落語に「子別れ」という長い噺があり、通しで演られることもないわけではないが、2つ3つに分けて口演されることのほうが多いのではないか。その第1話にあたるもののなかに伊勢六の隠居の弔いの席の場面がある。噺の様子ではこの隠居はたいへん評判の良い人で町内の人々から慕われていたようだ。その弔いの振る舞い酒が「灘の酒」、料理は弁当だが、「弁松の別誂え」(強飯が赤飯、半月、がんもどき、ハス、日光唐辛子、茄子の辛子漬け、あじゃら巻)でたいそうなものらしいのである。私は酒はあまりやらないのだが、食べるほうは一人前に興味がある。調べてみると「弁松」というのが現存しているらしいのだ。今回、いわきに出かけるにあたり、昼食を車中で弁当ということにして弁松の定番という「並六」をいただくことにした。
まず、包装紙のデザインがいい。容器も昔ながらの経木であるのが嬉しい。手にしたときに、ちょっと湿気を含んだ感触、料理の匂いに加えて経木の微かな香り。近頃は妙な凝り方をした中食ばかりで気持ち悪いと感じていたが、そういうご時世にあってこういうオーソドックスの化石のようなものに出会うとなんともいえずほっとする。それはつまり私自身が化石化しているということなのだろう。ちなみに落語「子別れ」に登場するのは竹の皮で包んだものだ。肝心の料理とその味だが、これぞ弁当という感じだ。おかずは卵焼きとはんぺん以外は煮物で、生姜、里芋、椎茸、牛蒡、筍、蓮根、竹輪麩、鶏、サヤエンドウ。甘味がきんとん豆。ご飯は赤飯。容器を手にしたときの期待感を全く裏切らない、これぞ弁当という弁当。味付けは少し濃い目だが、携帯食なのだから保存性を考えて塩気が強めになるのは当然だ。どうせ遅かれ早かれ死んでしまうのに、なにを血迷ったのか健康、健康と馬鹿騒ぎをする不思議な風潮が蔓延しているが、そういう薄みっともない生への未練がましさをたまに食べる弁当にまで持ち込むべきではない。いわきへ向かうスーパーひたち号のなかで弁松の並六弁当をご飯粒ひとつ残さず完食。日本人に生まれ、東京に暮らして、ほんとうによかったなと思った。