踊っていて、苦しくなることもある。
抑えていたものが浮上してくることもある。
それはもうそろそろ奥にあるものを認めてよ、というサインなのだ。
人も自分も傷つけず、リリースして行く自分なりの方法を見つけること。
パニックになったり、不穏になったりしている人には、とりわけゆっくりと低いトーンの声で話しかけることがだいじなのだ。話し方とスピードと声のトーンで、意味の伝わり方が相当変わる。
自分が病で死ぬかもしれぬ、と思った後、世界は本当に美しく見えた。何の変哲もない緑の葉のそよぎ。風の音。子供の歓声。鳥のさえずり。病を得て獲得したのは、個我のフィルターのかからない世界だった。
今も、世界は美しい。
死を目前にしたら、
多くひとはきっと、
自分がし残したことや、
やりたいのにまだやれていなかったことに意識を向けるのだろう。
レイシストの人は、
死の床でもまだ韓国人を憎むのだろうか。
時代は確かにゆっくりとであるが、身体性の方向にシフトしていっている。だからこそ、それぞれの分野での研究姿勢と、それを他の分野の方と分かち合うことがとても大事よね。学術と、学術以外の交流とかね。研究者はすべからくフィールドワークせよ、だな。
レイシストの人たちの発言を見ていると、
社会や自分への怒りや不満を
自分よりも下に見ていい(と彼らが思っている)韓国の人に向けているね。
よもや、韓国人を日本からすべて追い出したとしても、彼らの不満も地位も、きっと変わらない。また別の対象を見つけるだけだろうと思う。
レイシストが憎んでいるものは、
レイシスト自身の内側にあるものなのだ。それを外的自己に置き換えている限り
憎しみは収まらないし、
その怒りが自分を傷つけていることにも気づかない。
生育歴で味わった痛みや辛さ、悔しさを権力や金で解消する方向に行くと、そのひとは必ず暴君になる。なぜなら、自分はもう弱い人間じゃないから!と精一杯のチカラを駆使してアピールしたいから。本当は癒されていない部分があるゆえの「示威行為」なのだけれど。そして、人を巻き込みたがる。
慶應で、こんなのをやっているんですね。
ポートフォリオBUTOH portfolio-butoh.jp/hijikata-tatsu…
大阪に向かい移動中。この天気では、富士山が見えず残念。車中の友はこれ。
美術手帖がこんな特集組む時代なんだな。 pic.twitter.com/hPpcCRTXbN
@animanma おや!そうだったの。気があいますね(笑)全国のギャラリーや美術館ガイドがついてるのが嬉しかったよ。