熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2016年6月

2016年06月30日 | Weblog

1 柳家喜多八、三遊亭歌武蔵、柳家喬太郎 『落語教育委員会』 東京書籍

喜多八のサイン本。2012年の秋に博品館での独演会に出かけた折に会場で購入。買ってすぐに読んだときはそれほど面白いとも思わなかったのだが、こうして読み返してみると自分の琴線に触れる言葉に溢れている。

本の元になっているのは鼎談。歌武蔵が司会役だが、アンカーマンは喜多八という感じ。芸とは何か、芸人とは何者か、という意識が三人それぞれに強く持っていて、そこを背景にした言葉の往来が楽しい。「売れたい」と言いながら、己に対する評価の軸はそんなセコなところにはないことがよくわかる。喬太郎が好きな噺として「替り目」を挙げていたが、物事の本質は瞬間とか断面といったものに凝縮されているのかもしれない。また、或る会話とか行為からその背景を読み解くのが感性とか知性というもので、細々と伏線を張って喧しく説明しないとわからないというのでは生きていてもしょうがないだろう。近頃はその生きていてもしょうがないようなものが多くなったような気がする。

 

2 高田里惠子 『文学部をめぐる病い 教養主義・ナチス・旧制高校』 松籟社

『打ちのめされるようなすごい本』の一冊。著者はあとがきのなかで「本書を読みながら、何回かは、思わず吹きだしてしまうはずである。」と書いているのだが、私は一回も笑うことができなかった。それはおそらく、人間というものに対するイメージが著者と私とで大きく異なるからだろう。本書で描写されているのは哲学を持たず時勢に迎合して権力や世相に擦り寄る「知識人」の矮小さである。それを笑うことができるのは矮小ではない人だ。この本を紹介している米原の文章を少し長くなるが以下に引いておく。

「積極的な軍国主義者ではない、むしろ気弱な小市民に過ぎないのに無自覚のまま戦争に加担していった彼らの精神世界を、病的と断じる著者は、そこに旧制高校文化とも言える教養主義(ドイツから借用)を見る。それが、「強者への擦り寄りを隠蔽し、自分自身をアウトサイダーや批判者と見なしてしまう朗らかさ」を彼らにもたらした、と。この意地悪な視点から分析されると、『ビルマの竪琴』も『車輪の下』も『きけ わだつみのこえ』も中野孝次の連作自伝小説も、情けなく矮小に見えてきて吹き出してしまうのだが、次の瞬間、胸に手を当てている自分がいる。全体として日本的精神の近代史にも、現代日本人の心性を映す鏡にもなっている怖さが本書にはあるのだ。」(米原 98頁)

30年以上もサラリーマンをやっていると、本書に書かれているセンセイたちの世界と、自分が生きてきたそれとの間に差異を見出すのが困難だ。誰しもが目先のことで右往左往し、つまらないことで己を大きく見せようとあくせくし、傍目にはどうでもいいことをさも大義であるかのように喧伝するものだ。結局はそういう矮小な小市民の群れによって社会や国家というものができているのではないのか。

センセイといえば、たまたま最近、東京都知事のしみったれ具合が話題になった。彼は選挙によって都知事になった人である。選んだ人間がしみったれだから、その親分のような奴が知事に収まっただけのことではないのか。同じく選挙で選ばれた都議会議員が知事に対して今ひとつ腰の入りきれない批判しかできなかったのは、己に後ろ暗いところがあるからだろう。考えること、やることは皆同じなのである。おそらく、参院選直前というタイミングでなければ、今回のことは知事の辞職にまではならなかったであろう。また、参院選を目前にした時期だからこそ政治資金ちょろまかし実態が白日のもとに晒されたとみることもできるだろう。辞めた都知事の下で都庁の不平不満が高まっていたということかもしれない。よほど嫌われていたのだろう。

景気の雲行きが怪しくなり、なりふりかまわぬ政策運営を強いられるなかで参院選が接近する。国政の与党である自公が推した都知事のセコい話が取り沙汰され、ネタがネタだけにお笑いのようなことになって衆目の注目を集め、よりにもよって選挙前に政権の雲行きまで怪しくなってきた。メディアへの露出や大衆受けしそうな介護体験本の執筆でポピュリズムに乗って首都の首長になった人が、大衆を愚弄するかのような姿勢を晒して消えていく。最後は涙を見せて同情を引こうとし、それが引き際を一層みっともないものにした。そのみっともなさは我々自身のものでもある。

それで本書のことだが、王様が裸であるという至極単純なことを膨大な資料を駆使して明らかにしている。世の中にとってはそういうことを殊更に表現して現実をはっきりさせるということが人々の現状認識の糧になって良いことなのかもしれない。しかし、だからどうだというのだろう?

 

3 『光村ライブラリー 中学校編 1 赤い実 ほか』 光村図書

昔、教科書に出ていた話でずっと心に引っ掛かっている作品がある。第二次大戦下の東欧を舞台にした作品で、ナチスの強制収容所に送られることになった男が移送中の列車から脱走するという話だ。ドイツ軍に逮捕されてから飲まず食わずで荷物のように移送列車に積み込まれたとき、たまたま隣り合わせた移送者からふとしたことで譲り受けたパン切れを心の支えに無事逃げ延びる。脱走中、何度となく危機に直面し、また、そのパン切れを食べてしまおうという気にもなる。しかし、その都度心を強くして、本当のいざというときに備えてパン切れを温存する。結果として、そのパン切れを口にすることなく家族の待つ家にたどり着くのである。ほっとして力が抜けて倒れこむ。そのとき、ポケットから転がり出たのはパン切れではなく木片だった。

鰯の頭も信心から、という言葉がある。どのようなことであれ、心を強く支えるものがあれば、人は多少の危機くらいは乗り越えることができるのではないか。たとえ単なる木片や鰯の頭であったとしても、自分がそれを核にして生きる指針を作りあげることができれば、強く幸福に生きることができるのではないか。そんなことを漠然と思いながら、いままで生きてきた。そういう漠然とした思いを作り上げる要素のひとつが国語の教科書に載っていた話だったりするのである。

急に思い立って、その東欧の話を再読したくなった。検索してみたらこの本に行き当たった。自分の記憶と多少違っているところもあったけれど、間違いなく本書に収められている「一切れのパン」という話だ。作者はF=ムンテヤーヌというルーマニアの作家だ。この作家の作品で日本語訳のあるものは他に何も見つけることができなかった。教科書の編纂者がなぜこの話を選んだのか、その経緯はどのようなものだったのだろう?

 

4 モンテーニュ(著) 原二郎(訳)『エセー』 3 岩波文庫

ようやく半分だ。どうしても長くなると飽きてくるところもある。それでも興味は持続している。科学に関する記述には、さすがに陳腐なところもあるのだが、それが本書の価値を損ずるものではない。人が何を考え、どのように世の中を見るものなのか、という普遍的なところに興味が尽きない。

結局、人はちっとも変わっていない。科学技術や文化は人間の活動の結果であって、その変化を過大に評価すると、人を自分を買い被ることになる。それは不幸の始まりだ。

 

5 信田敏宏 『ドリアン王国探訪記 マレーシア先住民の生きる世界』 臨川書店

国立民族学博物館の先生方が執筆された全20巻のフィールドワーク選書の第1巻。先日、みんぱく東京講演会を聴講した折に、会場でぱらぱらと眺めた数冊が面白そうだったのと、みんぱくの勝手応援団員としては買わないわけにはいかないと思ったので、友の会の会員割引を利用して全巻まとめて購入した。

本書は筆者がまだ博士課程の学生だった頃、実質的に初めてと言えるフィールドワークの記録だ。マレーシアの先住民オラン・アスリの村に入ってイスラムやキリスト教といった世界宗教や近代化に晒されていない人間本来の姿を見出そうというのである。結論から言えば、そんな純粋な世界などそこにはなかったのだが、「本来」を求めながら権力やら経済力といった我々の日常にあたりまえにある仕組みと格闘する姿に、なぜか社会人になったばかりの頃の自分の姿を重ねてしまった。多少アルバイトは経験したが、学生と社会人とでは生きる世界が全く違うことを身を以て知るということと、ここに書かれているフィールドワークとの間に、なんとなく重なるものが感じられたのである。

余談になるが、オラン・アスリの村の記述に第二次大戦中の日本軍の蛮行を示唆するかのようなところがある。軍人が駐留先の社会で乱暴狼藉を働くというのは日本軍に限ったことではないだろうが、軍隊という組織が持つ特殊性と人間社会が普遍的に持つ構造との関連性が気になった。

 

6 平井京之介 『微笑みの国の工場 タイで働くということ』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書の第2巻。

かつて仕事でタイにある日本企業の工場をいくつか見学させていただいたことがある。ほとんどアユタヤだったが、キヤノン、ニコン、ミネベア、日本電産などの工場だ。アユタヤはバンコクから高速道路で1−2時間ほどなので、バンコクに宿を取っても、それほど不便ではない。自分の仕事の取引先に連れて行っていただいたケースもあれば、自ら訪問先の親会社にお願いしてお邪魔させていただいたところもある。連れて行っていただいたときは例外なくバンコク泊だったので、自分で行ったときはアユタヤに宿を取った。

自分で工場見学を手配したとき、訪問先の親会社によって対応が大きく異なったのが面白かった。ある会社では「タイ語はおできになりますか?」と尋ねられ、「できません」と答えたら、「それじゃ、無理ではないですか」と断られかけた。別の会社にお願いするときにそのことを話して「大丈夫でしょうか?」と尋ねたら、「大丈夫ですよ」と言われ、その会社の出張者が利用するという宿まで予約していただいた。改めて断られかけたところに「ホテルも押さえました」と連絡したら「ホテルなんかあるんですか?」と驚かれたが、工場見学の許可をいただくことができた。実際に訪れてみると「無理」と言われるのも無理はないと思った。東京の本社の窓口では断られかけたほうの会社の工場では大歓迎され、「ま、ゆっくり見ていってください」という言葉に甘えて広い工場の隅々まで丸1日かけて拝見した。昼はそこの社員食堂で鮭フライ定食をご馳走になった。

アユタヤには日本企業の工場が数多く立地しているのだが、出勤退社の風景に驚かされた。朝夕は企業が従業員の送迎に用意した大型バスがひっきりなしに往来するのである。それも半端な数ではない。アユタヤには様々な日本企業の工場がある。大手企業の工場は例外なく複数の通勤バスを運行していた。工場の建屋の従業員口には空港のセキュリティチェックに使うような金属探知機のゲートがあり、終業して家路に就くバスに乗る前にそのゲートをネックにして従業員の流れの渋滞ができていた。日本の工場でもそんなチェックをしているのだろうか、と素朴に不思議なことのように思われた。

それで本書だが、驚くような内容ではなかった。

 

7 李鳳來 『李朝を巡る心』 新潮社

新潮社の「青花の会」というものに入っている。毎月いただくメールに本書の紹介があり、早速注文した。

なんとなく坂田さんの『ひとりよがりのものさし』に似た雰囲気を感じた。

 

8 竜田一人 『いちえふ』全3巻 講談社

6月最後の週末に福島の原発で働く友人を訪ねた。土曜の夜にいわき駅前の居酒屋で一献傾け、日曜は彼の車でJヴィレッジ、天神岬公園、OLD CAR CENTER、願成寺白水阿弥陀堂を案内してもらった。当然、諸々の会話のなかに原発のことは出てくる。まして相手はそこで働いているのである。興味深い話はいくらもあって、このブログにも書こうかと思ったが、彼が「内容が正確だ」と紹介してくれた本書を読んだほうが私の駄文よりも有益だろう。