♪伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張なー名古屋は城でもつ というのが伊勢音頭の歌詞だそうです。これに合いの手やら、節回しやらを入れて、ワンコーラスができあがります。
「七・七・七・五」のフォーマットにことばを流し込めば、次から次と歌が生まれます。「ソラソラヤ~トコセ~ノヨ~イヤナ」「あれは伊勢~これは伊勢~サ~サヨォ~伊勢」文字にすると、なんじゃそれと思いますが、楽器と声があれば、歌として成立して、この間によって私たちの心は揺れ動いていきます。
歌のことばは、そりゃ大事だけれど、そこにメロディと声がなければ、歌は生きてこない。歌詞カードを見せられても、ただのことばでしかないものが、歌として成立したら、ドーンと私たちの心に飛び込んできます。
決められた文句というか、定番の歌があって、そこから派生していく歌があります。
三重県に関係のあるものを取り出してみます。
*1 沖も暗いのに 白帆が見える あれはな~紀伊の国 みかん舟
*2 西行法師は お伊勢へ参り 読んでな~拝んで すすり泣き
*3 伊勢路なつかし ご先祖さんが 呼んでな~いるよな 春の風
*4 伊勢参りに 朝熊(あさま)をかけよ 朝熊な~かけねば 片参宮(かたさんぐう)
*5 伊勢の旅路に うれしいものは 道のな~眺めと 伊勢音頭
*6 お伊勢音頭に 心も浮いた わしもな~踊ろか 輪の中で
*7 お伊勢参りに 扇を拾うた 扇な~目出度や 末繁昌(すえはんじょう)
*8 伊勢へ七度(ななたび) 熊野へ三度(みたび) 愛宕(あたご)な~様へは 月参り
*9 伊勢へ伊勢へと 萱の穂もなびく 伊勢はな~茅葺き(かやぶき) 柿葺き(こけらぶき)
*10 わしが国さは お伊勢が遠い お伊勢な~恋しや 参りたや
*11 お伊勢よいとこ 菜の花続き 唄もな~懐かし 伊勢音頭
昔の旅人は、お伊勢参りをして、旅の思い出に旅籠でおネエさんたちと豪勢に遊んだことでしょう。ここで歌などを憶え、旅の土産として持ち帰り、全国に広まったということです。江戸時代の後半には、お伊勢さんは文化の発信基地の1つであったらしい。
発信基地というのは、それは名誉なことで、全国に影響したのだから、それはそれでいい。でも、本当の自分たちの文化を忘れてしまいがちで、現在の伊勢界隈は、神宮周辺はさすがに全国からお参りのお客さんが見えますし、20年に一度の遷宮の前には、神宮のお社を造る木材を市内巡行(「お木挽き」というようです)したりはしますが、何だか本当の顔はどこにあるの? という気になります。
首都圏と同じように、全国から人が集まり、活気があり、政治・経済・文化の中心ではあるけれど、江戸時代から持っていたものがどれくらい保持されているのか、たぶんあると思いますが、何だか不安になります。
伊勢音頭のバリエーションの中に、卑猥な歌がたくさんあって、男女のストレートな恋愛を歌うものがあります。文字として見ると、「いかがなものか」ということになりますが、でも、これがお座敷で、三味線の伴奏と人の声から出たら、聞いている方は、ことば一つひとつがしみこんで、何とも言えない幸福感に浸れたのではないかと想像します。
おおらかな恋愛を、あけっぴろげに声に出して歌われると、「ああ、こういうのもありか」と、楽しんでしまえるような気がします。
私たち日本人は、お馬鹿なようで、まじめにこうした歌も歌い続けてきたのです。文字にしたらダメだけど、心のどこかに刻むと、心のヒダに入り込むような歌を持っていた。
柳田国男さんの「清光館哀史(せいこうかんあいし)」という文章の中に、思い出深い「歌」のことが語られていました。柳田さんたちは研究で旅している東北のさびしい海辺の町で、一夜の宿を借りることになりました。どうにか見つけた旅館には、印象に残る穏やかなおばあさんがいたということでした。
何年後かにふたたびその町を訪れると、旅館の清光館はすでになかった。そこで柳田さんは数年前の一夜を思い出し、あのばあさまはどうしたろうと思いやり、浜辺で行われていた盆踊りに思い至ります。
民俗学の研究で東北に入っているので、人々の文字化されていないものを取り上げ、人々の伝えているものとは何かを顕在化させなくてはならず、盆踊りの歌詞を取材するのですが、だれもその歌詞をちゃんと教えてくれなかったという経験があった。そして、数年後の今、思い出の旅館は消滅し、人々も移り変わっている。
昭和の初めのことなのに、まるで中世の説話文学的な世界がそこにあって、柳田さんはあの時の歌詞はたぶんこんなことではないかと語るのでした。
それは、「なにャとやーれ なにャとなされのう ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。………要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼びかけた恋の歌である」だったということでした。
私は盆踊りに参加していません。私の住む町にはそういう文化はありません。近所の保育園では夏祭りに、それらしいものがあるかもしれませんが、小学校に上がれば、それも消えてしまう。もう私は断絶された世界に住んでいます。自分は過去の歴史の中で生きているようなつもりになっていますが、全然過去とつながって生きていない。どこかに何かは残っているかもしれないけれど、先祖から伝えられた歌は持っていない。母が歌っていた歌とか、昔聞いた歌謡曲などは多少残っていますが、それ以外の歌を持たない、ある意味かわいそうな人間になっています。
それを痛切に感じたのは、今朝、BSで国東半島の番組があって、今も国東半島の集落では、初盆のおうちでは庭先でお盆の夜に一晩中踊る習慣があって、若い人も参加して、盆踊りのはしごをする。楽器は太鼓だけ。そこに歌を添えるだけのシンプルなもので、だから一晩中踊れて、踊るうちに亡くなった人が帰ってきたような、かつて亡くなった人も同じようにこの村でみなと一緒に踊っていたような、過去・現在・未来がつながる風習が今もあるのだと、心底うらやましくなりました。
私も、今からでも遅くないので、せいぜいそうした日本人が残してきた文字にならない歌や踊りに少しでも参加して、その一員になれたら、少しは日本人がわかるかなと思います。家に閉じこもってちゃダメですね。
「七・七・七・五」のフォーマットにことばを流し込めば、次から次と歌が生まれます。「ソラソラヤ~トコセ~ノヨ~イヤナ」「あれは伊勢~これは伊勢~サ~サヨォ~伊勢」文字にすると、なんじゃそれと思いますが、楽器と声があれば、歌として成立して、この間によって私たちの心は揺れ動いていきます。
歌のことばは、そりゃ大事だけれど、そこにメロディと声がなければ、歌は生きてこない。歌詞カードを見せられても、ただのことばでしかないものが、歌として成立したら、ドーンと私たちの心に飛び込んできます。
決められた文句というか、定番の歌があって、そこから派生していく歌があります。
三重県に関係のあるものを取り出してみます。
*1 沖も暗いのに 白帆が見える あれはな~紀伊の国 みかん舟
*2 西行法師は お伊勢へ参り 読んでな~拝んで すすり泣き
*3 伊勢路なつかし ご先祖さんが 呼んでな~いるよな 春の風
*4 伊勢参りに 朝熊(あさま)をかけよ 朝熊な~かけねば 片参宮(かたさんぐう)
*5 伊勢の旅路に うれしいものは 道のな~眺めと 伊勢音頭
*6 お伊勢音頭に 心も浮いた わしもな~踊ろか 輪の中で
*7 お伊勢参りに 扇を拾うた 扇な~目出度や 末繁昌(すえはんじょう)
*8 伊勢へ七度(ななたび) 熊野へ三度(みたび) 愛宕(あたご)な~様へは 月参り
*9 伊勢へ伊勢へと 萱の穂もなびく 伊勢はな~茅葺き(かやぶき) 柿葺き(こけらぶき)
*10 わしが国さは お伊勢が遠い お伊勢な~恋しや 参りたや
*11 お伊勢よいとこ 菜の花続き 唄もな~懐かし 伊勢音頭
昔の旅人は、お伊勢参りをして、旅の思い出に旅籠でおネエさんたちと豪勢に遊んだことでしょう。ここで歌などを憶え、旅の土産として持ち帰り、全国に広まったということです。江戸時代の後半には、お伊勢さんは文化の発信基地の1つであったらしい。
発信基地というのは、それは名誉なことで、全国に影響したのだから、それはそれでいい。でも、本当の自分たちの文化を忘れてしまいがちで、現在の伊勢界隈は、神宮周辺はさすがに全国からお参りのお客さんが見えますし、20年に一度の遷宮の前には、神宮のお社を造る木材を市内巡行(「お木挽き」というようです)したりはしますが、何だか本当の顔はどこにあるの? という気になります。
首都圏と同じように、全国から人が集まり、活気があり、政治・経済・文化の中心ではあるけれど、江戸時代から持っていたものがどれくらい保持されているのか、たぶんあると思いますが、何だか不安になります。
伊勢音頭のバリエーションの中に、卑猥な歌がたくさんあって、男女のストレートな恋愛を歌うものがあります。文字として見ると、「いかがなものか」ということになりますが、でも、これがお座敷で、三味線の伴奏と人の声から出たら、聞いている方は、ことば一つひとつがしみこんで、何とも言えない幸福感に浸れたのではないかと想像します。
おおらかな恋愛を、あけっぴろげに声に出して歌われると、「ああ、こういうのもありか」と、楽しんでしまえるような気がします。
私たち日本人は、お馬鹿なようで、まじめにこうした歌も歌い続けてきたのです。文字にしたらダメだけど、心のどこかに刻むと、心のヒダに入り込むような歌を持っていた。
柳田国男さんの「清光館哀史(せいこうかんあいし)」という文章の中に、思い出深い「歌」のことが語られていました。柳田さんたちは研究で旅している東北のさびしい海辺の町で、一夜の宿を借りることになりました。どうにか見つけた旅館には、印象に残る穏やかなおばあさんがいたということでした。
何年後かにふたたびその町を訪れると、旅館の清光館はすでになかった。そこで柳田さんは数年前の一夜を思い出し、あのばあさまはどうしたろうと思いやり、浜辺で行われていた盆踊りに思い至ります。
民俗学の研究で東北に入っているので、人々の文字化されていないものを取り上げ、人々の伝えているものとは何かを顕在化させなくてはならず、盆踊りの歌詞を取材するのですが、だれもその歌詞をちゃんと教えてくれなかったという経験があった。そして、数年後の今、思い出の旅館は消滅し、人々も移り変わっている。
昭和の初めのことなのに、まるで中世の説話文学的な世界がそこにあって、柳田さんはあの時の歌詞はたぶんこんなことではないかと語るのでした。
それは、「なにャとやーれ なにャとなされのう ああやっぱり私の想像していたごとく、古くから伝わっているあの歌を、この浜でも盆の月夜になるごとに、歌いつつ踊っていたのであった。………要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼びかけた恋の歌である」だったということでした。
私は盆踊りに参加していません。私の住む町にはそういう文化はありません。近所の保育園では夏祭りに、それらしいものがあるかもしれませんが、小学校に上がれば、それも消えてしまう。もう私は断絶された世界に住んでいます。自分は過去の歴史の中で生きているようなつもりになっていますが、全然過去とつながって生きていない。どこかに何かは残っているかもしれないけれど、先祖から伝えられた歌は持っていない。母が歌っていた歌とか、昔聞いた歌謡曲などは多少残っていますが、それ以外の歌を持たない、ある意味かわいそうな人間になっています。
それを痛切に感じたのは、今朝、BSで国東半島の番組があって、今も国東半島の集落では、初盆のおうちでは庭先でお盆の夜に一晩中踊る習慣があって、若い人も参加して、盆踊りのはしごをする。楽器は太鼓だけ。そこに歌を添えるだけのシンプルなもので、だから一晩中踊れて、踊るうちに亡くなった人が帰ってきたような、かつて亡くなった人も同じようにこの村でみなと一緒に踊っていたような、過去・現在・未来がつながる風習が今もあるのだと、心底うらやましくなりました。
私も、今からでも遅くないので、せいぜいそうした日本人が残してきた文字にならない歌や踊りに少しでも参加して、その一員になれたら、少しは日本人がわかるかなと思います。家に閉じこもってちゃダメですね。