熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2022年2月

2022年02月28日 | Weblog

平井京之介 『微笑みの国の工場 タイで働くということ』 臨川書店

先日、タイの工場見学のことに言及したのだが、たまたまタイで暮らした人のnoteに出会った。

https://note.com/mirach/m/m0a35ae85c8d6

これはおそらく日本企業のタイ現法に赴任した人のご家族の眼でご覧になったバンコクでの暮らしだろう。これはこれで興味深いのだが、タイの人々からは自分たちの雇い主である日本企業の人間がどのように見えているのかということは、もっと興味深い。また、首都というのは特殊な都市であり、首都ではない地域の人々に対しても素朴に興味が湧く。同じタイでも違う土地、違う立場で見たら見え方に陰影がつくのではないかと思い、何年か前に読んだ本を引っ張り出した。それが本書である。

本書執筆時点で平井は国立民族学博物館教授・総合研究大学院大学教授という肩書きだ。社会人類学の研究者だが、本書はまだロンドン大学の博士課程の学生だった頃、1993年6月から約19ヶ月間に亘って実施したタイ北部の日系企業でのフィールドワークに基づく読み物だ。タイにある日系工場という特異な場での工場従業員であるタイの人々と管理職として赴任している日本の人々との関係、タイの人々の間での人間模様などが観察されている。

本書のタイトルにあるように、よくタイとかミャンマーあたりの東南アジアの国を称して「微笑みの国」などという。観光案内などでも同様のコピーが踊る。「微笑み」で何を訴求しているのか、何を表現しようとしているのかは知らないが、結局はどこの国であれ、人というものは自己の利益を追求する性質を有するものだという当然の感想に至った。

それと、人が社会性のある動物である、という時の「社会性」の端的な表現が階級とか序列といった上下の位置付けであることも改めて認識させられる。「平等」なんてありえないからこそ理想として「平等」を標榜するのであり、上位にあると自覚する者が下位にあると認識する者を見下すという精神風景は、そういうことを表現する言葉を排除したところで変わるものではない。「差別」「格差」を無くすということは自他の別を無くすということでもあり、突き詰めれば生存の否定に至ることにもなりかねない。差別が良いというわけではないが、「差別」と「区別」を区別できるものだろうか、という素朴な疑問は消えそうにない。社会なり組織なり集団というものが何がしかの構造を有する場合、そこに上下の関係を含まずに機能させることは可能なのだろうか。

一つの妥協として、ある局面での上下が別の局面では逆転するというような複線的な関係性が共存する構造体はあり得るのかもしれない。いわゆる「多様性」を許容する、許容というような受動的なことではなく積極的に内包させることで、或る関係での上下による緊張を別の関係での上下で相殺して、全体として丸く収める、というようなことである。例えば、茶の湯は身分の違いを超えて人と人とが向かい合う場、ということになっていたはずだ。『釣りバカ日誌』でのハマちゃんとスーさんの関係などもその類だろう。しかし、生きることが何かに執着するという側面を持つ限り、社会性というものが内包する構成員間の利益相反は解消不可能で、平和というものは幻想であり続けるのではないか。

 

赤瀬川原平 『千利休 無言の前衛』 岩波新書

本書は再読だ。奥付に「2015年11月16日 第36刷発行」とある。読んでいて前回読んだときに貼った付箋のところに来ると苦笑するようなこともあるが、全体としては今回読み終わって付箋がずいぶん増えた。齢を重ねて考えることが変わったということもあり、たぶん最初に読んだときよりも面白いと感じている。

世に「芸術」と呼ばれるものがある。それは生活必需品ではないけれど、結構高額で取引されたりしている。生活必需品ではないからこそ高額なのだ。本当に必要なものは価格で買い手を選別したり排除したりするものではないはずだ。奢侈品であるからこそ高額なのである。

茶の湯はどうなのだろう。日々の暮らしの中で湯茶は当たり前に飲む。茶を飲まない人でも何か飲むだろう。しかし、茶の湯、茶道となると、茶を飲むこと自体が目的とは思えない。茶道具には高額なものも少なくなく、時に真贋問題とか奇怪なドロドロした話が出てきたりもする。

作法に関してはある程度の合理性がある。茶道が確立された頃は今のような照明がない。夜は暗い。今とは比べものにならないくらい暗い。昼間でも屋内は今よりずいぶん暗かったはずだ。その分、当時の人は今の我々よりも平均的に視力が良かったかもしれないが、それでも赤外線カメラのようなわけにはいかなかっただろう。暗い部屋で菓子や懐石を食べたり茶を飲んだりする。亭主は客の様子を見ながら茶を点てたり菓子や食事を用意する。その時に、動作の型が決まっていれば、多少暗くても点前の手順と相手の気配で状況を把握することができる。こういう気配だから、こういう音が聞こえるから、相手はこんな動作をしているんだろうな、と亭主も客も互いに推察ができる。行儀とか作法は美意識の表現という側面も勿論あるだろうが、おそらくそれ以上にその場での現状把握の為の非言語的言語という側面が今より遥かに濃厚にあったのではないだろうか。

もちろん茶を淹れる手順を確立し儀式化することで安心できるということもあるだろう。「正解」があることの安心感だ。やはり茶道が確立された頃は今よりも命の安全安心に関して危うい時代だったはずだ。確かに、千利休は信長の茶頭であり、信長亡き後は秀吉の茶頭となる。つまり、既に天下統一は成っている。しかし、それは今の時代から振り返ったときにそう見えるだけであって、当時にあってはいつまた権威がひっくり返るかわからない戦国の世の延長の内であっただろう。命というものについて直接的な脅威の陰が感じられる切迫した時代であったのではないか。だから武将の間で茶の湯が流行った。束の間の気休めと言ってしまえば身も蓋もないが、気休めというものが実生活で果たす役割は「気休め」という言葉の印象よりも遥かに大きいと思う。

昨年、仕事帰りに東京ステーションギャラリーで「小早川秋聲」を観た。展示順路の終わりのほうに戦争画が何枚か並んでいた。その中に「出陣の前」というタイトルの作品があった。陸軍大尉の軍服姿の人物が茶を点てている姿である。芝居じみたところがないわけではないが、実際にそういうことはあったのだろう。

道具類についてはどうだろう。例えば陶磁器の場合、仮にここに両手で持って少しはみ出る程度の大きさの碗があるとする。これを日用雑器の飯碗として値段を付ける場合と、茶道具の茶碗として値段を付ける場合とでは、相場が違ってくる。典型的には井戸茶碗で、そもそもは朝鮮半島で雑器として作られ流通していたものが、日本に渡り、茶人に見出されて銘が付けられ、場合によっては名物にされたりすると、値段が何千倍にも何万倍にも跳ね上がることがある。たまに美術館や博物館などで井戸茶碗だけを集めた展覧会が開かれる。何年か前に根津美術館でそういう展覧会を観た。それよりも小規模なものも三井記念美術館で観たことがある。確かに、井戸茶碗だけをずらりを並べて眺めると、似たような姿形ではあっても個性がある。例えば、その一つを著名な茶人が手に取って「これいいね」と呟くと、その瞬間に雑器が名器になるのもわからないではない。そこに個別具体的な尺度があるわけではないのである。権威による承認だけという何の合理性もない頼りない評価だ。しかし、合理性は本当に必要だろうか。見所を箇条書きにして、各点についての評価を合算して「透明性」のある評価を行う。それでものの良し悪しが本当に決まるものなのだろうか。数値化できることにしか目を向けず、そうでないところは無視する。都合の良いところだけを拾い出して「価値」を語る。それでいいのか。権威の主観や直感で決まる評価と、「透明性」ある「合理的」な評価とどちらに得心するだろうか。

家人の父方の祖父が茶道に凝っていて、家人の実家には茶室が設えてある。そこから見える庭も祖父が存命の頃はそれらしく手入れされていたそうだ。茶道具も大量にあり、亡くなった時に形見分けで親戚の間で分けた。亡くなってもう何年にもなるのだが、昨年になってその形見を譲り受けた一人が、祖父が自慢していたという絵高麗の茶碗をナントカ探偵団というテレビ番組に出した。晴れて放送されることになり、自己評価額を300万円としたそうだ。鑑定結果は3,000円。我が家にはテレビが無いので放送を観ることはできなかったが、親戚中で大ウケだったようだ。

勿論、美術館や博物館に収まるようなものは評価の固まったものなのだろうが、芸術は価値を創造する行為だ。評価の定まったものを模倣するうちは芸術にはならない。しかし、評価されないものに関わっていると生活の方が成り立たない。真の芸術家は食えないということになる。尤も、「芸術家」を目指す時点で芸術から遠いところに飛んでしまっている。世にある「芸術家」の多くはそういう看板を掲げた商売人だ。芸術は結果だと思う。商売人の中に芸術家として残る人もいれば、商売人のままで忘れ去られる人もいるのだろう。

本書は赤瀬川が映画『利休』の脚本の執筆を機に考えたことの中から生まれた作品だ。赤瀬川が亡くなった頃に氏の著作を何冊が読んだが、言葉への拘りというか理論理屈にも長けた人だという印象を受けた。事実、尾辻克彦という名義で小説も書いている。本書の最終章「利休の沈黙」は全体のまとめにもなっていて、そこだけ読んでも全体のエッセンスは伝わってくる。

 お茶にしてもお花にしても、お稽古ごとといわれるもの一般が同じ構造を生きている。そこにある形式美に身を潜めることの快感があるのである。そうではない、本来の侘び茶というものは形式美ではなく、それを崩すことにあるのだ、それを打ち破って新しい気持ちのひらめきを見出すことにあるのだ、とマラソンの先頭ランナーが説いたとしても、それは後方集団では何のリアリテイももたないのである。(略)
 前衛としてある表現の輝きは、常に一回限りのものである。世の中の形式の固まりを壊してあらわれ、あらわれたものは、そのあらわれたことでエネルギーを使い果たす。その前衛をみんなで何度も、というのはどだいムリな話なのである。(略)
 しかしいまの世の中は、そこのところを履き違えることになった。一回性をもって特権的に許される瞬間の悪、その前衛の民主化である。前衛をみんなで、何度も、という弛緩した状態が、戦後民主主義による温室効果となってあらわれている。自由と平等という、いわば戦後民主主義の教育勅語が、ふたたび私たちの頭脳を空洞化している。(略)その自由と平等をめぐる判断停止の結果、前衛のスタイルだけが浮遊している。
(227-228頁)

 

梯久美子 『百年の手紙』 岩波新書

やっぱりナマに勝るものはない。ナマの生活のなかで生み出されたナマの言葉。ましてやさまざまに追い詰められた状況で、必死の思いで綴られた言葉には言霊がわんさかと宿っている。活字になった、しかもわずかばかりの引用を読んだだけでもそんなことを感じさせるのだから、自筆の筆圧の変化が如実にわかるような筆致で、書き手の体温が伝わってくるような便箋や葉書に書かれたものを手にしたら、気弱で虚弱体質の私なぞは腰が抜けてしまうかもしれない。

人は関係性の中を生きる。その人が置かれた環境の中でさまざまな影響を受け、あるいは与えて時事刻々変化しながら人生を全うする。人格とか性格の類も当然に生物個体としての個性もあるが、置かれた環境の影響もそれに勝るとも劣らず大きいと思う。或る人が誰かに書く手紙には、その人の生きた時代や環境が全て凝縮されているといえる。自分が意識するとしないとに関わらず、「私」は私個人ではなく、私を巡る関係性の結節点のようなものだからだ。

本書にはいわゆる思想犯として刑務所に収監されていた人が書いた手紙がいくつか紹介されている。今はこうして勝手気儘に好きなことを書いて公に晒しても、それが公序良俗に反していない限り何の規制も無い。しかし、それはたまたま今がそういうことになっているだけで、権力が大衆の思想にまで介入していた時代もあった。

権力が盤石であれば下々が何を言おうが知ったことではないが、権力基盤が脆弱であればその脅威に対して敏感にならざるを得ない。今我々が暮らしている時代は、そういう意味では安定している。また、様々な大衆文化娯楽が花開いた徳川治世もそういう時代だったのだろう。その徳川の世が揺らいで権力が交代した19世紀後半から20世紀前半は新権力が権威を誇示することに躍起になり、反対者を弾圧し、反対勢力と戦争をし、今から振り返ってみれば物騒な時代だった、と見える。その物騒な時代は世界秩序を決する大戦争で徹底的に敗北し、超大権力の支配下に組み込まれることで安定を得て今日に至っている、と私は理解している。

本書で紹介されている獄中で書かれた手紙のうち、いわゆる思想犯の手になるものは4人のものだ。幸徳秋水、管野すが、小林多喜二、宮本顕治で、幸徳と管野は東京監獄、小林が豊多摩刑務所、宮本が東京拘置所だ。

幸徳と管野の手紙が書かれたのは1911年で、当時の東京監獄、後の市ヶ谷刑務所は主に死刑囚の収監と死刑の執行が行われるところだった。二人とも大逆事件で死刑になった社会主義運動家で、おそらく捕まれば死刑との思いはあっただろう。管野の手紙は、手紙というには異様な形態だが、二人の手紙には本当に死を覚悟した者の心の静寂を感じる。

小林の手紙は1930年12月に志賀直哉に宛てて書かれたものだ。書かれた時点では小林が志賀に私淑していて、面識のない志賀に対して一方的に書いたファンレターのようなものだ。1931年1月に保釈され、11月に小林は奈良の志賀の家を訪ねた。奈良の旧志賀邸は現在、「奈良学園セミナーハウス志賀直哉旧居」として公開されている。豊多摩刑務所は1983年に閉鎖され、跡地が平和の森公園と東京都の下水道施設になっている。最寄駅は西武新宿線沼袋駅だ。以前、この二つ先の都立家政駅の近くに住んでいた。娘が小さい頃、平和の森公園には何度も一緒に遊びに出かけた。奈良の志賀直哉旧居も数年前に訪れた。ただそれだけのことだが、それだけのことでこの小林の手紙のところは妙に記憶に残った。

宮本顕治は、おそらく私世代なら共産党の「宮本書記長」として記憶に留めているのではないだろうか。今と違って野党それぞれに特徴のある看板政治家がいた時代の共産党書記長だ。本書で宮本顕治と宮本百合子が夫婦であったことを知った。己の常識の無さに苦笑してしまった。小説というものは殆ど読まないので、小説家のこともまるで知らないのである。

本書に紹介されているのは、その宮本顕治から百合子への手紙である。夫婦間の手紙であり、ラブレターだ。本書には紹介されている半分近くの手紙が何らかの形のラブレターでもある。自分にも経験があるが、終わってしまえば馬鹿馬鹿しいものだ。思い返してみて恥ずかしいというより不思議な感じがする。しかし、それは男女の間だけのことではなく、人間関係遍くそういうものであるように思う。

程度の差、持続時間の違いはあるにせよ、結局のところ世の中は人と人との縁や関係で成り立っている。その関係性の表現にどれほど工夫を凝らし、思索を重ねるかが関係性の強弱を左右する気がする。端的には、手書きの文章や手紙は文面以上のものを伝える力があると思う。達筆であるとか悪筆であるというのは、手紙の力にはあまり本質的なことではない。むしろ、そういうことを気にする相手というのは、大抵はつまらない人間なので、無視して差し支えないとさえ思う。そういうことではなくて、のたうつ線から文字という形状以上のものを伝え合う関係というものに人間の神秘を感じる、と言っては言い過ぎか。その手書きの文字でのやりとりが少なくなっていることが意味するところは何だろう。毎度同じようなことばかりなので、これ以上は書かない。

 

袖井林二郎 『拝啓 マッカーサー元帥様 占領下の日本人手紙』 岩波現代文庫

先日読んだ『百年の手紙』の中に敗戦直後にGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーへ宛てた手紙が2通紹介されていた。それらを紹介するマクラに当たる書き出しが以下のようなものだった。

 連合国総司令官として敗戦後の日本を統治したダグラス・マッカーサー。天皇に代わって絶対権力者となったこの人物に、多くの日本人が手紙を書いた。その数は、確認できるだけで四十一万通以上あるという。
 手紙を発掘・研究した政治学者の袖井林二郎氏による『拝啓 マッカーサー元帥様』(岩波現代文庫)に、その一部が紹介されている。
 日本人が占領という事態によく順応したことは知られているが、手紙の数々を読むと、この新しい支配者に日本人が示した”帰依”と呼びたくなるような崇敬と期待、そして親愛の念に、今さらながら驚かされる。マッカーサーはお気に入りの手紙約三千五百通をファイルし、死ぬまで手許に置いていたという。
(梯久美子『百年の手紙』99頁)

それでこの『拝啓 マッカーサー元帥様』が読んでみたくなり、早速Amazonで取り寄せた。読んで驚いた。日本人って奴は大したもんだと感心した。自分はその時代を生きていないのだが、その時代を生き抜いて今も生きている親の倅である。他所の国の人のことはよく知らないのだが、主要都市が悉く焦土と化した国を、様々な幸運に恵まれたとは言いながら、わずか10年ほどで、多少手前味噌的なところはあるにせよ、「もはや戦後ではない」と国家が宣言するところまで復興させてしまう底力はタダモノではないのである。

尤も、「様々な幸運」と書いたが、時勢の影響は大きいと思う。前にどこかに書いたが2016年6月に福島の原発周辺、2019年7月に気仙沼を訪れた。2011年3月の震災からそれぞれ5年、8年を経ていたが、どちらも「復興」とは程遠い姿だった。何をもって「復興」と呼ぶかという議論はあろうが、少なくとも原発周辺の方には人の暮らしはなかった。

総務省統計局が開示している統計によれば、日本の人口は2008年がピークだ。人がいれば当然にその分の消費や需要が発生する。人口が増勢にある中での経済成長であるとか戦後復興と、人口が減少基調に転じ少子高齢化という構造が確立した中で、特にそうした特徴が顕著な地方経済の災害復興とが同じはずはないのだが、今の日本は一度コケたら容易に立ち直れない状況に置かれているのは確かだろう。

その滅亡過程を食い止める切り札が「インバウンド」であったわけだが、安易に外部の力に依存する発想とか姿勢は、焦土にあってマッカーサーに象徴される占領軍に媚び諂う態度と通底するものがあるように見える。2020年初頭以来の感染症大流行で頼みの「インバウンド」が風前の灯だ。感染症は一時的なもので、物事が「グローバル」に動く趨勢に変わりはなく、今を耐え凌げば再び従来の他力本願的な行き方に回帰するのか、そうした外部依存の危険を憂い、自ら新たな価値創造を模索しようとするのか、興味深い局面に立たされている、と思う。

さて、敗戦の焼け跡に復興の指揮を執る全権限を有する人物が、つい先日までの敵国からやってきた。そのとき人々はどうしたのか、ということの一端が本書から読み取ることができる。勿論、マッカーサー宛の手紙の全てが公平に保存されたわけではないだろうが、それでもかなり私的な願い事の手紙までもが占領政策を立案し執行する上で資料的価値があると認められて保管された。そして今尚50万通近くが米国のナショナル・レコードセンター、マッカーサー記念館、その他公的な施設に資料あるいは史料として保管され閲覧に供されている。本書ではそのうちの一部を内容によって分類し、日本の敗戦直後の姿を活写している。著者の意図はそこではないかもしれないが、そこにこの国の歴史に通底するものを垣間見た思いがした。

権力・権威は常に自己の外部にあり、自己が外部の権威と整合的であることを誇示することで自己の存在確認、自己承認を可能にする。その外部の権威は社会が権威として認識しているものであれば、何でもよいのである。「何でもよい」というと語弊があるが、神、仏、時の領主、幕府、天皇、マッカーサー、あるいはこれらが象徴する何者かを頂き、その時々の社会は成り立っていた。やはり人は人である以前に生き物であり、生き物は生きるために生きるのである。何者を権威として縋るか、というのは生存本能による嗅覚のようなものが選別することであって、たぶん理屈は後付けだ。だから敗戦で流した血と涙が乾かないうちに、人は自分の頭上にそれまでの敵将が君臨することが決まれば躊躇うことなく「マッカーサー元帥様」と擦り寄ることができるのである。

本書の「私的なあとがき」の以下の一節は私には説得力のあるものに思われた。

 入稿してから校正刷りが出てくるまでの間に私はアメリカを訪れたが、GHQで日本人の手紙の翻訳にあたったという、ハワイ生まれ沖縄系帰米二世の元ATIS隊員に、ロサンゼルスで会う幸運に恵まれた。「日本人ってつまらん民族だと思ったね。あんな手紙をマッカーサーに書くなんてサ」とその人はいう。彼の厳しい言葉は、差別に苦しんだ沖縄人うちなんちゆが大和人やまとんちゆ(内地人)に向けて放つ批判の矢だと私は受けとった。
 しかし、もし私が占領下におとなだったら、私も「つまらん民族」の一人として、マッカーサーへ手紙を書いていたのではあるまいか。書かなかった、といい切る自信は私にはない。敗戦から四〇年、占領終結から三三年余の今日の日本は、今やかつての占領者アメリカを見下さんばかりの勢いである。現在の高みに立てば「あんな手紙をマッカーサーに書くなんて」想像もできないことかもしれぬ。しかし逆にいうならば、あのような手紙を書く民族は、自分よりも劣っていると見なした人々に向っては、傲然と胸をそらして見下すのではあるまいか。「日本人はこういう手紙をもっと読む必要があります」という先の永井氏の言葉は、そうした傲慢さへの歯止めの意味だと、私は思う。
(412-413頁)

本書の解説の中でジョン・W・ダワーはこう書いている。

敗戦によってそれでまで信じこまされてきたほぼすべてのものが、粉々に砕け散った時、日本人は昨日まであしざまにののしってきた敵の総大将に身を寄せ、彼を最善の希望と熱望の卓越したシンボルに化したのである。ダグラス・マッカーサーは、日本の「文化的英雄カルチュラル・ヒーロー」となったのだが、そのことをアメリカの同胞はとても理解しきれなかった。
(422頁)

アメリカとは国の成り立ちが全く異なるのだから、日本人の無節操に見えるところが理解されないのは当然、との意見もあるかもしれない。しかし、私も本書に紹介されている手紙は時代背景を考えると「理解しきれない」のである。

 

知里幸惠 編訳 『アイヌ神謡集』 岩波文庫

本書も『百年の手紙』に紹介されていたものだ。

 知里幸恵は、明治三十六(一九〇三)年、北海道の幌別村(現在の登別市)にアイヌ民族として生まれた。そのたぐいまれ語学力と詩才を見いだしたのは、アイヌ語研究で知られる言語学者、金田一京助である。十八歳のとき、金田一の求めに応じて、ユーカラをローマ字で記録し日本語に訳する作業を開始。その正確さと美しさは金田一を驚嘆させた。
(梯『百年の手紙』202頁)

本書にはユーカラの全てが記載されているわけではないだろう。序文を読むと一応の完成稿のようだが、18歳で始めたユーカラの記録作業は1年足らずで終わってしまったからだ。知里は19歳3ヶ月で他界してしまったのである。もともと心臓に疾患を抱えていたのだそうだ。そのユーカラが詩の調べとして美しいとかどうとか、私にはわからない。私に文学的な感性が欠けていることは、時々このnoteに書き殴っている私の短歌や俳句を見れば一目瞭然なので断るまでもないのだが、本書について語る前にはっきりさせておいたほうが良いかと思ったまでだ。

その序文だが、読んでいて涙がこぼれてしまった。アイヌという遠い人々のことではなく、「滅びゆくもの」が自分自身のことに思われたのである。

 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて, 野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ. 僅かに残る私たち同族は, 進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり. しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて, 不安に充ち不平に燃え, 鈍りくらんで行手も見わかず, よその御慈悲にすがらねばならぬ, あさましい姿, おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名, なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう.
 その昔, 幸福な私たちの先祖は, 自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変わろうなどとは, 露ほども想像し得なかったのでありましょう.
(3-4頁)

ユーカラは謡の形をとっているが、そこに語られているのは倫理観や世界観だ。アイヌは文字を持たないが、記録媒体に乏しいというのが実際的な理由だろう。口伝で何事かを伝えようとすれば、記憶に残りやすい形式を取らざるを得ない。リズムに載せやすい言葉、理屈の通った物語などだ。「神(kamui)」という言葉が使われているが、社会のあるべき道理のようなものだろう。自分達の生活を自分達の生活から離れた場所から俯瞰している存在とでもいうべきものだ。ユーカラの中で「神」とは別の扱いだが、物語の主役になっている梟、狐、獺、狼、蛙、兎、貝などもユーカラの語り手や聞き手にとっては「神」のうちと認識されていただろう。こうした動物たちは自分達とは違う存在だが自分達の暮らしの近くで日々接している。そういう点では「神」ともども、人々の正しい行いもそうでない行いもちゃんと見ていて、最終的には人々の行いに対してきちんと判断が下されるという倫理観を担保するものであったと思う。誰のものでもない神の大地で人は仲良く暮らすべきとの倫理観・世界観がユーカラの世界にはある。

生態系という点で生活資源に余裕があり、人の自他の意識を包摂できるうちは国家という形態があろうがなかろうが、人の暮らしを営むことができたのだろう。それが、集団やその生活が拡大する中で余裕がなくなり、自他の意識が先鋭化する中で、「所有」の意識も同様に先鋭化したのではないだろうか。あるいは、余裕があろがなかろうが、所有者が判然としないものは自分の所有にしてしまおうというセコイ了見が本能として人間に備わっているのかもしれない。

自分か他者か、という自他の別の意識が先鋭化するというのは、自分でも他者でもない、という「余白」が許容されないということだ。歴史の中では「入会地」というのがあるが、これは自分のものでもあり他者のものでもあるという「共有」の概念で「余白」とは異なる。あまり考えたことはないのだが、余白を放っておけないというのでは心が休まらないのではないだろうか。誰と会っても、何を見ても、自他の別の意識が先に立ち、「自分」の領域を確保することに汲々としてしまう。そうした「自分」の領域や所有の度合いを数値化して、その数字にひたすら目を走らせる。一人一人が皆そのように「自分」の領域を拡大すること肥大させることに関心を集中したら、有限な物理世界はやがてどうなるだろうか。

数字の多寡、勝ち負け、損得、そんな目先の一瞬にこだわり続ける人生は、緊張に満ちて充実しているように見えるのかもしれない。しかし、自分にとって死活問題であるようなことが、他者から見ればどうでもいいことであるのも一方の現実の姿だ。ほんの少し想像力を働かせれば「余裕」や「余白」はいかようにも創り出すことができる気がする。その想像力を知性とか感性と呼ぶのである。

ところで、北方領土返還の話が一向に進展する気配がない。沖縄が返還されて、北方領土が返還されないのは、交渉相手の差異によるところも勿論大きいのだろうが、「領土」の成り立ちのそもそもの違いが影響しているのではないかと思うのである。沖縄もアイヌの生活圏も「日本」が拡張していく中で「日本」に組み込まれた土地なのだが、「日本」の濃さが違うように思う。例えば、かつては札幌市内においてすら地区によって方言が異なった。それは入植した人々が出身地ごとにまとまって地区を形成したからだ。また、先住民が所謂「国家」を形成していたわけではなく、その先住民にしても「アイヌ」と一括りにできるものか否か議論が残る。幕末に日露和親条約が締結されて日露の国境が確定された際には、おそらく先住民のことは考慮の範囲外で、確定された国境の此方と彼方の両方に先住民の暮らしが残されたままであった。そうしたことをみても、「返還」を叫ぶ声の強さや質的なものに影響が皆無というわけにはいかないのではないかと思うのである。勿論、沖縄には別の問題があることは承知しているが、琉球王国として国家の体を成していた土地とそうではない土地との違いは大きいと思う。


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