円空さんの作った仏さんがたくさんあるのは、当然円空さんが生まれ、やがて亡くなる岐阜県だと思っていました。
たしかに、いろんな番組で紹介されているのを見たことがありました。岐阜県の美濃地方のあちらこちらで円空仏は大切に保存されています。テレビでは見たことはあるけれど、私は実際に見たことはありませんでした。また、わざわざ美術館で展示されるのを見に行く、という仏様ではないと思っています。円空さんの仏様は、そこにある人々のものであって、よそ者がノコノコ見せてくれ、というものではありません。
今朝も、テレビで井浦新さんが北海道、伊勢志摩、山形の円空仏を訪ねている番組を見ました。
それで、円空仏に個人的には惹かれるけれど、見るチャンスのない仏様だと思っていたところ、実際はもっと地域密着の仏様だということを知りました。改めて、よそ者が見せてもらう仏様ではないと感じます。
北海道の円空仏は、神社のご神体となって、海でみそぎをさせられたりする。ついでに善男善女にも、水をふりまいて、今年1年の無病息災・家内安全を祈るようなお祭りに使われていた。
300年の間に、人々は仏様を神様に変えてしまう、そういう鷹揚なことができてしまうのだ、神か仏かよりも、ありがたいかどうかが問題なのだと感心しました。そこに円空仏さまは利用されていた。きっと円空さんは喜んでおられるはずでした。
また、もう1つ、北海道の有珠山ちかくの円空仏は、円空さんの30代のころの作品だそうで、まだ試行錯誤の仏さまで、作り方にも苦悩があって、何しろ有珠山の大爆発直後の祈りの気持ちを形にしたものだから、とても内省的な仏様でした。テレビうつりはイマイチだったけど、きっとメッセージ性は強い感じがしました。それこそ一緒にいて、一緒に祈らせてもらう仏様でした。
もうテレビを消して、ブログでも書こうと思ったら、画面は伊勢志摩に移動していました。
「あれ、三重県も円空仏が関係あるの?」と、テレビを消さずに続けて見ることにしました。
すると、円空さんが枯れた桜の板を使って彫った観音さまが、地元の人々によって守られていました。これにはビックリでした。各地の災害地を回られ、そこで祈り、その思いを形にしてきた円空さんでした。
小さい頃、お母さんを洪水災害で亡くし、仏門に入った。ベースはお母さんのことを祈る気持ちで、各地を巡り、祈ってきた。17世紀末、政治的には幕府も落ち着いて、その後の百数十年を維持していくことになったようですが、社会的にはたくさんの自然災害がつづいたようです。火山の噴火、地震、津波それはもういろいろあったみたいです。
たまたまそういう時代に生まれた円空さんは、祈りをテーマとして、いろんな人々に寄り添って、祈った。また、祈りを仏様という形にを彫り、絵を描き、寄り添い、声を掛け、みんなに感謝しながら、すべてをみんなに与えながら旅をしてきた。
紀州路を船で回ってたまたま伊勢志摩にたどりついた。ここで女の人が成仏できることを信じている人たちに出会ったというのです。
ご存知の通り、伊勢志摩地方は、伊勢神宮のお膝元なので、それなりに神様が浸透していますが、仏様がゼロというわけではなくて、神も仏も一緒になって祈られてきたわけです。そして、漁師さんの世界では、男が命をかけてお仕事しているのは当たり前だけど、それに負けないくらい女性も命をかけてお仕事をしていた。当然、男ができる成仏を女もできていた。でも、当時の社会では、女はけがれたものなので成仏できないという思い込みがあった。
そうした先入観を簡単に飛び越している人々に出会い、そうか知らなかった。男女平等なのだと知った円空さんは、そのうれしい気持ちを、たまたまそこで立ち枯れていた桜の木に女性をイメージして彫ってみた。ただのイタズラのようにも見えるし、ありがたいようにも見えた。人々はあと2つの仏様と一緒にお堂を造り、祈りの場としてそれから三百年祈り続けてきて、今もそこにあるということでした。
しばらく円空さんは、伊勢志摩に滞在することになったそうです。そこでの作業は、たくさんあった大般若経を修理することだった。そこで、慣れない絵筆もとって円空さんは仏様を描いています。ネットではいくつか画像が紹介されていましたが、転載はダメということでしたので、私がマネたのをペイントで描きました。全く似てもにつかないものだけれど、気持ち的には祈りの気持ちです。
最後は山形でした。円空さんは彫刻する坊主じゃなくて、修行もするお坊さんで、出羽三山で修行もしたそうです。そこで、またも仏様を彫りますが、今度の仏様は安産の仏様になっていて、枕元に置かれたり、出張して抱きしめられたりしてきたそうです。いつも人々のおそばで祈りの対象としてきたということでした。
お顔は、晩年の円空仏のかたちで、やさしい女性の感じ。ああ、お母さんをいくつになっても彫り続けていたのだと私は思いました。
そして、晩年はふたたび岐阜県に戻り、そのまま即身成仏されたそうです。もう頭が下がる生涯です。その転機になったのが三重県の漁村での出会いであったなんて、三重県民としては何だかうれしい発見でした。
十七世紀後半の自然災害の積み重なりと、二十一世紀前半の人災・天災の積み重なりに共通性を感じてしまう私は、だれかに円空さんになってほしいなあと、思うのです。私は、祈りの気持ちが足りなさすぎます。すぐ現実に流されてしまう。ああ、だれかいないかなあ。
そうだ。1人では無理だけど、みんなそれぞれが、ささやかに祈りの気持ちを、ささやかに形に変えて、それをみんなで祈り続けられたら、祈りの輪はつながるのかなあ。さあ、私はなにができるかどうか……。
たしかに、いろんな番組で紹介されているのを見たことがありました。岐阜県の美濃地方のあちらこちらで円空仏は大切に保存されています。テレビでは見たことはあるけれど、私は実際に見たことはありませんでした。また、わざわざ美術館で展示されるのを見に行く、という仏様ではないと思っています。円空さんの仏様は、そこにある人々のものであって、よそ者がノコノコ見せてくれ、というものではありません。
今朝も、テレビで井浦新さんが北海道、伊勢志摩、山形の円空仏を訪ねている番組を見ました。
それで、円空仏に個人的には惹かれるけれど、見るチャンスのない仏様だと思っていたところ、実際はもっと地域密着の仏様だということを知りました。改めて、よそ者が見せてもらう仏様ではないと感じます。
北海道の円空仏は、神社のご神体となって、海でみそぎをさせられたりする。ついでに善男善女にも、水をふりまいて、今年1年の無病息災・家内安全を祈るようなお祭りに使われていた。
300年の間に、人々は仏様を神様に変えてしまう、そういう鷹揚なことができてしまうのだ、神か仏かよりも、ありがたいかどうかが問題なのだと感心しました。そこに円空仏さまは利用されていた。きっと円空さんは喜んでおられるはずでした。
また、もう1つ、北海道の有珠山ちかくの円空仏は、円空さんの30代のころの作品だそうで、まだ試行錯誤の仏さまで、作り方にも苦悩があって、何しろ有珠山の大爆発直後の祈りの気持ちを形にしたものだから、とても内省的な仏様でした。テレビうつりはイマイチだったけど、きっとメッセージ性は強い感じがしました。それこそ一緒にいて、一緒に祈らせてもらう仏様でした。
もうテレビを消して、ブログでも書こうと思ったら、画面は伊勢志摩に移動していました。
「あれ、三重県も円空仏が関係あるの?」と、テレビを消さずに続けて見ることにしました。
すると、円空さんが枯れた桜の板を使って彫った観音さまが、地元の人々によって守られていました。これにはビックリでした。各地の災害地を回られ、そこで祈り、その思いを形にしてきた円空さんでした。
小さい頃、お母さんを洪水災害で亡くし、仏門に入った。ベースはお母さんのことを祈る気持ちで、各地を巡り、祈ってきた。17世紀末、政治的には幕府も落ち着いて、その後の百数十年を維持していくことになったようですが、社会的にはたくさんの自然災害がつづいたようです。火山の噴火、地震、津波それはもういろいろあったみたいです。
たまたまそういう時代に生まれた円空さんは、祈りをテーマとして、いろんな人々に寄り添って、祈った。また、祈りを仏様という形にを彫り、絵を描き、寄り添い、声を掛け、みんなに感謝しながら、すべてをみんなに与えながら旅をしてきた。
紀州路を船で回ってたまたま伊勢志摩にたどりついた。ここで女の人が成仏できることを信じている人たちに出会ったというのです。
ご存知の通り、伊勢志摩地方は、伊勢神宮のお膝元なので、それなりに神様が浸透していますが、仏様がゼロというわけではなくて、神も仏も一緒になって祈られてきたわけです。そして、漁師さんの世界では、男が命をかけてお仕事しているのは当たり前だけど、それに負けないくらい女性も命をかけてお仕事をしていた。当然、男ができる成仏を女もできていた。でも、当時の社会では、女はけがれたものなので成仏できないという思い込みがあった。
そうした先入観を簡単に飛び越している人々に出会い、そうか知らなかった。男女平等なのだと知った円空さんは、そのうれしい気持ちを、たまたまそこで立ち枯れていた桜の木に女性をイメージして彫ってみた。ただのイタズラのようにも見えるし、ありがたいようにも見えた。人々はあと2つの仏様と一緒にお堂を造り、祈りの場としてそれから三百年祈り続けてきて、今もそこにあるということでした。
しばらく円空さんは、伊勢志摩に滞在することになったそうです。そこでの作業は、たくさんあった大般若経を修理することだった。そこで、慣れない絵筆もとって円空さんは仏様を描いています。ネットではいくつか画像が紹介されていましたが、転載はダメということでしたので、私がマネたのをペイントで描きました。全く似てもにつかないものだけれど、気持ち的には祈りの気持ちです。
最後は山形でした。円空さんは彫刻する坊主じゃなくて、修行もするお坊さんで、出羽三山で修行もしたそうです。そこで、またも仏様を彫りますが、今度の仏様は安産の仏様になっていて、枕元に置かれたり、出張して抱きしめられたりしてきたそうです。いつも人々のおそばで祈りの対象としてきたということでした。
お顔は、晩年の円空仏のかたちで、やさしい女性の感じ。ああ、お母さんをいくつになっても彫り続けていたのだと私は思いました。
そして、晩年はふたたび岐阜県に戻り、そのまま即身成仏されたそうです。もう頭が下がる生涯です。その転機になったのが三重県の漁村での出会いであったなんて、三重県民としては何だかうれしい発見でした。
十七世紀後半の自然災害の積み重なりと、二十一世紀前半の人災・天災の積み重なりに共通性を感じてしまう私は、だれかに円空さんになってほしいなあと、思うのです。私は、祈りの気持ちが足りなさすぎます。すぐ現実に流されてしまう。ああ、だれかいないかなあ。
そうだ。1人では無理だけど、みんなそれぞれが、ささやかに祈りの気持ちを、ささやかに形に変えて、それをみんなで祈り続けられたら、祈りの輪はつながるのかなあ。さあ、私はなにができるかどうか……。