西岡常一の『木に学べ』を読んだのは何年前のことだっただろうか。新聞の書評欄で紹介されていたのを読んで買ったので、発行直後のことだとすると1988年ということになる。いろいろ心に響く言葉もあったはずだが、手元に置いておこうとは思わず、Amazonのマーケットプレイスで売ってしまった。あれから四半世紀を経て新潮文庫版の『木のいのち木のこころ <天・地・人>』を今日読了した。これを読んで『木に学べ』はクレジットとしては西岡常一著なのだが実体は塩野米松による聞き書きだということを知った。『木のいのち木のこころ』も塩野の手になるものである。本人の言葉で書いてあるが、単に取材するだけでこれだけのものは書けないだろう。本人の言葉を引き出すだけの本人との信頼関係があればこそ、これだけの作品をまとめることができるのだろう。本の内容もさることながら、その聞き書きの仕事ぶりに感心してしまった。
ところで、たまたま先日、雑誌『ジャパニスト』に連載されていた菅野さんの記事が最終回を迎えた。また、その連載をまとめた『SHOKUNIN』という本も刊行された。それらに書かれていることは菅野さんご本人から直接伺ったことばかりなのだが、最終回の記事のなかで改めて印象に残っているのは、菅野さんの工場では昼飯を工場で働く人たち全員で集まって食べることにしているということだった。私も何年か前にその昼食に混ぜていただいたことがあったが、それは特に変わったところのない風景のように感じられた。しかし、そういう一見したところ仕事とは関係のないところで同じ時間や空気を共にするということが物事を理解し合い、伝え合うには大事なことなのである。これもたまたま最近読んだ本のなかに『能はこんなに面白い!』という能と武術についてのものがあって、技とか芸を伝承するのには生活を共にするより他に方法がない、ということが書かれていた。『木のいのち木のこころ』にも似たような記述がある。
人の本当の技というものは言葉だけでは伝わらないのである。言葉に縛られることで伝わるはずのものが伝わらないということだってあるかもしれない。何百年何千年という時を超えて伝わる類の仕事の要となることは、マニュアルや文献やデータに拠るのではなく、作られたモノ残されたモノそのものが雄弁に語っているはずだ。モノが語っていることを受け取り再現してみせることができるのが職人というものだ。出来上がったモノを見て、それを作った技の背後にある考え方まで読み取ることができてこその職人なのである。そのためには、技の背後にある共通感覚を体得しなければならず、それには生活という経験を共有するよりほかにどうしようもないのだろう。人は経験を超えて発想をすることはできないのである。感覚という漠然とした下地があって、そこに経験を重ねるなかで世界観が形成され、世界観を背景に行動に対する意志が醸成され、意志の下に行為が繰り返されていく。そうやって技能とか勘といったものが培われていくのではないか。だから技能の伝承には、生活を共にするという経験の共有が不可欠なのだろう。
ところが今は徒弟制とか内弟子といったことがなくなってしまった。労働基準法のような制度による規制もあるだろうし、共同生活を忌避する風潮も強くなっているような気がする。社会全体が個別化孤独化へ向かっているように感じられる。働く仲間が食事を共にするとか、せいぜい数年間だけ師匠や親方のところに住み込みをするのが精一杯なのだろう。
技能や動作を解析してデータ化して精密な機械で再現すれば似たようなものを作ることができるかもしれない。しかし、それはあくまでも似たようなものであって、その技に込められた魂のようなもの、技の裏にある哲学のようなものまでをも果たして再現できるのだろうか。再現できないから伝統工芸や職人技は失われいくのである。