トランプ氏、対北朝鮮制裁強化の大統領令に署名 資金源根絶へ
北朝鮮問題をめぐっては、何故かアメリカと北朝鮮を同列に扱い、双方を同等に“悪”と見なして批判する意見が聞かれます。しかしながらこの批判、善悪の区別を判断基準から外しているのではないかと思うのです。
近年、子供向けのアニメやドラマにおいて、“正義の味方”の活躍をテーマとするものがめっきり減っているようです。毎回、狂暴な怪獣や闇の世界の邪悪なボスなどを、勇気に溢れたヒーローが恰好よく退治するというワンパターンの繰り返しなのですが、多くの子供達は飽きもせずにこうした勧善懲悪のストーリーに熱中したのです。ところが、“正義の味方”の減少と軌を一にするかのように、メディアでは善悪の区別を曖昧化する善悪相対化論が蔓延るようになり、勧善懲悪は、子供の世界のお話として嘲笑されるようにもなりました。“大人の対応をせよ”と、悪の排除はあたかも子供レベルの幼稚な思考として侮蔑するニヒリスティックな傾向が顕著となるのです。
しかしながら、善悪の区別は、果たして未熟で低レベルの思考なのでしょうか。メディアに限らず、御伽話などの子供向けのお話に勧善懲悪ものが多い理由は、幼少期から善悪の区別を付けさせる、あるいは、その能力を育成するための効果的な教育方法であったからのように思われます。悪の本質とは、利己的な目的による他害性にありますので、長じて他者や社会を害することなく、他者をも慈しむような立派な社会の一員となるよう、子供の発育・発達レベルでも分かるように善悪の基準や“善き大人”としての行動規範を単純なストーリーして描いているとも言えましょう。そして、悪を退治し、人々を魔の手から助け出すためには、勇気という美徳を要することも。
この観点から見ますと、勧善懲悪をせせら笑う人々は、実のところ、“善き大人”ではなく、人としての基本能力を忘れてしまっている人々であるのかもしれません。『旧約聖書』の「創世記」でも、アダムとイブは、“善悪を知る木の実”を食したことで、神の如く正邪の区別を付ける能力を得たとされています。この人類誕生の物語は、動物とは異なる人間性の根幹に善悪を区別する能力があることを示しているのかもしれません。ところが、今日にあってこの能力を無視する人々が生じており、善悪の曖昧化と相対化は、人間性の否定に繋がりかねない危険を潜ませていると言わざるを得ないのです(勧善懲悪の減少と犯罪組織の影響力拡大がリンケージしているようにも見える…)。
今日の北朝鮮問題は、「主体思想」という自己中心思想を掲げる北朝鮮による加害性の暴力主義に端を発しています。悪の本質が加害性にあることは上述しましたが、1950年の朝鮮戦争の発端と言い、今般の核・ICBM開発と言い、何れもが、北朝鮮が利己的動機から他国、並びに、国際法秩序への攻撃を企てた結果です。こうした行為が、国際法に照らして“犯罪”、あるいは、違法行為に当たるのみならず、金正恩委員長は、自国民に対しても虐待という罪を犯しているのです。客観的な視点から善悪を判断しますと、“悪”と明確に認定されるのは北朝鮮の側です。北朝鮮が平然と人類の善性を悪用し得るのも、首脳部の思考にも真の意味での善悪の区別が欠如しているからとしか言いようがないのです。そして、北朝鮮の“悪”に目を瞑り、同国の犯罪とアメリカの制裁を同列に論じる論評も、その自覚の有無に拘わらず、“悪の味方”に堕しかねないのではないでしょうか。
現在、アメリカは、国連の枠組と並行して、独自制裁のレベルを一段と上げ、北朝鮮に対する締め付けを強化しています。しかしながら、中国とロシアが北朝鮮擁護の姿勢を崩していない状況では、経済封鎖の効果は限られています。国連が機能しない以上、アメリカの武力行使のみが“悪”の排除を可能とするならば、それは、善、即ち、正義の力の行使として是認されるのではないかと思うのです。
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北朝鮮問題をめぐっては、何故かアメリカと北朝鮮を同列に扱い、双方を同等に“悪”と見なして批判する意見が聞かれます。しかしながらこの批判、善悪の区別を判断基準から外しているのではないかと思うのです。
近年、子供向けのアニメやドラマにおいて、“正義の味方”の活躍をテーマとするものがめっきり減っているようです。毎回、狂暴な怪獣や闇の世界の邪悪なボスなどを、勇気に溢れたヒーローが恰好よく退治するというワンパターンの繰り返しなのですが、多くの子供達は飽きもせずにこうした勧善懲悪のストーリーに熱中したのです。ところが、“正義の味方”の減少と軌を一にするかのように、メディアでは善悪の区別を曖昧化する善悪相対化論が蔓延るようになり、勧善懲悪は、子供の世界のお話として嘲笑されるようにもなりました。“大人の対応をせよ”と、悪の排除はあたかも子供レベルの幼稚な思考として侮蔑するニヒリスティックな傾向が顕著となるのです。
しかしながら、善悪の区別は、果たして未熟で低レベルの思考なのでしょうか。メディアに限らず、御伽話などの子供向けのお話に勧善懲悪ものが多い理由は、幼少期から善悪の区別を付けさせる、あるいは、その能力を育成するための効果的な教育方法であったからのように思われます。悪の本質とは、利己的な目的による他害性にありますので、長じて他者や社会を害することなく、他者をも慈しむような立派な社会の一員となるよう、子供の発育・発達レベルでも分かるように善悪の基準や“善き大人”としての行動規範を単純なストーリーして描いているとも言えましょう。そして、悪を退治し、人々を魔の手から助け出すためには、勇気という美徳を要することも。
この観点から見ますと、勧善懲悪をせせら笑う人々は、実のところ、“善き大人”ではなく、人としての基本能力を忘れてしまっている人々であるのかもしれません。『旧約聖書』の「創世記」でも、アダムとイブは、“善悪を知る木の実”を食したことで、神の如く正邪の区別を付ける能力を得たとされています。この人類誕生の物語は、動物とは異なる人間性の根幹に善悪を区別する能力があることを示しているのかもしれません。ところが、今日にあってこの能力を無視する人々が生じており、善悪の曖昧化と相対化は、人間性の否定に繋がりかねない危険を潜ませていると言わざるを得ないのです(勧善懲悪の減少と犯罪組織の影響力拡大がリンケージしているようにも見える…)。
今日の北朝鮮問題は、「主体思想」という自己中心思想を掲げる北朝鮮による加害性の暴力主義に端を発しています。悪の本質が加害性にあることは上述しましたが、1950年の朝鮮戦争の発端と言い、今般の核・ICBM開発と言い、何れもが、北朝鮮が利己的動機から他国、並びに、国際法秩序への攻撃を企てた結果です。こうした行為が、国際法に照らして“犯罪”、あるいは、違法行為に当たるのみならず、金正恩委員長は、自国民に対しても虐待という罪を犯しているのです。客観的な視点から善悪を判断しますと、“悪”と明確に認定されるのは北朝鮮の側です。北朝鮮が平然と人類の善性を悪用し得るのも、首脳部の思考にも真の意味での善悪の区別が欠如しているからとしか言いようがないのです。そして、北朝鮮の“悪”に目を瞑り、同国の犯罪とアメリカの制裁を同列に論じる論評も、その自覚の有無に拘わらず、“悪の味方”に堕しかねないのではないでしょうか。
現在、アメリカは、国連の枠組と並行して、独自制裁のレベルを一段と上げ、北朝鮮に対する締め付けを強化しています。しかしながら、中国とロシアが北朝鮮擁護の姿勢を崩していない状況では、経済封鎖の効果は限られています。国連が機能しない以上、アメリカの武力行使のみが“悪”の排除を可能とするならば、それは、善、即ち、正義の力の行使として是認されるのではないかと思うのです。
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