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2000年の7月に買った本を、22年かけてやっと読み終えました。ゆったりとしたリズムですね。これこそ老荘思想的な読書というのか、グータラな私だけのわがまま読書というのか、たぶん後者だと思われますが、流れに任せて本を読んでいます。
まあ、本を読むということと、本を買うということは常に同じ、という訳にはいきません。買うにはお金がいるし、お金は天下のまわりものだし、私はいつもシブチンだし、何か気分が乗らないと本を買うというところまでいきません。
何か、ものすごく買いたいという動機があれば、うちに本さんがやって来てくれるのは簡単ですが、この時はわざわざ単行本を、初版の第6刷で買ってるから、話題性があったんでしょう。
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老荘思想には憧れがあります。何しろグータラな性分だから、これら自分のだらしないところに思想というか、後ろ盾を与えてくれそうなものであれば、すがりたい気持ちもありました。
何度か近づこうとしたと思いますが、2000年もそのアプローチの一つだったと思います。でも、跳ね返されてしまいました。
今回、やっとのことで読み終えて、タオ(道)という自然な流れをつかむことができたでしょうか。
孔子さんも「道」ということばは使われていました。「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という、壮絶というのか、学問への厳しい姿勢を語っておられて、それくらいに自分も何かに対する情熱、もうそれを手に入れたら死んだっていい、そういうものを手に入れたいと思っていました。
そういう孔子さんの「道」と、老子さんの「タオ」とは違うようです。
孔子さんのは学問です。あれこれ学んでいく人生みたいなものです。それで、老子さんは、気持ちの流れみたいなものです。具体性はないような気がします。
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わかったように書いてるけど、実はわかっていません。仕方がないから、金谷治先生の講談社学術文庫を読み始めています。
たぶん、それでもわからないでしょう。
それでいいのかもしれません。私は思想家ではないのだから、勝手な解釈でやっていきたいです。
それが何かの役に立つのか、具体性はあるのか!
そういうことを考えているようでは、老荘思想の世界には入っていけないです。ヘラヘラといつものバカ面で、何もわからないままに、道を歩いてヒーヒー言うことにします。
あなた、何をしているの? あなたのお仕事は?
ハイ、老荘思想の実践です。……そういう風に答えたいと思います。