熊本熊的日常

日常生活についての雑記

修道僧か囚人か

2008年03月30日 | Weblog
昨年9月に職場を変え、居住地もロンドンへ移した。以来、良く言えば修道僧のような、悪く言えば囚人のような日々を過ごしている。その所為か、健康に恵まれたいへん結構なことである。

朝は6時半から7時の間に起床する。パジャマ代わりのスエットから部屋着代わりのスエットに着替え、前の晩に洗って水を切った食器類を片付ける。やはり前の晩に使用して、毛髪や垢で汚れた浴槽を軽く掃除する。トイレで用を足し、ひげを剃った後、自己流の体操で身体をほぐす。そして朝食の仕度を始める。朝食の中身は毎日ほぼ同じである。冷凍庫からコーヒー豆を出し、20グラムほど計って、ハンドピックをし、粉に挽く。湯を沸かし、ベーグルをトーストする。シリアルを準備し、湯が沸いたらコーヒーを淹れる。リンゴの皮を剥く。食事が終われば、後片付けをし、歯を磨き、出勤の準備をする。メールのチェックをして、8時45分頃に家を出る。最寄りの地下鉄の駅まで徒歩約30分。地下鉄に乗っている時間は約3分。駅構内を歩いたり、電車を待ったり、職場のあるビルのなかを移動したりする時間もあるので、職場の自分の席に着くのは9時半頃になる。

職場では、まずパソコンを立ち上げ、仕事を始める。途中、昼時に手の空いた頃を見計らって食事を買いに階下の社員食堂へ行き、買って来たものを自分の席で食べながら仕事の続きをする。仕事は単調だ。多少の技が要求される局面が無いことも無いが、総じて単純作業の繰り返しである。午後5時から6時の間に仕事を終え、出勤とは逆の経路で帰宅する。途中、スーパーに立ち寄り、その日の夕食の食材を調達する。

帰宅するのは、職場を出て約1時間後だ。部屋着に着替え、夕食の仕度をし、食べ、後片付けをする。パソコンを開き、家計簿をつけ、メールをチェックする。そのままうだうだとネットを眺めていることもあれば、本や雑誌を読んだり、資格試験の勉強をすることもある。つい、うとうとしてしまうことも多い。午後11時頃にはシャワーを浴び、再び本や雑誌を読み、午前1時から2時の間に就寝する。

こんな毎日の繰り返しである。尤も、同じことの繰り返しが、必ずしも退屈ということではない。「同じこと」と書いたが、毎日の暮らしのなかで、同じことなど何も無い。日々刻々何かしら変化がある。天候、体調、気分、通勤途上で通りかかる工事現場の進捗、ガスタンクの高さ、草木の芽吹き、上空を行き交う航空機の飛行コース、その他諸々。同じことを繰り返していると、同じことが無いことに気付くのである。自分自身も変化しているということだ。修道僧の修行や囚人の懲役の意味が少し見えた気がする。

娘へのメール 先週のまとめ

2008年03月30日 | Weblog

お元気ですか? パソコンやカメラは毎日いじって、使いこなせるようにしましょう。カメラバックは応募しましたか? あれは便利だと思いますよ。

東京は、もう桜が盛りを過ぎようとしているようですが、こちらは、なかなか春らしい気候にはなりません。それでも、今日からサマータイムが始まりました。日本との時差は9時間から8時間へ、1時間だけ縮まります。

休暇開け、最初の週は長く感じられました。こちらはイースターの休暇を楽しむ人が多く、職場は普段に比べると人が少なく感じられます。水曜日にロンドン勤務の日本人の集まりがあり、久しぶりに大勢で食卓を囲むという場に出かけてきました。ロンドンの社員数は約1万2千人ほどですが、そのなかで日本人はわずかに20数名です。そのうち日本語に堪能な中国人1人を含む9名が参加しました。話題は専ら現在準備中と見られるリストラ第二弾のことでした。9人の所属がばらばらなので、様々な部署での様子が伝えられますが、どこも悲惨な状況のようです。今月末発表説、というのがあったので、東京の同僚に、そんな話題があるようだけど、と、メールを出してみたところ、東京では5月9日説が流れているとのことでした。こんな陰気な時期こそ、投資には絶好の機会と、私の眼には映るのですが、先立つものが無いので残念な気分です。

先週は、東京で買った、青柳恵介「柳孝 骨董一代」(新潮社)を読みました。これは芸術新潮という月刊誌に連載されていた京都の古美術商、柳孝氏と彼が扱った名品と呼ばれる品々とのかかわりについてのエッセイをまとめたものです。写真が美しく、文章も読みやすいので、どこを開いても楽しく読むこと
ができます。今回の休暇の間、出光美術館で西行の墨跡を観たり、たまたま通りかかった骨董市をのぞいたり、益子を訪ねたりしましたが、骨董の世界というのはとても面白いものです。

どんなものであれ、物にはそれぞれの来歴というものがあります。そうした時空の蓄積の上に、目の前の物が存在しているのですが、そこにどような価値を見出すかは、見る人次第です。勿論、来歴が明確で、市場での評価が固まっているものなら、その価値は市場価格によって表現されます。しかし、一見して
価値が分かる物というのはむしろ稀で、骨董あるいは古美術と呼ばれるものの殆どは、単なるがガラクタと見分けがつかないものです。そこに、人の世界のいろいろな不思議が見えるような気がするのです。同じ来歴の茶碗でも、誰の所有物であったかによって、価値が違ってしまったり、作者の評価が変わるこ
とで、その作品の評価が変わってしまうことも当たり前です。物の美しさとか価値というものは、絶対的なものではなく、我々の社会のなかの関係性の上に成り立っているということがよく見えてきます。ようするに、物理的に明確な存在であるはずの物ですら、その価値に絶対的というものはなく、人の世界と
の関わりのなかでのみ位置づけられるということです。とすると、美しい、ということはなんと儚いことなのかと思わずにはいられません。おそらく、人の感性という個人的なものであるように見えるものも、関係性によって外部から規定されているのかもしれません。「私」というのは実在ではなくバーチャル
リアリティのようなものなのでしょう。

もうすぐ新学期が始まりますね。2年生の学習内容は1年生のものよりかなり難易度が高くなるはずです。しっかり勉強して下さい。そして、ものの価値をきちんと見分けることができるような人になってください。

カードを送ろうと思い、カードを買ったのですが、まだ書いていません。パソコンのことを書くつもりでいます。もう少し待ってください。

では、また来週。