普段メールだけでのやり取りしかないが、親しく感じている相手と初めて面と向かう時というのは妙な気分がする。
人と人との関係の持ち方は技術や文化の影響を受けながら変化するものだと思う。しかし、生き物として外部の存在と交渉を持つ、基本的な関係性のありようは大きく変わらないのではないだろうか。
意識するとしないとにかかわらず、我々は自他を識別している。国家が領土・領海・領空を持つように、個人も物理的・心理的な領域を有している。個人の場合は国家のような明確な線引きはなく、時と場合と状況によって「自己」という認識の領域が変化するが、他者をどこまで受け容れるかということは「自己」の存亡に関わる一大事であり、あらゆる感覚を用いてあらゆる尺度から相手との距離を計っている、はずである。
電話だけ、メールだけで知り合った相手と初めて対面したとき、そこには、それまでに築き上げた相手のイメージというものがあり、良くも悪くもそのイメージはダメージを受ける。その感覚を「妙」と感じるのかもしれない。
しかし、もともとのイメージを形成するのに収集蓄積した無数の情報に、対面による新たな、しかも莫大な情報が追加されることになるので、基礎のイメージが好ましいものであれば、対面することは、それをさらに好ましくするような作用を引き起こすことになりやすいのではないだろうか。
今日、メールだけで一緒に仕事をしている相手と初めて対面して、そのようなことを考えた。
人と人との関係の持ち方は技術や文化の影響を受けながら変化するものだと思う。しかし、生き物として外部の存在と交渉を持つ、基本的な関係性のありようは大きく変わらないのではないだろうか。
意識するとしないとにかかわらず、我々は自他を識別している。国家が領土・領海・領空を持つように、個人も物理的・心理的な領域を有している。個人の場合は国家のような明確な線引きはなく、時と場合と状況によって「自己」という認識の領域が変化するが、他者をどこまで受け容れるかということは「自己」の存亡に関わる一大事であり、あらゆる感覚を用いてあらゆる尺度から相手との距離を計っている、はずである。
電話だけ、メールだけで知り合った相手と初めて対面したとき、そこには、それまでに築き上げた相手のイメージというものがあり、良くも悪くもそのイメージはダメージを受ける。その感覚を「妙」と感じるのかもしれない。
しかし、もともとのイメージを形成するのに収集蓄積した無数の情報に、対面による新たな、しかも莫大な情報が追加されることになるので、基礎のイメージが好ましいものであれば、対面することは、それをさらに好ましくするような作用を引き起こすことになりやすいのではないだろうか。
今日、メールだけで一緒に仕事をしている相手と初めて対面して、そのようなことを考えた。