政治の世界では、日常的に‘指導力’という言葉が高い頻度で使用されています。政治関連の新聞記事やニュース番組でも、首相が国際会議等に出席した際や、国内において新たな政策を打ち出したり、所信表明演説を行なう時には、必ずと言ってよいほど最後は‘○○首相の指導力が問われています’、あるいは、‘○○首相の指導力が期待されます’といった言葉で締めくくられます。あたかも結語の定型句と化しているかのようなのです。
内閣支持率を調査する世論調査にあっても、政権を支持する理由として「指導力があるから」という選択肢が準備されており、政治家の指導力は、肯定的な要素として扱われています。しかしながら、指導力とは、かくも手放しで評価すべき能力なのでしょうか。自らの‘超人的な指導力’をもって独裁体制の樹立と自らへの絶対忠誠を要求したヒトラーの事例のみならず、平等という価値をもって革命を起こした共産主義国家にあっても、毛沢東は、‘人民には指導者が必要である’として‘独裁’を正当化しました。今日の北朝鮮にあっても‘偉大なる指導者’は、独裁者の枕詞ともなっています。指導力は、しばしば人々を理想とは正反対の方向に連れて行ってしまう、詐術的な効果を発揮してしまうのです。
指導力と独裁者との関係を述べるまでもなく、学校での光景を想像すれば、‘指導力’の問題性は容易に理解できます。学校でもリーダー的な生徒が出現しますと、段々と教室の空気は息苦しくなってゆきます。他の生徒達は、このリーダーの生徒の顔色を伺うようになり、周囲に‘取り巻き’ができてゆきます。文化祭や運動会といった学校行事などに際しても、リーダーの意向を無視できなくなるかもしれません。ダークサイドのリーダーは‘番長’とも呼ばれるのでしょうが、この現象は、必ずしも所謂不良的なリーダーに限ったことではありません。リーダーという存在そのものが、自由な空気を失わせてしまうのです。中には、同リーダーが醸し出すカラーに馴染まず、登校拒否となる生徒も現れるかもしれません。
もちろん、良い意味でのリーダーが必要とされる場面もないわけではありません。それは、メンバーの全員が重大な危機に直面した時です。誰かが、危機から脱するための賢明な方法を提案し、皆の協力の下でこれを実行しなければ、全員が大きな損害を被ることになるからです。最悪の場合には、誰一人として生き残れなくなります。古今東西を問わず、リーダーを要する主たる場面が戦争であったことは言うまでもありません。こうした危機的状況にあってこそ、リーダーシップはプラスの能力として評価されるのであり、政治家の能力としてリーダーシップが強調されるのも、今日に至るまで戦争が頻発してきたからなのでしょう。もっとも、戦争にあっては、リーダー達の半分は‘敗軍の将’となりますので、能力の低い人物がリーダーとなることは、最大のリスクであることも偽らざる事実です。言い換えますと、必要とされるのは‘優れたリーダー’であって、しかもそれは、有事に限定されているのです。
有事は時代の転換点ともなる重大事件ではあっても、人類史の大半を占めているのは平時です。となりますと、指導力の必要性は必ずしも高くはなく、民主主義の本質からしますと、統率型や牽引型、ましてや独断専行型のリーダーよりも、多くの人々の意見や利害関係を調整する合意形成のための‘まとめ役’の方がまだ‘まし’です。誰もが誰気兼ねなく自由に自らの意見を述べることができ、自由闊達な議論ができる空間が維持される方が、余程、大切なことなのですから。そしてそれは、誰か一人に依存するのではなく、皆が協力して自由な空間を護るべきと言えましょう。
‘指導者願望’、あるいは、‘政治には指導力が必要’とする固定概念が自らを苦しめ、民主主義の成立条件とも言える自由な言論空間を萎縮させるのであれば、現代という時代にあっては‘百害あって一利なし’となりましょう。‘指導力’という言葉が自らをも縛る呪縛であったことに気がつくとき、未来に向けた政治の方向性も見えてくるように思えるのです。