熊本熊的日常

日常生活についての雑記

お参り日和

2017年11月05日 | Weblog

甲府の駅前でレンタカーを借りて昇仙峡の向こう側にある神社に参拝する。近頃はすっかり参拝が趣味のようになってしまった。今となってはどこで知ったのかわからないのだが、金櫻神社と夫婦木神社というところにお参りしたいと思ったのである。

昇仙峡は言わずと知れた観光地だ。甲府から車で30-40分ほどで行くことができ、秩父多摩甲斐国立公園のなかにあって代表的な景勝地である。紅葉の時期には少し早いが天気の良い連休なのでさぞかし混雑しているだろうと思い、レンタカーの予約は9時からにしてあったが、営業所が開店する8時半に車を借りに行った。車は当たり前の一般道を何事もなく進む。やがて登りになり、登りながら激しく曲がり、傾斜も曲線も落ち着いた頃に岩肌を露出した険しい谷が視界に入る。そのあたりが昇仙峡らしい。運転していると道路の前方しか見ないので景色のほうはよくわからない。いつ渋滞が始まるかと思いながら運転していたが、何事もなく観光地っぽいところを通り抜けた。ほどなくして前方に神社の鳥居が見えた。そのまま鳥居の前を通り過ぎてくねくねと登ったところに神社の駐車場がある。

駐車場のすぐ側が本殿で、駐車場と本殿の間に御神木の桜がある。御神体は金峰山で、ここは里宮にあたる。本殿は比較的新しく水晶を頂いた昇り竜の彫り物が正面向かって左、下り竜が右の柱に施されている。駐車場からスッと境内に入ってしまったので、長い石段を降りて鳥居から改めて参拝する。石段は杉の大木が並ぶなかをまっすぐに伸びる。人々は金峰山にも神を感じたであろうが、この杉の大木にも神を感じたのではないか。想像もつかないような長い年月が目の前の杉に具現化されている。世の中でいろいろなことがあったなかを、それとはわからないような成長を着実に続け、ただただ真っ直ぐに伸び太っていく。その超越感に神々しさを感じる。

金櫻神社のすぐ近くには夫婦木神社がある。こちらは栃の木が御神木。生の木ではなく、切り取られた木だが、ただの木ではない。成長の過程で洞ができた大木で、その洞の口が女性器のようで、洞の内部に木が垂れたようになっているのが男性器のような形なのである。性器は生殖を連想させ、生殖は生産・多産・豊穣を連想させる、ということで性器崇拝というのは古今東西よくある信仰だ。ここは御神木も良いが社務所の御婦人も良い。私たちがお邪魔したときは、御手水のあたりを掃除している様子だった。白い作務衣で髪は短く、耳に補聴器をつけているが肌の色つやは良く矍鑠としている。私たちが御手水でお清めをして石段を上がって社務所を覗くと、すでにそこにいてあれこれと話をしれくれる。せっかくなので拝観料を納めて御神木を拝むことにする。一般の神社仏閣なら、そこで拝観券と縁起を記したチラシをいただいておしまいだ。ここは違う。その御婦人が御神木まで一緒に来て朗々と説明をするのである。さっき社務所で会話を交わしたときの調子とは打って変わって、堂々朗々と講談を語るように説明をするのだ。これは聴く値打ちがある。ついでながら、ここは拝観券はないがチラシと耳かきを頂く。なぜ耳かきなのか、御神木の説明に圧倒されてうっかり聞き忘れてしまった。

昇仙峡にはそれほど興味はなく、駐車場が空いているようならちょっと寄ってみようかと思ったが、道路脇に駐車をしている車が目立つような状況なのでそのまま通り抜け、積翠寺へ向かう。カーナビの案内に素直に従って運転していたのだが、狭い道を通らないといけない場面が少なからずあった。武田神社の近くは特に交通量が多く、対向車とすれ違うときに徐行をしないといけないような状況だ。11月の週末、七五三である。そういえば金櫻神社にも七五三のお祝いと思しき家族連れが何組かいた。それでも武田神社以外の神社はそれほど人出があるようには見えない。地元の人たちは武田に行くのが定番なのだろう。

同じ武田つながりでも積翠寺は静かだ。武田神社の裏から北へ車で5分くらいという距離のせいもあるが、武田神社と積翠寺の間で対向車も同じ方向に走る車も一台もなかった。この寺には武田信玄が産湯を使ったとされる井戸がある。そういう由緒ある寺なのだが、どこにでもある当たり前の寺のような風情だ。寺というものは本来は檀家の人だけが出入りするもので、無闇に他所の寺に入るものではないと言われたことがあるが、確かに檀家制度が機能していた時代には寺は檀家のプライベートな空間であったはずなのでその通りだろう。ここはそういう他所の寺という感じがする。それでも一般に開放されていて、本堂の裏手にある庭園や信玄の井戸を見ることができる。

次に向かったのが甲斐善光寺。なんとなく善光寺には縁があるような気がする。長野の善光寺には数年前の暮にお参りした。東京近辺では埼玉県川口市の荒川縁に善光寺がある。大宮の鉄道博物館に「善光寺号」という鉄道記念物の蒸気機関車が展示されている。この名はイギリスから海路運ばれてきて川口の善光寺付近で陸揚げされたことに由来している。広重の「名所江戸百景」には「川口のわたし善光寺」がある。川口の善光寺は鎌倉時代に建立され、江戸時代にはかなり有名な寺であったそうだ。だからどうということでもないのだが、私の子供の頃の本籍地が川口だった。ほかに善光寺の縁というと母方の祖父母と伯父の墓が名古屋の善光寺別院願王寺にある。それだけのことだ。

昼時なので、とりあえず車を善光寺の駐車場に置いて食事にでかける。大きな寺で、身延線に「善光寺」という名の駅があるくらいなので門前に飯屋の一軒や二軒はあるだろうと思っていたが、本当にそのくらいしかない。探しても無駄な予感がしたので山門前すぐのところにあったうどん屋に入った。昼時ではあるので、うどん屋の駐車場がいっぱいであることに何の不思議もないのだが、周囲の交通量との兼ね合いにおいて駐車場に停まっている車が妙に多い気がする。私たちが店に入った時点でほぼ満席。店内はけっこう広い。どうやら人気店らしい。もう20年ほど前になるが、仕事で河口湖のあたりにある会社にお邪魔していたときによくうどん屋に連れて行っていただいた。店というよりも民家が昼時だけ部屋をいくつか開放して客に応対しているという風情の店だった。そのうどんがたいへん美味しかったのを今でも記憶している。今書いていて思い出したが、秩父にも似たような店があって、そこのうどんも旨かった。甲府、河口湖、秩父、いずれも水が美味しい土地のような気がする。

甲斐善光寺の近くに土地の物産を集めた施設があり、そこで妻が友人宛にワインを買って送る。昨夜のジビエの店で土地のワインを少しずつ3種類いただいたが、山梨のワインはいつのまにか世界のどこに出しても恥ずかしくないものになったと思う。私は積極的に酒を呑まないので酒のことはよく知らない。それでも飲食物として酒を美味しいと思ったり思わなかったりする。かつては接待したりされたりする仕事に就いていたこともあるのでいろいろな土地でいろいろなものをいただいた。昔は今のように饗応の規制がなかったのでワインリストの一番高価なものを当たり前のように注文したりもしていた。それでもボトルが日本円換算で20-30万円程度だったので、おそらくその店の本当の一番ではなかったと思う。下品な客はそれなりにあしらわれるものだ。それで思うのは価格と旨さは関係ないということだ。言わずもがな、当然だ。酒も料理も詰まるところは世界のなかに在る己を確認する行為だ。食物連鎖のなかに在る自分、目の前にあるものと自分との縁、食事を共にする相手がいるならその人その場とのめぐり合わせ、そう思うと一杯の水でさえ圧倒的な存在感を放つ。思わず、いただきますと頭が下がる。水は私の腹に収まって消える。私もやがて縁の運動のなかで消えていく。

いろいろ神社仏閣を巡って思うのだが、それぞれに個性があって自分にとっての落ち着きの良しあしがある。いろいろ要素はあるだろうが、伽藍の配置というのが自分にとっては落ち着きの大きな要素であるような気がする。以前にもこのブログに書いた記憶があるが、法隆寺はそこに惹かれる。善光寺は山門と金堂だけの単純な配置だが、これが不思議と良い。世に「黄金分割」と呼ばれるものがあるが、山門と金堂の距離とそれぞれの規模のバランスなのだろうか、ここは不思議な心地よい空気を感じる。善光寺といえば御戒壇巡りというのは信州だけのことではない。ここでもご結縁。

ここには宝物館があり仏像などが展示されているが、印象的なのが小野小町像だ。晩年の姿を現した立像で、なんとも表現のしようがない。小町といえば美人、華やかな逸話の数々、といったところが世間の通り相場であることを前提にしてこの像が制作され、なにがしかの教訓を表現しようとしたのだろう。

善光寺の近くに酒折宮という、連歌発祥の地とされる神社がある。日本武尊が東夷征伐の帰りに立ち寄ったそうだ。そういう謂われを知らなければ、どこにでもある神社だ。尤も、「どこにでもある」というには石碑が妙に多く、本殿の鰹木が多い。鰹木は9本。なんでもない神社のように見えて、やはりただものではないのである。

この後、車を営業所に返し、かいじ116号に乗る。