フルール・ダンテルディ

管理人の日常から萌えまで、風の吹くまま気の向くまま

『遠い伝言―message―』 9

2008年10月11日 | BL小説「遠い伝言―message―」

 カーブで彼らの姿が見えなくなる。
 たった数日の付け焼刃の練習で、全速力で走る馬を止めることなどできるはずがなかった。
 決断は早かった。落馬覚悟で彼は手綱を引いた。
 ぎりぎりまでコントロールを手放さず粘った甲斐あって、落馬したものの受身を取る余裕があった。馬も転ばずに止まってくれた。
 エドは駆け出した。
 坂道を登り、先ほどの場所まで戻っても、立っている者が誰も見えなくて焦る。なおも走り、見えてきた人影に彼は息が止まりそうになった。
 最初にテスが切った男は仰向けに絶命していた。もう一人の男も腹から血を流し、うずくまるように倒れていた。だがもう一人は。
 テスの上に、男が馬乗りになっていた。そむけたテスの首に、彼自身の刃が迫っていた。手が切れるのもかまわずその刃を摑んだ男が、のしかかって剣を押しつけ、テスの首を掻き切ろうとしている。非力なテスがかろうじて支えていられるのは、すでに男は片手を失い、残った片方だけで押しているからだった。しかし、その手には男の上半身の重みがすべて掛かっている。剣はじりじりとテスの首に食い込みつつあった。
 その光景を見た瞬間、エドは何も考えずに動いていた。ベストの裏に隠していた短剣を抜き、振りかぶった。
 彼に気づいたテスの目が見開く。
「だめだ……!」
 何が何だかわからなかった。硬い抵抗にぎょっとして手を放す。男が仰け反った。
 テスが跳ね起き、その腕と長い刃が一閃した。返り血がテスに降りかかる。男が踊るような動きで地面に倒れこむまで、エドは茫然と立ち尽くしていた。
 男が動かなくなるのを見届けると、テスは力尽きて剣を落とし、がくりと膝をついた。
「…テス!」
 肩で息をする彼にエドは駆け寄り、片膝をついてのぞきこんだ。
「なぜ……」
 テスが呟く。彼は顔を上げた。怒りの表情も露わに。
「どうして戻ってきた!おれは逃げろと言ったはずだ!どうしてこんな……!」
 彼は苦しげに歪んだ顔を、両手で覆った。
「……こんなことなら、剣など渡さなければよかった……!」
 なぜテスがそんなことを言うのか、わけがわからなかった。自分がしたことは何か間違っていたのだろうかとエドは混乱する。
「テス……?」
「おれは……っ」
 うつむいたまま、テスは言葉を搾り出した。
「お前の手を汚したくなかった…!お前の世界では…少なくともお前は、人を殺すことは日常ではないはずだ。お前の話を聞いていて、おれはいつも、同じように悪人や犯罪者はいても、剣で解決するしかないこことは違うし、ましてお前は勉強して学者になろうという人間だ。お前にはここで生きていく知識は教えても、ここのやり方に慣れさせてはいけないと思っていた。もし戻れたら、お前はきっと、人を傷つけたことを悔やんで、自分を責めるだろう。だからお前にこんなことをさせたくなかった。剣を持つ義務のあるおれがやるべきことなんだ!」
「テス!!」
 エドは激情に駆られ、テスの両肩を揺さぶった。
「君は、俺が君を犠牲にして平気で生きていけると思っているのか?君を失って、おれが何とも思わないと思っているのか!確かに俺は、人を傷つけたくなんかない。けれど、自分自身はまだしも、自分の大切な人を傷つけられるくらいなら、自分が傷つくことも、罪を犯すことも、避けたりしない。そんなことのために、その人を失いたくなんかない!だから……」
 抑えることのできない涙が目から溢れる。
「頼むから……二度と自分を犠牲にするような真似はやめてくれ……。俺にちゃんと、君の助けができるチャンスをくれ……」
 くやしくて情けなくて、彼は地面に突っ伏した。みっともないと思いながら、涙を止められなかった。ようやく、テスは無事だったのだと、彼を失わずに済んだのだと安堵して、気が緩んだせいもあった。
「……すまない、エド……」
 テスの呟きが、頭の上からこぼれてきた。
「お前をそんなに傷つけるとは、思わなかったんだ……」
 ひどく後悔した、低い呟きに、エドは顔を上げた。途方にくれた、大人とこどもが入り混じった表情で、血と砂で頬を汚したテスが彼を見つめていた。
「許してくれ……」
「……っ!」
 彼は、テスを抱きしめた。
「…よせ、血が……」
 テスが抗うのもかまわず、もっと強く抱きしめる。愛しくて苦しくて、溺れた人間がなりふりかまわず何かに縋りつくように、そうせずにはいられなかった。
 いつの間にか、テスの抵抗はやんでいた。
「……エド……」
 耳元で、テスのかすれた喘ぎが聞こえた。その声が、彼の血を沸騰させた。
 目が合った。なぜ、と問うような大きな瞳が、彼を見つめ、そして耐えきれずに閉じられた。ふたりにとって初めての、あまりに近すぎる距離に。
 軽く開かれたままの口を、唇を押しつけてふさぐ。重なった小さな幼い唇の意外な熱さに驚く。なおも強く押しつけると、互いの濡れた内側が吸いつくように離れなくなる。
 歯の間から舌で奥を探り、ざらりとした舌の表面と、滑らかな裏側を舐める。テスに拒むそぶりがないことにすら気づける余裕はエドにはなかった。これ以上は自分を止められなくなる、と理性を取り戻すのが精一杯だった。
 離れ難く吸い上げながら唇を離すと、テスは目を伏せたまま顔をそむけ、両手でそっと、しかし断固としてエドを押しのけ、彼の腕から抜け出た。
「…早くここを離れないと。血の臭いでウォルグが集まってくると危険だ」
 彼は剣を拾うと死体のシャツで血を拭い、鞘に収めた。
「急げ。馬を探すぞ」
 テスは振り返りもせず歩き出した。
「あ、ああ」
 そのあとをついて行くエドの足は重かった。テスが何も言わないのが、彼をひどく落ち込ませた。今のキスは、テスには意味のないことだったのだろうか。もしかしたら、友人や家族ならこれくらい当たり前にする習慣があるのだろうか。いや、今まで見てきた限りでは、アメリカに比べたらずっとスキンシップは薄い印象だった。特にテスは、他人に触られるのを避けてさえいる。だったら……なぜ彼は、怒らない?なぜ何もなかったように振舞う?せめて一言、「さっきのはどういう意味だ」と訊いてくれれば、この想いを告げられるのに。
 だからなのだろうか。テスは気づいたからこそ、何もなかったことにするつもりなのだろうか。エドの気持ちに応えられないが、これから先も一緒に旅をしていくのなら、はっきり拒絶したら気まずくなってしまう、そう考えたのだろうか。
 乗り捨てた場所からさほど離れずにいた馬を見つけて、山を降り始める。テスの後ろでエドは唇を噛んだ。衝動に流されて考えなしな行動をした彼より、テスの方がよほど大人ではないか。これが、テスの答えなのだ。このままでいよう、と。その理由が彼がこどもだからかエドが男だからか、異邦人だからかは知らないが。
 その日は国境警備兵に見つかることを警戒して、夜を待ってから完全に下山し、月明かりだけで街道を走った。十分距離を稼いでおいて、夜が明ける前に彼らは池で血を洗い落とし、汚れた服を着替えた。それから短い仮眠をとって昼間も移動を続け、夕方たどり着いた町で宿に入ったときには、ふたりとも泥のように疲れ切っていて、馬の世話だけ頼んでろくに食事もとらずに倒れこむようにして眠り込んでしまった。
 目が覚めたのはすっかり日も高くなった、昼近くになってからだった。珍しくテスはまだ寝ていて、よほど疲れているのだろうと思いエドは起こさないように静かに着替え、そうっと部屋を出ようとした。が、
「エド」
 呼び止められ、振り向くとテスは背を向けた姿勢のままだった。どうやら目はとうに覚めていたらしい。
「悪い……食事をしたら馬の様子を見てくれ。餌がまだのようだったら飼い葉をやって、体にブラシをかけてやってくれ。それから…今日はもう動かないから、お前は出かけるなり何なり適当にしてくれ。夕食も好きにしてくれていい」
 気怠げな口調に、エドはテスのもとまで引き返した。
「具合が悪いのかい?医者を呼ぼうか?」
「……少し疲れただけだ。休めばよくなる」
 のぞきこもうとすると、それを避けてテスは顔をシーツに埋めた。
「食欲はある?何か持ってこようか?」
「…水でいい。喉が渇いた」
「だめだよ。せめてスープとか、ジュースなら飲めるだろう?」
「……任せる」
 エドは急いで宿の人に自分の食事とスープの追加を頼んで、外へ出た。屋台で持参したカップに柑橘類のジュースと蜜を入れてもらい、食事を受け取って部屋へ戻る。
「テス、飲めそうなら少し手をつけて」
 のろのろと身を起こしたテスにエドは皿とスプーンを渡す。少しずつ飲み始めた彼を見守りながら、自分もベッドに腰かけて朝食を摂った。
 もういい、とテスは皿をエドに渡し、夜着のまま靴を履いた。
「テス?」
「顔を洗ってくる」
「ついて行こうか?」
「ばかを言え」
 ひと睨みしてテスは出て行った。エドも食器を片づけ、言われた通り馬の面倒を見てから部屋に戻ったが、テスはいなかった。ずいぶん時間がかかる、と心配になりかけた頃に彼は戻ってきたが、髪が濡れていた。
「水を浴びてきたの?」
「汗をかいて気持ちが悪かったんだ」
「汗って…」
 ベッドに入ろうとする彼の手を思わず?んだエドは、
「……熱があるんじゃないのか」
 水を浴びてきたばかりとは思えない熱い肌に驚く。
「疲れているだけだ。今までにも何度か経験している。心配いらない」
 いつもの自分をコントロールした無表情ではなく、生気のない人形のようなうつろな目のテスを見て、エドは胸を衝かれた。ここ数日の強行軍は、大人の彼でさえきつかった。馬に乗ってといっても、それを操っているのはテスで、ただ落ちないようにしているだけの彼の何倍も疲れるに決まっている。その上おとといの事件。テスが疲労のあまり倒れるのは当たり前だ。
 うつぶせにベッドに突っ伏したテスは、すでに寝息をたてていた。
 エドはカーテンを閉めてテスのために部屋を暗くし、彼の眠りを妨げないように部屋を出た。
 選ぶ余裕もなく滞在することになった小さな町は、今まで訪れたリベラ、ミュルディアの町や村とは違った印象だった。特別ではない普通のいなか町なのだろうが、極めて計画的に造られたことがわかる直線的な道と、それに沿って流れる水路。開墾によって造られた新しい国家だとテスが語った通りだった。土壁の家は、赤いレンガ造りのミュルディアの家々に比べれば質素だったが、きちんと補修され、窓枠には好みの色を塗り手入れが行き届いており、貧しくはない。豊富な水のおかげでずいぶん涼しく感じる気候のせいか、人々は割りときっちりと服を着込んでいる。日射しだけは変わらぬ強さなので、白を基調にした長袖の丈の長いシャツに刺繍を施したベスト、それに細身のパンツというのが男も女も基本的な服装だった。女性のスカート姿が少ないのが特徴だった。
 水路には小魚が銀色の背をくねらせて泳いでいた。底の小石がくっきりと浮いて見えるほど清澄な水が豊かに流れている。段差を落ちる水音が心地良い。一応町の中心街なのでそれなりの人や荷車の往来はあるのだが、やはりのどかな農村の色が濃い。
 エドは1フォルも歩けば田畑か沼地ばかりになってしまう町を、人々の営みを見物しながらあてもなく歩き、川辺に座り込んでぼんやりと水を眺めて時間を潰してから宿へ戻った。
 かれこれ1マーレは経っていたが、テスはまだ眠っていた。飲みかけのジュースがそのままだった。目が覚めたときに水が欲しいだろうと、それを片づけて宿の炊事場で水をもらってきた。
 水差しをサイドテーブルに置き、空気を入れ換えようと窓を開けたとき、
「……エド」
「あ、ごめん。起こした?」
 テスは目をこすった。
「いや……。暗いな。今何時だ?」
「まだ8マルの鐘は鳴っていないよ。カーテン開けようか?」
「ああ……」
 寝返りを打ったテスは、ぼうっとした表情でエドを見上げ、眩しさに目をしばたかせた。
「エド……」
 彼が手招きしたので、エドは彼の枕元に膝をついた。
「なんだい?」
「……お前は何もしていないから……」
「え?」
 視線をシーツに落として、テスは小さく言った。
「お前の与えた傷はたいしたものじゃない。あの男を殺したのはおれだ。お前は誰も殺してはいない……」
「テス……」
 エドは、苦く笑った。
「そんなことを、ずっと気にしてたのか?」
 テスは目を閉じた。
「夜……お前、うなされていた…」
「覚えてないよ。それにきっと、罪悪感のせいなんかじゃない。君を助けられなかったときのことを夢に見ていたに違いないよ」
「覚えていないくせに…」
「わかるさ。俺は、テスが思っているほど優しい男でも非暴力主義でもないからね」
 信じていない顔のテスに、エドは続ける。
「他人を傷つけるような奴にはひとかけらの憐れみだってかけてやる気はないし、まして自分の友人や家族、大切な人を傷つけた奴はただじゃおかない。その倍は返さずにおくものか。俺が優しく見えるとしたら、ただ俺にとって、大切な人がいなかったから、怒りに我を忘れる機会がなかっただけだ。俺は本当は……心から人を愛したことのない、冷たい人間なのかもしれないと思うよ」
 テスは小さく首を振った。
「……お前は……慎重な性質なんだろう。自分の心を開くことに臆病なだけだ。冷たくなんか…むしろ温かくて、真っ直ぐで熱くて……」
 はっと言葉を切ったテスの顔に狼狽の色が浮かぶのを、エドはのぼせたような、思考が停止した状態で凝視していた。その視線をはね返そうと赤い顔で怒ったようにテスが睨み返してくる。おととい、目を閉じてしまったためにキスされたことを警戒しているのかもしれない──と頭の隅では冷静に考えているのに、何一つ言葉が出てこないし、テスの言葉の意味を判断できない。ただエドの自己卑下を救おうとしただけなのか、自分の感想を述べただけで他意はないのか──好ましいと思ってくれているのかいないのか──自惚れていいのかどうか、わからなかった。
 出てきたのは、これだけだった。
「好きだ」
 下げた手を、祈りの形に握り合わせる。
「君が好きだ」
 テスが目を瞠り、息を止めた。
「君にこんな気持ちを抱いてしまったことを、許してほしい。迷惑なことはわかってる。二度とこの間みたいな、君の意思を無視した行動はとらない。君に触れるときは寒いときとか危ないときとか、必要なときだけで、下心で触れることはしない。絶対に…とは、その…必要なときに触れていて、そういう気分にならないとは言えないけど……だからといって、不埒な真似はしない。誓うよ」
 彼の言葉の間に、テスは苦悩に顔を歪ませ、両手で覆い隠してしまった。
「……ごめん。そんなに悩まないでくれ。おとといのことがずっと気になっていて…君はなかったことにするつもりだとわかってはいたけど、俺が何も告げないのに君には知られていて、このまま知らない振りをされ続けるのかと思うと…なんか、その……うまく言えないけど、もやもやして……」
「……腹が立った?」
 くぐもった声が、テスの手の下から洩れた。
「おれは、卑怯だと思った?おれは……お前の気持ちの変化に先回りして動いて、うまく対処しようと思っていた。前に、相手の気持ちを知って、知ったために流されて、取り返しのつかないことをしてしまったから、今度は間違えないようにと……。だが、そんなこと無理に決まっている。感情なんて、隠すことはともかく、こう思おう、こう感じないようにしようなんて、できるわけがない。その上、隠すことさえ…おれと同じ能力を持つお前に対して隠し続けることなんて、不可能だ……」
「……なに……何のこと?」
 テスは前髪をかきあげて手をのけ、泣くのをこらえている顔を見せた。
「おれと…お前の能力のことは話しただろう。相手の気を読むというのは、相手が無意識に発散させている意思や感情を読んでいるということだ。無論、人間というのは多少は自分の感情を隠すことも制御することもできるから、気に表れないものまでは読めないがな。逆に、おれたち自身の感情は、表情や仕種、声の抑揚で相手が感じとれる以上のものは伝わらない。能力を持つ者と持たない者の関係は、ほぼ一方通行だ。では、能力を持った者同士だったら?一族の間でだけ使える力があったら?」
「テス……」
「おれは、一族の人間は母としか接したことがなかったから知らなかった。母は知っていたのだろうが、おれが幼いときに死んでしまって、一族の能力についてあまり教えてもらうことができなかった。他人に触れると気が視えやすくなることには気づいていたから、視たくないものまで視ないよう、うかつに体に触れないよう、触れるときは視線をずらして──目のではなく、力の──視ないように気をつけていた。だが、初めてお前と握手を交わしたとき、ちゃんと用心していたのにあまりにも鮮明に、しかも視えるのではなく感情が流れ込んでくるような感じすら覚えて、衝撃を受けた。あとで冷静に考えて、お前はさほど何か感じた様子はなかったから、お前の能力がおれほど強くないのか、お前が無防備すぎるのかのどちらかだろうと思って、無用心にお前に触れてしまわないよう気をつけることにした。なのに、そのうちそれすら無駄になってしまった。お前がおれに向ける好意が流れ込んでくるのを拒否できないし、おれの気持ちも……お前に伝わらないようにし続けるには強くなりすぎた。触れなくても、お前が無意識だろうと、おれが止めようと必死になっていようと……」
 瞬きしたテスの瞳から、涙がこぼれ落ちた。
「止められるわけがない。伝えずにいられるわけがないんだ。それが一族の……生命線なのだから……」
「テス……?」
 テスのまろやかな頬に伸ばしかけた手を、エドは途中で止めた。
「触れても、いい…?」
「……だめだ……」
 苦痛の下から絞り出すように言い、テスは唇を噛みしめた。
「……どうして?」
 信じられない答えに、エドは唖然とする。テスは一言も好きだとも愛しているとも言わなかったが、そんな言葉よりも情熱的な恋の告白だった。お互いの気持ちが一致しているのに、なぜそれを伝えてはいけないのか。
「おれは、お前に何も応えるつもりはない。今は…サーランに帰って、3年前逃げ出した現実に決着をつけることしか考えられない。…考えたくない。だから今は……サーランでの用が済むまで…一族のところに行くまで、保留させてくれ。お前だって……その方がいいんじゃないか?」
 彼は泣き笑いのような笑みを浮かべた。
「ここで生きると決めるまでは、誰も好きにならないんだろう……?」
「───!」
 固まったエドに、テスは大人びた仕種で髪をかきあげ、寝返りをうって背を向けた。
「9マルの鐘が鳴ったら起こしてくれ。夕食は食べに行く」
 テスだって、眠れるはずがないとわかっていて言ったのだろう、話は終わりにしていつもの生活に戻ろうという意思表示に、エドはおぼつかない足どりでドアに向かった。
 閉じたドアに背をもたせかけ、彼はずるずると座り込んだ。
 そうだった。今、互いの想いを知ったところで何が変わるというのだろう。何も変わりはしない──変えることはできない。テスの存在する未来を望むことはできないのだ。帰れる可能性がある限り、自分はあきらめられないだろう。ささやかな関係と絆しかなくとも、自分の世界には家族と友人と、生活と夢がある。あきらめることなどできない。だとしたらそのとき自分は、テスのことを、いっときの、行きずりの恋だったと捨てていくのか?
 だが、もし帰る望みが絶たれたなら──エドは狂おしく思った──テスと生きていける。テスが承知してくれるなら、こんな放浪生活はやめて、どこかで落ちついて暮らそう。言葉ももっと覚えて、どんな仕事でもいいから働いて、なんとか食べていければいい。5年も経てばテスは立派な青年に成長するだろう。あの不機嫌そうな表情と物言いは変わらないだろうが、その頃にはきっと、ベッドの中で抱き合うこともできるだろう。他のものは失っても、もう二度とないだろう一生一度の恋を、成就することができる。研究だって、この未知の世界のことを一から学んでいくことは、楽しいことに違いない。そんな人生を送ることになっても、たぶん悔いはないだろう。
 けれども今は……テスの言う通りだった。ここで生きていく決心がつくまで、中途半端な想いは彼を傷つけるだけだ。
(もうすでに、十分すぎるほど傷つけてしまった……)
 エドは、最後のテスの泣き出しそうな笑みを思い出した。どうしようもなく好きになって、愛しく思えば思うほど彼を傷つけて、苦しめてしまうだけの自分の想い。
(俺たちは、出会うべきじゃなかったんだろうか……)
 目頭と鼻が熱くなり、彼は涙が流れ落ちる前に目を膝に押しつけてごまかした。ドアが内側から開くまで、彼はその姿勢でずっと、次の鐘を待ち続けた。