熊本熊的日常

日常生活についての雑記

読書月記2019年4月

2019年04月30日 | Weblog

大岡玲 編『開高健短篇選』岩波文庫

付箋というのは自分にとってはけっこう大事な道具だ。以前、無印良品のフィルム素材のものを愛用していたのだが、何年か前に「レジで30%引き」というシールが貼られているのに遭遇した。これは廃番宣言だ。とりあえずそこにあったものを全て買い込んだのだが、昨年それを使い果たし、代わりの付箋を探していた。ようやくCan Doで似たようなものを見つけたのだが、ほどなくこれも廃番に。百均ショップはマークしていなかったので、少し反省して今度は近所にあるDAISOの大型店を覗いてみたら、付箋そのものは似たようなのものなのだが、体裁がいまひとつのものがあった。今とりあえずは手元に付箋の在庫がないので、これを3つ買い求めて使っている。

本を読むときは付箋が欠かせない。気になる箇所に半透明のフィルム素材の付箋を貼りながら読むのである。読み終わると付箋のところだけ読み直し、余計な付箋を外す。そもそも面白そうだと思った本しか読まないので、大抵は付箋がベタベタと貼られた本が書棚に並ぶことになる。しかし、読後に付箋が全く付いていない本もある。それは、そのうちにBook Offへ持ち込まれるものか、永久保存確定のものかどちからである。本書は後者だ。

始めのうちは付箋を貼りながら読んでいたのだが、そのうち付箋を止めた。そして、途中で貼られていた付箋を外して読み続けた。どの作品も読み終えるのが待ち遠しいと感じながら読んだ。普段は小説は殆ど手にしないのだが、これは短篇ということもあって愉快に読めた。

本書は開高の没後30周年ということで刊行された新刊だ。開高は心身とも病が尽きなかったそうだ。妻も一人娘も妙な死に方をしている。自分が開高の没年に近い年齢になって日々凡々と無為に生きているから思うことなのかもしれないが、世間に名を長く残す人というのは、なんとなく気の毒な生を歩んだ人が多いような気がする。やはり、人並みの生活や経験しかしていないと人を驚かせたり感動させたりするようなことはできないのだろう。人は経験を超えて発想できないわけだし、短篇だろうが長編だろうが、まとまった文章を書くには相当の知識と教養と文才が必要だ。自分と他人を比較することに何の意味もないのだが、感心するような文章を読んだ後で、それを書いた人のことを調べてみると腑に落ちてサッパリするものだ。

 
永田和宏『タンパク質の一生 生命活動の舞台裏』岩波新書

「二足の草鞋」というが、本当に複数の異なる生業をどちらも成果をあげながら営む人はそうたくさんはいないのではないだろうか。私は生活を支えているたったひとつの職業すら中途半端なまま定年を目前にしている。本書は歌人としての著者を全く感じさせない内容だ。

 

小倉孝保『100年かけてやる仕事 中世ラテン語の辞書を編む』プレジデント社

人間が損得で動くのが当たり前という浅薄な世界観に違和感を覚える。価値とは何か、というような本源的な部分への問いかけをしたことがないのだろう。尤も、小難しいことをうだうだと考えているようでは大企業で出世などできるものではない。一方で、ある程度の社会的地位があればこそ、人脈もできる。このあたりは微妙なバランスである。本書に登場する取材相手の言葉には琴線に触れるものがあり、そうした人の書いたものをさっそく検索していくつか発注した。そういう広がりのある本という点は評価に値する。

 

アーサー・ビナード『日々の非常口』新潮文庫

新聞に連載されたエッセイをまとめたものらしい。ひとつひとつが核心を突いていて、しかも押しつけがましいところが無いのは、言葉が選び抜かれているのと、それが可能を可能にする著者の感性と知性に拠るのだろう。読んでいて、この人となら友達になれそうな気がした。

本書に紹介されていた栗原貞子の「生ましめんかな」は、このところ続いた人間離れした事件の記憶が醒めやらぬ時期でもあったので印象的だった。

こわれたビルディングの地下室の夜であった
原子爆弾の負傷者達は
ローソク一本ない暗い地下室を
うずめていっぱいだった
生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声
その中から不思議な声がきこえて来た
「赤ん坊が生まれる」と云うのだ
この地獄の底のような地下室で今、若い女が
産気づいているのだ
マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう
自分の痛みを忘れて気づかった
と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは
さっきまでうめいていた重傷者だ
かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた
かくてあかつきをまたず産婆は血まみれのまま死んだ 
生ましめんかな
生ましめんかな
己が命捨つとも 

 

アーサー・ビナード編著『知らなかった、ぼくらの戦争』小学館

『日々の非常口』と一貫した世界観が感じられて編著者への好感度が高くなった。本書はインタビューをまとめたものだが、相手に何事かを語らせるのは、結局のところ、インタビューをする側の人格だと思う。信頼できない人間を相手に自分の想いを語る人間などいるはずがないだろうし、通じないとわかっている話を続ける人もいない。人から信頼されるには、「この人には自分の言うことが通じている」と直感させるに足る知性と感性が不可欠だ。語学の能力だとか表面的な知識といったものは二の次だと思う。

本書にしばしば「愚民化」という言葉が登場する。そこには前提として、支配=被支配という関係構造があるのだと思う。物事を語るには全体の座標軸のようなものを想定しないといけないので、その前提を設けること自体に何の違和感も覚えないのだが、そのままで完結するかのような余韻には警戒が必要だと思う。本書全体のトーンとして、無責任で身勝手な支配層とそれに翻弄される民衆という図式が透けて見える。社会にはそういう側面があるだろうが、それは一断面でしかない。現実は連続していて流動している。単純に支配・被支配という二項に分類はできないと思うのである。

生まれようと思って生まれてきた人はいない。おそらくそのことが自己肯定感を求める本能のようなものの出発点になっているのではないだろうか。好評価を受けるようなことは自分の実績として積み上げたいだろうし、逆に不名誉なことは避けたい、というのも自然なことだろう。自分が属する組織や社会で不祥事が起こったとき、それが己の行為や判断の結果であっても知らんぷりを決め込んだり不可抗力を主張するというのはよくある風景だ。その人が特別卑しいというわけではなく、人とは平均的にそういうものなのだと思う。

たまに家柄を云々する物言いを耳にするが、日本の大名は悉く成り上がり者だ。皇族にしても「神の子」といわれてしまうと、その先の会話が成り立たない。「我が家は代々」と言ったところで「代々」は知れているのである。その薄みっともなさに気付かないとしたら単なる馬鹿であり、わかっていて敢えて強弁しているとしたら詐欺師同様だ。いずれにしてもろくなものではない。他所の国のことは知らないが、似たようなものだろう。どのようなモノサシを当てるかということもあるが、人類の歴史は地球の歴史のなかではまだゴミみたいなものだ。

ゴミどうしで支配だの被支配だのと言ったところで始まらない。支配側に都合のよい民衆を作り上げるのが教育だというのは、教育を買い被っているような気がする。教育で愚民になるのではなく、そもそも愚民なのではないか。自分が愚民だから他人様も愚民呼ばわりする、との指摘を受けそうだが、その通りなので反論のしようがない。

ところで、『日々の非常口』を読んだ後だったので、付箋の用意をせずに本書を読んだ。現時点では、本書はいつまでも手元に残すつもりでいる。


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