熊本熊的日常

日常生活についての雑記

風評

2014年05月11日 | Weblog

或る人気漫画に原発事故に関連した記述があり、それがその地域に「風評被害」をもたらす可能性があるとして問題になっているらしい。「絶対安全」と言われていた原発がいちどに3基も爆発し、「日本では考えられない」と言われていたメルトダウンを起こした。事故発生に至ることはともかく、事故後の対応が今まさに問われている。ここでまず明らかにしないといけないのは現状がどうなっているかということだろう。現状認識なくして対応策はあり得ない。厄介なのは現状を認識できる状況にないということだ。放射性物質などによる汚染で3年以上経ても現場や周辺で何が起こっているのか誰にもわからないということだ。

最近、気になることがあって高木仁三郎の著書を何冊か読んだ。特定の個人の見解を鵜呑みにするわけではないが、書いてあることは素直に納得できる内容だった。特に衝撃的だったのは、自然界が原子の安定性の上に成り立っているものであるのに対し、原子核の安定性を崩すことでエネルギーを取り出すのが原子力の考え方であるということだ。それは単に核爆発という目に見える形でのエネルギーの発散ということだけでなく、生物体を構成するタンパク質、もっと根源的には細胞のなかにある細胞核や遺伝子、遺伝子を構成する物質にまで遡ったところの化学物質の結合が、放射線によって破壊されたり作りかえられたりするところに核の恐ろしさがあるということなのである。

よく農産物や魚介類の「放射能検査」というような言葉を見聞するが、「放射能」の意味するところが明確でないものにしかお目にかからない。核エネルギーによって生物を構成する化学物質に影響が出るが、具体的にどのような影響が出るのかが未知であるにもかかわらず「検査」によって「安全」とされてしまうことに恐怖を覚える。広島や長崎の被爆、第五福竜丸の被爆、JCO事故など日本は被爆による人体被害の件数は世界の他のどの国よりも多く、放射能への対応の経験はそれだけ余計に積んでいるはずだ。それでもこれまで経験したことのない規模の原子力発電所事故の影響を軽々に「検査」したり、その結果に「安全」という評価を下したりすることができるものなのだろうか?

個人的な経験では、2001年9月に六ヶ所村の核燃料再処理工場の建設現場や核廃棄物の貯蔵施設を見学したときのことが思い出される。当時の取材ノートは今は手元にないので詳細の記憶は無いのだが、今でも印象に残っているのは、「高濃度」の核廃棄物といえどもガラスで固めて厚さ40センチだかのステンレス容器に収めて地下に埋めるという「処理」方法しかないということだ。原子炉の燃料消費というものがどれほどのものか知らないが、原子炉を運転すれば時間の経過とともに発生するのは必至である。つまり増え続けることが明らかなのである。それを安全な状態にするという技術は現時点ではなく、地中に埋めるよりほかにどうしようもないというのである。その六ヶ所村の施設が満杯になればどうするのか、ということは将来のことは未来の人たちに託す、と言えば聞こえはよいが、「ま、なんとかしてくれるんじゃないの」ということで原子力の利用は進行しているのである。現状の原子力に関する技術水準というのはその程度でしかということだ。あれから10年後に地震とそれに伴う津波により原子力発電所の原子炉が電源を喪失して炉心溶融という「想定外」の事故を発生することになった。

「風評被害」というものがほんとうに「風評」による被害なのか、検証したものがあるのならそれを公開するべきなのではないか。災害の復興は成されなければならない。しかし、復興のためなら多少の危険は広く共有しろ、という論理がまかり通る社会は果たして健全と言えるだろうか。