自民34%、希望19%…比例投票先・読売調査
昨今の日本国の政治状況と混乱ぶりは、現行の政治システムの欠陥を自ずと浮かび上がらせているように思えます。その一つは、政党主導型の選挙方式では、民主的選挙が国民を一定の方向に誘導する非民主的手段となるという、民主主義のパラドクスです。
通常、憲法において国民の参政権と政治的自由が保障されており、多党制の下での普通選挙が実施されている国家であれば、民主主義国家のカテゴリーに分類されています。民主主義諸国のカテゴリーに入る諸国ではこれらの要件を満たしており、国民も、自国が民主的国家であることに疑いを抱きません。しかしながら、民主主義を“国民の、国民による、国民のための政治”と述べたアブラハム・リンカーンの言葉を思い浮かべますと、実のところ、上述した要件のみでは、民主主義が実現したとは言い難いように思えます。
民主主義とは、被統治者の一部が、被統治者の信託を受けて統治権を預かる自治体制です。選挙とは、統治権を行使する公職、即ち、政治家を選ぶ制度であり、普通選挙が民主主義の要となるのも、それが自治を実現するためには必要不可欠であるからです。民主主義の基本的な流れは、「国民⇒政治」なのです。ところが、現行の政党政治のシステムでは、この流れは逆方向を向いています。政治家、否、政党が自ら率先して政策を国民に立案し、国民に選択を迫る「政治(政党)⇒国民」となっているのです。
一般の国民は統治のプロではありませんので、専門家としの政治家が政策を立案すること自体は理に適っており、取り立てて批判すべきことでもありません。しかしながら、国民の要望や要請(「国民⇒政治」)、あるいは、必要性が存在しないにも拘わらず、唐突に政党側が政策を並べて公約とし、一括方式で国民に選択を迫るとしますと、そこには、一方的に政策を国民に強要する非民主的で傲慢な支配者の顔が見えてきます(「政治(政党)⇒国民」)。
すなわち、すべての政党が、特定のイデオロギーや思想をバックにしており、外国や内外の特定組織への利益誘導を目的とし、公約の一括方式を悪用して悪しき政策を混ぜ込んでいる場合には、教科書的には‘選挙とは、国民の自由な政治的な意思を表示する手段’でありながら、実質的には‘選挙とは、国民が、自らの首を自らの手で絞める手段’に過ぎなくなるのです。
例えば、二大政党制の場合には、A党もB党も、社会改造主義に基づく諸政策を公約として掲げれば、国民は、どちらを選んでも、政府による上からの改造計画の対象にされてしまいます。しかも、民主的国家では、選挙結果は政権の正統性を支えますので、国民に著しい不利益を与えたり、国民の生活基盤を破壊したり、国民性や常識に反する政策であっても、議論らしい議論を経ることもなく、それは、国民が自らの自由意思で選択したということにされてしまうのです。実際には、政党による選択の強要であるにも拘わらず…。
現行の政党政治の仕組みは、明らかに政治プロセスに問題があるように思えます。このパラドクスを解くためには、まずは、「国民⇒政治」という本来の流れを取り戻すべきなのではないでしょうか。民主的選挙を重ねれば重ねるほど、国民が政党によって一方的に政策を押し付けられ、自治から遠ざかる仕組みは、真の民主主義ではないと思うのです。
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通常、憲法において国民の参政権と政治的自由が保障されており、多党制の下での普通選挙が実施されている国家であれば、民主主義国家のカテゴリーに分類されています。民主主義諸国のカテゴリーに入る諸国ではこれらの要件を満たしており、国民も、自国が民主的国家であることに疑いを抱きません。しかしながら、民主主義を“国民の、国民による、国民のための政治”と述べたアブラハム・リンカーンの言葉を思い浮かべますと、実のところ、上述した要件のみでは、民主主義が実現したとは言い難いように思えます。
民主主義とは、被統治者の一部が、被統治者の信託を受けて統治権を預かる自治体制です。選挙とは、統治権を行使する公職、即ち、政治家を選ぶ制度であり、普通選挙が民主主義の要となるのも、それが自治を実現するためには必要不可欠であるからです。民主主義の基本的な流れは、「国民⇒政治」なのです。ところが、現行の政党政治のシステムでは、この流れは逆方向を向いています。政治家、否、政党が自ら率先して政策を国民に立案し、国民に選択を迫る「政治(政党)⇒国民」となっているのです。
一般の国民は統治のプロではありませんので、専門家としの政治家が政策を立案すること自体は理に適っており、取り立てて批判すべきことでもありません。しかしながら、国民の要望や要請(「国民⇒政治」)、あるいは、必要性が存在しないにも拘わらず、唐突に政党側が政策を並べて公約とし、一括方式で国民に選択を迫るとしますと、そこには、一方的に政策を国民に強要する非民主的で傲慢な支配者の顔が見えてきます(「政治(政党)⇒国民」)。
すなわち、すべての政党が、特定のイデオロギーや思想をバックにしており、外国や内外の特定組織への利益誘導を目的とし、公約の一括方式を悪用して悪しき政策を混ぜ込んでいる場合には、教科書的には‘選挙とは、国民の自由な政治的な意思を表示する手段’でありながら、実質的には‘選挙とは、国民が、自らの首を自らの手で絞める手段’に過ぎなくなるのです。
例えば、二大政党制の場合には、A党もB党も、社会改造主義に基づく諸政策を公約として掲げれば、国民は、どちらを選んでも、政府による上からの改造計画の対象にされてしまいます。しかも、民主的国家では、選挙結果は政権の正統性を支えますので、国民に著しい不利益を与えたり、国民の生活基盤を破壊したり、国民性や常識に反する政策であっても、議論らしい議論を経ることもなく、それは、国民が自らの自由意思で選択したということにされてしまうのです。実際には、政党による選択の強要であるにも拘わらず…。
現行の政党政治の仕組みは、明らかに政治プロセスに問題があるように思えます。このパラドクスを解くためには、まずは、「国民⇒政治」という本来の流れを取り戻すべきなのではないでしょうか。民主的選挙を重ねれば重ねるほど、国民が政党によって一方的に政策を押し付けられ、自治から遠ざかる仕組みは、真の民主主義ではないと思うのです。
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