ダーラン川沿いと海辺に町が発達しているミュルディアは、西のサイス山脈方面には目立った町はない。大陸一豊かな国を誇るミュルディアでも、さすがに山脈が迫ってくる辺りに来ると、「何もない」景色が見渡す限り広がる。
牧場で買った馬に乗り、ひたすら西を目指した二人は、7日足らずでサイス山脈のふもとに着くという強行軍だった。すでに街道も消えかけている。
日が落ちる前に野宿の準備を始めた。大きな肉食獣はいないし──1種類、中型の犬くらいの、おそらく狼に似たウォルグという肉食動物がいるらしいが、よほど飢えていたり、興奮したりしていない限り人を襲うことはないそうだ──、夜も寒さを感じることはなくなっていたので、たいした用意はしない。枯れ草や枝を集めて火を起こし、簡単な料理とお茶で夕食をとり、マントにくるまって眠るだけである。
赤い地面と緑の草がまだらに地平まで続く平らな土地に、ところどころ低い灌木の繁みがこんもりと島のように浮かんでいる。今まで見慣れた黒っぽい肥沃な土地は、山が近づくと次第に赤みを帯び、この辺りではパプリカの粉でも撒いたような鮮やかな赤土となっていた。鉄分が強いのではないかと思っていたら、木に覆われてはいるものの赤っぽい山肌が見えるサイス山脈には、ローディアの鉄鉱山があるとテスは言った。
山の向こうに沈む夕日は赤く、どこまでも抜けるように高い空を紫や菫色や赤や朱鷺色、そして金色に染め上げた。風は、緑の上を金の波となって、さえぎるものなくどこまでも渡っていく。
テスが見つけた小川──彼に言わせると、宝石を見つけるより水の流れを見つける方がずっと容易いそうだ──のそばで、彼らは一夜を過ごすことにした。馬は水を飲ませたあと灌木につなぎ、好きに草を食べさせておいて、彼らは焚き火で食事を作った。穀物の粉を水で練ったものと干し肉を入れたスープと、保存のきくビスケットのような硬いパン、レモン風味のお茶が夕食のメニューだった。
熱いので布でくるんでカップのお茶をすすりながら、テスは小さくなっていく焚き火をぼんやり見つめていた。その頬を染めていた夕焼けも色褪せ、消えかかっていた。それでも、風に揺れる前髪の下の、物思いに耽るテスは、とてもきれいだった。世界中が夕闇の藍色に包まれてゆく今このとき、エドは世界に自分たちふたりきりしか存在していないような気がした。──少なくとも視界に入る360度、集落はおろか人ひとりいない。
時も空間も超えた異世界。地平線まで続く草原の美しく静かなたそがれ。なぜ自分はここにいるのだろう。なぜやって来たのだろう。なぜ自分だったのだろう。これは、自分の人生に用意された必然だったのか、それとも単なる偶然にしかすぎないのだろうか。
この出来事が、出会いが何であれ、今自分はここにいて、目の前には初めて本気で恋をした人がいる。それだけは確かなことだった。
消えかかった火がぱっと燃え上がる。テスが枝で灰をかきまわし、その枝を火の中に投げ入れた。
「……明日は日の出とともに出発する。サイスの山の中では、鉱夫くずれの野盗や、密輸人が出没することがある。出会ったら見逃してはくれないだろう。そのときは、前にも言ったがとにかく逃げろ。金を出したら命は助けてやるとか言うかもしれないが、そんなのは口先だけだ」
「わかってる。だけど逃げるときは君も一緒だよ」
「……」
彼は黙りこくった。答えたくない、つまりそうするつもりはない、あるいは約束できない、といういつもの彼の意思表示だった。
「テス」
エドは語気を強くした。
「……相手が二人までなら逃げられると思う。三人なら、微妙だな。ただ、めったに商人や旅行者は通らない道だから、盗賊といっても徒党を組んで大がかりに襲う奴らはほとんどいないはずだ。だからといって楽観はできないがな。おれの短剣を貸すから、いざというときは抵抗しろよ」
かかえた膝の上から、上目使いに彼を見て、テスはまた目を伏せた。
テスの返事は肝心なところで答えをはぐらかしていたが、エドは仕方なく引き下がった。こういうときのテスに重ねて問い質したところで、求める答えは返ってこないとわかっていた。
テスを犠牲にして自分だけ逃げるような真似はしないと、エドは心に決めていた。だが、こどもの頃はともかく、大学に入ってからは殴り合いのけんかすらしていない自分が、武器を持った、本気で殺しにかかってくるような相手に戦えるのか、自信はなかった。テスの言った「逃げられる」は、「殺せる」か、少なくとも動けない状態にできるという意味だろう。テスが剣をふるうところは練習以外見たことはないので、どの程度の腕なのかわからないが、大人相手に2人までならと言うからには、相当の自信があるのだろう。だとすれば、出会った最初のころに言われた「足手まとい」となってしまうことも、ないとは言い切れない。
自分が戦って生き延びる自信などない。だからこそ、テス一人を危険な目には遭わせない。もし複数の強盗に襲われても、自分がいれば──自分が死に物狂いで抵抗すれば、テスが相手を倒す時間稼ぎはできるかもしれない。テスは、自分を誤解している。
(俺はこどもじゃないし、無知ではあっても、守ってもらわなくてはならないか弱いひなどりでもなければ、君のあとをついて行くだけの子犬でもないんだよ)
君を守るためなら人を傷つけることも、自分が死ぬことも厭わない──エドは心の中で呟いた。
翌朝、夜明け前に起き出して曙光の中、彼らは出発した。ディヴァン山脈に比べれば短く、低いサイス山脈だが、それでも千から二千メートル級の山々が連なっている。道は山の頂と頂の間の比較的低い尾根を越えて通っていたが、谷沿いなだけに細くて岩場が多く、彼らは馬に乗っているよりも轡を引っ張り、後ろから馬の尻を押し上げている方が多いくらいだった。
結局その日のうちに山を越えるどころか、峠にたどり着くのが精一杯なことがはっきりしてくると、一晩山の中で過ごすことを考えて気が重くなった。けれども日が沈む直前に峠に着き、森が切れ、馬の背に揺られていた彼らの視界が開けると、疲れも不安も忘れた。
「……うわあ……」
感嘆の声を洩らしたエドに、テスもかすれた声で応えた。
「ああ……ローディアだ……」
そそり立つ山脈のせいで、彼らの立つ尾根よりも早く夕闇が訪れた平野では、人々の営みを示す明かりが灯され始め、空の星が現れるより早く、地上に星空が現れつつあった。緑の大地に大小数え切れないほどある湖が、雨上がりの地面のようだった。その水面が舟や家々の明かりを映し、人工の星を倍にも見せているのである。
林と、集落と、マス目状の田畑の間を縫って、水路と川が縦横に流れている。ミュルディアが「水の都」ならば、ローディアは「水の国」と呼ぶべきだろう。
そしてはるか地平近くに、遠すぎてはっきりとはわからないが、ひときわたくさんの光が首飾りのように輝いて、弧を描いて取り囲んでいる湖が、黒々と横たわっていた。
「300年前まで、ローディアは人が足を踏み入れることのない、大湿原だった」
テスは、薄暮の中に沈んでいこうとするローディアを、眩しいものでも見るように眼を細めて見つめていた。
「大湿地帯から西の内陸部は大沙漠だが、年に一度か二度、大雨に見舞われる。雨水は砂に吸い込まれるが、それらは長い年月をかけて地下を流れ、やがて集まった沙漠中の水は、堅い岩盤のサイス山脈にせき止められ、その手前で地上に湧き出る。それがローディアの湿地を形成していた。だが300年前、ナバディアの一貴族が手柄の褒賞として、利用価値のない土地として捨て置かれていたローディアを領地として望んだ。彼は、一族郎党を引き連れてローディアの開墾に乗り出し、水路を作り、湿地を埋め立て、木を植え、次第に人が住める土地を増やしていった。150年前、ナバディアは失政の続いた王家を追放し、共和制に移ることになったが、ローディアはそれを機に独立し、領主のローディアス候が王位に就き、ローディア候国となった」
テスの手が上がり、あの湖を指差した。
「ローディア最大の湖サーラ。その湖畔にあるのが首都サーランだ」
つられて目をやったエドの耳に、テスの呟きが届いた。
「……おれは3年前、あの町を飛び出した……」
見下ろしたエドの視線を避けるように、テスは手綱を引いて馬の向きを変えた。
「今夜のねぐらを見つけないと」
その夜は、人目を引くといけないからと火を使えず、冷たい食事をし、山の上だけあってマントをいくらかき寄せても寒さがしみて来るというのに、暖をとることもできなかった。
岩陰に身を隠し、体を縮こまらせて寝転がったものの、疲労でうとうとしては、寒さで目が覚めることを繰り返す。少し離れて横になっているテスはぴくりともしないが、起きている気配がしていた。体が小さい分、テスの方が寒い思いをしているに違いなかった。
「……テス」
「……」
「起きているんだろう?」
「……眠れなくても目を閉じて横になっていろ。疲れがとれないぞ」
「寒いんだ。そばへ行ってもいいかな」
「……」
返事がないのは拒否ではない、とエドはごそごそ這っていった。体を丸めて背を向けているテスに自分のマントをかけ、背中からそっと抱き込む。
「……こども扱いするな」
「してないよ。俺が、寒いんだ」
性的な気持ちではなかった。ただ、ひとりで寒さに耐える彼を暖めたかった。鼓動は速まったが、欲望は感じなかった。緊張と不安がまだ残っているせいかもしれなかった。
触れ合った胸と背中から、互いの熱が伝わってくる。それだけで、マントの中は暖かくなり始めた。同じ体温しか持たないのに、他人の体はどうしてこんなに温かいのだろう……。
エドは、腕の中の温もりと、テスの髪に顔を埋め、彼の匂いに包まれる心地良さとで、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
目覚めると、腕の中にテスはいなかった。寝惚けた頭でどうしていないんだろう、とぼんやり考えていると、いきなり顔に冷たいものが落ちてきた。
仰天して飛び起きると、傾けた水の瓶を持ったテスが立っていた。
「ついでに顔を洗え」
慌てて両のてのひらで水を受け、顔を擦った。差し出されたタオルで顔を拭き、今度はテスに水を注いでやる。
水とビスケットだけの簡単な朝食をとって、彼らはすぐに出立した。
下りは楽かと思えばそうでもなかった。馬に乗って急坂を下るのは登るより難しく、テスはともかくエドにはまだそこまでの技量はなく、傾斜がなだらかになるまでは歩くしかなかった。それが2マーレも続いただろうか。日が中天にかかる頃、ようやくひどかった山道は、人や馬がまともに歩けるものになった。さすがに上りよりは下りの方が短時間で距離を稼げたようだった。
だが馬に乗り始めていくらも行かないうちに、バランスをとるのに必死になっているエドに、テスは振り返りもせずに言った。
「速度を上げるぞ。前かがみになって馬のたてがみを摑め。ただし引っ張るな。股を締めて、振り落とされるなよ」
「急に、何…」
言われるまま、前のテスに覆い被さるようにたてがみを摑んだと同時に、テスが馬の腹を蹴った。
「うわ、わ、わ」
「舌かむぞ!」
テスの怒鳴り声に慌てて歯を食いしばる。
いくらずいぶんましになったとはいえ、下り坂の岩の多い山道に変わりはない。そこを馬で駆け下りるのである。頭を下にした馬の上で前傾姿勢をとると、ほとんど頭から落ちていく感覚である。それだけならまだしも、馬がバランスをとるために右に左に向きを変えるたび投げ出されそうになり、冷や汗が吹き出た。
「!!」
背中越しに、テスが息を呑む気配がした。エドはとっさに馬の胴をはさむ両脚に力を込めた。
馬が抗議のいななきを上げて急停止した。体半分ずり落ちたものの、落馬しなかったのは反射神経のおかげだろう。
「…いったいどうしたんだ、テス…」
エドは問いかけを呑み込んだ。体を馬の上に戻した彼が見たのは、横の繁みから抜き身の剣を下げて出てきた男と、振り返れば2人の男が斜面を滑り降りてくるところだった。
「残念だなあ、ぼうやたち」
前方の男はにやにや笑った。
「この道は曲がりくねっているから、崖を降りるのがいちばん早いんだよ」
エドは、道の上にロープが張られているのに気づいた。このまま突っ込んでいたら、馬はロープに引っかかって倒れ、乗っていた彼らは空中に投げ出されていただろう。運が悪ければ首の骨を折って即死だ。
「荷物と馬を渡せば行っていい…と言いたいところだが、ふたりともすげえべっぴんじゃねえか。少しばかり楽しませてもらってからにさせてもらうぜ」
「な……!」
かっとなりかけたエドの脚を、彼らに見えない側でテスがなだめるように叩いた。
「さあぼうやたち、おとなしく降りて来い」
「……お前は乗っていろ。手綱を放すな」
男たちに聞こえないようテスは囁き、地面に降りると前方の男に向かって、
「お金はあげるから、他は勘弁してくれない?」
「他って、なんだ?他には何も盗らないぜ。ぼうやたちはかわいいから、かわいがってやるだけさ」
男たちはテスを全く警戒していなかった。エドは丸腰だし、剣を下げているテスは同じ年頃の少年に比べても細身で、男っぽさのない顔立ちである。
「かわいがるって…?」
首を傾げ、一歩踏み出す。男はその可愛らしさにやに下がり、近づいてくる。
「教えてやれよ、ワディ!」
「噛み切られんなよ!」
残りのふたりから野次が飛ぶ。男とテスの間が3メートルほどになったとき、男は足を止めた。
「おっとぼうや、剣を渡し…」
その言葉が終わらぬうちに、テスは動いていた。
踏み込むと同時にマントが跳ね上がった。とエドには見えたが、マントを跳ね上げて剣を抜いたのか、鞘走った剣の勢いでマントが翻ったのかは見極められなかった。
次の瞬間、男の首から血が吹き上がった。すでにテスは次の目的に向かって走っていた。馬を邪魔していたロープを両断し、
「エド!」
エドは馬の腹を蹴った。駆け寄るテスに向かい、引き上げようと片手を伸ばす。
テスは、その手をとらなかった。彼の目が、一瞬エドの目を捕らえ、彼は代わりに剣の腹で馬の尻を叩いた。いきなり全速で走り出した馬から振り落とされそうになって、エドは反射的に馬にしがみついた。
我に返って首だけ捻って後ろを見やると、テスが男たちに向かって走っていくところだった。
「テ────ス!!」