熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2020年1月

2020年01月31日 | Weblog

柳田国男『木綿以前の事』岩波文庫

柳田と宮本の本をだいぶ買って、ずいぶん読んでいるうちに熱が冷めて、積んである未読本を消化するためだけに読むような気分になりかけたところで本書を手にすることになった。1911年から1939年にかけての著作や講演をまとめたものである。全く古びたところはない。何を尺度にするかにもよるが、人とはそう変わるものではないということだろう。ホーキンス博士が「地球以外」の天体に「知的生物」が存在する可能性を問われて「地球に知的生物が存在するのか?」と驚いて見せたという話をどこかで読んだが、人は、たぶん、自分で思っているほど賢いものではない。当たり前の思考や工夫があって生活の習俗は変化するが、自他の関係性の構築といった生存の根本にかかわるところは変わりようがないのかもしれない。

表題の「木綿以前の事」は日本人が何を着ていたかという話だ。木綿は日本在来ではない。棉の栽培が国内各地で始まるのは南蛮との交易が活発化あたりからで、当時の日本の人口が2,000万人程度らしい。絹は古くからあったようだが、江戸時代の長崎貿易では主に中国から輸入されるものだった。般に衣類とされていたのは麻だったという。今はそこそこに高級品で総じて木綿製品よりは高価だ。物の値打ちというは時々の関係性のなかで決まることの典型だろう。

「木綿以前の事」の他に18編の小論が収載されている。一言で言えば、日本人の民俗が一定したものではなく、時勢を反映して大きく変化しているということだ。よく「伝統」だの「文化」だのと世に普遍的なものがあるかのような物言いを聞くことがあるが、それは恐らくそのようなものがあって欲しいという願望的幻想だろう。人々の本音のところは「一寸先は闇」で、だからこそ自己が拠って立つところの安定的な基盤とか座標軸を希求するのである。柳田は民俗研究を通じて自ずと変化の当然を了解しているのだが、それでも「本来の日本」などと語ってみせるのは自己の幻想を拭いきれないところがあるからなのか、本書が書かれた時代の社会への配慮なのか。

 

谷賢一『戯曲 福島三部作』而立書房

原発の話。大学時代の同期の友人がその電力会社に勤務していて、たまたまあの地震ときに福2で働いていた。私と同い年だから、本当ならとっくに子会社かどこかに片道出向で実質隠居のはずだったのが、あの事故のためにそのまま福島で勤務を続けることになり、おかげで2016年に発電所周辺を彼に案内してもらう機会に恵まれた。ちなみに彼は例のOL殺人事件のときも本社広報に勤務していて、あの会社が世間の注目を浴びたときにどちらの事件・事故の時も広報担当を務めている特異な巡り合わせの人だ。

その大学時代、私はエコロジー研究会というところに少しかかわった。ゼミの仲間の何人かがその研究会で活動していて畑作業の人手が足りないとのことで手伝いに誘われたのである。畑というのはキャンパスのなかの雑木林や草藪のようなところを開墾して畑にし、有機農法で野菜を作るというものだ。いざ開墾となって改めてわかったのは、日当たりのよい場所は既に畑になっていたということだ。校内の管理作業に従事している人たちが畑を作って趣味的に野菜や草花を育てていたのである。後発の我々は地形的に厳しかったり、日当たりがよくなかったりする場所を開墾せざるをえず、結果的にアメフト部の練習場の脇の笹薮を開墾した。笹とか竹というのは大変に根が複雑に繁茂しており、その除去作業だけで1年近くかかってしまった。藪には藪蚊がつきもので、ま、そんな話はともかく、畑作業の手伝いで関わることになった研究会だが、畑以外の活動としては反原発運動があった。

個人的には反原発のほうにはあまり関心はなく、できちゃったものはいまさらしょうがないじゃないか派だったし、今もその考えは大きく変わっていない。以前、投資のアナリストという仕事をしていたことがあり、現役のアナリストとして最後の国内出張が六ケ所村の再処理施設の建設現場見学だった。その時、少し驚いたのは「再処理」というのは、なんだかんだ言っても、結局は核廃棄物を埋めるだけということだ。本当に「再処理」して使用可能な核燃料になるのは元になる使用済燃料の数パーセントに過ぎず、残りは線量に応じて分類されて、それぞれに応じた容器に収めてそれぞれに応じた深さのところに埋められるだけなのである。おそらくそれは今も同じなのだろう。事故というようなことがなくても、原発は老朽化してやがて廃炉になる。そのとき、廃炉になって発生する大量の廃棄物はどのように処理されるのだろうか。

それで本書だが、納得感満載だ。そりゃそういうもんだろう、と原発誘致当時の現地を知らなくても思う。読み終わって、家にある『写真集 生きる 東日本大震災から一年』という本を開いた。被災後の福島の写真は
2011年4月8日 南相馬市小高区
2011年10月  大熊町
2011年7月18日 浪江町
2011年6月26日 福島市
2011年5月  飯館村
2011年4月10日 南相馬市原町区江井
2011年5月9日 飯館村
2011年7月24日 大熊町
2011年4月16日 飯館村前田
2011年4月21日 浪江町
2011年9月22日 須賀川市浜尾
2011年3月30日 飯館村
2011年4月18日 相馬市
2011年8月14日 飯館村
2011年8月27日 いわき市久之浜
2011年10月9日 二本松市太田
2011年6月7日 須賀川市
2011年11月6日 相馬市
2011年8月11日 福島市
原発に直接関連する地域もそうでない地域もあるが、県外の人から見ればどれも「フクシマ」の写真だ。この震災で被災したのは福島だけではなく、原発の有無に関係なくどこも今なお復興へむけて歩みを進めている最中だ。しかし、原発でどうしても内外の関心は福島に向かいがちであるように感じている人も少なくないのだろう。昨年7月に気仙沼を訪れたとき、或る地元の人が復興の進め方については同じ市内でも地域によって考え方に違いがあるというような言い方をしていて、そういう話の流れの中で福島に対しても微妙な心情を語っていたのが印象的だった。確かに原発があると、その自治体には直接間接の経済効果がある。それは自治体の境界線で断絶するものではなく、経済というのは水の流れのように隣接したところ、場合によっては一見関係のなさそうなところにまで波及するものなのだが、一般の心情としてはそういう有形無形の恩恵にかかわりなく、境界線で物事を見てしまうのも仕方がないことではある。「喉元過ぎれば」で、今は震災も原発も遠い事のようになってしまった感があるが、これからも折に触れて思わぬところで思わぬ影響が現われるような気がする。

ちなみに六ケ所村出張がなぜ「現役最後」の出張になったかというと、その数か月後に勤務先をクビになったからだ。幸い、その後も失業保険の世話にならずに今日に至っているが、アナリストなどというのはいい加減なものだと思う。今は低金利で金融商品らしい金融商品がないので銀行でも投資信託を客に勧めているようだが、あんなものは買わない方がいい。

 

柳田国男『海の道』岩波文庫

「海の道」とは、要するに日本人がどこから来たのか、というときに考え及ぶ経路のことである。島国なのだから海よりほかに「道」はない。しかし、今は「民族」の概念に疑義が呈せられて学問の世界では「日本人」とか「民族」という言葉自体が使われていないのだそうだ。確かに漠とした「日本人」の来歴を問われたところで答えようがない。柳田の時代は「日本人」の幻想が濃厚であったのだろう。さすがの柳田も「日本人」を疑うことはなかったようだ。

一応「日本人」とされる1億数千万人の一人として暮らしていると、なんとなく昔から「日本人」という固有の人々がいるような気になるのだが、生物の系統進化というものがはっきりしているので、それはあくまで「気」の所為であることははっきりしている。つまり「ここ」「この人」というような明確な起源はないのだ。川の上流から流されてきた土砂が少しずつ堆積して洲になり、大地になっていくように、「ナントカ人」が生成されるのだと思う。

しかし、生物として「少しずつ」自分の元が出来てきた、というのは世間一般的には素直に納得できることではないのだろう。生まれようと思って生まれてきたわけではないし、いつか必ず死ぬということも知識としては了解していても、いや了解しているからこそ、人は性急に自己の拠って立つところをはっきりさせたいのである。「そんな無茶な」と思うのだが、無茶を承知で無茶を求めるのが「知的」生物たる人間なのである。

自己があるから自他の認識があり、自他の区別があるからこそ諍いが起こる。そもそも自己は幻想であり方便なのだが、自己を確たるものとする前提の上に人間の社会は築かれていて「科学」もそういう幻想の枠内にある。

結局、民俗というものを詳らかにしていくと、日々の生活に追われる「常民」の姿が浮かび上がる。日常の現象面で己の存在を明らかにするためのとりあえずの納得がいくらもあり、そうしたとりあえずの納得の間の矛盾を解消させる幻想や神話が考え出される。その中に民族とその神話やアイデンティティという幻想もある、ということだろう。



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