欄にお寄せ願います。その際は、該当記事のタイトル・日付を明記のうえ、上掲下線部分と同じ要領にてお願いします。(2022年5月23日改定)

〈コメントに関して〉

〇コメントを受け付けない一部記事を除き、goo blog開設者に限りコメントを受け付けます。ただし、スパムに該当するものや、個別の記事もしくはその記事を含む連載全体の趣旨と明らかに無関係なコメントは、告知なく削除します。それ以外のコメントでも、差別表現や侮辱的表現を含む場合や、下記の「要望」に沿わず、ブログ上に保存することが適切でないと判断される場合は、その旨告知のうえ削除させていただきます。(2019年2月12日改定)

〇上記以外のコメントは保存し、可能な限り返信しますが、コメントに際しては、以下のこと(*で示した内容)を特に要望します。なお、各要望に沿わず、繰り返し同種のコメントを投稿される場合は、やむを得ず投稿禁止措置をとらせていただきますので、予めご了解ください。(2019年2月11日追加)

*当ブログの記事を批評される場合は、可能な限り、当ブログの全記事(約2000本)を読了するか、少なくとも主軸連載である『共産論』の全文を読了したうえでお願いします。個別記事だけを読み、または個別記事の一部だけを切り取って批評するようなコメントはご遠慮ください。

*拙稿をお読みになる中で疑問を感じられる箇所がありましたら、まずはその真意についてコメント欄でご質問ください。ご質問することなく一方的に読解(誤読)した結果を示して、否定的に批評するコメントに対しては、お答えしません。

*当ブログは思想論争を目的とはしていませんので、論争的な内容のコメントは避けてください。コメント欄を利用して自説・持論の内容を一方的に展開するようなコメントもそれに準じます。

〈その他〉

2012年8月1日より、記事下に商業広告が強制的に表示される仕様に変更されましたが、各広告は管理人自身で選択したものではなく、広告主とも一切関係ありません。広告のクリック閲覧は読者ご自身のご判断にてお願いします。

〇相当数の記事に記事のカテゴリーや記事内容と合致しないタグが張られている場合がありますが、それらはブログ・サービス側がタグの仕様を変更した際に機械的・一方的に張ったもので、管理者の意思に沿うものではありません。現在、適宜変更作業を進めておりますが、該当記事が膨大なため、まだ完了しておりません。(2021年9月7日追加)

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世界歴史鳥瞰(連載第1回) 

2011-08-09 | 〆世界歴史鳥瞰

愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。
―ナポレオン・ボナパルト

 

序論

一 世界歴史の始点と終点

 本連載で世界歴史といった場合の「世界」とは、単に地球全域の各地という地理的概念にとどまらず、そうした地球という場における人類の社会的活動の総体を指している。
 そういう「世界」の始点から終点までの過程が世界歴史であるが、その始まりとは、要するに文明の始まりである。
 人類は文明を持つ以前から交易や農耕あるいは戦争といった社会的活動を営んでいたことは確かであるが、それらは歴史という形で叙述できるものではなく、単に考古学的事実として記述することができるにとどまる。
 もっとも、文明とは何かということについては論者の数だけ説があると言ってよいが、本連載における文明の把握については第1章で述べるとして、ともかく文明が始まらないことには歴史も始まらないのである。
 しかも、そのような文明という営為は人類の中でも最も新しい現生人類(ホモ・サピエンス)だけが始めたのであり、それ以前の古い人類は文明という営為を持たなかったのであるから、世界歴史とは必然的に現生人類の歴史を意味することになる。
 それでは、そうした世界歴史の終点とはいったいいつのことであろうか。言い換えれば現代史とはどこまでをいうかという問いである。
 これはかなりの難問であって定説と言えるものはない。ただ、慣用的には四半世紀=25年を歴史における最小単位として扱うことが多いから、これを基準とするならば現時点から遡っておおむね25年程度以前をもって歴史の終点とみなすことは不合理でないだろう。
 そうすると、歴史の終点以後現時点までの25年前後の過程は同時代ということになるが、その間も時の経過は進行している以上、これを「同時代史」として把握することは可能である。
 この「同時代史」は厳密に言えば歴史ではなく現代社会論の対象ではあるが、それは現代史の延長部分として歴史ともリンクしているものであるから、本連載では末尾の補章で同時代史に相当する部分にも言及する。 

二 鳥瞰的歴史観

 本連載は「世界歴史鳥瞰」と題しているように、世界歴史をまさに鳥のように俯瞰しようという一つの史観に基づいて叙述される。これを鳥瞰的歴史観(略して鳥瞰史観)と名づける。
 鳥瞰ということの意味は、特定の国や地域の歴史でなく世界の歴史を通覧的に把握すること、また個別的な事物・事象の歴史でなく人間の営為全般の歴史を総体として把握することである。
 このような歴史観は職業的歴史家の歴史観とは別のものである。なぜなら今日、専門分業化が進んだ職業的歴史家の歴史観とはすべて個別のものに関わる部分史観であるからである。部分史観とは縦割りまたは細切れの歴史観である。
 このうち縦割り史観の場合は、例えば日本史とかそのうちの大阪史等々のように、一国史/郷土史という形で発現する。これは最もオーソドックスな歴史叙述であると同時に、当然にもナショナリズムやプロヴィンシャリズム(郷土第一主義)と不可分に結びついた歴史叙述である。またそれは「木を見て森を見ない」史観でもある。
 しかも一国史/郷土史の内部が通常は時代区分ごとに古代史から現代史までさらに分節化されているから、先のたとえに従えば木の中でも古木だけを見たり、新木だけを見たりするという具合になる。
 一方、細切れ史観の場合は祭祀とか服飾、さらには心性といった細密な事物・事象の歴史を探求する社会史という形で発現する。これは「木も見ず枝葉を見る」史観であるが、近年縦割りの一国史/郷土史に代わって学術としての歴史の中では主流化しつつある。
 これらの部分史観はもちろん無価値なのではなく、それによって新たな歴史的発見がなされることも少なくないのであるから、むしろ大いに推進されるべきものなのである。
 これに対して、鳥瞰史観は部分史観の力も借りながら「森を見渡す」史観であって部分史観と対立するものではない。ただ、それは学校の世界史教科書のように世界各地の歴史を総花的・羅列的に紹介するだけの「教科書史観」ではなく、ある一定の歴史哲学に基づく歴史観である。従って、本連載も教科書や受験参考書代わりに利用することは全然推奨できないのである。

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