熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2017年5月

2017年05月31日 | Weblog

洲之内徹 『絵のなかの散歩』 新潮社

先日読んだ白洲正子の『遊鬼』に洲之内徹のことが書かれており、そこで触れられていた「きまぐれ美術館」を読みたいと思った。ところが全部を読むには「気まぐれ美術館シリーズ全6冊セット」というボックスを入手しないといけないらしい。中古で揃えるという手もあるのだが、近頃は思い立ったときに入手しておかないと生涯お目にかかれないのではないかと思われるほど本の流通が頼りないことになっているので、思い切ってAmazonでボックスの新品を購入してしまった。

洲之内徹という人のことは平塚美術館で開催された長谷川潾二郎展で知った。同展の目玉ともいえる「猫」の購入者が洲之内なのである。その購入の際の遣り取りは図録にも書かれており、そこで長谷川という画家の有り様の一端を知るのである。その図録の記述のなかに登場する「画商のS氏」というのが洲之内だ。以来ずっと気になっていた人で、先日『遊鬼』で洲之内の書いたものを読もうと思ったのである。

ハードカバーなので家で寝る前に少しずつ読んだ。筆者の言葉として私の琴線に触れるものはあまりなかったのだが、書かれていることが面白くないということではない。どの章も読み始めたら止められないものばかりだ。そうしたなかで、やはり長谷川潾二郎を語るところは「猫」という作品を巡って買手側から長谷川を語っているので、平塚の図録にある長谷川が「画商のS氏」について語っている部分と比べながら読むと、この読み比べだけでも6巻シリーズを手に入れることができてよかったと思ってしまう。買手はもちろん「猫」という作品が気に入ったから買うのであり、描手はその猫が好きで描きたいからその作品を制作するのである。同じ作品に対する好感や興味関心の有無は同じでもその中身が全く重ならないことの面白さがある。人と人との遣り取りの妙はこういうものなのではないか。自他の区別はそれぞれの世界観の相違だが、世界観が相違していてもきっかけがあれば交流はできるのである。相違する世界観の持ち主同士が平和裡に関係性を構築するのが文明であり文化というものであり、無闇に自分を押しつけ合うのがコミュニケーションではない。そういう人間社会の基本が危ういことになっているのが今という時代であるような気がする。

自分は絵を描いたり買ったりしないので、絵描とか画廊というような世界のことは知らない。ただ漠然としたイメージで、絵描の絵は高価なもので、そういうものを購入して家に飾ったり蒐集したりするのは金持ちだと思っていた。しかし本書を読むと絵画というものはそういうものではなかったらしい。本書にこのような記述がある。
 いまはたいそう絵のよく売れる時代である。同時に美術運動というものが全くない時代でもある。絵のよく売れる絵かきがいい絵かきで、売れない絵かきは駄目な絵かきだと、客がそう思うのならともかく、絵かきまでがそう思っているような時代である。売れるような絵をかこうとして、誰も彼もが浮身をやつしている。曹さんのような絵かきはいなくなった。いられないのである。(282-283頁) 
上の「絵かき」のところを別の言葉に置き換えても意味が通じるのではないか。人が生きるためには価値を創造しないといけない。しかし価値というものは金銭に換算できるものがすべてではないだろう。人が生きるために必要なものには様々な種類のものがあり、その価値を測る尺度は一様ではないはずだ。長さならメートル、重さならキログラム、容量なら立法メートルとかリットル、実際に我々は様々な尺度を使い分けて生活している。ところがいつのまにか価値というものは貨幣価値と同義になってしまった感がある。貨幣に換算できないものは価値ではないということになっているらしい。 人が生きるためには貨幣価値を創造しないといけない、ということになっている。本当にそうだろうか?

『絵のなかの散歩』はシリーズの1巻目である。白洲の本に出てくる「チンピラの思想」「羊について」「自転車について」は3巻目の『帰りたい風景』に、「絵が聞こえる」は6巻目の『さらば気まぐれ美術館』に収載されているので、まだ読んでいない。

 

上羽陽子 『インド染織の現場 つくり手たちに学ぶ』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書12巻目。11巻目もインドが舞台だったが、両書ともカーストに言及している。やはりインドの文化を語るにはカースト制度を避けて通るわけにはいかないようだ。尤も、身分制とか差別というものはどの文化にも程度の差こそあれあるものだろう。なぜなら、身分というのは結局のところは自他の区別であり、それは「私」という認識がある限りついてまわるものであるからだ。宗教によってはこの区別を戒めるものもあるが、「私」という表現や主張があればこそ社会のダイナミズムが生まれるという側面もあるだろう。それが結果としてどうなのか、ということはともかくとして、変化があってこその夢や希望なのだろうし、そうやって人類は歴史を紡いできたのだろう。差別を良しとするわけではないが、近頃は差別を殊更に強調して現象面の解消に躍起になっているように感じられる。差別用語を無かったことにしようとしたり差別の歴史を無視したりすることで差別が「解消」されると本当に考えているのだろうか。なぜそのような差別が生まれたのか、その差別を解消するためには何をどうすればよいのかというような思慮がなければ、表層を撫でさすったところで何も変わらないとは思わないのだろうか。

ところで、本書で紹介されているのはインドのラバーリーと呼ばれる人々が作る刺繍とそれにまつわる社会のことである。私は実物を見たことがないのだが、たいへん緻密な刺繍なのだそうだ。それは売るためにつくるのではないのだという。祭壇に奉納するため、生活のなかの特定の場面に用いるため、またその用途を前提に誰かにプレゼントするため、というように個別具体的な最終需要を想定して制作する。金銭を得るためではないので、利益とは無縁だ。利益と無縁なのでコストという概念も絡まない。最終需要を満足させるためにただただ精魂込めて制作するのである。コストを意識しないので材料や制作時間といったものは事情が許す範囲で最大に投入する。粗末なものが出来上がるはずがない。

金銭は欲しくないのか?欲望というのは際限がないので、これだけあれば十分ということはないのだろうが、要は金銭が欲望と関連するのかということだ。金銭がなくても生活が成り立つなら、金銭を欲しいとは思わないだろう。金銭に依存しなければ生活が成り立たないというのは、そう古い話ではない。金銭は関係性を数値化する便利なものだ。その気になれば、それでどのようなものでも手に入れることもできる。関係性を表現できるということは、その関係性を金銭によって操作することができるということでもある。表面的な経済上の損得を超えて、関係性を、文化を、歴史を変えることだってできる。金銭の本当の力とは、手段が目的を破壊する破壊力でもある。そうやって人間関係はいつしか断片化され、人は孤独になるのである。社会を形成しないと生きていけない動物なのに、金銭でどうこうできる脆弱な関係性しか形成できなくなるのである。

ついでに言うと、利潤だとか利益という概念にはそれを得るために投入したコストという概念がセットになっている。利益というのは経済的なものだけを指すのではない。反対給付である。なにかをしたのだから、その見返りを求める、という了見である。得ることができるものを推し測り、それに応じた行為を提供するのが利潤や利益を求める社会である。はじめから、ここまで、この程度で、と思ってやる仕事はどれほどのものだろうか。精魂込めるというようなことが端から起こり得ない社会なのである。人が一生懸命に生きない社会なのである。そんな社会を生きることが、果たして楽しいだろうか?

本書で紹介されているラバーリーの男性は放牧用具を自作するのだが、何でも作るというわけではないのだそうだ。
「自分の得意なものをつくればよいのさ。他のものは他に得意なやつがつくるだろう。それと交換したらいいさ。もし、交換できなければ、親戚や友人からもらえばいいだろ。そうさ、お互いに譲り合うのさ。私たちは売るためにつくっているのではないからね」とあっさり答えるのであった。(124頁)

こういうことを「あっさり」言える社会の豊かさに眩暈を覚えてしまう。豊かさとは他人との信頼の厚さのことをいうのではないだろうか。豊かな社会を生きることは、たぶん、楽しい。

 

杉本良男 『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書14巻目。スリランカで1983年に大きな暴動があった、ということを本書で知った。私がインドに遊びに出かけるときにスリランカに立ち寄ったのは1985年2月19日。スリランカで内戦があったということは知っていたが、それがどれほど深刻なものかというようなことは全く知らずに訪れた。若気の至りとはこういうことを言うのだろう。無事に帰って来たのだから良し、ということではない。

その1985年のインド行きは、往路が成田=ソウル=コロンボでコロンボ到着が深夜なので宿泊一泊付き、復路はカルカッタ=ダッカ(一泊付き)=ラングーン=バンコク=ソウル=成田というフライトを利用した。コロンボに着くと現地の旅行会社の人が出迎えに来てくれていて、車でホテルまで送ってくれた。その車中で内戦のことが話題になったとき、出迎えの人曰く「人口の3割を占めるタミール人が国土の7割を要求しているんです。」その人はシンハラ人らしいのだが、日本語の流暢さに圧倒された。

それでシンハラ人というのは仏教徒で、タミール人はヒンドゥーというざっくりとした色分けらしい。仏教というのは自他の区別というものをしてはいけないのではなかったか、「自他不二」とかなんとか言うはずだ。ところがシンハラ人の社会にもカーストがあるらしいのだ。仏教を信じながら身分制の社会を生きるということを非難しようというのではない。現実の日常生活というものは成文化されたようなもので律しきれるものではない。仏教には経があり、キリスト教やユダヤ教には聖書があり、イスラム教にはコーランがあるが、それが全てという信徒など果たしてどれほどいるものなのだろうか。人の生活倫理というものは気候や風土といった現実世界が下敷きにあって、そこで展開される社会のなかでの宗教や風俗だろう。それぞれの土地での仏教があることに何の不思議もあるまい。カーストがあって仏教もある、そういう土地であるというだけのことだ。もちろん、人が生き物であるように社会もまた生き物の如くに変化を続ける。カースト制も例外ではないようだが、本書に以下のように書かれている。

一方、最近のカースト制の変貌には、人びとの意識の変化とともに、経済基盤が崩れたことが大きい。王国時代にはカースト制は人びとの生活基盤である土地所有と深く結びついていた。しかし、イギリスの植民地時代に、土地の私有概念が入るとともに、現金経済の浸透で土地がさらに売買の対象となり、カースト制を支えていた土地所有制度や王役制度が根本から崩れることになった。(133頁)

ところで、本書の記述にこのようなものがあった。少し長いが引用する。
シンハラ語はスリランカで七割以上の人びとが話すことばであるが、タミル語とともに公用語に指定されている。また、英語が連結語(二言語をつなぐ言語)として公認されている。皮肉なことにインドでも植民地支配の遺産として排斥される英語が、エリートの間では共通語になっている。反面、南アジア由来の言語を共通語にしようとすると、必ず少数派の反撥を食らって実現していないのが現状である。それはまた時代が進むとともに、ますます深刻化しているように見える。世界のグローバル化は、こうしたローカリズムを一掃するかのごとき楽観的な見方もされたが、現実は反対の方向に動いている。(66-67頁)

その土地に根付いていたはずの習俗や文化というようなものは、「私」の世界観を揺るがせる要素が新たに入り込むと容易に変化する。所有という「私」の領域を規定する行為や制度が外部の力によって変更を加えられると、根付いていたように見えたものがひっくり返ってしまうのである。植民地支配というと地政学上のことだけにしか目が向かないかもしれないが、所有制度の改変、貨幣制度を通じての価値の可視化、言語による自他の領域の識別、といった「私」の表現にかかわるところが支配する側に都合の良いように変えられてしまうことの意味に注目しないといけないと思う。土地所有の意味であるとか身分制というようなその土地の歴史のなかで形成されてきたものが、貨幣とか市場原理というデジタル表示でそのまま表現できるものなら何も問題はないのだろうが、デジタル化できることもできないことも無理矢理数値化することで本来そこにあったものが骨抜きにされたり変質させられたりすると、従前の価値観によって形成されていた関係性が総崩れになるのである。「私」というものがどれほど柔軟なものなのかわからないが、表現できるものだけが全てだと思い込んでしまうと、そこだけに執着する薄っぺらで暴力的な状況が生まれてしまうように思うのである。
 

西尾哲夫 『言葉から文化を読む アラビアンナイトの言語世界』 臨川書店

みんぱくフィールドワーク選書15巻目。2月に西尾先生の講演を聴いた。「異文化が交差する物語 アラビアンナイトからのぞく中東世界」という題だった。「アラビアンナイト」と言われて、自分はそこに収めらている話を何も知らないことに改めて気づいた。

私はこれまでの生涯で読書というものと縁がない。中学生の頃、国語の先生から4種類のノートを用意するようにとの指導を受けた。そのなかのひとつが「読書ノート」というもので、読んだ本についての感想を書いて先生に提出すると、先生のコメントがついて戻ってくるというものだった。それは義務的なものではなかったので、私のノートはかなりスカスカだった記憶がある。そんなふうなので「アラビアンナイト」も読んだことがない。

自分のなかでのアラブとかアラビアに関係しそうな記憶は映画「アラビアのロレンス」くらいしかない。これには不思議な経験がある。この映画を初めて観たのはイギリスに留学していたときにロンドンの映画館でのことだ。当時はマンチェスターに住んでいて、たぶんロンドンには遊びに出かけたのだと思う。たまたま映画館の前を通ったとき、そこにいた切符のモギリのおじさんから声をかけられた。「観ていきなよ」というのである。言われるままにおじさんについて映画館の客席に入った。ちょうど映画が始まるところだった。今となってはそれがいつだったか記憶がない。留学していたのは1988年から1990年にかけてのことで、上映されていた作品の主人公はピーター・オトゥールだったから1962年の作品のはずだ。1988年に再編集された完全版が公開されているので、おそらくこの完全版の公開のときのことだろう。長い作品だが時間を感じなかった。観終わって映画館の出入り口のところにいくと、そのおじさんはやはりモギリをしていた。料金はどこどで払うのかと尋ねたら、いらないとのことだった。なんだか申し訳ない気がしたが、素直に好意に甘えることにした。

それで「アラビア」だが、本書の最初のほうで「アラビア語」についてこうある。
イスラームの解釈によれば、神は明晰なアラビア語によって、預言者ムハンマドを通じて人びとにことばを授けた。この「歴史的事実」によってアラビア語とコーランは不可分の関係にあるものとなった。したがってアラビア語の文や単語の意味を理解する以外にコーランの意味を会得することはできない。このようなわけでアラビア語研究は、コーランを理解するための学問として発展してきた。また、アラビア語以外のコーランは単なる解釈のひとつであり、聖典そのものとしては断じて認めないというイスラームの立場も当然の帰結といえるだろう。(22-23頁)

アラビア語に限らず言語というのはそういうものだと思う。翻訳というのは解釈であって、原語から翻訳語にそっくりそのまま置き換えることなどそもそもできないものだと思う。翻訳できる聖典というものがあるとしたら、そんなものを頂く宗教はよほど薄っぺらな思想や哲学でしかないということだ。あるいは、普遍性というものが言葉では説明できないようなものであるとするならば、聖典の言葉は普遍性の象徴にすぎず、象徴ならばそれぞれの言語の文脈なのかで対応させる解釈が成り立つのかもしれない。

 とりあえず「アラビアンナイト」を読んでみようと思い、岩波文庫版の『千一夜物語』13冊セットを古本屋に発注した。


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