熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2017年11月

2017年11月30日 | Weblog

横山智『納豆の起源』NHK出版

納豆菌というのはとても強い菌で、朝食に納豆を食べた人の見学や来訪を受け付けない酒蔵があるという話を聞いたことがある。本書では様々な地域の納豆が製法とともに紹介されている。日本で市販されている納豆や我が家のような疑似自家製納豆では納豆菌が繁殖するきっかけとなるスターターを当然それが必要であるかのように添加するが、スターター無しで製造する地域が思いのほか多い。今度試してみようかと思うが、普段納豆を作っている感覚からすると、スターター無しでできるとは思えない。今は既製品の納豆をスターターにしているが、それでも納豆らしくなるまでに電気行火と段ボール箱とエアクッションの納豆製造箱で二昼夜発酵させた後、少なくとも一昼夜冷蔵庫で落ち着かせる。大豆から納豆への変容において、どのあたりから納豆と感じられるかということが人それぞれに違うだろう。発酵の進行で、どのあたりまでが煮豆の臭うやつで、どこから納豆と感じられるか。単に糸を引くとか豆の表面がそれらしくなっているというようなことではなしに、視覚、嗅覚、味覚、もろもろ覚の総合として納豆と呼べるか否かの判定はその人のそれまでに重ねてきた人生の経験に左右されると思う。こういう本を読んで、知識やデータだけを以ってごちゃごちゃ言うようでは生きている甲斐がない、体験経験に結びつけてこその人生だ、とは言っても、タイやミャンマーの奥地にでかけてみようとは思わないし思えない。このあたりが自分の限界なのだ。

 

笠嶋忠幸『書を味わう 鑑賞の手引きとくずし字解』淡交社

読まずに置いてある本がかなりの量になったので、そういうものを読んでみようと思い手に取った。笠嶋さんは出光美術館の学芸員で何度か講演会やギャラリートークを拝聴したことがある。本書は同館の売店にて購入した。内容は笠嶋さんのギャラリートークのようにコアがしっかりとあってわかりやすい。

子供の頃、近所の書道教室に通っていた。近所といっても子供の足で20分ほどかけて最寄りのバス停へ行き、そこからバスに乗って10分弱の停留所で降りて5分ほど歩いたところにある教室だった。通い始めた頃は木造二階建ての先生の自宅の一階の広間を教室にしていたが、程無くして教室用の離れができた。どちらも畳の部屋で、文机と座布団が教室らしく並んでいた。通っている人は老若男女。教室が開いている時間にやって来て、上がり框で靴を脱ぎ、ガラスが嵌った格子戸越しに教室の中を窺い、机が空いていれば一礼して席について練習を始め、空いていなければそのまま上がり框で待つというものだった。練習は各自めいめいに行い、書いたものを先生のところに持っていって添削していただくのだが、たいてい先生の前には添削を待つ列ができていた。文字を書くのもさることながら、教室の方針として「書道は精神修養です」ということだった。意味はわからなかったが、上手い下手ということよりも大事な何かがあるらしいというくらいの感触はあった。結局、幼稚園の頃から中学1年うらいまで通ったが、その後はなんとなく行かなくなってしまった。今になってみれば、そのまま続けていればよかったと思う。それで、というわけでもないのだが、数年前に書道の練習を再開しようと思い立った。書道用具店で道具一式買い揃え、手始めに歌会始に応募した。しかし、それで終わって後が続いていない。奈良に出かけたときに墨を買い求めたりしたものの、それを使う機会を設けることなく徒に時間が過ぎている。妻の実家からは文机をもらったのだが、物を置いておく台と化してしまっている。従兄から中国土産の筆をもらったが、箱に入ったままだ。これではいけない。

そういう状況下で本書を手にした。やはり、書は面白いと思うし、自分でもやってみようとは思うのである。

 

小林秀雄『小林秀雄全作品13 歴史と文学』新潮社

買ったけれども読んでいなかった本シリーズ。大学受験の現代国語の問題には定番のように小林秀雄の作品が取り上げられていた。これは全集だが、文庫本で小林の作品はいくらも読んだ。何度読んでも面白いと思う。

新潮社の『全作品』は時系列で編集されている。本書は小林が38歳から39歳にかけて、昭和15年から16年にかけて書かれたものが収録されている。この時期が戦争前夜の激動の時代だったということを今を生きている読者は承知している。書いているほうはどうだったのだろうか。本書に限ったことではないが、『徒然草』を読んだときも『エセー』を読んだときも、いつの時代そう違いはないと思った。よく「時代の転換点」だの「変革期」だのと大仰に騒ぐ人がいるが、いつの時代でも一寸先は闇ということに変わりはない。なんだかんだ言いながらも、誰もがそれぞれに欲望を発露し合った結果が今この瞬間の世界なのである。高い理想を掲げて社会の変革に取り組んだ「革命家」がひとたび権力を握った途端に「独裁者」になることに何の不思議もないし、守銭奴が大実業家になったところで不自然を感じることはない。結局のところ、すべては巡り合わせだと思う。

それにしても、小林だからこういうことになるのか、同じ時代を生きた同じような悟性の持ち主なら同じようなことを考えたのかは知らないが、本書にあるようなものが昨日今日書かれたものだと言われても違和感を覚えない。もちろん、本書が書かれた当時と比較すると、今は徴兵制も配給制もないし、物質の物理的な分量には恵まれている。そういう現象面が人間の内面にも当然に影響を与えることは了解できるが、本書に書かれている精神風景は今とちっとも変わらないのである。そういう生活の現実を確認できるところが本書の値打ちではないだろうか。