熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記 2017年7月

2017年07月31日 | Weblog

小沢昭一『私は河原乞食・考』岩波現代文庫

小沢本のとりあえずの最後の一冊。今回読んだ一連の小沢本のなかで一番面白い。これも対談集のようなところもあるのだが、登場する人々が素晴らしい。どの人も筋を通して生きている感じがして、読んでいて自分の背筋が自然に伸びる。生きている限りは一生懸命生きなければならず、どのようなことであれやらなければいけないことには真摯に取り組む、という基本中の基本を改めて認識させられた。

本書で特に印象に残ったのは「トクダシ小屋のトクちゃん」と蛇屋のA氏。トクちゃんはヌード劇場の呼び込みで、取材当時49歳、大正8年生まれ。蛇屋のA氏は予科練出身。あくまで小沢の眼や文章を通して描かれた「トクちゃん」であり「A氏」なので、自分が本人たちと直接関わったらどのような印象を受けるのかわからない。それはそれとして、本書に登場する「トクちゃん」も「A氏」も私にはたいへん魅力的な人物に見えた。何が魅力かといえば、はっきりとした自分の世界観を持っているところだ。芸というのは結局のところは自分の世界観を披露することなのではないか。美しいとはどういうことなのか、格好が良いとはどういうことなのか、その時々の風潮に惑わされることなく一貫した姿勢で自分の想うところを披露できる。そういう人を芸人あるいは職人というのではないか。そういうことは必ずしも大衆からは支持されない。結果として乞食のような生活になる。それでも目先の浮利には目もくれずに己の信じるところを貫く。そこにその人の価値があると思う。

 

林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』講談社学術文庫

みんぱく東京講演会の小長谷先生の回の会場で購入。小長谷先生曰く信頼のできる書とのこと。

常々「ナントカ人」という国民とか民族というような人の括り方に疑問を抱いていて、その疑問は年齢を重ねるに連れて膨らむ一方だ。学問の世界のほうでは、そうした括りに科学的根拠が無いというのが昨今の共通認識なのだそうだ。そういう話を聞くと少しほっとする。例えば、日本人をはじめとして東アジアの人々には蒙古斑があるという「民族的特徴」がある、とされていたが、同様の斑紋はアフリカの人々にもあるのだそうだ。ただ、皮膚の色の関係ではっきりと見えないというだけのことだという。日本人として生まれ日本で育ち生活を営んでいると実感としては「ナントカ人」が「ナントカ」という国を作って暮らしている、のが当然のことのように思える。しかし、世界を眺めればそんな国は例外中の例外だ。

今、相撲界はモンゴル出身の力士たちに席巻され、中国との間に政治的緊張が続き、世間では「モンゴル人」や「中国人」対「日本人」というようなイメージで物事が語れることが多い印象がある。しかし、「日本人」と同じ意味合いの「モンゴル人」とか「中国人」というものが存在するのだろうか?同じことは他の国についても同様だ。「アメリカ人」とは何者か、「イラク人」と「シリア人」は国籍以外になにがどう違うのか、我が国の防衛大臣が辞任をするきっかけのひとつになった南スーダンはスーダンとなにがどう違うのか?

それで本書で扱われている遊牧民だが、私には彼らが生活した大陸というものが想像できない。とにかく闇雲に広いのである。昔、オーストラリアをバスで旅したことがある。最も長い移動はブリースベーンからアリススプリングスまで途中バスを乗り換えながら二泊三日をかけたものだ。町らしい集落もなく、ただ砂漠のような赤茶けた大地をバスは疾走した。このような場所に暮らしというものがあるのだろうかと素朴に思ったのだが、ユーラシア大陸はオーストラリアの比ではない。もちろん、オーストラリアのアウトバックに比べれば気候も多様でそれぞれの土地に応じた生活というものはあるはずだ。定住して農耕を営めばある程度まとまった期間の生活はあるだろうが、そこで十分な生産ができなければ豊かな土地を求めて移動するしかない。農耕というのは短期間に結果が得られるものではないので、収穫まで何かで食いつながないといけない。収穫を待つという判断ができるのは、待つことに耐える蓄えや富の獲得手段がなければならない。自給自足というのは幻想だ。大地というものが遍く生産力を持つならば、農耕によって生活を営むことが自然だろうが、そうでないならば放浪するほうが現実的だろう。大陸全体を一般化するわけにはいかないが、どちらかといえば、移動しながらの生活のほうが自然だったのではないだろうか。とすれば、人あるいは人の集団が移動を繰り返すなかで集団が混交したり分裂したりというようなことを繰り返すのが当たり前ではないだろうか。そういうなかで「ナントカ人」というものが存在すると考えるのは果たして合理的と言えるだろうか?

本書は「ナントカ人」問題を論じるものではないのだが、本書を読んでいて私のなかに渦巻いたのは「ナントカ人」というものを当然のごとくに発想することの知的貧困だった。自分のなかの「歴史」という概念を改めて構築し直さないといけないと思うのである。残り僅かな人生でそんなことができるのだろうかとも思うのだが、人として考えないわけにはいかないと当然のように思うのである。

以下、備忘録的抜き書き。

遊牧民は一般に、地面を掘ったり耕したりすることを嫌う。それは草原を傷つけたくないという気持ちと、土地に縛りつけられた農耕民を軽蔑する気持ちから来ている。(116頁)

リュトンとは、下部に動物形の注口がついた一種の酒杯または容器をさすギリシア語の用語である。上の口から酒(ワイン)を入れ、下の注口から出てくる酒を別の平たい盃に受けてその盃から飲む。つまりリュトンは単に酒を通過させるための道具ということになる。動物形の注口を通ることにより、動物の精気を吸い取った霊酒になると考えられていたのだろう。(166頁)

もともとスキタイ美術では、鹿は最も頻繁に登場する動物モチーフではある。鹿の特徴は何かといえば、それはまず大きな角にある。そして、その角は生え変わる。つまり再生を意味するのだ。(175頁)

一般的に騎馬遊牧民社会では女性の地位は、農耕民社会よりも高いことが知られている。(183頁)

「賢い」ということは、遊牧国家の支配者にとって重要な資質であった。もちろんどんな組織でもリーダーは賢いに越したことはないが、官僚機構がそれほど複雑でなく、トップの判断がその運命を左右する傾向の強い遊牧国家にあっては、とりわけ重要であった。(218頁)

匈奴の刑法は、簡単で厳格である点に特徴がある。(225頁)

中国は地大物博であり、すべて自給自足できるという前提に立っているので、歴代王朝は原則として外国との貿易は必要ないという立場をとっている。例外は朝貢で、これは諸外国が中国の徳を慕って貢物を持ってくるのであるから、断る理由はない。(237頁)

中国の暦を使うということは、中国の権威を認めることになるのである。(278頁)

匈奴が金銀財宝を奪っていったとか、絹織物や穀物を奪っていったなどというような記事は、『史記』にも『漢書』にもまったく登場しない。史料に出てくる略奪の対象は、人間と家畜だけである。(306頁)

交易で成り立っている遊牧国家としては、どんな宗教の商人でも大歓迎、ちゃんと関税を払ってくれれば、安全は保障します、という看板を掲げていたのである。(359頁)


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