今の仕事に就いて12回目の文化の日。繁忙期の祝日で休日出勤の人がいるかもしれないということで、通常通り出勤して午前9時過ぎまで待機した。今の仕事に就いて現在の職場が5社目、正確には欧州系A社→米系B社→日系C社→米系D社→欧州系A社なのだが、休日の職場の風景がだいぶ違う。時代も状況も違うし、それぞれの職場の文化も違うので、同じ仕事とはいいながらも同じとは言えないのだが、他と比べると今の職場は呑気だ。おかげで今日は無事に予定していた勤務を終えた。時間が早いので午前9時半に妻と待ち合わせて職場近くの気になっていたところを訪れた。
まずは将門塚。どのような場所であるかは様々なメディアに紹介されているのでそちらをご参照いただくとして、諸々驚いた。東京駅周辺の職場に勤務すること通算15年、そのうち大手町だけで3年、将門塚の存在は勿論知っていたし、その前を往来したことも何度もあるのだがお参りしたのは初めてだ。現在、三井物産本社ビルや旧長銀ビルなど一帯を再開発工事中なのだが、工事現場に囲まれるように将門塚が在る。塚が鉄骨とアクリルでできたケースで保護され、将門塚の敷地全体が鉄骨の枠と樹脂製の屋根で覆われている。中にいると外の工事が遠くのことのように静寂を感じさせる。静寂ではあるけれど、ひっきりなしに参拝者がやってくる。私たちのように休日の散歩のようにしてやってくる人たちもいれば、仕事途中で通りかかって当然のように足を止めてお参りする人もいる。敷地内は掃除が行き届いて清潔な印象だ。いろいろ謂れがある場所であることは承知しているが、それにしてもこうして誰かしら頭を下げ手を合わせている場所が都心に在る、また、そういう国に生きていることに今更のように驚くのである。
将門塚と一体となっているのが少し離れた場所にある神田明神だ。縁起からすればそのまま神田明神にお参りすべきところなのかもしれないが、もうひとつ気になっていた場所があって、動線の自然としてそちらへ寄る。
柳森神社である。今は小さな神社だが、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして多くの柳をこのあたり一帯に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する。伏見稲荷由来なのに「おたぬきさん」と呼ばれているのは、境内にある福寿社に徳川綱吉の母である桂昌院が信仰していた福寿神(狸)の像が祀られているからだ。ちゃんと狐のお稲荷さんもおられる。ここも入れ替わり立ち替わり参拝者が訪れる。やはり、通りかかった人が足を止めてお参りするという風情なのだ。よく今は信心がなくなったなどと言われるが、人の心象風景というものは容易に変容するものではないと思う。自分ひとりのことではなく、そこに至る時間時代の蓄積というものが世界観を形成しているはずだ。どこかの神社の氏子であるとかないとか、どこかの寺の檀家であるとかないとか、そういうことではないと思う。理屈ではないので、言葉にはならないのだが、国中至る所に神社仏閣があり、旧家には必ずと言ってよいほどに仏壇や神棚があり、商店や工場にも神棚があることが珍しくない土地というものが持つ精神的な背骨のようなものに興味が湧くのである。
神田明神は七五三を祝う家族連れで賑わっていた。本殿では結婚式の最中だ。郷土史探訪の団体もいる。通りに面した鳥居の際角に糀屋があるのを見て驚いた。店の周りには縁起についての案内もあり、それを読んでまた驚いた。この地下に室があって、そこで糀が作られているというのである。それも昨日今日の室ではなく、そもそも天然の室で、そこで商売として糀を作るようになったのが江戸時代の終わり頃からだというのである。ここの糀は江戸っ子だ。早速、店内の喫茶コーナーにお邪魔して甘酒を頂いてみる。我が家で岐阜の糀で作っているのとはだいぶ違った様相だ。味は澄んだ甘さとでも言ったら伝わるだろうか。江戸っ子の甘さだ。店で売られている生糀と納豆を買う。
神田明神にお参りするのは初めてだ。都心の大神社らしく、資金力の強さを感じさせる。境内は整備が行き届き、新たな施設の建設も進行中だ。自家用車で乗り付ける参拝客の車が高級車揃い。たいしたものだと思う。せっかくなので、通りを挟んで向かいにある湯島聖堂も見学する。
聖橋を渡って比較的新しい大きなビルの地下にある食堂街で昼食にする。食事の後、ニコライ堂を眺めてから新宿に出て、少し買い物をしてから帰る。