熊本熊的日常

日常生活についての雑記

Jヴィレッジ

2016年06月26日 | Weblog

喉元過ぎれば熱さを忘れる、という。福島の原発事故の後片付けは終わっていないのだが、原発のことも、その事故で復興が進まない被災地のことも今はもう話題になっていない。もうすぐ参院選だが、おそらく選挙でも福島のことや原発のことが論点にはならないだろう。それでも、例えば食料品を買うときに、我々は「福島産」を謳ったものを積極的に手にするだろうか?大切な人への贈り物に「福島産」のものを選ぶだろうか?福島は依然として多くの人々の記憶に棘のように刺さったままではないだろうか。

大学時代の友人が福島の原発で働いている。今年の彼からの年賀状に「あそびに来ませんか」と書いてあった。挨拶の一部だろうとは思ったのだが、「是非、あそびにいきます」と返事に書いたら「いつ?」というメールが来た。そのメールが2月か3月頃のことだったが、彼の息子が大学受験で自分だけ遊んでいるわけにもいかないとのことで、5月の連休を過ぎたあたりということになった。無事、息子の大学受験も終わったのだが、今度は彼の父親が入る予定の老人ホームを決めなくてはならず、あちこち見学にまわるとのことで延期になった。この調子では結局行かないことになるかなと思っていたら、彼からホテルの予約を取ったと連絡が来て、昨日いわきにやってきた。昨夜はいわきの駅前にある居酒屋で一献傾け、今日午前8時過ぎに広野駅で待ち合わせということになった。

今、JR常磐線は東京から竜田まで営業している。竜田から原ノ町まではバスによる代行輸送で、原ノ町から相馬までは営業、相馬から浜吉田までがバス、浜吉田から仙台までが営業という状況だ。不通区間も帰宅困難区域の縮小に伴い、少しずつ営業を再開し、2020年には全線復旧するらしい。2020年は東京オリンピックが開催されるが、1964年のオリンピックが戦後復興の総決算的な意味合いを帯びていたことを彷彿とさせる。個人的にはスポーツというものへの関心が薄いこともあって、オリンピックというものへの関心も今ひとつなのだが、やはり政治的な色合いが濃厚に感じられるイベントであることには違いないようだ。

日曜の朝の広野駅には思った以上の乗降客がいた。なんということのない田舎の駅なのに、タクシーが5台も客待ちをしていた。後で聞いたところでは原発関係の人たちが頻繁に往来しているらしい。日曜だろうが平日だろうが放射能は止まることを知らないので廃炉作業も止まることなく進行しなければならないということもあるだろうし、例の2020年までには事故処理にカッコがつかないといけないという事情もあるのだろう。広野駅の下りホームには童謡『汽車』の歌碑がある。このあたりがこの童謡に歌われている、という説があるのだそうだ。

広野駅には友人が軽自動車で迎えに来てくれていた。その車でまずはJヴィレッジへ行く。福島第一原発内に入退域管理施設が完成した2013年7月まではここが事故処理作業への人員の送迎拠点だった。今でも雨天練習場だった場所に身体内部の被曝状況を測定するWBCが設置されている。ここには11面のサッカーピッチがあったのだが、全てが駐車場や資材置き場になっている。本来の建物のほかに、敷地内にはプレハブがいくつも建ち、作業着姿の人たちが往来している。建物からはピッチとその向こう側に広がる海が一望できる。作業の人たちが往来していたり、ロビーのようなところにあるテーブルで打ち合わせのようなことをしていたりするが、それでもずいぶん落ち着いた様子だ。2020年のオリンピックではキャンプ地として本来の用途に戻ることになっている。今、施設の原状回復へ向け除染作業が始まったところだそうだ。

1989年の夏、ドイツ(当時は西ドイツ)南部、ダッハウの強制収容所跡を訪れた。そこがどのような場所であったのか知識としては持っていたのだが、抜けるような青空の下、長閑な気分になってしまった。かつての管理棟には収容所当時の様子を伝える展示やパネルが多数並んでいたはずなのに、殺された人々が身につけていたメガネの山や靴の山、人の皮膚で作った電気スタンドの傘、人体実験の写真、そんな諸々に衝撃を受けないはずはなかったのに、管理棟を出てかつて住居棟であるバラックが並んでいたはずの広場を前にしたとき、なんだかとてもほっとしたのを覚えている。そのときも今日のような好天だった。

Jヴィレッジの入口には「構内撮影禁止」という看板があったが、撮影されてまずいものが何なのか、素人目にはわからない。

Jヴィレッジを出て天神岬に行く。ここは楢葉町で昨年9月にようやく避難指示が解除された。Jヴィレッジは楢葉町と広野町に跨る形で立地しており、福島第二原発は楢葉町と富岡町に跨り、第一原発は双葉町と大熊町に跨っている。原発やそれに関連する施設が複数の自治体に跨るように立地しているのは、施設による税収や補助金の恩恵が特定の自治体に集中するのではなしになるべく広く行き渡るようにするとの配慮によるらしい。なるほど地図を見ると自治体の合併でいわき市や南相馬市は市域が大きいのに対し、これら二つの自治体に挟まれている広野町、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町は妙に小ぶりだ。双葉町と南相馬市の間にある浪江町はそこそこに大きい。自治体の合併が行政コスト低減を目的のひとつとしていることを考えると、これらの町にはそういうインセンティブが働いていないと見ることもできる。なぜかといえば原発による恩恵があったからだろう。妻の実家がある新潟県柏崎市にも原発があるが、これも柏崎市と刈羽村に跨っている。柏崎市は周辺の自治体を吸収するように大きくなったが、刈羽村が飛び地のように残っているのは同様の事情によるらしい。

天神岬は海抜30メートルほどの高台にある。ここから広野火力やJヴィレッジがある方向を望むと、かつて田圃であったと思しきところに黒い樹脂製シートの塊が無数に積み上げられていて、一部はその積み上げられたものが青や緑のシートで覆われているのが一望できる。除染で削り取られた表土や廃棄物だ。中間貯蔵施設が完成すれば、そこに収容されることになっているらしいが、あのような事故の後に原発関連の施設を新規に受け容れる自治体が果たして現れるのだろうか。仮に自治体として受け容れることになったとしても、土地を提供する人はいるのだろうか。勿論、条件にもよるのだろうが、案内してくれた友人によると、そもそも土地の所有者がわかない土地がたくさんあるのだという。登記簿上には所有者がいても、相続を何代か経ることで所有しているはずの人がこの世にいなかったり、その相続がうやむやになっていたりすることが驚くほど多いのだそうだ。高齢多死社会の現実である。

Jヴィレッジから天神岬に至る道路やその周辺の風景は、一見したところ変わったところはない。しかし、よく見ると明らかに放置された家屋がいくつもある。きれいに手入れされている家屋のほうが少ない。田畑も総じて荒れたままだが、作付けを再開したところが皆無というわけではない。避難指示が解除されたとはいいながら、そこに元どおりの生活が成り立つとは思えない。一体何を生業にするのだろう。今回案内してくれている友人は楢葉町にある社宅で暮らしている。昼間はまだ普通の田舎のように見えないこともないが、夜は漆黒の闇だそうだ。昨年、避難指示が解除された後も生活の基盤は避難先にあるままで、昼間だけ自宅に戻って土地建物の修復を行っているのだという。そうなると物騒だ。実際に空き巣被害も発生している。しかしそのまま放置しておくと復興に差し障りが出る。そこで警察の巡回が強化されている。案内の友人も職務質問を受けたことがあるという。彼の車は他県ナンバーなので、カーオーディオの操作などで路肩に一時停止をした折などにどこからともなく巡回中の警官がやってくるのだそうだ。福島の原発被害地域は、おそらく東京オリンピックのときに改めて世界から注目されることになる。そのときに今の姿のままというわけにはいかないのである。残された時間はあと4年。原発の廃炉作業が完了するとは思えないが、少なくとも周辺地域を何事もなかったかのように取り繕う作業は急速に進展するのだろう。事実、いわきから原発周辺にかけて宿泊施設はそうした作業関係者でどこもフル稼働だ。既存のホテルや旅館に加えてプレハブで急遽こしらえた簡易宿泊施設も次々と稼働しているそうだ。

天神岬から国道6号線に出ていわき市にある願成寺白水阿弥陀堂を目指す。途中、天神岬から見えていた巨大な建物に立ち寄る。楢葉遠隔技術開発センターというもので、ここには原寸大の原子炉のモックアップがあり、溶解した核燃料の回収技術を開発するための施設だそうだ。実際に作業を計画するのは原子炉メーカーだが、日立にしろ東芝にしろ、そういう施設は自社内にあるのでこのセンターの稼働率は低いままだそうだ。メーカーには利用を呼びかけているのだが反応はいまひとつらしい。

国道から遠隔技術開発センターへの途中、古い飛行機が並んでいるところがあった。車を停めて近づいてみると「OLD CAR CENTER」という大きな看板が出ており、大きな倉庫のような建物の周囲に自衛隊の古い飛行機や、飛行機の一部が並んでいる。開館は土日祝日のみとあり、今日は日曜なので中に入ることにした。受付には誰もいなかったが、奥の展示スペースのほうから男性が走ってきた。入場料は大人900円だが、JAFの割引があり、800円になった。倉庫のような建物には磨き上げられたクラッシックカーがびっしり並んでいる。ところどころにヘリコプターもある。不思議な空間だ。この施設についてはウエッブサイトを見てもらうとして、私にとってはとにかく愉快な場所だった。受付の男性はここの主人らしく、思い浮かぶ疑問をいろいろ尋ねてみると、楽しそうに語るのである。人が楽しそうにしているのを見るのは愉快なことである。本業は建築工事の設計と監理で、この「博物館」はオーナーの趣味だという。趣味にしては大掛かりだが、このくらいやらないと趣味とは言えないかもしれない。私は自動車のことには疎いのだが、20世紀前半の車は今のものよりはるかに美しいと思う。展示物は外の飛行機と中の自動車の他に、建物の2階に飛行機と船の模型が並んでいる。模型はどれも特注品で、縮尺の大小は様々だがどれも精巧なものばかりだ。飛行機の模型展示ではライト兄弟から宇宙ロケットまで、その歴史が俯瞰できるようになっている。ここの展示物は先の地震と原発事故でかなり被害を受けたとのことだが、今年4月にこうして展示再開にこぎつけている。展示すること自体はここのオーナーの勝手でしかないのだが、蒐集したものを公開することで蒐集がより大きな意味をもつことになる。大勢の見学客を集める類の場所ではないかもしれないが、蒐集者の道楽でしかなかったものが震災による被害を克服してかつてと同じ姿を復活させるということが持つ意義の深さは計り知れないと思う。残念ながら蒐集した本人は復活を前に亡くなったが、その意志を受け継いで関係者が復活させたということもまた大きな値打ちだと思う。コレクションというものは個々の収集品の価値もさることながら、集めた人の精神にこそ価値があると思う。思いがけず良いものを見せて頂いた。

ここから国道6号線を南下して願成寺白泉阿弥陀堂を訪れる。ここの御堂は県内唯一の国宝だ。典型的な浄土庭園で周辺の民間所有地を含めて国指定の史跡である。ここも震災の被害を受けたが震災翌年7月に拝観を再開している。

震災原発事故の復旧拠点に始まり、現地所縁の阿弥陀堂で今回の訪問を終え、いわき駅前で友人と別れて帰路に就いた。一泊とはいえ、わずかに実質1日の訪問であったが、自分にとっては濃厚な時間を過ごすことになった。声をかけてくれた友人をはじめ、今この場の日常を取り戻そうと真摯に日々を過ごしている人々に感謝したい。