ファビウスの到着は少し遅れ、召使いの女性が、主はただ今参られます、と告げにきたのは、間もなく9マーレという時刻だった。
やってきたのは、濃い緑の長いマントを肩からかけた、威厳と親しみを同時に感じさせる、背の高い、がっちりした体格の老人だった。
彼はまず、立って迎えた彼らのうちエドに目を留め、だがすぐに視線をずらしてその横のテスを見た。
彼の眉が寄せられ、テスを見つめる。エドはテスの手が固く握りしめられているのに気づいていた。強張った頬にも。
ファビウスの口がぽかんと開き、次いで目が見開かれる。
「まさか……」
彼はふらふらと2、3歩進んだかと思うと、力を失って膝をついてしまった。
「テリアス様……?まさか、まことにテリアス様で……?!」
「久しいな、ファビウス殿」
テスは苦いものの混じった笑みを口元に浮かべた。
「それともこの姿なら、昔のようにじい、と呼んだ方がよいか?」
「テリアス様……!」
ファビウスはまろびながらテスに駆け寄り、片膝をついてシャツの裾にすがりついた。
「なんというお姿に…!それでは、ようやく…ようやく合点がいきました。あのとき、国を出るか、それができねば自害するとまでおっしゃった訳が……!」
テスは涙ぐむファビウスの手をとった。
「3年前、そなたには迷惑をかけた。…ネルヴァ族の血は、わたしには特殊な影響をもたらしたらしい。わたしはそれを……どうしても知られたくなかった。今も、だ。ローディアに戻ってきたのは、ただ陛下のご病状を確かめたかっただけだ」
ファビウスの顔が厳しいものになる。
「王家にお戻りにならないおつもりですか!」
「こんなこどもが第一王子だと言って戻ったところで何になる?陛下を失望させるだけだ」
「……それは私には断じることはできませぬが……、そのことについては後ほどじっくりお話しいたしましょう。ところで殿下、こちらは?」
エドの頭の中では、1つの単語がぐるぐると回っていた。……第一王子?第二王子より年上の、第一王子が誰だって……?
「ああ、紹介しよう。事情があってここしばらく共に旅をしてきた、エドワード・ジョハンセン。わたしの命の恩人だ。大切な客人としてもてなしてほしい」
「おお、もちろん、テリアス様のご友人とあれば」
ファビウスは手を差し出した。
「テリアス殿下をお助けくださり、お礼申し上げます、エドワード殿」
エドは混乱を押し殺しつつその手を握り返した。
「とんでもない……助けられたのは俺の方です…」
「紹介が遅れてすまないな、エド。ファビウスはわたしの大叔父、つまり父方の祖母の弟にあたる」
難しい話を突っ込まれる前に、テスが助け舟を出した。簡単な日常会話以上になると、エドはお手上げになるからだ。
「とにかく……そなたがわたしだと判ってくれて助かった」
テスは椅子に腰かけ、手振りでファビウスにも座るよう示した。
「セイファ妃亡きあと、テリアス様をお育て申し上げたのはこの私でございますよ。わからぬはずはございません」
「だからこそわたしも、陛下と弟を除けばそなたを最も信頼している。……教えて欲しい、陛下のご容態はいかがなのだ?」
「殿下……」
ファビウスはちらりとエドに視線を走らせたが、テスが彼に席をはずさせるつもりがないと理解して続けた。
「2か月前、閣議の最中に陛下は意識を失い、倒れられました。医者の話では、心労と過労が積もって心臓が疲弊されたためとのことです。何より休養と…心労を取り除くことが大事かと」
テスはつらそうに額に手を当て、肘かけに寄りかかった。
「…ローディアを取り巻く環境は決して楽ではございませんが、陛下のお力により、国内外とも安定しております。大きな問題もここ数年起こってはおりません。それなのに陛下がお倒れになった……。陛下を悩ませている問題が何か、おわかりになりますか」
ファビウスの口調の変化に、テスがぴくりと身じろぎする。
「3年前、テリアス様が出奔されたあと、陛下はどれほど気落ちされ、悩まれたことか。レジオン殿下がどれほどご自身を責められたことか。陛下は私が手を貸したことに気づいておられましたが、一言も責められず、ただ『そこまで思いつめるとは思わず、放置しておいた私に非がある』と洩らされました。陛下は、私などよりずっと、あなたのご気性を理解しておいでになる。当時の私にはテリアス様が何を悩んでおられたのかがわかりませんでしたが、陛下はきっとお気づきになっておられたのでしょう」
「気づいて……?」
テスはひとりごちた。
「……まさか……」
「陛下にお会いなされませ、テリアス様。ネルヴァ族のセイファ様を愛され、テリアス様のご誕生を心よりお喜びになられた陛下なら、今のテリアス様を御覧になられても失望などなさいますまい。こう申しては不敬に当たるかもしれませぬが、陛下はレジオン様よりテリアス様を溺愛されておられた。王位はレジオン様にと決められたのも、それはむしろテリアス様のご気性やお体のことを考えて、いらぬ苦労をさせたくないとの親心。その陛下が3年も、あなたの生死を知るすべなく、後悔と心配でお苦しみ続けられた結果がこたびの病と言って間違いありますまい。今もっとも陛下に必要な薬は、テリアス様の無事なお姿でございましょう…!」
顔をそむけ、目を閉じて唇を噛みしめたテスの姿から、彼の苦悩と迷いが伝わってくる。エドは息を殺して自分の存在を消そうとつとめ、ファビウスもテスの答えを、鋭いまなざしで見つめながら忍耐強く待ち続けた。
「……会おう」
ファビウスがほっと表情を緩めた。それとは逆に、テスの表情は苦悩に満ちていた。
「陛下には、幾重にもお詫びせねばなるまい。申し上げねばならないこともある。このまま黙って行くよりは……」
「殿下」
ファビウスは身を乗り出す。
「あなたのご無事でのお帰りを願っておりましたのは陛下だけではありません。我々臣下一同も、心よりお祈り申し上げておりました。レジオン様は確かに王としての器を備えておいでですが、まだお若く未熟でもあり、欠点も多い御方。それを補佐し、支え、ときに叱ることができるのはテリアス様のみ。外見で殿下の能力を疑うような者は我が王府には不要。陛下が倒れられた今、ローディアは切実に殿下を必要としているのです」
かきくどくファビウスに、テスは心動かされた様子はなく、ぼんやりと呟いた。
「……レジオンにはそなたたちがついている。わたしなどがいなくとも大丈夫だ……」
「何をおっしゃいます。レジオン様は陛下よりも妃殿下よりもあなたをお慕いし、頼られておられた。あれ以来レジオン様はすっかり憔悴され、人が変わられたように打ち沈んでばかりおいでになる。テリアス様も、レジオン様をあんなにも慈しんでおられたではありませぬか。レジオン様にお会いになりたくはないのですか?」
「会いたいに決まっている!」
初めて、テスは感情も露わに声を荒げた。
「だが、会うことはできない……!会えるはずがない……っ。わたしは彼を裏切った。彼がそれを知れば、決してわたしを許すまい。彼に知られるくらいなら、いっそわたしは死んだと告げてくれた方がましだ…!!」
両手で顔を覆ったテスが、だが泣いてはいないことをエドは知っていた。夜中に膝をかかえ、じっと苦痛に耐えていたテス。彼には泣いて苦しみを吐き出すことさえできないのだ。
「……レジオンには会わぬ。会えば、彼はわたしの裏切りを知り、わたしを憎むだろう。わたしを側に置くことはない。……どのみち、わたしは王宮に戻ることはできないのだ……」
「テリアス様……」
ファビウスは、何かを察したらしかった。眉間にしわを寄せ、ひどく難しい顔をして、
「……他には知られぬよう、陛下のもとにお連れする段取りを整えましょう」
「……頼む」
「その前に、殿下のお小さい頃の服が私のところに保管してございますので、こちらに運ばせましょう。何か不足はございませんでしたか?」
「特には──」
振り返ったテスに、エドは小さく首を振った。
「──ないが……そうだ、剣を預けたときに研いでくれるよう頼んだのだが、その剣、そなたから借りたものだ。それで、謝らなくてはならないと思っていた」
「何をでございますか?」
「せっかくの名剣を、見事な細工の柄は売り飛ばしてしまった上、わたしの背に合わせて相当短く打ち直してしまった。すまなかった」
「そのようなこと」
ファビウスは破顔した。
「あれはテリアス様に差し上げたもの。お役に立ちましたのなら、それでよろしいのです。…ところで、剣を預けられたというのは、当家の者が要求したのでは?」
「気にするな。主人より家を預かる家令として当然のことだ。ましてこんな得体のしれない客ではな」
テスはようやく苦笑とはいえ笑みを見せた。
「こちらにはテリアス様のお顔を知らぬ者を急遽寄こしましたものですから、申し訳ございません。研ぎ上がりましたらすぐお返しするよう命じておきます」
「よい。ここにいる間は必要になることもあるまい」
「いえ、そのようなわけには……。おお、もうこんなに暗くなって。すっかり話し込んでしまいました。お食事の用意をさせましょう。私もご一緒したいのは山々ですが、今晩は会食の予定が入っておりますので、失礼させていただきます。明日は必ず、すべて断って是非ともお供させていただきます」
「右大臣ともあろうものが、感心しないな」
「かわいい孫が帰ってきたのですから、それくらいのことは大目に見てもらいませぬと」
椅子から立ち上がり、再びファビウスは床に片膝をついた。
「明日にはなんとかよいお知らせができるように致しましょう。今宵はゆっくりとおくつろぎくださいませ。では」
「そなたの忠心に感謝する」
ファビウスが退出してしまうと、不自然な沈黙が続いた。エドは何から訊いたらいいのか、訊かずに今まで通りにすべきなのか迷い、テスは眉を寄せてエドから目をそらしていた。
「……テス、あの……テリアス王子?」
「テスでいい」
不機嫌そうな返事がテスから返ってきた。
「お前との間に、国だの生まれだのそんなものはなかっただろう」
「そう…だけど」
確かに、互いに異世界の住人だということに比べれば、「身分違い」などたいした問題ではない気がした。
「確認したいんだけど……君は、俺より年上なのか?」
「そうだ。次の誕生日で25歳になる」
つまり、今23歳ということだった。この世界での1年が365日前後で──ということは、ここは「もう1つの地球」なのだと、それを知ったときに思った──、生まれたときを1歳と数えるほかは、誕生日ごとに年齢を増やしていくことに変わりはなかった。
「わたしも、20歳のときまでは普通に成長して、普通に成人した。だがある日、今まで着ていた服が大きく感じることに気づいた。それが単に痩せたわけではなく…身長が低くなっているせいだと気づき……信じられなかった。ネルヴァ族といえど、そんな例は一度も聞いたことはなかったからだ」
ネルヴァ族の血が何か関係あるのか、と訊き返す前にテスは淡々と続けた。
「ネルヴァ族がこの大陸の民と違うのは、特殊な能力だけではない。肉体的にも…大きな違いがある。わたしも……母の話や文献程度の知識しかないので、正確ではないかもしれないが、一族は、成人すると外見上は年をとらなくなる。体が再び時を刻むには……誰か…愛する相手と、精神的にも肉体的にも一体となる……結びつく経験が必要だという。ただ、そういう精神的な感応力を持っている一族同士でないと難しい。ほとんど不可能だ。…わたしが生まれたのは、奇跡に等しいと言われた。それに、一族以外と愛し合うことは、一族の掟で禁じられている。わたしの母だとて、最初は単なる…一族を保護してくれたローディア王への感謝と忠誠の証として、王に差し出されただけだ」
テスは皮肉な冷笑を浮かべた。
「いつまでも若く美しい妾としてな」
「……だけど、君のご両親は本当に愛し合って、それで君が生まれたんだろう?」
「……一族の掟を破って。ネルヴァ族は恋をし、心より愛し合わなければ死ぬまで若い姿のままだ。そのために昔は強欲な者に狩られ、美しい男女は売笑宿や権力者の奴隷として高値で売られた。だからこそ決して、金や権力で自分を買った者に心まで売らないことを誇りとしてきた。母は……父を愛しながら、いつもわたしに向かって泣きながら言ったものだ。自分は一族の掟を破り、誇りも汚した。一族の者は……自分の父も母も、決して自分を許してはくれないだろうと」
「そんなこと…!たとえどんな立場で出会おうと、心を自分の思い通りに動かすことなどできないよ……!」
言ってから、エドは胸の痛みを感じた。少年のテスと出会った自分は、彼が本当は大人だとも王子だとも知らなかった。自分が同性の、しかも少年を好きになるなんてことは、夢にも思わなかった。けれども、口では冷たいことを言いながら気を使いすぎるほど使ったり、感情を表に出さないのは逆に激情家なのを隠すためだったり、可愛らしいこどもの顔と艶めいた大人の表情が同居する彼に、どうしようもなく恋をしてしまった。生まれも、過去も、何者であるかも、「本当のこと」すら関係ない。彼らが彼らとして出会ったことが、すべてだ。
「……そうだな。お前の言うことは正しいとわたしも思う。だがわたしは、その掟がなぜあったのか、自分の体の変化を知ったとき、わかった気がした。……成人した姿のままでいるのなら、まだ何年かは自分自身をごまかすことはできただろう。しかし、体が退行し始めたことで、私は相手を愛しているつもりで本当は……自分でも疑っていたとおり、打算と欲望混じりの愛情でしかなかったことを思い知らされた。その上、どこまで戻るのか──15歳?10歳?それとも幼児まで?…そうなってしまったら、もし私が誰かを愛したところで、相手に愛されることなどあり得ない。家族や周囲の人々が人生を過ごしていくのに、わたしだけが誰にも顧みられずこどもの姿で取り残され……死んでいくのだと絶望し……そんな姿を誰にも……わたしに愛情を注いでくれる人には絶対に見られたくなくて、出て行くことを決めた」
苦しむことに疲れ切った感情を交えない口調で、テスは話し続けた。
「どこで野垂れ死んだってかまわないと自暴自棄になっていた。なのに……食料も尽きて無人の荒野で行き倒れかけて、このまま死んでしまえと思いながら、最後の最後でやはり立ち上がって歩き始める。無謀に野盗たちを挑発して斬り合いになっても、ぼろぼろになるまで必死で戦って生き延びようとする。結局……わたしはまだ生きることに未練たらたらで、あり得ない希望にみっともなくしがみついているのだと、気づかざるを得なかった。世間の水にも慣れて、生活することが楽になり、どうやら退行するのは止まったらしいと気づくまでのわたしは、相当荒んでいた。国を出て1年ぐらいの間だったか、その間にもしお前を見つけていたら、近寄りもせず見捨てて行ってしまったことだろうな」
話し終え、追憶を見ているのか遠い目のテスに、エドは何も言うことができなかった。抱きしめたかった。自分は今の君を愛していると言いたかった。君が生きていてくれて、そして出会えて良かったと伝えたかった。
だが、そのどれもできなかった。「お前は帰るんだ」とテスに拒まれたように、無責任に想いを伝えたり慰めたりはできない。それに、知らされた事実が彼の自信を失わせていた。テスは、以前に愛し合っていた恋人がいた。だから理由を明かさず姿を消した。その人を、今でも愛しているのだろうか?その人は今でも、テスを愛しているのだろうか?もし彼らが再会したら……その恋は終わるのだろうか。それとも再び始まるのだろうか?
やってきたのは、濃い緑の長いマントを肩からかけた、威厳と親しみを同時に感じさせる、背の高い、がっちりした体格の老人だった。
彼はまず、立って迎えた彼らのうちエドに目を留め、だがすぐに視線をずらしてその横のテスを見た。
彼の眉が寄せられ、テスを見つめる。エドはテスの手が固く握りしめられているのに気づいていた。強張った頬にも。
ファビウスの口がぽかんと開き、次いで目が見開かれる。
「まさか……」
彼はふらふらと2、3歩進んだかと思うと、力を失って膝をついてしまった。
「テリアス様……?まさか、まことにテリアス様で……?!」
「久しいな、ファビウス殿」
テスは苦いものの混じった笑みを口元に浮かべた。
「それともこの姿なら、昔のようにじい、と呼んだ方がよいか?」
「テリアス様……!」
ファビウスはまろびながらテスに駆け寄り、片膝をついてシャツの裾にすがりついた。
「なんというお姿に…!それでは、ようやく…ようやく合点がいきました。あのとき、国を出るか、それができねば自害するとまでおっしゃった訳が……!」
テスは涙ぐむファビウスの手をとった。
「3年前、そなたには迷惑をかけた。…ネルヴァ族の血は、わたしには特殊な影響をもたらしたらしい。わたしはそれを……どうしても知られたくなかった。今も、だ。ローディアに戻ってきたのは、ただ陛下のご病状を確かめたかっただけだ」
ファビウスの顔が厳しいものになる。
「王家にお戻りにならないおつもりですか!」
「こんなこどもが第一王子だと言って戻ったところで何になる?陛下を失望させるだけだ」
「……それは私には断じることはできませぬが……、そのことについては後ほどじっくりお話しいたしましょう。ところで殿下、こちらは?」
エドの頭の中では、1つの単語がぐるぐると回っていた。……第一王子?第二王子より年上の、第一王子が誰だって……?
「ああ、紹介しよう。事情があってここしばらく共に旅をしてきた、エドワード・ジョハンセン。わたしの命の恩人だ。大切な客人としてもてなしてほしい」
「おお、もちろん、テリアス様のご友人とあれば」
ファビウスは手を差し出した。
「テリアス殿下をお助けくださり、お礼申し上げます、エドワード殿」
エドは混乱を押し殺しつつその手を握り返した。
「とんでもない……助けられたのは俺の方です…」
「紹介が遅れてすまないな、エド。ファビウスはわたしの大叔父、つまり父方の祖母の弟にあたる」
難しい話を突っ込まれる前に、テスが助け舟を出した。簡単な日常会話以上になると、エドはお手上げになるからだ。
「とにかく……そなたがわたしだと判ってくれて助かった」
テスは椅子に腰かけ、手振りでファビウスにも座るよう示した。
「セイファ妃亡きあと、テリアス様をお育て申し上げたのはこの私でございますよ。わからぬはずはございません」
「だからこそわたしも、陛下と弟を除けばそなたを最も信頼している。……教えて欲しい、陛下のご容態はいかがなのだ?」
「殿下……」
ファビウスはちらりとエドに視線を走らせたが、テスが彼に席をはずさせるつもりがないと理解して続けた。
「2か月前、閣議の最中に陛下は意識を失い、倒れられました。医者の話では、心労と過労が積もって心臓が疲弊されたためとのことです。何より休養と…心労を取り除くことが大事かと」
テスはつらそうに額に手を当て、肘かけに寄りかかった。
「…ローディアを取り巻く環境は決して楽ではございませんが、陛下のお力により、国内外とも安定しております。大きな問題もここ数年起こってはおりません。それなのに陛下がお倒れになった……。陛下を悩ませている問題が何か、おわかりになりますか」
ファビウスの口調の変化に、テスがぴくりと身じろぎする。
「3年前、テリアス様が出奔されたあと、陛下はどれほど気落ちされ、悩まれたことか。レジオン殿下がどれほどご自身を責められたことか。陛下は私が手を貸したことに気づいておられましたが、一言も責められず、ただ『そこまで思いつめるとは思わず、放置しておいた私に非がある』と洩らされました。陛下は、私などよりずっと、あなたのご気性を理解しておいでになる。当時の私にはテリアス様が何を悩んでおられたのかがわかりませんでしたが、陛下はきっとお気づきになっておられたのでしょう」
「気づいて……?」
テスはひとりごちた。
「……まさか……」
「陛下にお会いなされませ、テリアス様。ネルヴァ族のセイファ様を愛され、テリアス様のご誕生を心よりお喜びになられた陛下なら、今のテリアス様を御覧になられても失望などなさいますまい。こう申しては不敬に当たるかもしれませぬが、陛下はレジオン様よりテリアス様を溺愛されておられた。王位はレジオン様にと決められたのも、それはむしろテリアス様のご気性やお体のことを考えて、いらぬ苦労をさせたくないとの親心。その陛下が3年も、あなたの生死を知るすべなく、後悔と心配でお苦しみ続けられた結果がこたびの病と言って間違いありますまい。今もっとも陛下に必要な薬は、テリアス様の無事なお姿でございましょう…!」
顔をそむけ、目を閉じて唇を噛みしめたテスの姿から、彼の苦悩と迷いが伝わってくる。エドは息を殺して自分の存在を消そうとつとめ、ファビウスもテスの答えを、鋭いまなざしで見つめながら忍耐強く待ち続けた。
「……会おう」
ファビウスがほっと表情を緩めた。それとは逆に、テスの表情は苦悩に満ちていた。
「陛下には、幾重にもお詫びせねばなるまい。申し上げねばならないこともある。このまま黙って行くよりは……」
「殿下」
ファビウスは身を乗り出す。
「あなたのご無事でのお帰りを願っておりましたのは陛下だけではありません。我々臣下一同も、心よりお祈り申し上げておりました。レジオン様は確かに王としての器を備えておいでですが、まだお若く未熟でもあり、欠点も多い御方。それを補佐し、支え、ときに叱ることができるのはテリアス様のみ。外見で殿下の能力を疑うような者は我が王府には不要。陛下が倒れられた今、ローディアは切実に殿下を必要としているのです」
かきくどくファビウスに、テスは心動かされた様子はなく、ぼんやりと呟いた。
「……レジオンにはそなたたちがついている。わたしなどがいなくとも大丈夫だ……」
「何をおっしゃいます。レジオン様は陛下よりも妃殿下よりもあなたをお慕いし、頼られておられた。あれ以来レジオン様はすっかり憔悴され、人が変わられたように打ち沈んでばかりおいでになる。テリアス様も、レジオン様をあんなにも慈しんでおられたではありませぬか。レジオン様にお会いになりたくはないのですか?」
「会いたいに決まっている!」
初めて、テスは感情も露わに声を荒げた。
「だが、会うことはできない……!会えるはずがない……っ。わたしは彼を裏切った。彼がそれを知れば、決してわたしを許すまい。彼に知られるくらいなら、いっそわたしは死んだと告げてくれた方がましだ…!!」
両手で顔を覆ったテスが、だが泣いてはいないことをエドは知っていた。夜中に膝をかかえ、じっと苦痛に耐えていたテス。彼には泣いて苦しみを吐き出すことさえできないのだ。
「……レジオンには会わぬ。会えば、彼はわたしの裏切りを知り、わたしを憎むだろう。わたしを側に置くことはない。……どのみち、わたしは王宮に戻ることはできないのだ……」
「テリアス様……」
ファビウスは、何かを察したらしかった。眉間にしわを寄せ、ひどく難しい顔をして、
「……他には知られぬよう、陛下のもとにお連れする段取りを整えましょう」
「……頼む」
「その前に、殿下のお小さい頃の服が私のところに保管してございますので、こちらに運ばせましょう。何か不足はございませんでしたか?」
「特には──」
振り返ったテスに、エドは小さく首を振った。
「──ないが……そうだ、剣を預けたときに研いでくれるよう頼んだのだが、その剣、そなたから借りたものだ。それで、謝らなくてはならないと思っていた」
「何をでございますか?」
「せっかくの名剣を、見事な細工の柄は売り飛ばしてしまった上、わたしの背に合わせて相当短く打ち直してしまった。すまなかった」
「そのようなこと」
ファビウスは破顔した。
「あれはテリアス様に差し上げたもの。お役に立ちましたのなら、それでよろしいのです。…ところで、剣を預けられたというのは、当家の者が要求したのでは?」
「気にするな。主人より家を預かる家令として当然のことだ。ましてこんな得体のしれない客ではな」
テスはようやく苦笑とはいえ笑みを見せた。
「こちらにはテリアス様のお顔を知らぬ者を急遽寄こしましたものですから、申し訳ございません。研ぎ上がりましたらすぐお返しするよう命じておきます」
「よい。ここにいる間は必要になることもあるまい」
「いえ、そのようなわけには……。おお、もうこんなに暗くなって。すっかり話し込んでしまいました。お食事の用意をさせましょう。私もご一緒したいのは山々ですが、今晩は会食の予定が入っておりますので、失礼させていただきます。明日は必ず、すべて断って是非ともお供させていただきます」
「右大臣ともあろうものが、感心しないな」
「かわいい孫が帰ってきたのですから、それくらいのことは大目に見てもらいませぬと」
椅子から立ち上がり、再びファビウスは床に片膝をついた。
「明日にはなんとかよいお知らせができるように致しましょう。今宵はゆっくりとおくつろぎくださいませ。では」
「そなたの忠心に感謝する」
ファビウスが退出してしまうと、不自然な沈黙が続いた。エドは何から訊いたらいいのか、訊かずに今まで通りにすべきなのか迷い、テスは眉を寄せてエドから目をそらしていた。
「……テス、あの……テリアス王子?」
「テスでいい」
不機嫌そうな返事がテスから返ってきた。
「お前との間に、国だの生まれだのそんなものはなかっただろう」
「そう…だけど」
確かに、互いに異世界の住人だということに比べれば、「身分違い」などたいした問題ではない気がした。
「確認したいんだけど……君は、俺より年上なのか?」
「そうだ。次の誕生日で25歳になる」
つまり、今23歳ということだった。この世界での1年が365日前後で──ということは、ここは「もう1つの地球」なのだと、それを知ったときに思った──、生まれたときを1歳と数えるほかは、誕生日ごとに年齢を増やしていくことに変わりはなかった。
「わたしも、20歳のときまでは普通に成長して、普通に成人した。だがある日、今まで着ていた服が大きく感じることに気づいた。それが単に痩せたわけではなく…身長が低くなっているせいだと気づき……信じられなかった。ネルヴァ族といえど、そんな例は一度も聞いたことはなかったからだ」
ネルヴァ族の血が何か関係あるのか、と訊き返す前にテスは淡々と続けた。
「ネルヴァ族がこの大陸の民と違うのは、特殊な能力だけではない。肉体的にも…大きな違いがある。わたしも……母の話や文献程度の知識しかないので、正確ではないかもしれないが、一族は、成人すると外見上は年をとらなくなる。体が再び時を刻むには……誰か…愛する相手と、精神的にも肉体的にも一体となる……結びつく経験が必要だという。ただ、そういう精神的な感応力を持っている一族同士でないと難しい。ほとんど不可能だ。…わたしが生まれたのは、奇跡に等しいと言われた。それに、一族以外と愛し合うことは、一族の掟で禁じられている。わたしの母だとて、最初は単なる…一族を保護してくれたローディア王への感謝と忠誠の証として、王に差し出されただけだ」
テスは皮肉な冷笑を浮かべた。
「いつまでも若く美しい妾としてな」
「……だけど、君のご両親は本当に愛し合って、それで君が生まれたんだろう?」
「……一族の掟を破って。ネルヴァ族は恋をし、心より愛し合わなければ死ぬまで若い姿のままだ。そのために昔は強欲な者に狩られ、美しい男女は売笑宿や権力者の奴隷として高値で売られた。だからこそ決して、金や権力で自分を買った者に心まで売らないことを誇りとしてきた。母は……父を愛しながら、いつもわたしに向かって泣きながら言ったものだ。自分は一族の掟を破り、誇りも汚した。一族の者は……自分の父も母も、決して自分を許してはくれないだろうと」
「そんなこと…!たとえどんな立場で出会おうと、心を自分の思い通りに動かすことなどできないよ……!」
言ってから、エドは胸の痛みを感じた。少年のテスと出会った自分は、彼が本当は大人だとも王子だとも知らなかった。自分が同性の、しかも少年を好きになるなんてことは、夢にも思わなかった。けれども、口では冷たいことを言いながら気を使いすぎるほど使ったり、感情を表に出さないのは逆に激情家なのを隠すためだったり、可愛らしいこどもの顔と艶めいた大人の表情が同居する彼に、どうしようもなく恋をしてしまった。生まれも、過去も、何者であるかも、「本当のこと」すら関係ない。彼らが彼らとして出会ったことが、すべてだ。
「……そうだな。お前の言うことは正しいとわたしも思う。だがわたしは、その掟がなぜあったのか、自分の体の変化を知ったとき、わかった気がした。……成人した姿のままでいるのなら、まだ何年かは自分自身をごまかすことはできただろう。しかし、体が退行し始めたことで、私は相手を愛しているつもりで本当は……自分でも疑っていたとおり、打算と欲望混じりの愛情でしかなかったことを思い知らされた。その上、どこまで戻るのか──15歳?10歳?それとも幼児まで?…そうなってしまったら、もし私が誰かを愛したところで、相手に愛されることなどあり得ない。家族や周囲の人々が人生を過ごしていくのに、わたしだけが誰にも顧みられずこどもの姿で取り残され……死んでいくのだと絶望し……そんな姿を誰にも……わたしに愛情を注いでくれる人には絶対に見られたくなくて、出て行くことを決めた」
苦しむことに疲れ切った感情を交えない口調で、テスは話し続けた。
「どこで野垂れ死んだってかまわないと自暴自棄になっていた。なのに……食料も尽きて無人の荒野で行き倒れかけて、このまま死んでしまえと思いながら、最後の最後でやはり立ち上がって歩き始める。無謀に野盗たちを挑発して斬り合いになっても、ぼろぼろになるまで必死で戦って生き延びようとする。結局……わたしはまだ生きることに未練たらたらで、あり得ない希望にみっともなくしがみついているのだと、気づかざるを得なかった。世間の水にも慣れて、生活することが楽になり、どうやら退行するのは止まったらしいと気づくまでのわたしは、相当荒んでいた。国を出て1年ぐらいの間だったか、その間にもしお前を見つけていたら、近寄りもせず見捨てて行ってしまったことだろうな」
話し終え、追憶を見ているのか遠い目のテスに、エドは何も言うことができなかった。抱きしめたかった。自分は今の君を愛していると言いたかった。君が生きていてくれて、そして出会えて良かったと伝えたかった。
だが、そのどれもできなかった。「お前は帰るんだ」とテスに拒まれたように、無責任に想いを伝えたり慰めたりはできない。それに、知らされた事実が彼の自信を失わせていた。テスは、以前に愛し合っていた恋人がいた。だから理由を明かさず姿を消した。その人を、今でも愛しているのだろうか?その人は今でも、テスを愛しているのだろうか?もし彼らが再会したら……その恋は終わるのだろうか。それとも再び始まるのだろうか?