昨夜、亡き祖父母の着物などを出してあれこれ語り合ううちに、祖父が着ていたという小千谷縮のシャツをいただくことになった。ただ、かなり色が褪せたり焼けたりしており、このまま着るのは厳しい状態だった。今日、近所の手芸洋品店で染め粉を買ってきて妻が染め直してくれた。
今日は妻の父方と母方の墓参り。いずれの寺も同じような家族が次から次へと訪れており、駐車場への入出庫でちょっとした交通の滞りが生じていた。こちらの墓地は比較的新しい墓石が目立つ。2004年と2007年に大きな地震があり、その前後にも大きな余震が続いたため、多くの墓石が倒壊したからである。墓地の区画は変わらなくても墓石を新しくしたときに墓地全体をグレードアップしたのかどうかは知らないが、墓地が密集した感がある。以前、巣鴨で暮らしていたときには駒込にあった整体院へ通うのに染井霊園を突っ切って往復しており、茶道の稽古には日暮里駅から谷中霊園を突っ切って稽古場に通っていた。そのときの墓地の記憶からすると、こちらの墓地は立て込んだ印象を受けるのである。
先日、伊丹十三のDVDボックスを買った。そのなかに「お葬式」があって何年かぶりに観たが、改めてすごい作品だと思った。なにがどう「すごい」のかは別の機会に書くとして、人は単独で生きているのではなく他人のなかで生きているということが葬式だとか法事といった儀式を通じて再認識されるものだということがよくわかる作品だと思う。人は生まれたときは訳もわからず生まれ、その生まれた場の関係性のなかで成長し、自分でなにかをしたようなつもりになっていても、実のところは縁のなかで生きているのである。死んだ時にはその時の関係性に応じた葬儀が営まれ、墓に入るにせよ、散骨などにせよ、行旅死亡人であれ、その後の手続きが進行する。個人が世間のなかで大きく取り扱われることはあるのだが、それはその人そのものというよりもそういう役回りとしてそういうことになっているのだと思う。
盆というのは自分の先祖との交流ではなく、先祖の存在を起点として今の自分の存在を確認する作業ではないだろうか。つまり、自分の何代か前の人が明らかに存在していて、そこから現在につながっているという時間の存在を確認するということなのである。これは誰でもできるものではない。まず、社会が何世代にも亘って存在していなければならない。建国して数十年とか数百年というような社会では数代遡るだけで神話になってしまう。意識するとしないとにかかわらず、それでは己の存在というものに確信が持てないだろう。そこでどうするかといえば、目に見えるものに縋るのである。それは例えば体系化された宗教であったり、銭金であったりというようなわかりやすいものでないといけない。歴史に名の残る大富豪にユダヤ人が多いとか、現代の億万長者にアメリカ人が多いといったことは、そういうことだろうと思う。
生活に深い根があれば、倹しいことに価値を見出すことができるのではないだろうか。生活の根というものは、それを認識する感性や知性がないとわからない。感性や知性というのは経験によってしか培うことができない。経験というのは毎日の生活のことだ。なんでもない生活に何事を見出すことができるかどうか。見出すためには自分になにが必要なのか。