大阪府と京都府の境界にちかい京都府乙訓郡大山崎町。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)と呼ばれる由緒正しい神社が在りまんねん。
今回はそんな訳でJR東海道本線(京都線)の山崎駅で下車しましたんや。
(JR東海道本線 山崎駅舎)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット

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JR山崎駅には下り線のホームに大阪府と京都府の境を示す標識が置かれていまっせ。
ホームの下を小川が流れてまんのや、こんな小さい川が境目になっているようでんな。
この駅を含めて付近一帯は江戸時代までは離宮八幡宮の所領やったそうですわ。
明治4年(1871年)に東海道本線を造る為に手放しはったようでんな。
離宮八幡宮はこのJR山崎駅から徒歩3分の処にあります。
ほんなら 行きまひょか~
(離宮八幡宮 東門)

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お寺の門と間違いそうな感じだっせ、〆縄が張ってあるから神社でんな。
(離宮八幡宮 惣門) (正門のようですな)

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幕末の蛤御門の変に際してこの神社は長州勢の集結地に使われたんでんな。
蛤御門の戦いに敗れここまで逃げ延びた長州軍は追撃した薩摩や会津の軍勢に
ここでも敗れ離宮八幡宮と付近の民家は全て焼け払われたそうでっせ。
唯一、焼け残ったのはこの正門と東門だったんやそうな。
ほな~ 境内へお邪魔しまひょかな。
(離宮八幡宮 大鳥居と中門)

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大鳥居の足の向こう側に「河陽宮跡」と書かれた石碑が建ってまっしゃろ。
少し遠いので見ずらいかもしれまへんけど。
平安時代初期の嵯峨天皇の離宮跡で淀川の北側に位置するので「河陽宮」と
天皇自ら名付けたそうですわ
だから、この八幡宮を明治以降は離宮八幡宮と呼ぶようになったようでんな。
(離宮八幡宮 拝殿と本殿)

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ここまでの画像じゃ何処にでも在る普通の八幡宮のお宮さんでっしゃろ。
ところが~ この神社は江戸時代までは凄い資格を持ってましたんや。
(離宮八幡宮 本邦製油発祥の地)

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(離宮八幡宮 油祖の像)

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平安時代に八幡宮の神官が「長木」と称する油を絞る器具を考えたんやそうですわ。
荏胡麻(えごま)の実を絞って荏胡麻油ちゅうのを取り出したんでんな。
当時は小さい皿に油を注いで明かりを灯すのに荏胡麻の油が使われていたようですわ。
ここ離宮八幡宮は京都の寺社仏閣を始め朝廷や幕府にも荏胡麻油を献上し
引き換えに全国に油を売る専売特許のような資格を得たそうでんな。
そんな訳で、離宮八幡宮は日本の製油発祥の地と呼ぶように成ったんですわ。
(荏胡麻 えごま) (シソ科の1年草)

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最近はこの荏胡麻油が健康食品だとか称して売られているそうでんな。
本来は灯明用の燃料として平安時代から使われていたそうですわ。
ここ離宮八幡宮の神人(じんにん)が大山崎油座ちゅうのを組織し
独占的に売り歩き室町時代には武器まで所持して往来したんやそうな。
三代将軍・足利義満は石清水八幡宮の出の母親の関係も在って離宮八幡宮には
特別な保護を与えたようですな
岐阜県の不破の関所の通行料を免除する許可書が神社に残されてます。
(大山崎油座 専売特許を示す標識) (復元された物ですけど)

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こんな標識を持って全国を廻った1人に美濃の国を乗っ取った斎藤道三が居てま
彼かもしくは彼の父親が大山崎油座の神人だったと言われてまっしゃろ。
室町時代にはこの鑑札が無ければ油を取り扱えなかったそうでんな。
ここ大山崎は淀川を遡上する船の港として中世には「山崎津」と呼ばれ
荏胡麻の取り扱いは勿論の事
京都へ向かう物資の船着き場として最も栄えた町だったようでっせ。
最盛期には関所の通行料の免除や守護の立入り禁止など特別な権利を得て
我がもの顔で全国を闊歩し荏胡麻油を売り歩いたようでんな。
ただ大和(現在の奈良県)だけは興福寺の傘下にある符坂油座ちゅうのが在って
売りに入れなかったとの記録が残ってますけど。
江戸時代に入り大坂で菜種油や綿実油が出回るようになって大山崎油座は
急速に勢力を失ってしまったそうですわ。
それでも江戸幕府からは大きな所領を安堵され幕末の蛤御門の変までは
神社としては大きな勢力を保持していたようですわ。
(離宮八幡宮 石清水の囲い屋)

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平安時代に清和天皇の命で九州の宇佐八幡宮から分霊した八幡さんを
最初に安置し、ここから現在の京都府八幡市へ移したと記録されてます。
(石清水 現在も湧き出しています)

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(石清水の 由緒を書いた立札)

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現在は石清水八幡宮と言えば川向かいの京都府八幡市に在る方を言うんでっけど。
でも由緒書きに書かれているように元宮としての歴史がありまんので
江戸時代まではここも石清水八幡宮と呼んでいたようでんな。
(離宮八幡宮 石灯籠) (元禄八年の銘)

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(離宮八幡宮 石灯籠) (安永五年の銘)

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江戸時代に奉納された石灯篭も数多く境内に残ってまんねんで。
元禄八年と言えば今から320年ぐらい前になりまっしゃろな。
(奉納 東京油問屋市場 創立100周年記念)

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現在でも製油メーカー10社及び油問屋さんはこの離宮八幡宮の氏子さんでっせ。
春と秋の例祭には献金されたり奉納をされてはりまんな。
昔はここのお祭を「南祭り=藤祭り」と呼び「北祭り=葵祭り」と並んで
京都の有名なお祭りの時代が在ったそうです。
昔は勅使が先に、ここ離宮八幡宮へお参りされてから船で対岸へ渡り
それから石清水八幡宮へお参りするという格式の高い神社だったようでっせ。
現在は勅使はここには来られず氏子と離宮八幡宮の神主さんだけでやられるそうな。
(サルスベリの花と 離宮八幡宮の正門)

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離宮八幡宮は国鉄に敷地を提供したり民間に土地を譲渡した為に現在は
江戸時代の三分の一ぐらいの敷地になってしまったそうですわ。
ここは有名な天下分け目の天王山の麓で豊臣秀吉と明智光秀が
合戦をした古戦場でもあります。
次回は大山崎町の風景を紹介したいと思っていまんねん。
ほな~ 今日はこれでさいなら~
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)と呼ばれる由緒正しい神社が在りまんねん。
今回はそんな訳でJR東海道本線(京都線)の山崎駅で下車しましたんや。
(JR東海道本線 山崎駅舎)

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JR山崎駅には下り線のホームに大阪府と京都府の境を示す標識が置かれていまっせ。
ホームの下を小川が流れてまんのや、こんな小さい川が境目になっているようでんな。
この駅を含めて付近一帯は江戸時代までは離宮八幡宮の所領やったそうですわ。
明治4年(1871年)に東海道本線を造る為に手放しはったようでんな。
離宮八幡宮はこのJR山崎駅から徒歩3分の処にあります。
ほんなら 行きまひょか~
(離宮八幡宮 東門)

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お寺の門と間違いそうな感じだっせ、〆縄が張ってあるから神社でんな。
(離宮八幡宮 惣門) (正門のようですな)

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幕末の蛤御門の変に際してこの神社は長州勢の集結地に使われたんでんな。
蛤御門の戦いに敗れここまで逃げ延びた長州軍は追撃した薩摩や会津の軍勢に
ここでも敗れ離宮八幡宮と付近の民家は全て焼け払われたそうでっせ。
唯一、焼け残ったのはこの正門と東門だったんやそうな。
ほな~ 境内へお邪魔しまひょかな。
(離宮八幡宮 大鳥居と中門)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
大鳥居の足の向こう側に「河陽宮跡」と書かれた石碑が建ってまっしゃろ。
少し遠いので見ずらいかもしれまへんけど。
平安時代初期の嵯峨天皇の離宮跡で淀川の北側に位置するので「河陽宮」と
天皇自ら名付けたそうですわ
だから、この八幡宮を明治以降は離宮八幡宮と呼ぶようになったようでんな。
(離宮八幡宮 拝殿と本殿)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここまでの画像じゃ何処にでも在る普通の八幡宮のお宮さんでっしゃろ。
ところが~ この神社は江戸時代までは凄い資格を持ってましたんや。
(離宮八幡宮 本邦製油発祥の地)

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(離宮八幡宮 油祖の像)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
平安時代に八幡宮の神官が「長木」と称する油を絞る器具を考えたんやそうですわ。
荏胡麻(えごま)の実を絞って荏胡麻油ちゅうのを取り出したんでんな。
当時は小さい皿に油を注いで明かりを灯すのに荏胡麻の油が使われていたようですわ。
ここ離宮八幡宮は京都の寺社仏閣を始め朝廷や幕府にも荏胡麻油を献上し
引き換えに全国に油を売る専売特許のような資格を得たそうでんな。
そんな訳で、離宮八幡宮は日本の製油発祥の地と呼ぶように成ったんですわ。
(荏胡麻 えごま) (シソ科の1年草)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
最近はこの荏胡麻油が健康食品だとか称して売られているそうでんな。
本来は灯明用の燃料として平安時代から使われていたそうですわ。
ここ離宮八幡宮の神人(じんにん)が大山崎油座ちゅうのを組織し
独占的に売り歩き室町時代には武器まで所持して往来したんやそうな。
三代将軍・足利義満は石清水八幡宮の出の母親の関係も在って離宮八幡宮には
特別な保護を与えたようですな
岐阜県の不破の関所の通行料を免除する許可書が神社に残されてます。
(大山崎油座 専売特許を示す標識) (復元された物ですけど)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
こんな標識を持って全国を廻った1人に美濃の国を乗っ取った斎藤道三が居てま
彼かもしくは彼の父親が大山崎油座の神人だったと言われてまっしゃろ。
室町時代にはこの鑑札が無ければ油を取り扱えなかったそうでんな。
ここ大山崎は淀川を遡上する船の港として中世には「山崎津」と呼ばれ
荏胡麻の取り扱いは勿論の事
京都へ向かう物資の船着き場として最も栄えた町だったようでっせ。
最盛期には関所の通行料の免除や守護の立入り禁止など特別な権利を得て
我がもの顔で全国を闊歩し荏胡麻油を売り歩いたようでんな。
ただ大和(現在の奈良県)だけは興福寺の傘下にある符坂油座ちゅうのが在って
売りに入れなかったとの記録が残ってますけど。
江戸時代に入り大坂で菜種油や綿実油が出回るようになって大山崎油座は
急速に勢力を失ってしまったそうですわ。
それでも江戸幕府からは大きな所領を安堵され幕末の蛤御門の変までは
神社としては大きな勢力を保持していたようですわ。
(離宮八幡宮 石清水の囲い屋)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
平安時代に清和天皇の命で九州の宇佐八幡宮から分霊した八幡さんを
最初に安置し、ここから現在の京都府八幡市へ移したと記録されてます。
(石清水 現在も湧き出しています)

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(石清水の 由緒を書いた立札)

photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在は石清水八幡宮と言えば川向かいの京都府八幡市に在る方を言うんでっけど。
でも由緒書きに書かれているように元宮としての歴史がありまんので
江戸時代まではここも石清水八幡宮と呼んでいたようでんな。
(離宮八幡宮 石灯籠) (元禄八年の銘)

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(離宮八幡宮 石灯籠) (安永五年の銘)

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江戸時代に奉納された石灯篭も数多く境内に残ってまんねんで。
元禄八年と言えば今から320年ぐらい前になりまっしゃろな。
(奉納 東京油問屋市場 創立100周年記念)

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現在でも製油メーカー10社及び油問屋さんはこの離宮八幡宮の氏子さんでっせ。
春と秋の例祭には献金されたり奉納をされてはりまんな。
昔はここのお祭を「南祭り=藤祭り」と呼び「北祭り=葵祭り」と並んで
京都の有名なお祭りの時代が在ったそうです。
昔は勅使が先に、ここ離宮八幡宮へお参りされてから船で対岸へ渡り
それから石清水八幡宮へお参りするという格式の高い神社だったようでっせ。
現在は勅使はここには来られず氏子と離宮八幡宮の神主さんだけでやられるそうな。
(サルスベリの花と 離宮八幡宮の正門)

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離宮八幡宮は国鉄に敷地を提供したり民間に土地を譲渡した為に現在は
江戸時代の三分の一ぐらいの敷地になってしまったそうですわ。
ここは有名な天下分け目の天王山の麓で豊臣秀吉と明智光秀が
合戦をした古戦場でもあります。
次回は大山崎町の風景を紹介したいと思っていまんねん。
ほな~ 今日はこれでさいなら~