熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2022年5月

2022年05月31日 | Weblog

岡野弘彦 『折口信夫の晩年』 慶應義塾大学出版会

本は積んでしまうと行方不明になる。この連休に家の中の整理をしていたら出てきた。先日、同じ著者の『折口信夫伝』の文庫版を読んだ。読んで思いついたことをこのnoteに書いた。読み返してみて、本の中身のことが書いていないので、後で抜き書きを並べて備忘録としておこうかと思った。副題に「その思想と学問」とあり、折口がどのような考え方をする人であったのかということが主題として語られている。それに対し、本書の方は文字通り、岡野が折口の内弟子として暮らした昭和22年から28年9月の逝去までの日々を時間を追うように記したものだ。日々の暮らしの様子を記述するだけでも、その対象となっている人の人となりであるとか考え方のようなものが滲み出てくるものである。しかし、本書だけでは恐らく字面以上のことはわからない。やはり、前提として折口や岡野の仕事を知っておく必要がある。

今となっては、自分がなぜ本書を読もうと思ったのか全く記憶にないのだが、買った時点では、本書を読んでも何も理解できなかったと思う。似たようなことは生活の中でいくらでもあることだ。読書に限らず、人と知り合う順番とか、知らない土地を訪れる時の経路とか、物事を重ねていく時の重ね方次第で、人生が大きく変わるものだと思う。しかし、それは過去を振り返って俯瞰するから言えることであって、今この瞬間の状況がこの先にどう転がるかなんて誰にもわからない。

暮らしは連続している。「連続」の意味は止めることができないということだ。ある瞬間、ある時点の、ある視点での見方を語ることは当たり前のように行われているが、それはあくまで便宜的なものである。ところが、その便宜的なものであるということが当たり前に理解されていない。物事は止まることをしない。世間の言説の殆どが、物事にあるべき静止形があるかのように語られているように聞こえる。不思議なことである。

今、これから先、どう転んでも対処できる心構えを持つのに必要な心身の鍛錬が本来の教育というものなのではないだろうか。それは結局のところ、言語化できるようなことではなく、身近に人の立ち居振る舞いや生き方を目の当たりにして、自身の中で何事かを感得することの連続によってしか実現できない気がする。芸事や職人の世界で師匠の内弟子になるのは、技巧そのものではなく、その背後にある何事かを感得するためだろう。内弟子というような形の問題ではなく、自分を取り巻く人間関係の中に、そういうものが多少なりともあれば、人は何があってもなくても平気で生きることを全うできる気がする。

以下、備忘録として本書からの抜き書き。

下手な皮肉は、気のぬけたわさびみたいなもので、相手に軽蔑されるし、よく利いた皮肉は、相手に反感をおこさせるだけだ。歌でも、皮肉が露骨に見える歌は、その作者が軽蔑される。
24頁

そんな先生のそばで桜を見ていて、うっかり「青い空に桜が映えて美しい」といったら、「色刷りの絵葉書みたいな、ありきたりのことをいうものじゃない。いかに、心がはたらいていないか、すぐわかってしまう」といって叱られた。
58頁

 肉屋で肉を買うときに、店の者が白い脂の層を厚くつけたまま秤に載せると、はげしい口調で叱責された。脂は肉ではない。別々にして売るべきものだ。すき焼のとき、鍋に引く脂は当然、サービスとして添えるものだ、というのが、先生の考えであった。こういう点、先生の神経は、世のなまじっかな主婦よりずっと細かくはたらいた。
「戦後、肉屋はずるくなって、脂を平気で秤にかけるし、買う者も、それを当たり前のように感じているのは、間違っている。」
と憤っていられた。
 大井の鹿島神宮の前に、樽一つ置いて、どじょうを売っている家があった。慶應からの帰りには、そこでバスを降りて、買って帰ることがあった。ある日、いつもの主人がいないでおかみさんが出てきた。柳川にするためのどじょうを割かせると、黄色い卵のところを脇へのけおいて、最後に身だけ包んでさしだして、卵はさっとあら入れにつまみ入れてしまった。
 そのときも先生は、はげしく怒られた。
 必ずしも、食べ物のことだけではない。律気な商家に育った人だから、商人のずるさには、よけいに敏感で、許せなかったのだという気がする。
67-68頁

 ハワイの短歌会との文通は、亡くなるまでずっと続いていた。その会の同人が二人、日本へ来たときに、出石の家を訪ねてこられたこともあった。そのとき、与えられた歌。
 汝がいへの親のこほしむ古国は かく荒れにけり。ゆきて語るな
95頁

居間の床の間に、僧月僊の描いた、関羽・張飛の対になった軸が、ずっと掛けてあった。
 月僊筆「桃園結盟図」を聯ね吊りて、凪ぎ難き三年の思ひを遣りしか
 たたかひの間ホドをとほして 掛けし軸—。しみじみ見れば、塵にしみたり (昭和二十一年作)
 銭欲ゼニホりて 伊勢の法師のかきし画の いづれを見ても、卑しげのなき (昭和二十四年作)
 伊勢法師乞食月僊カタギゲヰセンの かきし画の心にふりて、ゆたけくなりぬ
 こういう歌が先生にある。
 月僊は伊勢山田の僧で、応挙に学び、謝礼の多少によって精粗巧拙を分かち画いたので、人にいやしまれたが、晩年、蓄財千五百両を貧民の救済や寺の修復の費としたという人である。
97頁

昔、『アララギ』の人たちは、歌ができなくなると動物園へ行ったものだ。あそこは奇妙に、歌のできるところだよ。
102頁

 大和当麻寺、中ノ坊の住職松村実照氏が、先年私に話された。
「折口先生という方に、私がいつも心ひそかに感銘していたのは、こういうことです。あの方は、ずうっと昔、中学生の頃から、この当麻寺へ何べんでも来られて、私の先代の住職に深く接していられました。その先代に接するお気持ちを、そのまま、後を継いだ私の上に持ちつづけていてくださいました。私も小学生のときからこの寺に入って先代に仕え、その後を継ぐようになったのですから、先生のそういうお気持ちはようわかります。寺へはいろいろえらいお方も来られますが、ああいう方はございませんな。」
 この住職の話は、表面の交際だけのことではなくて、私などにはまだよくわからない、若い頃からの先生の心の底にあった宗教的なものに触れてのことばであるような気がする。
157-158頁

こんどの戦に敗れたことはいうまでもなく大きな不幸だった。だが、その後に、棚から落ちてきたもののようにして偶然に日本人が得た自由は、それなりに尊いものだ。しかし、それは日本人が苦労して得たものではないだけに根の浅いものだ。うっかりしていると、また、不幸な時代がそばまで来ていたというようなことになるかもしれない。今のうちに、どんな時代になっても揺らぐことのない、真に力ある学問を身につけておくことだ。
246頁

 夕方になって、手もとにあった雑誌「文芸」を読んであげようと思って、その目次を見ると、「芥川賞作家特集」になっている。何の気なしに、「今月は芥川賞作家総動員ですよ。どれを読みましょうか」というと、先生の顔つきが変わった。
「何という軽薄なもの言いをするんだ。もともとこの雑誌の編集は、毎号狙いがあって、軽薄なんだ。そんな軽薄な編集者の意図にのって、君までが愚かな言い方をする。坊主のなかで誰が偉いかといったらすぐに有名な寺の管長なんかの名をあげるようなものだ。ほんとに偉い坊主はな、名もない田舎の荒れ果てた寺に入って、その村人の心にほんとの宗教的な情熱の火を燃え立たせて、そのまま土に沁み込む水みたいにその村の土になって消えてゆくもんだ。そういう名もない偉い坊主が沢山いたから、今日まで日本の仏教は支えられてきたんだ。愚劣な言い方をするもんじゃない。」
254-255頁

 

比嘉春潮・霜多正次・新里恵二 『沖縄』 岩波新書

青版の限定復刻。初版は1963年1月25日発行なので、執筆されたのは私が生まれた1962年だろう。予て「岩波書店の新刊」の5月号に5月20日発売との広告が出ていて読みたいと思っていたので、発売日に仕事の帰りに職場近くの丸善丸の内本店に寄って購入。先日は東京国立博物館で開催されている「沖縄復帰50周年記念特別展 琉球」を見学してきた。本書を読んで、また、琉球展を観て、日本人として60年も生きてきたのに沖縄のことを何も知らない自分に愕然とした。

一度だけ沖縄に行ったことがある。大学時代最後の冬休みのことだ。友人に誘われたのである。彼のおじさんが沖縄で戦死したのだそうだ。それで、おじさんの名前が刻まれているはずの「平和の礎いしじ」を見に行きたいという。私の方は沖縄に縁が無いが、沖縄という場所やあの戦争に興味がないわけではなかったので、付き合うことにした。今となってはどこをどう歩いたのか記憶がほとんど無いのだが、コールデンウィーク中に家の中の整理をしていたら、その時に持ち帰った旧海軍司令部壕のチラシ、首里の玉陵たまうどうんのチラシ、全日空機内誌「翼の王国」年末特別号(昭和59年12月1日発行)が出てきた。それらを眺めながら、そういえば観光客は少なかったが、戦跡めぐりの観光バスにはそれなりに客が乗っていたことを思い出した。摩文仁の丘にある平和の礎には戦没者の名前が出身地の都道府県ごとに刻まれている。彼は熊本県の石碑におじさんの名前を見つけることができて嬉しそうだった。楽しい旅行であったことは間違いないのだが、戦跡めぐりであった所為もあり、私の沖縄に対する印象はただ重いものになった。

思い起こせば、小学校3年生の時に同級生になり、仲の良かった高塚君は奄美大島の出身だった。しかし、子供同士の付き合いに戦争だの戦後の同島での米国施政権だのが話題になるはずもなく、それで私が沖縄を意識するきっかけにはならなかった。沖縄復帰の1972年当時は小学校4年生で、その当時のそのくらいの子供が当たり前にするように記念切手を収集していた。当然、沖縄復帰ほどの大きな出来事ともなれば記念切手は発行され、今も手元に何枚か残っている。

時は下って、陶芸を始めてから闇雲に美術館や博物館を訪れるようになった。陶芸の先生にとにかくいろいろなものを見てくるようにと言われたので、とにかく何でも見た。それが40代後半以降だ。いろいろ見ているうちに民芸と神社仏閣に興味が向かい今日に至っている。琉球の文物は日本民藝館で自分にとってはすっかり馴染になっていた、つもりでいた。柳宗悦が書いたものも何冊も何回も読んで、柳が琉球の民芸品や文化に高い評価を与えていることも知っているつもりだった。ところが、本書に次のような記述があって、あっ、と思った。

 とくに沖縄では、政府=県庁の方針として、琉球独自の風習や言語など、生活様式のいっさいを大急ぎで本土化=皇民化することが要請されていたから、沖縄を忘れることはむしろ奨励されていたのである。
 一九四〇年(昭和一九年)、民芸協会の柳宗悦らの一行が沖縄にいって、そのような県庁の政策を批判したために、柳は検挙されて裁判所で訊問をうけたことがある。彼らは、講演会などで、琉球文化の貴重な価値を賞揚し、県民に自らの伝統文化を尊重するよう訴えたのだが、それが県当局の忌諱にふれたのだった。県の学務部は、さいしょ柳らにたいする公開状を新聞に発表して、柳らの意見は沖縄文化にたいする無責任なエキゾチズムであって、そのような「趣味人の玩弄的態度」は沖縄県民をまどわし、立派な日本国民を育成する所以でないとして、とくに標準語励行運動が行きすぎであるという柳らの意見を反駁したのだった。
27頁

柳をはじめとする民藝の人々が団体で戦前に何度か沖縄を訪れ、焼き物や着物その他民俗資料の類を収集したのは知っている。しかし、そこで検挙されたことは知らなかった。

それよりも何よりも本書の冒頭の記述でいきなり衝撃を受けた。事細かに引用はしないが、一章の「日本のなかの沖縄」で紹介されている「本土」の人々の沖縄に対する認識の奇怪とも呼べるような珍妙さには、それが本土と沖縄との往来が今と比べて不自由であった本書執筆の1962年当時のことであることを勘案しても、驚かされるのである。日本の政治家が沖縄で日本語が通じるのかと尋ねたとか、首相経験者が「沖縄の土人」という表現を使ったとか、沖縄であろうと他の日本の土地についてであろうと正確に認識していなければならない立場の人々が沖縄に対する無知を曝け出している。そうした責任ある立場の人であってもそうなのだから、市井の人々の沖縄への認識は推してしるべしだ。日本のある評論家が本土の市井の人々に沖縄についてインタビューしたところ、沖縄の場所を知らない、沖縄の人々が人種的に日本人とは異なっていると思っている、琉球方言は日本語ではないと認識している、そんな答えが多かったという。まさか、今はそのようなことは無いだろうが、本当に沖縄が日本の他の地域と同等に一般に認識されているのかどうかは知らない。

そういえば、立川談志が参議院議員のとき、沖縄開発庁政務次官を1ヶ月ちょいだけ務めた。1975年の年末から翌年の年初にかけてのことだ。議員一期目のタレント議員がたとえ名誉職であるとしても沖縄の行政と関連する省庁の政務次官に任命されるということ自体に日本政府の沖縄に対する姿勢の何事かが表れていると思うのだが、本当はどうだったのだろう。

それでは、なぜ沖縄が日本であって日本ではない特殊な位置付けをされるようになったのか。本書を読む限り、それは近世における日中関係と江戸時代の幕藩体制と鎖国政策が深く関係しているように見える。さらに、欧州列強やキリスト教会の権力闘争や航海技術の発展も考慮に入れる必要がある。

14世紀末から16世紀にかけて、琉球王国は日本とも明とも外交関係があり、琉球の外港である那覇港には日本、中国、朝鮮はもとより、東南アジアや南洋の国々の船も出入りしていた。琉球は仲介貿易で繁栄していたようだ。16世紀に入ると、ポルトガルやスペインが東洋に進出するようになり、東南アジアから極東に至る貿易は琉球の独壇場ではなくなってしまう。やがて16世紀半ばには琉球を基点とする南海貿易は途絶え、琉球の貿易での繁栄は翳りを見せるようになった。

そうした中、16世紀終わりに秀吉の朝鮮出兵が行われる。秀吉は島津義久を介して琉球の尚寧王に朝鮮侵略のための出兵を命じる。しかし、この出兵命令は義久の取りなしで兵糧調達命令に変えられた。それでも琉球はこれを拒否。義久の弟で初代薩摩藩主となる家久が、この兵糧調達命令拒否をはじめとする琉球の「無礼」を理由とする琉球征伐の許可を徳川家康から得る。1609年にこの許可に基づいて薩摩藩は琉球を征服した。

徳川幕府はまだ鎖国を行なっていないが、薩摩の琉球征服と同じ1609年に西国大名に対し五百石積以上の船を没収し、実質的な貿易独占政策を発動。また、秀吉の朝鮮出兵により、明のほうも日本との貿易を禁じていた。しかし、琉球が明との貿易で利益を得ていたことを薩摩が見逃すはずはなく、薩摩は琉球を実質的支配下に置きながら薩摩とは別建の国として明をはじめとする海外との交易の受け皿とすることになる。薩摩は鎖国以前に鎖国の抜け道を確保したといえる。しかし、このことは琉球の地位が国のような薩摩の一部であるような、あやふやなものになることも意味している。このあたりのことが、その後の琉球・沖縄の困難な状況につながっているように見えるのである。

今の沖縄あるいは沖縄に暮らす人々が、どのような問題を抱えているのか私は知らない。少なくとも、こちらから沖縄に行くのに何の障害もない。事実、東日本震災で福島の原発があんなことになったのを機に、環境問題に敏感な人たちが首都圏から沖縄へ移住したケースを身近にいくつか聞いている。逆に、本土で暮らす沖縄出身者もたくさんいるだろう。まして、かつてに比べれば、ネットにさえ繋がれば就業可能な仕事も多くなった。そうした流れの中で、本書に記されているような沖縄の人々への不当な扱いが過去のことになっているのを願わずにはいられない。

念の為断っておくが、本書の記述が正確な事実に基づいているのかどうかは知らない。しかし、些細なことが重大な差別などにつながることは歴史が示すところでもある。


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